(※内容について触れてます)
水曜日に行ってきました。
日本の四季は本当、美しい。 叙情的な映像が好きな人には、北野武映画はもってこいなものだと思います。 映像で、語るというのか。 シーンを一つだけ切り取って貼り付けて、そのまま。 それは、そのまま役者の技量にもかかってくるものだから、役者さんにも相当な演技力を要求するものだと思いました。(台詞だけで話のテーマも心の声も解説できていたら別に限定した「この役者」に演じさせる意味も何も無い。) 満開の櫻の木々の下を。 夏の海の砂浜を。 紅葉した葉を踏みしめて。 そして雪の中を。 「彼ら」は、通り過ぎていく。 誰とも関わらず、誰にも関わらせず、一本の「綱」だけが2人を結び付けて、ただ通り過ぎていくだけ。 かといって、「2人でいること」を強調しているようで、していない。手も繋がない。ただひたすら歩いてく。 彼らは歩いていたけれど、季節もまた、彼らの頭の上を通り過ぎていきました。
見ていて思っていたのは、「こいつら全員、いかれてる。」 西島演じる松本も、菅野演じる佐和子も、そして別の物語として登場する人々も、どこかがおかしい。 螺子が飛んでる人みたい。初めは佐和子がぶっ壊れてるんだと思ってたけど松本の方がもっとカワイソウなくらいに壊れてる。 かわいそうというか、いっそ憐れにも見えた。 死のうとしてたとしか思えない。誰も彼も。 この救いの無いようにも見えた展開は、それは物語として「完結」をしていて、「純文学」みたいな世界だと思った。 昔教科書に掲載されてたみたいな、そんな話。
北野作品、何回か見たけどやっぱりおかしい。(可笑しいって方じゃなくて、通常とずれてるおかしさ。独特っていうのか。) 作品として完成されてるかどうかとかそんな感想は言えない。そんな話はもっとずっと映画に詳しい評論家とか記者とかマニアの仕事。 おかしいと思うのは、私自身が認識している世界とは違う価値観の中で展開されていくからだと思うけど、人とずれたおかしさがあると思う。 どれも深読みをしようとすればいくらでもできるもので、答えは自分の内面と向き合うことで出てくるものかもしれない。(映画も芝居も本も音楽も、結局は自分の中身を見つめながら鑑賞しているものだと思っているんでどれについても言える事かもしれない)
話の内容をばらせば、婚約していた恋人同士が社長令嬢に彼が気に入られたことから引き裂かれ、彼女は自殺を図る。後遺症なのか、誰のことも認識できなくなった彼女を彼が攫って、放浪する。 何処を旅しているかは地名とか知らないからわからない。 彼らの歩いてきた土地には惚れた男を待ち続ける女、その相手、怪我で引退した元アイドルとそのおっかけ、という関係の人々が登場する。 いかれてると思ったのは、それらが全部歪な形で成立していた人間関係だったから。 誰か、彼女達に教えてやってくれと本気で思った。猛烈に。どうか、知らないままでいないでくれ。 誰とも関わらず、そのまま消えていかないでくれと私は思いました。 よくある話だとしても、哀しいから。
文楽をモチーフにしてるので、ラストは言わずもがな、なのだけど、誰に追われてるわけでもなく、ただ向かっていきたかったのかなあ。とか。 能動的ではなく受動的に選んだだけだったんじゃないかなとか。 そこが「Dolls」たる所以でしょうか。 「ハーメルンの笛吹き男」って、童話あるじゃないですか。あんな感じ?踊ってるわけでも無いんだけど。糸の切れた人形みたいに、生気も無く歩いていく所が。
サイトの画面はかわいきれい(造語)なのでご覧になって見てください。 松竹系未だに細々とロードショー中でした。
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