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2001年06月12日(火) 野田秀樹「贋作・桜の森の満開の下」前編

ソワレ@国立新劇場・中劇場 withA嬢、まったく関係ないけどA嬢といっしょに行った最後の演劇となった。日付は、でも実は定かではなくて、取ってあったはずのチケットをいくら探しても見当たらないから、たぶんこのあたりということで。…これもまったく関係ないけど、実に暗示的。

敬遠してたけどもう満塁サヨナラのピンチなので、書くことにする。それにあたって、図書館で借りてきた1992年の遊眠社版の再演を収めたビデオを観て、3年前の舞台を思い出す。そう、初演は89年で、この2001年は再々演ということになる、遊眠社時代の野田秀樹の代表作である。

野田サンの戯曲の特徴は、スピード、言葉遊び、アンサンブルという3つ。ただ最近の野田戯曲は、スピードや言葉遊びの代わりに壮大なテーマやざらつき感が織り込まれる傾向に(「オイル」など)。どかはそのざらつき感も好きだけれど、でもやっぱり遊眠社時代の戯曲に満ちているグルグル陶酔感が好き。いま(2004年3月末)上演されている「透明人間の蒸気」もすごいイイ出来の戯曲だった。別に、青年団じゃないんだから、遊眠社時代の戯曲にテーマが無いというわけじゃない、そこにそれはちゃんと、ある(後述)。ただ意外だけれど、あれだけ表現形態が違う青年団との共通点がじつはあって、それは役者の表現や演出が、テーマに隷属していないということだ。平田サンは戯曲自体から徹底的にイデオロギーを濾過して取り除くことでその境地に達した。野田サンは演技演出を徹底的に鍛え上げて、テーマから離脱するほどのスピードによってそれを実現する。ここを読み違えてはいけない。野田サンは、めくるめく言葉遊びの連鎖のなかで相対主義に陥っているわけでは、ない。

でも、だからこそ、野田サンの芝居はむずかしい。どかは、鴻上やつか、tpt、扉座、青年団に維新派、キャラメル、新感線、その他いろんな芝居を観てきて、むずかしいなあと思ったことはあんまり無いけど、野田サンの芝居は、案外むずかしい。テーマ主義へ反旗を翻した舞台上の表現があまりにまぶしくて、底の方にある細い流れが見えたり見えなかったりして、でもその生糸のような細い線に気付いてしまった以上、それを捕まえなくちゃな気持ちにさせられるから。だから思う、むずかしいなあって。

さて、その議論を呼ぶ、テーマだ。

つか戯曲の代表作、そしてその小説版では直木賞も獲った「蒲田行進曲」。これを評してよく言われるのは「天皇制の権力構造」への洞察ということだった。銀ちゃんとヤスの2人の関係から、つかは観客の涙腺へのピンポイント爆撃を繰り返しつつ、実は裏にその洞察を含ませていた。そして野田サンは、この「贋作・桜の森の満開の下」において、「天皇制の生成過程」への洞察を含ませていたのだと、どかは思う。それはなんとナイーヴで深いテーマなのだろう。オオアマの「くにづくり」の罪業と、それに対応する耳男の「ものづくり」の罪業とが、その言葉遊びの裏側から浮かび上がってくる。

「くにづくり」の罪業が虐げてきたものは、すべての不合理や不条理。たとえば、鬼という存在。もしくはある者達を鬼という名で名付けるということ自体の罪業。歴史の改ざん、鬼たちの存在の記録を組織的に抹消していくと言うこと。例えば弱者を内に囲うのではなく、外へと追いつめ殲滅すること、もしくは国境を定めると言うこと。劇作家自身の言葉を借りれば「アニマ」を駆逐していくという、こと。オオアマというキャラクターはもちろん、672年の史上屈指のクーデター「壬申の乱」に勝利した大海人皇子がモデルである。分かりやすく言えば、理性の権化とも言えるか。

そのオオアマのカウンターパートとして設定された本編の主人公、耳男は「ものづくり」の罪業を体現していくキャラクター。オオアマひとりをセンターにすえた戯曲のほうが、もしくは耳男に背負わせるものを罪業ではなく、ポジティブな成果(芸術の治癒力とかね)のみにしぼった戯曲の方が、いわゆる主義主張はシンプルかつ分かりやすくなったのだろうけれど、そこが分かりやすいイデオロギーには反抗したいという野田秀樹の野田秀樹たるゆえんかと思った。そう。仏師たる耳男が「名作」を創り上げるためには、何かしらネガティブな流れに自らを浸さなければならないことがストーリーを通じて明らかにされていく。「アニマ」を引き受けるということはそれはそれで危険な賭けなのだという「きれい事じゃないホントの事」という野田サンのつぶやきが身に沁みる。分かりやすく言えば、感性の権化だ。

「くにづくり」にせよ「ものづくり」にせよ、いずれも正義には属さない。「アニマ」を駆逐すると言うことは、端的に言えば、他者を傷つけることに繋がる可能性が大だし、「アニマ」を抱え込むと言うことは、つまりは、自分を傷つけることに繋がる可能性が大だからだ。けれども人間は「くに(政治)」を作らなければ安心が得られないし、けれども人間は「もの(芸術)」を作らなければ退屈に死んでしまう。「くに」と「もの」を媒介するものとして具現化した「アニマ」そのもの、それがこの戯曲のヒロイン、夜長姫だ。全てを巻き込み、全てを生かし、全てを殺す、混沌そのものな個性付けのキャラクターは、他に類を見ない圧倒的な求心力を発動することを女優に要求するすさまじさ。夜長姫の周囲でぐるぐる回り出す渦巻き陶酔。その上にスッと乗ってしまうオオアマと、それに振り回されっぱなしな耳男、そしてその両者の行く末を見続けるもうひとりの悪党もといヒーロー、マナコ。

耳男には「エース」堤真一。マナコには「スター」古田新太。オオアマには「おっと」入江雅人。そして夜長姫には「らぶ」深津絵里がキャスティング。それ以外にも、早寝姫に「かあいい」京野ことみ。鬼たちに、大倉孝二、犬山犬子などのナイロン勢、大人計画から荒川良々、そして滅ぼされるヒダの王にはもちろん「天上天下」野田秀樹。2001年演劇界、最大の話題作と目されたのも故のないことではない。

(続く)


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