un capodoglio d'avorio
きょうの午前中は散々だった。 昨日の夕方作った資料が主任に褒められて「へへん」といい気になっていたからだろうか、 いや、違う(反語)。
会社を早めに上がって、でも芸能研の稽古も無いしなとふてくされる五秒前、 思い立って三鷹市市民センターのプールに泳ぎに行く。 これでも幼少の砌、五年間ほどスイミングスクールに通っていたもんじゃよ、ほ、ほ、ほ。 と、余裕かましてたらこれが結構、大変、 まあ、某ホームページの「雑記」に刺激されたわけとちゃうんやけど、 600メートルばかし泳いで上がる、気持ちいい疲労感。 どうして泳ぎ終わった後、バスタオルにくるまると、幸せな安堵感に包まれるのだろう?
こういう生活を送っていれば、自分の輪郭が明確になる、あやふやに、堕ちない・・・ 堕ちると言えば某ドラマの士郎くんだが二日前読了した小説も凄まじい堕ちッぷりだった。
町田康、その昔は、町田町蔵という通り名で「INU」というバンドのボーカルだった。 と、言うと先だってミポリンと結婚しやがった某作家とかぶるところがあるかもしれないが、 どかの中では雲泥の差で、町田康は凄いヒトだと思う(ということはジンセイは、略)。 最近の小説は、一人称で書かれる物が増えてきた、というかほとんどそればっかり。 別にそれを否定するのではなく、 他人との距離感そのものが文学として成立するテーマな時代だから当たり前。 町田康は、いや、町田節はその一人称を徹底的に推し進めたところに、 まるで奇跡のように存在する結晶。 いや「奇跡」とか「結晶」とかきれい目な言葉を弄すると、 あまりにも即物的な町田フレーズからはかけ離れたイメージになる。 とにかく、主人公が、下司なのだ。
人並みのスタート地点からどこまでヒトとして品格をおとしていくことが出来るのか。 読みながら、さすがにむかむかしてくるところもあった、が、 それは月並みで安っぽい小市民的な「良心」の悲鳴であり、 そんな安っぽいもの、薄っぺらいものを、総からげに引っぺがそうというのが町田節だ。 「夫婦茶碗」ともう一つ「人間の屑(←まんまやん)」という中編二つを読み終わって、 この感触、グルグル感、虚脱感は前に読んだ何かに似てるなと思った。 さっき、プールから上がってそれがハタと思い当たった、ドストエフスキーだ。 ドストエフスキーの「白痴」や「カラマーゾフ」を読み終えたときの感覚にそっくり。 確かにあのロシアの小説の登場人物も、どんどん堕ちて行くし、それを神も救えない。 という絶望を展開部で提示し、それを物語のグルグルで盛り上げていく力業、 そう、それは「ちからわざ」の感覚だ。
実際「夫婦茶碗」にしろ「人間の屑」にしろ、 「ロープなしバンジー」というかそれって 「フリーフォール、でも油圧のフォローなしよ」的なエグイ堕落の果てに、 幻でも夢でも狂気でも何でもいいからと力業で持ち込むカタルシスは、 特筆に値する、専売特許としてもいいくらいの快感である。 「夫婦茶碗」のラストは部屋で涙ぐんだし、 「人間の屑」のラストは総武線に揺られながら総毛立った。
それにしても敵は多勢である。 自分は、平家十万の軍勢を蹴散らした、 旭将軍木曾義仲の火牛の計の逸話を連想しながら、 「わぎゅう。僕は和牛だ」と絶叫し、 セーフティを押し込んでライフルをフルオートでぶっ放しながら突撃していった (「人間の屑」より)。
おいおい、芥川賞が泣くやん・・・ でも、あなたの「力」を信仰します。
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