un capodoglio d'avorio
2002年10月10日(木) |
村上春樹「海辺のカフカ」2 |
今夜は吉祥寺で北海道に転勤になったタケダさんの送別会。 前の部署の社員OBや現役、アルバイトのみんなが勢揃いした。 上はどかの五つ上の代のヒトから下はどかの三つ下の代のヒトまで。 やー、人徳だなあ・・・ まじめに仕事をされるとこんな良いことも巡ってくるんだなあ。
それはそうと「海辺のカフカ」のはなし。 村上春樹の作家としてのターニングポイントは幾つかあると思う。 どかはそれが契機なのかは分からないけれど、 「村上春樹、河合隼雄に会いにいく」という本にまとめられた、 臨床心理学の泰斗との対談は欠かせない一つの契機だと思う。 そこでは「阪神淡路大震災」や「地下鉄サリン事件」についての対話があり、 作家自身の葛藤と決意が、当代一の聞き手により引き出されていた。 かつて絶望という名のブルーに瀕し「やれやれ」と呟いて、 涙を流して立ちすくみつつ消極的に状況を受け入れてきた、 「洗練された構成と軽妙な文体」の作家はかくして、 そこに確かにあるブルーから目を離さず見つめて正対し、 困惑と決意の狭間で揺れながらもひるまない断固たる意志を獲得した。
一世を風靡した、自らの代名詞たる「洗練された構成と軽妙な文体」を捨ててまで、 作家はこの作業をたゆまず続けてきた。 「スプートニクの恋人」 「ねじまき鳥クロニクル」 「神の子どもたちはみな踊る」 などはこの作業に伴う困難を読者がたどれる貴重な軌跡だ。 ある意味、村上春樹は、ちょっと下世話な物言いと、 無骨でざらついた文体を厭わなくなっていった。 「海辺のカフカ」もどこかごつごつしていてへこみがあるイメージで、 例えれば「高麗青磁」のような隙間無い高密度の美ではなく、 「志野焼」のようなあえて残された隙間に奥行きを感じさせる美かな。
これまでどかがいくつか目にした「カフカ」についての書評のなかで、 やはり河合隼雄のそれが最も説得力があったような気がする (雑誌「ダ・ヴィンチ」収録)。 臨床心理学者はこの小説は、 対立するいくつもの二項の狭間に成立していると指摘する。 どかなりにそれをふまえて考えてみると、 狭間にあるものとは例えば 「橋」「大島さん」「海辺」「一五才という年齢」 「生き霊」「山小屋」「ロードスター」などなど、 こういったキーとなるアイテムは全て何かしらの狭間に浮いている、 「アイロニー」としてのブイなのだ。
田村カフカくんは父親との狭間に浮いている「呪い」という名のブイを、 みずから履行しそれを終わらせてしまいたいと願う。 しかし、三つの呪いを完遂したように見えてもまだ、 田村カフカくんは自由になれない。 気ままに揺れているように見えて決して自由ではない「ブイ」のように。
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