un capodoglio d'avorio
2002年09月26日(木) |
「DRIVE ドライブ」補足 |
荒唐無稽なストーリーを、役者のテンションとスピードで成立させてしまう。 という構図で言えば、とても演劇的な映画だったなあと思う。 そしてそれは現在も舞台の第一線で活躍している堤や、 もと「ミスター舞台役者」の筧をキャスティングの真ん中に据えたから、 可能になったのだと言える。
「縁」を大切にすること。 「戦うこと」を頑張ること。 映画館を発つときにその二つの価値観を、 自然に信じられる心持ちにしてくれたこの映画をきちんと評価したい。 「荒唐無稽」はマイナスではない。 それが「荒唐無稽」と見えるのは、 そんな価値観を認められない了見の狭い「世の中」にまみれているからだ。
「戦うこと」を頑張ることとはとりあえず 「走り出すこと」と言い換えてもイイかも。 ぼけらーっと立ち止まって汲々と自らの立ち位置に安穏としていること。 それが自らの幸せに繋がっているのならばそれでいいのだけれど、 希望ではなく妥協に拠っているのであれば、 きっとそこには<白装束の侍>が枕元に立つのだろう。
「縁」を大切にすること、とは立ち止まって一息ついたときの話だと思う。 時速40kmで逃走を続ける「堤くんとその一派」は、 バッティングセンターで息抜きをするが、 そこで安藤政信くんはホームラン級の打球を連発、 某プロ球団のスカウトの目に止まる。 当初、安藤はそのスカウトに反発するものの結局「一派」から別れることを決める。 あの「スペーストラベラーズ」では「銀行強盗団」の結束はとても堅く、 それが切ないエンディングへの布石になっていくのだけれど、 「ドライブ」では観客の予想に反してどんどん「一派」は瓦解していく。 そしてその「瓦解」が一人一人にとってのベストのチャンスをとらまえて、 またあらたに走り出すことの裏返しなのだ。
以前、どかはある年長者の方とファミリーレストランで三時間、 顔をつきあわせてギリギリの議論をしたことがある。 そのとき、その相手は、
戦うことなんて、必要ない。 大切なのは、いま、その状態で良いのだと認めてあげること。 今の自分をまず、百パーセント肯定することこそ、大切なのです。
どかはそれに真っ向から反論した。 具体的なそのときのシチュエーションをここで書くわけにはいかないが、 けれどもそのときどかには相手の話すことが「妥協」の二文字にしかとれなかった。
でも、確かに、そのときのどかは、少し足りなかったのだ。
どかは時速180kmで走り続けることを志向していた、それも、常に。 けれども「縁」も無視できないエレメントとしてそこにあることが、 いまのどかなら身にしみて分かる。 時速40kmとは、必然性を含んだある「程度」なのだ。
じゃあどかは?
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