un capodoglio d'avorio
2001年06月14日(木) |
野田秀樹「贋作・桜の森の満開の下」後編 |
(続き)
衣装、ひびのこずえだけど、どかはイマイチ。「パンドラ」の衣装は好きだったけど、今回は成功していない気がする。再演時の衣装のほうがスッキリしていて良かった気が。狙いは分かるけど、鬼のあのコスチュームはちょっと観ていて邪魔になりすぎる。
舞台、ベストだ。新国立劇場中劇場は、奥行きがすごい。50m走のコースが奥から正面に向かってちゃんと取れるくらい奥行きがあって、その両脇に桜の木を配する。空間をたっぷり取るだけで何かしら異世界の荘厳さが生まれるのは、ゴシック期の聖堂建築のホールを思い出せば理解できると思う。ケルン大聖堂のその空間を染め上げたのは窓から差し込む光の筋にコーラスの響き。この劇場を染め上げたのはスピード満点の言葉遊びと、空から降るあの尽きることのない圧倒的な量の桜吹雪。
そう、ラストシーン、上演中にすでに外に漏れ聞こえてくるほどの評判だった、桜吹雪のすさまじさ。日本でいちばん奥行きの深い劇場の空間全てを埋め尽くしていくほどの桜の花びらが、5分ほどずーっと降り注ぎ続けるなか、耳男は夜長姫を殺す。夜長姫といっしょに過ごすことは、自転車を下り坂、ブレーキをかけずに延々下っていくようなものだと耳男は悟る。そして普通の人間は、最初、下り坂に歓喜してもすぐ、下り続けることに不安や恐怖を感じてしまうと。オオアマが築いた「くに」とは、下り坂の無い国だった。耳男は自らの「もの」づくりの源泉であった、下り坂を最後に手放してしまう。そこに見えてくるのは、人間の「境界線」だ。ラストシーン、その、かつて自分や祖先が失ってしまった、そしていま目の前で失われつつある「アニマ」を観客は目に焼き付ける。きっと、劇場を出た瞬間、自分の小ささに安堵しかつ失望する。でも、いまこの瞬間だけは降りしきる桜のなか、その安堵を捨て、失望を希望に変えて、耳男と夜長姫のシルエットを観ていたい。桜吹雪が激しすぎて輪郭線があいまいになっていく、そのシルエットをちゃんと、観ていたい。観ていたい。
超ハイスピードの言葉遊びのジェットコースターの果て、どかがたどり着いたのは、この淡い祈りのような希望だった。
つかこうへいがかつて書いた台詞。
人間なんて、 死ぬほど愛してやるか、 殺すほど憎んでやるかのどっちかだ (つかこうへい「熱海殺人事件・モンテカルロイリュージョン」より)
野田秀樹が夜長姫に最後に与えた台詞。
本当に好きなら、 呪うか、 殺すか、 争うかしなくてはならないのよ (野田秀樹「贋作・桜の森の満開の下」より)
…うん。
そうだよね、そうだ。あれだけ劇場で目を見張っていたのに。あれだけ必死に舞台の上に自分を預けていっていたのに。どかはいつの間にか、弛緩している。調和と弛緩はちがう。緊張と集中はちがう。「人間風車」で始まった、ある「流れ」が、桜吹雪のなかで潰えてしまったとしても、それとは別次元の視点を持っていたいし、つまりどかはこの舞台を大好きな自分でいたいし。傑作の名演として思い出せる、自分でいたいし。
夜長姫が毬谷サンに及ばなくても、耳男が野田秀樹に及ばなくても、この舞台はどかのなかで特別な位置を占めている。チケットの半券が無くなって、それが具体的に何月何日の何時に開演した舞台であるのか不明であっても、どかのなかでは具体的な位置を占めている舞台。出会いに縁があるのだとすれば、どかはだから、野田サンという演劇人を信頼しようと思ったわけです。
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