un capodoglio d'avorio
2002年06月06日(木) |
平田オリザ共同演出 「その河をこえて、五月」 |
「2002年日韓国民交流年記念事業」として新国立劇場が主催として立ち上げた舞台。 作・演出ともに日本と韓国の劇作家・演出家が共同で担当し、その日本側代表が平田オリザ。 キャストも半分が韓国人、セリフもほぼ半分が韓国語でその部分は字幕が入る。
ストーリー。 2002年春、ソウル、漢江の河原、遊覧船乗り場の近くに咲く桜の木のした。 語学学校の生徒の日本人とその韓国語教師が花見をしにやってくる。 そこに教師の家族や、学生のガールフレンド(韓国人)、道に迷った観光客(日本人)が紛れ込む。 言葉の通じない状況で何とかコミュニケ−ションをとろうとする姿、出会いと別れを折り込んだ会話から、 切ない哀感とほのかな共感が立ち上がる。
オリザにしては緩いな、という印象が僅かながら拭えなかったけど、分かった。 脚本も演出も二人三脚やったんよな、この舞台って。 それもさすがオリザ、名目上だけのありがちな「共同」なんかじゃなく、 ほんっとにフィフティ・フィフティの「共同」を成し遂げたらしい。 それでいて「オリザにしては」という印象が青年団マニアのどかからでるくらいだから、 かえってその完成度の高さが浮き彫りになるというものだ。 いつもの青年団の手法を取り、オリザの代名詞である「同時多発会話」も日本語と韓国語で実現した。 これは面白かったなあ、全然違う響きの会話が、同時に目の前で鳴ったときの快感。 基本的には「日本」と「韓国」の構図なんだけれど、 「日本」の中にも年齢や職業、性別によっていろんな立場の人がいて、「韓国」も同様。 安易なステロタイプに堕しない清廉さは作家の面目躍如だ。 その11(登場人物は11人)の立場がそれぞれ重なったり摩擦したり、 そのときに鳴る聞こえるか聞こえないかのかすかな音を拾うのが青年団であり、オリザなのだ。 音楽も入らず、照明もベタで、盛り上がりもほとんどなく、役者も激昂しない。 人によっては退屈にしかならない自分の舞台の特性を演出家はしっかり理解し(とにかくお利口なのだ)、 必ず計算し尽くされたタイミングで自然に「笑い」を入れてくる (そして「笑い」の後には必ず少しの「緊張」を入れてくる)。 そういったパターンが見えて来てしまうのは、アゴラ劇場に通ってきたからだろう。 でもでもそれでも、どかは「笑う」し「泣く」のだ。 日本人サラリーマンと韓国人サラリーマンがお互いに卑下しつつ貶しあうシーンは笑ってしまうし、 フィナーレ近くに韓国人老女が日本語で歌うシーンでは思わず涙ぐんでしまう。 面白いな、うん、これは面白い。
さて、珍しくオリザの舞台でドキドキしたどかだった。 金 泰希ちゃん! もう、ゴッツイ、かわいいのー、っていうか、ラ−ヴーっっ! キュウウウウってしたい、うーもう、ゲホ、バタン(死)。 大体韓国人の女の子って好きだったけど、もう声もすごいいいし、全部、好き。 早速調べたらなんと「ハングル講座」「とっさのハングル」「韓国語講座」など、 各種NHK番組に出演とのこと、よしどらに携帯番号聞いてきてもらおう、うん。 そしてなんとなんと「二等兵物語」でつか芝居に出演してたらしい。 あああああ、何で見にいかんかったんやろおおおお、ばかばかばかばか、どかのばか。
あ。 作品の話。 「日韓」をテーマとしても、オリザ最高峰の一つ「ソウル市民1919」には劣ると思う。 それでも「共同」作業の達成の偉大さを鑑みると、幸福な夜でした、マル。
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