un capodoglio d'avorio
2002年07月18日(木) |
つか「熱海殺人事件 モンテカルロイリュージョン」3 |
昨日、ずっとのばしのばしになっていた「熱海」のレビューをアップした(→こっち)。 冷静に読み返したら、これは劇評ですらないことに気づき、補足。
伝兵衛自身がかつての恋人であり同じ棒高跳びの選手、速水雄一郎殺害の容疑で逮捕されるシーン。 彼への想いを寄せつつ10年間捜査室で彼に仕え続けた水野朋子は、 「待っていていいですか?」と伝兵衛に聞き、彼はそれに答えてこう言う。
部長 水野君、私は片端ですから、その種の人間ではないんです。 出来ることならあなたを強くかき抱きたいのですが、私には出来ない。 私に出来るのはこれだけです。
と、言い手錠に繋がれた右手を差し出して水野と握手をする。 ゾッとするほど美しい。 手錠があらゆる意味で象徴に見えてくる、「片端」という言葉が痛い、カタワ・・・
あらゆる「手錠」に繋がれたところから実は始まるこのドラマ。 自分がかつて愛した男はこの世にもうおらず、自分の隣にいるこの女を愛してやろうにもそれができず、 過去の競技生活においても結局6メートル88はクリアできていない。 男との痴情のもつれでオリンピックを棒に振ったからだ。 そうして自分はこんな狭い捜査室にいて、うだつの上がらない下着ドロの前科持ちの捜査にあたる。 かつて美しかった身体も張りが失せ、しわも刻まれてきた、脇腹の肉も落ちない。 口を出せば昔の男の話ばかり、けれどもやはり男が好きで今でも新宿二丁目の街角に立つのが日課。
観客はその惨めで滑稽な設定に堕とされた伝兵衛を笑ってしまう。 が、笑っていいのだろうか? はたして自分たちに、彼を笑う資格があるのだろうか? 笑うことで必死に自分と差別化を図ろうとしていることが、 実は自分がそうだと裏で認めている証ではないのか。 「長嶋茂雄殺人事件」のレビューでも書いたが、つかの仕掛ける笑いは罠だ。 ここで笑ってしまう自分の後味の悪さ、 それすらもラストのカタルシスへと繋げる推力にする凄まじい演出。 そういつの間にか観ている自分たちも手錠に繋がれていることに観客は気づいていくのだ。 「この緊縛から逃れたい」 「壁を越えて鳥になりたい」 「でも寂しいのもイヤだ」 そんな気持ちを一身に背負って6メートル88に挑む阿部ちゃんは、 そのとき「人類の重さ」を背負っているのだ。 つかの言葉はそれだけ、重い・・・
ギリギリの「崖っぷち」を四人の登場人物はフルスピードで走る。 だからこそ、大山は自分がパンツ泥棒であることを認め、陸連から酷い差別を受けた事実を晒す。 水野は部長に一切優しくされず、ついに堪えきれなくなって親に「部長と結婚する」と 言ってしまったことが暴露され「昔の男」に負けた惨めさが露呈する。 山口アイ子にしたって、結局競技者としては一流になれず、 最下層の売春婦として何とか生計を立てていたことが暴かれてしまう。 ヒトには誰でもできれば見たくない、見られたくない自分を持っている。 できればそこを隠したまま「ヒトはヒト、自分は自分」でいられたらそれでいいと思っている。 最近の日本は、特にそうなってきている。 でもつかは「笑い」のオブラートで包みつつ、お互いの「恥」を暴きどん底の惨めにまみれて、 その中からわずかに光る、星のかけらを拾い上げる。 その作業は果てしなく酷く、辛く、やるせなく、汚い。 実際、今まで一緒に「つか芝居」を観た友人で肯定的な感想を持ったのは僅か二人だけ。
でも、どかはつかを支持する。
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