un capodoglio d'avorio
2002年08月06日(火) |
野島伸司「この世の果て」3 |
第七話まで観る。 そろそろ、士郎くん、腐ってくる。 士郎が部屋を飛び出した後の呆けたまりあの顔が、痛い。 四つのうち、どれを連れて船に乗るかという話。 第四話のラストのモノローグ、士郎はこう呟く。
過去を捨てる、この痛みを、愛しいまりあ。 君に未来をあげられる。喜びが消してくれる。 ただの男としての僕は今、君と生きていくんだ(第四話「流血の運命」)。
<ただの男として>というのは文字通り、馬もクジャクも虎も羊も供とせず、 船には乗らず、まりあのいる海に飛び込むという覚悟を語っている。 この覚悟は、後の展開をふまえたとしてもそれ自体、とても美しいものだと思う。 そして普通の脚本家なら、このあたりでドラマを最終回におとして、 キレイにまとめるのだろう、ちゃんと盛り上がりもあるし (というか並のドラマの12回分を凌駕するほどのインパクトが第四話までですでにある)。 しかし上っ面のきれい事をそのままにしておかないのが野島伸司の作家としての業だ。 この突き詰め方は劇作家ならつかこうへいや、文筆家なら町田康などに通じる物がある。 そしてその業は当然ながら壮絶な痛みを観る物に強要していく。 やわな「良識」や「品格」などをすべて蹴散らす剛速球の「痛み」だ。
実際士郎は類い希なピアニストの指とともに「仕事」を失い、 名家の出である妻とともに「金」を失ったところが、 第五話が始まった時点での士郎くんの現在地だった。 しかしまだ、捨てていないものが物が残っていて、 野島はそれをまず奪いにかかる:つまりそれは「プライド」と「愛」だ。
虎に象徴させられた「プライド」は実は士郎君のなかで簡単にあっけなく崩壊していく。 疲労と屈辱と嫉妬と虚栄のなかで、三上博史の美しい顔はどんどん「ドロ」にまみれていく。 自分は奈々の手術費をまりあと一緒に稼ぐはずだったのに、 結局ひも同然の暮らしに堕ちている。 さらにまりあを通じて自分の職の世話をしてくれた神谷(豊川悦司)と彼女の仲を疑い、 酷い言葉でまりあを詰ってしまう。 そんな士郎に対しても、全く反論したり責めたりしないで、 哀しげに微笑んで黙すまりあの自分を観るまなざしが耐えられない。
高村士郎の、この指を、元通り動けるようにしてくれよ。 早く! 元通りにしてくれよ。 この指を、この指を・・・ おれの指を返してくれよう! 返して・・・ 返して・・・ おまえが、おれの人生、狂わせたんだよ(第六話「引き裂かれた姉妹」)!
これ以上に下司なセリフはそうそう無いだろう。 士郎くんはここにいたって「プライド」だけではなく「愛」も投げ捨てることになる。 それは最初「船に乗らない」と宣言した彼のお望みの場所、 しかし自らの「言葉」を実際に生きるのがどれほど過酷か、どれほど痛いのか、 そしてその痛みはまたしても言葉ではなく、呆けたまりあの顔に見るのだ。 もはやまりあは泣くこともしない。 ぼやーっと歪むその顔を見てたら小林秀雄の一節を思い出した。
かなしみは疾走する。 そのスピードには涙も追いつけない。 涙にまみれるには、彼のかなしさはあまりにも美しすぎる(小林秀雄「モーツァルト」)。
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