un capodoglio d'avorio
どうしても一度観てみたかった劇団、維新派。 関西では知る人ぞ知る劇団でその作風の圧倒的な個性で知られる。 それが何と、今回の舞台は 「奈良県宇陀郡室生村の健民グラウンド特設舞台」! おお、むろうっ、懐かしいな百粁徒歩の時代が・・・ 近鉄室生口大野の駅からグラウンドまで歩く途中にみた磨岩仏が、 一瞬自分を高校二年生のころまで引き戻したりして。 今回、室生に維新派を観にいくというだけでかなりのイベント性の高さだが、 何と、今回の同伴がうちのおかんだったというのが、またポイントが高いな。 もともと弟と行く予定だったんだけどね。
ストーリー。 喘息をわずらう少女ナズナは初夏にアゲハ蝶の卵を見つけて育てはじめる。 夏が盛りになるにつれ、妙だけど優しい友人がたくさん現れる。 実は過去からきたその友人達と遊んでいるナズナだが、夏の終わりにひどい発作を起こしてたおれてしまう。
と、プロットを書いてしまえばそんな感じなのだが、 あんまりプロットそれ自体に意味のある芝居ではない気がする。 とにかく、どかの好きな青年団の駒場アゴラ劇場と比べたら面積比100倍以上はある舞台。 グラウンド全面を鍛え抜かれた男女劇団員が美しいフォームで全力疾走をかましたり、 バク転やソク転でごろごろ転がっていく。 台詞も科白で、みんなラップを日本風にアレンジしたように歌っている。 「そういえば、維新派の作品は別名、シティケチャだったっけ」 と、ボゥっとしながら目前で繰り広げられるスペクタクルを眺めていた。 スペクタクルと行ってもブロードウェイやウエストエンドのミュージカルのように、 お金をかけて舞台がごろごろ上下するようなテーマパーク然としてはおらず、 ひたすら役者の身体をフルに使い、浮き世離れした空間が立ち上がってくる矛盾。
だって普通あれだけ役者の肉体性を抽出すれば、 それだけである種のリアリティが生まれるものだし、 それこそがライブという表現手段の最大の利点なのに。 実際つかこうへいや鴻上尚史というのは、その利点を最大限に活用しつつ、 自身のイデオロギーを劇場に現出化させている。 でも維新派主宰、松本雄吉は、ギリギリまで身体を酷使しつつもその現実臭さを押さえることにこそ、 自身の表現の肝があると考えているかの様、実際それはすごい効果的だった。
室生という万葉の時代からのゆかりある空気がそうさせたのか、 厳しい稽古や共同生活で知られる維新派のキャストの努力のたまものなのか、 どかは帰り道「まるでダリの絵画を舞台にしたらあんなんだろうな」とすら思っていた。
では、想像してみて下さい。 奥行き80メートルはあるグラウンド、薄暮のなか、四方からライトアップされる道筋を、 白い衣装を着た少女が一人、正面奥から音も無く全力疾走してくる。 なんか、これだけで、ごっついポエティックやん? つくづくライブってすごいなあと思う・・・ 是非、機会があればもう一度観てみたい劇団の一つ、「イデオロギー」は希薄だけれど。
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