un capodoglio d'avorio
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2002年04月18日(木) 池澤夏樹「真昼のプリニウス」

実はアラスカに持っていっていて、でも彼地ではほとんど読みすすめられず、
江國の次に読みはじめたらサクっと読了したこの作品。
池澤ワールドには氏の代表作「スティル・ライフ」から入ったドカだった。

現代情報化社会に揉まれている女性火山学者が、
ある転機を踏まえて浅間山に登り山頂火口でひとり佇む場面までの中編。
テーマ的には「スティル・ライフ」よりも一歩前に押し進めている気がした。
「スティル・ライフ」は今も自分の中でベストの位置を保ち続ける大好きな作品だけれど、
「プリニウス」はスゥっと自分の心におさめるのが難しかった、テーマ的には延長線上にあるのに。
つまり今回のテーマは、

「一歩の距離を置いて並び立つ二つの世界の呼応と調和をはかること」
にかてて加えて、
「もう一方の世界の懐に飛び込んで衝撃と実感を得よう」
ということである。

う〜ん、過激だ、すごぉい。

話の後半に「噴火の可能性がある」浅間山頂を目指す主人公が
想起する重要なエピソードに、
「ウサギの罠」の話がある。
山ウサギは餌もつけない針金の輪っかの罠に自ら飛び込んで死んでいくことがある、という話。
このエピソードを主人公はこう捉える。

  本当は、ウサギは針金の向こうに何かを見たのではないか。
  それこそ言葉でも神話でもないものを。
  そして輪を抜けて向こうに行ってしまったのではないか。
  輪の向こうを見ようとして決断した自分に満足していたのではないか。

かなり刺激的な解釈だが、これこそがこの小説のコアなんだと思う。
唸らざるを得ないなあ、そう言い切ってしまう清々しさ。
要するに人間の理性や欲望や弱さや狡さが生み出す様々な世界の「切り口(=物語)」を拒絶し、
思いきって「世界自体」へ肉薄し自らの世界を深化させてその深化の加速度でもって、
この世の中に「確からしさ」を生み出せるはず・・・

う〜ん、確かにそうかもしれない。
でもまだ微かに引っ掛かるのは、なんだろうな。
河合隼雄の著作にも惹かれてしまう自分は、やっぱり「物語」の有効性を捨てきられないのだと思う。
昼下がりに垂れ流されている世相の表層を滑っていく浅薄な「物語」はもちろん気持ち悪いが、
けれども「人は自分の力で生きている(BY吉本ばなな)」のだし、
それである以上、人は自分のために自分の物語をひっそりと紡ぐ以外、
どうやってこの世界に自分を繋ぎ止めておけるのだろう、と思うのだ。
池澤氏が語る「物語」と河合先生が語る「物語」はきっと、厳密な意味で違うだろうし、
池澤氏があえて過激なテーマを世相にぶつけてみたくなった気持ちも分かる。
だから、なかなか割り切れないんだなあ、きっと。

ちなみに池澤氏は決して文章は巧くないと思う、そりゃあ江國節と比べるとごつごつしてるし、
情景描写なんかもすんなり頭に入ってこないところがある。
でも、そんな文体もカバーできるほど明確な主張と方法論は清々しさを通り越して、
ある種凛々しさをも感じるほど。
こんなに自分の中の違和感を放り出せず、いろいろ考えてしまうのに嫌な感じがしないのは、
その凛々しさ故なんだろう。

よし、次も池澤氏を読もう。


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