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小松川戦機
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2009年02月03日(火)
第一章 後悔 1

あなたが今日という一日を振り返り、やり直したいことを思いつかなかったのなら。
 あなたが生きてきた時間を振り返り、何一つ失敗という失敗を思いつかなかったのなら。
 あなたにこの話は必要ない。

 これは、後悔する生き物のために遺された、何かなのだろう。


 1997年5月1日 14時

 穂島(ホジマ)と書かれたネームプレートを乱暴に白衣からはずすと、ゴミ箱に叩きつけて男は外へと出て行った。
 例年よりも暑い一日になるだろうと、今朝のニュースで言っていた。確かに建物を出た瞬間に感じた風は、生暖かくて湿気を帯びている。
 穂島は歩きながら白衣を脱ぎ、バイクの座面下へと押し込む。代わりに取り出されたフルフェイスのヘルメットをかぶり、慣れた様子でまたがってエンジンをかける。
「そんな残酷なことを選ばせるのか。それとも、何も知らせずに送り込むのか。どちらにしろ」
 穂島は最後の言葉を飲み込んで、バイクを滑らせた。
 何を言っても変わらない。
 世界を変えられると思っていた小さな子供の頃とは違う。
 ひとつだけ、決定に逆らうことが出来るとすれば、それは最愛の息子を手にかけるくらいだ。
「どんな形にしろ、生きていて欲しいと願うのも」
 エゴだ。と、また、声を飲み込んだ。
 偽善でも良い。口に出したくないほどには、良心が残っていたのだと思いたかった。

1997年5月1日 18時

 クリームイエローの外壁に、埋め込んである小さなライトに明かりが灯った。まだ辺りは夜とはいえないくらいには明るいが、薄暮の中の家明かりというのも良いものだ。特に、自分達のように血のつながりの無い家族ならなおさら。
 ライトは北斗七星を模した配置になっており、道行く人の目を楽しませることもある。
 瞬(シュン)はそんなライトを見て、足を速めた。
「今日は遅くなるって言ってたのに」
 母の再婚相手である父は、亡くなった母も勤務していた保育所に勤めている。母とも自分とも15ずつ年の離れた男が、父になったのは半年前。急な事故で母が亡くなったのはその3ヵ月後だった。
 母の葬儀が終わり、骨になった姿を見たときだけ、二人で泣いた。
 それから、本当の家族になった気がする。
「ただいま、優(スグル)さん」
「ああ、お帰り」
 ひよこ柄のエプロンが似合う30代というのも珍しいが、それは「保育士」のプロ。見事に着こなし、お玉を持ってリビングから顔を出す。
「って……どうしたの?それ?」
 優の額には、大きなガーゼが貼られていた。
「ちょっと帰りにひっくり返っちゃって……近くの診療所に寄ったら、大げさに」
 眉尻を下げて曖昧に笑みを浮かべる父と対照的に、瞬の眉はつりあがった。
「バイクは危ないって……そう言って俺には免許取らせないくせに。なに転んでんだよ」
「ごめんよ。そんなに……本当に反省してる。ごめん」
 優の声が少し低くなったのに気がついた。
 涙が出そうだった。
「着替えてくる」
 乱暴に階段を駆け上がり、部屋のドアを閉めてからベッドに突っ伏した。



2009年02月05日(木)
第一章 後悔 2

「……事故、か」
 何度も深呼吸を繰り返すと、ちょっと過剰な反応をしていると自分でも思った。そもそも優はバイクで転んだとは言ってなかったのではないか。先ほどのやり取りを何度か頭の中でリプレイしてみるも、確信は得られなかった。
 涙は出ていなかったようだ。念のためウエットティッシュで乱暴に顔を拭き、ジーンズとシャツに着替える。部屋のドアを開けると、待っていたかのように階下では優がリビングから顔を出した。
「転んだのって、バイクでだよね」
 そう尋ねれば、眉尻を下げたまま優は頷く。
「……ごめん。気をつけるよ。本当に」
 家から勤務先までは結構な距離がある。交通機関に恵まれなかったため、優はこの家に来てからずっとスクーターで通勤していた。もちろん母も。
「車で行けば?」
 二人でスクーターよりは車のほうが良いだろうと、黄色い小さな車を買ったのは母が亡くなる直前だった。納品があと数日早ければ。
「……うん。そうは、思うんだけどね」
「バイクよりいいんじゃない」
 優は困ったような笑みを浮かべる。
「考えちゃうんだよね。何でもっと早く買わなかったとか。何で、隣に……居ないのか、とか。そんなんじゃ危なくて運転できないよ」
 階段を降りきると、自分の顔よりも少し高いところにある優の顔がよくみえる。ほんの少しだが目元が赤い。
「……ちょっとだけ、抱きついてもいい?」
 そう言って突然優に抱き寄せられた。どうやらスイッチが入ってしまったらしい。こうなったらひとしきり泣ききるまで泣かせたほうが良いというのを、この二ヶ月で学んでいた。
「最初にショックを受けたのは、俺だったはずなんだけどな」
 そう呟くと、優はそっと身体を離して苦笑した。泣いたせいで上気した頬と、涙に濡れた顔をエプロンで雄雄しくぬぐう。ひよこがよれよれだ。
「……たいした怪我じゃないんだ。小学校の角を曲がろうとしたら、鳥小屋になぜかウサギが居てさ。何でだろうと思ってたら側溝に落ちちゃったんだよ」
「は?」
「小学校の近くだからさ、ものすごくゆっくり走ってたし。おでこは、落ちたときにハンドルにぶつけただけで」
 挟んだ疑問符はきれいに無視して、優は一生懸命に状況を語っていた。
「でも、不思議だよね。ハトとウサギは捕食関係でもないし。ウサギ小屋も別にあるし」
「もともとがウサギ小屋なの。ハトを育てるようになったとき小屋を新しく建てるタイミングをのがして、とりあえずウサギ小屋に入れて育て始めたんだよ」
 そうだ。小学校五年生のときに、紫が怪我をしたハトを拾ってきたところから第二小学校のウサギ小屋にはハトが住まうようになったのだ。
「ああ、そうなんだ。なるほど」
 優はお玉を持った手を振り回して納得している。わが父ながらなんと言うか、のどかというか、とろいというか。
「すっきりしたよ。瞬(シュン)くんも育てたの?」
「僕は……鳥が苦手で」
 優は「ああ」と苦笑した。
「食べるのだけじゃないんだね」
 そう言って少し嬉しげに笑う。
「なに、その笑い。苦手だって言ってんのに」
 鼻歌混じりで居間へと戻っていく年若い父親の背に不満を投げた。
「息子の苦手を知ったので、親子ポイントが五ポイントくらい増えたよ」
 居間には優お手製の微妙な表が貼ってある。母が生きていた頃に二人で考えたという「親子ポイント制」の換算表だ。二人の間に親子としてのイベントがあるとポイントが増える。五ポイントにつきシールが一枚貼られていくのだ。
「あと三枚で五十枚に到達だよ」
「……何だっけ。映画に行くんだっけ。……男二人で」
 ガックリと肩を落とす瞬に対し、優は嬉しげにお玉を握り締める。
「百枚溜まったらお墓を買うからね。かおりさん」
 写真の母も苦笑したように見えた。



