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2002年05月07日(火) 形。

心は柔らかい方がいい、というのはよく聞くこと。
硬い心は必ずしも堅いわけではないからということらしい。
よく「ハンマーで殴ったら硬い心は割れてしまう」と喩えられますよね。子供は柔軟な心を持っている。しかし大人になるに連れて心は殻に覆われて、一見強くなったように見えるけれども実際には強い衝撃を受けたときに砕け散ってしまう、と。

個人的にはそれでも硬い心の方がマシかなと思ってたり。
だっていくら衝撃に耐えられても、針みたいに鋭いもので刺されたら中身はあっけなく流れ出してしまうわけだし。一度崩れたらもう二度と元の形には戻れないし。

粉々になっちゃっても、張り合わせることはできるから。
ま、壊れる度にちょっとずつ構成要素はどこかへ紛れ込んで、減っていくのだろうけれど、(歪だとしても)復元できるというのはかなり大きいと思うんですよね。
殻だけだったらそうはいかないんだろうけれど、中身も全部硬くなっていれば、自分の心がなくなるってことはとりあえず回避出来るのかもしれないな、とか。

多分私のは中途半端に硬くて堅い。
許容範囲はそれなりかと。
しかしながらそれを無関心故の寛容さだと捉える事もできる。否定されても、ま、いいんじゃないの?って感じなんで。
厄介なのは、悪意を持って否定してくる人に対して何の悪意もなく「それじゃアナタはどうしたいの?」と訊いてしまうところですかね。
ホントに心から代替案を訊いているだけだから、ただ抵抗しただけ、な人は面食らうみたいです。そういう人は私に反発あるいは凹むことを期待しているみたいですけど、ムリです。大抵。よっぽどピンポイントでこないと、私のマジ切れは見れません。

私の人間関係もこれまたよく分からん形をしてると思います。
いや、別に斎藤は社会生活不適応者じゃないからフツーの人付き合いも勿論形成されてますけど。っていうか無駄に適応してるような気すらする。
狭く深く、じゃないし、浅く広く、でもない。
まぁその前にどの程度の付き合いが浅くて深いのかなんて、個人の主観だから完璧に定義なんてできないんですけど。

でもいっこだけ言えるのは、私の付き合いは年月の長さじゃないっつーこと。
踏み込んでくる人が、結局中身を知るって感じです。
わりと訊かれれば何でも答えるので。過去限定で。
その心は、以前にも言ったけれど『過去のこと=どうでもいいこと』なんで。私の中では。そして自分の中で再確認をしているってのもある。

記憶と思い出は違うというのは未だ検討中。
一般的な、思い出はプラス、記憶は強烈に印象に残った出来事全般を示す、っていう考え方にはいまいち納得できないんで。思い出にもマイナス要素は含まれているだろうし、とりとめのないことでもはっきりと覚えていることもあるから。
思い出すことができるものと覚えているもの、という認識の仕方もあるらしいけど。んー、どちらかといえばこっちの方がしっくりくるかもね。

すっげヤなこととかでもきちんと確かに自分にあったことなんだと意識させていかないとなんか良くないと思ってます。真実かどうかはわからないけれど、自分じゃない『自分』を持っている人はこういう処理をしっかりしなかったから今苦しんでいる、という説が主流だしね。

知識としてヘタにそういうのを頭にいれちゃうと身動きが取れなくなったりするんじゃないか、とか思われることもあるけれど、何も知らないよりはよくないですか?やっぱ逃げたくはねーよな、とか思っちゃうわけなんですよ。

よくわからん日記ですみませぬ。
でもま、ここは斎藤的小噺ということでご容赦くだされ。


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斎藤基栄

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