un capodoglio d'avorio
2002年10月09日(水) |
村上春樹「海辺のカフカ」1 |
ついに読み終える、ひさびさに読書が一日の中で一番の比重を持つ最近だった。 まだ、うまく自分のなかで消化できていないので、あまり、書けない。 村上春樹はいつも、レビューらしきものをまとめようとすると大変だ。 また、今回の長編に関しては既に現時点で雑誌で特集が多く組まれており、 著名な方々の書評もいくつか流れているのでなおのこと書くのがしんどい。
だから「カフカシリーズその1」の今回は周辺事項をつらつらと。
まずこれはどかの他のレビューにも言えることだけれど、 ネタバレはがんがんしてしまうので、読まれる方は注意していただきたい。 無意識のうちに、なるたけ、ネタバレしないよう心がけていた節があるけれど、 なにぶんか細い無意識のことで、だいたいにおいてネタバレはあるみたい。
第二に、どかの周辺には村上春樹のファンはかなり多いのだが、 その友人の中でも、どかがこの人は一番ディープな「春樹読み」だ。 と認める会社の先輩にメールで感想を伺ってみた。 したら彼は、
まずこれだけの作家が、なお自らのスタイルを壊して高みに昇ろうとする、 そのことに敬意を表したい。 作品自体への評価はまだちょっと消化できていないから無理。 傑作かも知れないし、駄作かも知れない。 けれども作家にとっての契機となる作品である気はする。 イメージとして近いのは「ダンスダンスダンス」だと思う。
とのことで、はあはあ、ナルホドォという感じ。 どかの中では「スプートニク」や「世界の終わりと・・」や、 「ねじまき鳥」や「羊を巡る冒険」のエッセンスが、 あらたな角度から照射されて一つのイメージになった感じがする。 それはバラバラっぽくなく、一つの凝集したカオス的なイメージ。
第三に、どかはこれを読みながらずぅっと意識していた他の作家の作品がある。 それは、小説ではなく、漫画なのだけれど、 <岡崎京子「リバーズ・エッジ」>。 そして岡崎と村上という二人の天才のアプローチの違いについて、 ぼぉっと想いを巡らせるのが楽しかった、すごく。 日本の女流漫画史上、究極の到達点を示す 「リバーズ・エッジ」のテーマは帯にも明記された<愛と暴力>。 「カフカ」のそれと重なるテーマは、しかし全く違う手法で (それは漫画と小説という違いではなく、もっと本質的な語りの問題)、 それぞれ比類無き輝きを持つに至っているのだ。
最後に、どかはこのタイミングでこの小説に出会えた自分の運の強さを、 とても誇りに思っている。 通常、はやり物には背を向けて、悪態をつくのが決まりのどかでも、 村上春樹がどれほどメジャーでミーハーで売れっこ作家だとしても、 「海辺のカフカ」は、どかにとって、とても大切な宝物だ。 「世界の終わりと・・」が、かつてどかの留学生活を、 芯から支えた宝物であるのと同じ意味合いで。
|