un capodoglio d'avorio
2002年03月14日(木) |
青年団「S高原から」 |
恒例の青年団若手公演で、そのため山内健司さんや平田陽子さんなどの「達人」は出演せず。 けれどもどかは、そのクオリティに関しては一切の不安を抱かない、なぜならオリザ演出だから。 千秋楽だったため超満員の駒場アゴラ劇場、客入れがこの劇団にしては珍しく、おす。
ストーリー、堀辰雄の「風立ちぬ」とトーマスマンの「魔の山」を足して2で割った感じ。 ようするに、あるサナトリウムのある談話室のある一日を切り取って描写しただけの舞台。
若手中心のキャスティングで、ところどころ「ふん?」って小首を傾げたくなったが、 でも全然平気、芝居の流れは淀まない。 大庭裕介さんは上手いなあ、あと島田曜蔵さんはもう、専売特許の反則だあれは(観た人は分かる)。
サナトリウムに入院する人たちは少しずつ、「下の人たち」とずれてくる。 それは患者も職員も医者も等しく、ずれてくる。 「死」との距離感がだんだんあやふやになってきて、微妙なデリカシーが段々失せてきて、 「下の人たち」に対してある種の優越感は抱くけれど、でも「下」に降りていく勇気は出ない。 なんだか、この辺のモラトリアム具合は前回の「冒険王」とかなりかぶってくるな、確かに。 「冒険王」と異なるのはどこだろう? それはきっと<死(絶望)>との距離間だ。 つまり「冒険王」においては<絶望>は遠く離れた故国、日本にあった。 イスタンブールの安宿で日本人旅行者たちは、避けられないその<絶望>に気付きつつも、 「何となく」目の前の危険に立ち向かうことで忘れるふりをすることに成功していた (失敗していた人もいたけれど)。 でも今回のサナトリウムでは、みんな、誰も<死>を忘れることは出来ていない、 忘れるふりにも、挑戦はするが皆、失敗してしまうのだ、これはかなり観ていて痛い。
誤解が無いように断っておくと「痛い」と言ったからといって、別にやすいメロドラマのように、 涙涙の修羅場や、医者の足下にすがりつくシーンがあるわけではない。 ならばそれはどのようなシーンで明らかになるのか、今回の「S高原から」では3人の患者がそれぞれ、 大切な人と静かに決別していくシーンにおいて極まっていく。 画家の患者は自分の余命幾許も無いのを知って「今はこの娘のデッサンをしてるんだ」と、 フィアンセに偽悪的に別れを告げる。 ある患者は恋人の女友達を通じて「待てなくなって他の男と結婚する」という報告を聞く。 そしてまた別の患者は、面会室で「眠りこけた」まま知り合いが一人一人退場していく中、 静かに暗転、閉幕を迎えてしまう (個人的にこの演出はオリザにしてはあざといなと思うが、オリザがたまにうつあざとい演出は、 他ならぬオリザなんだから仕方ない、と思いつつ毎回泣きそうになってしまう・・・)。
こんな印象的なシーンを、声を決して荒げず、涙も決して見せず、 派手な照明も音楽も一切使わないで、響きのきれいな高山植物の名詞や涙を隠す乾いた笑顔で、 ひっそりと紡いでいくのだ。 これでチケット\1,500ー、安いでしょう!
オリザがパンフに書いていた。 「ソウル市民」は<火山の火口でダンスを踊っているような芝居>で、 「S高原から」は<死火山の山頂でそれでもダンスを踊り続ける人々の芝居>だと。 そう、どかの中でベストの青年団は「ソウル市民1919」だ。 でもこのサナトリウムの愛しい患者たちも、あの美しい朝鮮人小間使と同じくらい印象的だった。
つか、頑張ってくれ。 オリザの冷たい説得力を吹き飛ばすテンションを「モンテカルロ」で見してくれ、お願い。
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