un capodoglio d'avorio
2002年06月07日(金) |
池澤夏樹 「バビロンに行きて歌え」 |
朝の御茶ノ水のミスドでフレンチクルーラーとともに読了。 ごめんなさい、白状すると、アメリカンを飲み干しながら泣いていました。
中東の一国より船で東京にやって来た一人の若き兵士。 名も無く、パスポートも無く、武器も無く、知人も無く。 さまよい歩く異邦人と、ある一場面ですれ違い、ふれあい、通り過ぎて行く幾人かの男女。 ナラティブを時折変えながら、その元兵士の存在に中心点にとりつつ、 都会に生きる人間像を鮮やかに照射していく・・・
江国の「神様のボート(4/15)」もそうなのだが、どかはナラティブがころころ変わる小説は好きじゃ無い。 この作品も基本的には一人称は主人公ターリクなのだがある章では彼の恋人だったり。 前にも書いた気がするが、池澤さんはあんまし小説書くのは上手じゃ無い。 まだ読んだこと無いけれど、きっとエッセイの方がノビノビと書ける気がする。 「マシアスギリ(5/20)」や「プリニウス(4/18)」と比べると、それでもまだ力が抜けて、 軽い筆致が感じられるのだけれど、武骨さがそこかしこに・・・ でも、いいのだ、池澤は、これで。
ターリクは徹底的な弱者として、物語に登場する。 彼がまず向き合うことができたのは、捨てられた犬である。 しかしそこから彼は少しずつ、自分の居場所を作っていく。 そして彼と出会い、別れて行く人たちはみな、最初はターリクを弱者として認めるが、 その後どこかで自らの弱い部分に気付かされ、何かの関係が新たに始まったり、終わったりする。 このシンプルな構造が、シンプルな故、読者にストレートに響いてくる。
ロックバンドのメンバーにボーカルとして参加し、徐々にメジャーになっていくサクセススト−リーは、 少しプロットとしては陳腐な気もするのだけれど、 戦場からやって来たかれの声が特別だったということにはリアリティがある。 ハイロウズの「不死身の花」を思い出した、すごい個人的な印象だけど。
大きすぎる不当感に押しつぶされたことを認め、 それでもそこに立っている自分を確かめるという、 心の往復過程を繰り返していたのだ(「倉庫のコンサート」より)。
ターリクの声はそんな声だった、世界は自分を入れる器なんかじゃ無いという納得の声。
とりあえず、池澤はこれでひと段落かな、何となく、どかも落ち着いた気がする。 彼の実直なストレートボールに、たとえバントだったしても、バットに当てられた気がする。 池澤を初めて読んだとき、まさか彼に涙腺を緩めさせられるとは思わなかった。 でも、結局、東京という全てを飲み込む大海のような都会に、 自分の輪郭をイコール居場所として刻みきったターリクは美しい。
純粋に、憧れる。
なぜなら、全てが意志の力では無いけれど、 全てが偶然の力でも無いからだ。
日本に着いたばかりの彼は全く居場所を持てないでいたのだ。 某国大使館職員はそのときの彼の後ろ姿を見送りながら、こう語った。
振り向くこともなく坂を下りていった若者の後姿には、 その年頃の人間だけに時おり見られる天使の庇護のしるしのような特別の自信が見えた。 どこまで状況が緊迫しても、自分だけは切り抜けられるという信念が、 その痩せた身体を包んでいた(「ブルー・プレート」より)。
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