un capodoglio d'avorio
2002年08月02日(金) |
野島伸司「この世の果て」2 |
初めて観たのは1997年の8月。 明確に覚えている、あの夏は今までで一番過酷で、一番切なく、特別な季節だったから。 第六話まで観たが、あのときの衝撃の大きさがそのままはよみがえらない。 でも、あのときとはまた違った見方ができるようになってきたんだと思う。
世界が滅んで船が一艘あるの。 自分のほかに、うまと、くじゃくと、とらと、ひつじ。 その中から一つだけ選んで乗せていいとしたら。 あなたはどれを選ぶ?(第一話「雨のシンデレラ」)
主人公まりあ(鈴木保奈美)の盲目の妹、奈々(桜井幸子)が最初につぶやく質問。 このセリフの後に実はこれは心理テストで、 自分が一番大切にしているものは何かがわかるのだと続く。 とっさに視聴者も自分ならどれかな・・・と答えを用意して続くシーンを固唾をのんで見守る。
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まりあは一旦は奈々に向かって答えを述べ、奈々は「ああ、お姉ちゃんは<愛情>をとるのね」と喜ぶ。 ちなみに奈々は<プライド>だったとも。 しかしまりあの真の答えは違ったのだ、そして士郎(三上博史)と奇しくも合致した、 この彼女の答えこそがこのドラマのテーマを象徴している。
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それぞれが象徴しているものは実は次の通りだという。 うまは<仕事>。 くじゃくは<お金>。 とらは<プライド>。 ひつじは<愛> (ちなみにどかは5年前、迷わずひつじを選んだ)。 そして、一旦「ひつじ」と答えたまりあが本当に選んだ答えは、 士郎がまりあに伝えたそれと同じだったのだ。
世界が滅んだら・・・? ・・・きっと、僕は・・・ 僕は、船に、乗らない(第一話「雨のシンデレラ」)。
この答えを最初に提示しておいて、野島が残りの11話でした仕事は、 ひたすらそれの裏付けを言葉に拠らずに見せていくことだった。 もちろんドラマだから最低限の言葉は尽くされる。 尽くされるんだけれど、他の野島ドラマのように (例えば「101回目のプロポーズ」や「未成年」のように)、 印象的な長セリフを決め所で入れてくるのではなく、ひたすら映像への指向性。 これが「この世の果て」をどかの野島ドラマランキングにおいて、 不動の首位を保ち続けている最大の要因だ。 そしてこの指向性がもっとも美しく結晶するのが第四話のラストなのだが、 そこに至るまでにこの「流れ」に乗っていくためのよすがとなるセリフが挿まれていた。 まりあに奈々の違法的な手術の費用として法外な金額を要求する医者のセリフ。
私はね、自分は安全な船の上にいて、浮き輪を投げるような人間は嫌いなんです。 一度でいい、助けようとして溺れて死ぬ人間を見てみたい。 自分が死ぬのが分かっていて、そうする人間をね(第二話「目の見えぬ純愛」)。
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