un capodoglio d'avorio
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2001年06月13日(水) 野田秀樹「贋作・桜の森の満開の下」中編

(続き)

「例えば、いまこの国でふつうに暮らしていると言うことが、いかなる犠牲のうえにあるのか。例えば、いまある正倉院の御物をふつうに楽しんで観ると言うことが、いかなる犠牲のうえにあるのか。ちょっと、おまえら、それくらいは想像してもバチは当たらんぞ」

というところに落ち着くのかも知れない。あ、もしかしたら、さらにこう続くのかな。

「…バチは当たらんぞ。だから、ちょいこっち来てみ。満開の桜の下でなら、おまえらの乏しい想像力も、少しはまともに使えるだろうさ。ほら、なにかが聞こえてくるだろう?」

聞こえてくるのは「アニマ」の叫び。その叫びの主、夜長姫を演じる深津絵里に科せられたハードルは、ほんっとに高かった。このキャラクターはすごい。極めつけのハスキーボイスと、ドスを効かせた低音の声。その落差を徹底的に広げて、普段はずっとハスキーボイスで台詞を言う。深津絵里はその高いほうの声は、すごかった。あれは、鬼だ、まさしく。キンキンにハスキーなのに、それをガンガン怒鳴りつけて、かつ通りが良くて、かつ最後まで喉は枯れない。どんな声帯をしているんだろう。テンションも、さいごまで高くキープしていて、野田サンが設定した高すぎるバーにあくまで肉迫していたと思う。テンポも良い。あとやっぱりお顔が凛々しいから、台詞の強度にぐぐっと気圧されていて、すっと、台詞が止んだとき、今度は逆に、急激にその顔に吸引されていく。その落差。全てが夜長姫の残虐さの魅力にピッタリだった。ただ…、ひとつ、ひとつ決定的に足りなかったもの。それはどか、3年前に客席でも感じてたんだけどいま、ビデオで遊眠社版を観てはっきり確信した。低音の声だ。ドスが、やっぱり足りない。

初演・再演ともに、夜長姫を演じてきたのは、毬谷友子。元ヅカジェンヌのなかでも歌唱力で際だった女優サン。この人の声が、もう、すごいんだ。ビデオなのに、聴いていて総毛立つほどに、怖い。ハスキーボイスに隠された残虐さの気配に怯え、低音の声のドスに顕現する残虐さの暴力に震える。かつ、お顔も美しい…って、おいおい。もしかして野田サンは「あて書き」したんじゃないだろか、と思うくらい。この稀代の素材を手に入れる目処が立ったから、この戯曲を書き下ろしたんじゃないだろうか。つかサンが筧サンに「飛龍伝」を書き下ろしたように。

  目をつぶって 何かを叫んで 逃げたくなるけれど
  目はつぶれても 耳はつぶれない まぶたはあるけれど
  耳ぶたはないから 耳たぶはあるけれど 耳ぶたはないから
  それで桜の粉と一緒に 耳から何かが入ってくる

  (野田秀樹「贋作・桜の森の満開の下」より)

それでも深津サンの夜長姫の低音ではなくハスキーなほうの声には、たしかにこの台詞のような魔力的な浸透力が宿っていた。毬谷サンよりもかなりキンキンで、初演や再演の舞台を生で観たことのあるひとには一部で不評だったけれど、どかはアリだと思った。キンキンだけど、ちゃんと艶があったから、深みのかわりの鋭さであっても、「夜長姫」は成立すると思う。21世紀の「アニマ」とはそこまで追いつめられているんじゃないか。

そしてこの舞台でいちばん格好いいのは悪党マナコ。古田サン、例によって美味しいトコどり。「理性」と「感性」の両極のあいだで、自由奔放に痙攣を繰り返すキャラクター設定通り、新感線で磨いたゲスな色気を自在に振りまく、ずるいなあ。ずるいけど、色悪で無頼でお茶目で、でも頼りになる立ち回り・・・って新感線をそのまんま持ち込んだ感じだなあ。新感線オンリーの舞台はちょっと苦手などかだけど、野田サンのアンサンブルのなかにひとつのパーツとして当てはめてみるとこんなに効果的な飛び道具は無いだろう。そうだよ、新感線のメソッドはこういう風に使うべきだよ…。

耳男役のヒーロー、堤真一。そつなくそつなく。初演再演ではこれを野田秀樹が演じた。どかはでも、堤サンは「パンドラの鐘」のときのほうが良かったかなあ。「遊眠社時代はあて書き理論」からいけば、まさに自分用に創り上げたキャラクターだから、他の人がやるのはしんどいのかも。こう、感情の流れを作ろうと狙いすぎていて、少しもったり感。戯曲のスピードを牽引するまでいかないとなー。でも、もちろん、そつなくこなせるだけでもすごい。マイナスは無かったなあ。芝居の「受け」が上手いからかな、アンサンブルの中心としてはきちんと機能した。

オオアマ役の入江雅人。かっこよかったあ。こう、見栄を切ったりする姿勢に自信が満ちあふれていて、すごい見入っちゃう。「パンドラ」の時は飛び道具的ギャグキャラだったのに、スノッブな悪役。しかもこの戯曲のひとつの極を形成しなくちゃならない重要なポスト。こう、台詞に色気を込めたり、泣きを込めたり、畏れを込めたりという感情のトッピングが抜群に冴えていた気がする。何より、主要トリオの一角を占めて、古田や堤という演劇界の千両役者を相手にまわして見劣りしなかった。すごいことだ。このキャスティングはファインプレーだと思う。

脇では、もちろん大倉サンや荒川サンの「あの」それぞれの飛び道具的コネタは炸裂しっぱなしで、メインプロットがかすむくらい笑いをとって、それもやりすぎだろうという気もするけど「鬼」なんだからかき回しすぎるくらいがいいのだ、きっと。そして「鬼」のなかでは、犬山犬子サンが、どかはいちばん感心した。上手い。ちょうど隙間が空いてしまいそうなところに、うまくカラダと台詞を入れてくる。野田サンはきっと、自分が演技する横に彼女を置きたかったんだろうな。自分が好きかってに遊べるから。

(続く)


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