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2010年09月17日(金)
ペイフォワード

最近、朝おにぎりをにぎっている。弁当男子に一歩踏み出した感じ。おにぎりをにぎるときに、どの具をまぜるか考えているとき、ちょっとわくわくした。いろんな具を買いためて、選ぶ瞬間を想像すると、楽しそう。というのがわくわくの理由かもしれない。

おにぎりタイムを捻出する代わりに朝の二度寝を控えだした。古くは小学生あたりから存在する習慣だが、しなくても意外に大丈夫なことが発覚した。朝、準備を整えて出発すると、割と気分がいい。ただ、やはり若干疲れる気もする。一方、二度寝は実に気持ちがよかった。ある意味麻薬的言ってもよいかもしれない。

たとえば、休日の過ごし方。惰眠で過ごすとする。睡眠自体はけっこう気持ちいいので、ありっちゃありだが、一方でもったいないという気持ちもなくはない。ちょっとした後悔とでもいおうか。

カフェで読書したり、映画を見に行ったりする。一日の終わりは多少の疲労につつまれるが、満足した時間を過ごせた気になる。

前者を麻薬的満足、後者を現実的満足、と呼んでみたい。麻薬的満足は、どこかに後悔がある。そんな気がする。

麻薬的満足の代表例
・惰眠
・ネット
・etc


まぁ、それはそれとして。


ペイフォワードを観た。さる本におすすめとあったので、早速借りてみた。中身に触れてしまうのははばかられるのだが、触れなければ書けない部分なので、書く。観てないけど知りたくない人はここで引きかえしましょう。


率直に言えば、無念だなと。「善意を次に」運動がいつの間にか大きく広まっていく、というストーリーは実にすばらしく、感動的だと思う。ただ、なぜ最後に主人公が死なねばならないのか。

お話として考えれば、彼が死ぬことで、ラストの延々と続く追悼の花と蝋燭に重みというか、その運動の盛り上がりが浮き彫りになるわけだ。そして、亡くなった彼のためにも、彼の志を世界につなげよう、と締めくくれる。彼が生きていたら、多分「はいはい、みんな幸せでよかったね」と白ける感じがありそうだ。結末として、弱い。

逆に言えば、ストーリーを締めくくるために、彼は殺されたといえるのではないか。なぜ、こう思えるのかというと、死に方が唐突だからだろう。12歳の少年がもみ合いの中で刺されたぐらいで死ぬのか。そりゃ、場所によっては致命的かもしれないけれど、そっちの方がまれでないかと個人的には思ってしまう。あるいは刺した少年に明らかな殺意があったのか。


もともと重い病を患っていた、とかトラックに引かれそうになった誰かを救おうと代わりにはねられた、とかならそれは仕方ない、みたいな気持ちもあるかもしれない。まあそれでも引っかかりそうな気もするが。

結局、彼が死ぬ必然性が演出上の理由以外ほとんどないのが問題なのだろう。生きていても、結末としては間違いではない(完成度は別にして)。なのに、ストーリーの美しさを引き立てるために殺される。それが、なんというかやるせない。原作者に文句言いたい。ハッピーエンドでもええやんかと。


実に素敵なお話だっただけに、結末が無念で無念で。やり直しを要求する。