2009年02月07日(土)
第一章 後悔 3

 あの日の朝もこんな天気だった。
 快晴に近い空、なぜか人気の無い町。正月かと思うような雰囲気に包まれた町。何でも無い日だったはずだ。
 部活の朝練が無くなって、久しぶりにのんびりとした朝の時間を過ごしていた。新しい父が作る手の込んだ朝食を食べながら、晩に外食しようと話をしていたのも覚えている。
 いつも以上に満ち足りた朝だった。もう一度あの日に戻れたとしても、同じ朝を望むはずだ。けれど。


「瞬くん……」
 病院の入り口で出迎えた優は、いつに無く厳しい表情をしていた。
 二時間目の途中で受けた知らせは「母が交通事故に遭った」ということだけ。呆然とする背を押してくれたのは、幼馴染でクラスメートの押尾だった。手には彼から借りた財布すら握られている。
「だめだったよ」
「だめって」
 優は唇を噛んだ。
「今さっき、向こうへ行ったんだ」
 瞬は優を押しのけて病院へ入った。
 そんなはずは無い。母があっけなく死ぬなんて信じられなかった。研究所に行くと言っていたじゃないか。いつも使うスクーターになんて乗らず、バスで向かったはずだ。何よりも安全な道程だったはずじゃないか。
 いつの間にか隣にたった優が瞬を一つの部屋へと連れて行った。
 病室だった。テレビなんかで見る無機質な霊安室ではなく、日の光が入る個室。カーテンが揺れて、外からは子供の声も聞こえる。
 瞬が母の顔に掛けられた布に手を伸ばそうとすると、それを優が止める。
「……もう、痛くないからね。だから、驚いてはいけないよ」
 それが、母の顔が損傷を受けていることを告げていた。見るなといわない辺りが、優が既に自分の父親として其処に居るのだという実感に変わる。
 もとの顔は分からなかった。それでも形を残している額や、頬、右目の端に指を這わせる。くらりと頭が揺れる。優が隣で身体を支えてくれなかったら、その場に倒れこんでいただろう。
「かあさん」
 そう言って、冷たくなった手を握った。その手も傷だらけだ。
 突如、傍らの雰囲気が変わったのが分かった。
 振り返ると個室の戸を開けたところに一人の男が立っている。母を撥ねた車を運転していた人物の弁護士だという。
「先ほどの話の続きなら、何度言われても首を縦に振ることなどありません」
 優がそう言って男へ近づいた。
「破格の金額ですよ。これからの生活もあるでしょうし、裁判や何だと手続きに追われるよりも、裁判で得るより高額の金額を受け取られたほうが良いのではありませんか。そのほうがかおりさんも喜ばれ」
 男は最後まで言い切ることが出来なかった。
 優の手が男の口を塞いだからだ。
「それ以上その口を開くな。お前に呼ばれる名などかおりは持ち合わせていない。氷室へ伝えろ。正規の手段で糾弾する」
 こんな声を出す優を、瞬は知らなかった。音も無く手を下ろすと、乱暴にズボンで手のひらをぬぐう。
「うちは示談金やら賠償金やらで補填してもらわなくても結構」
「保育士の薄給で息子さんを大学にまでやれるとでも?」
 優はそれは綺麗に笑みを浮かべた。
「汚い金は命を購うことにすら使えないのでしょう? 瞬だけじゃない、私たちのどの人生にもそんなものは必要ない」
 男は更に口を開こうとしたが、その前に優が乱暴にドアを開けた。
「お気をつけて」
 そう言って笑う姿に、笑みのほうが恐ろしい場合があることを知った。



2009年02月09日(月)
第一章 後悔 4

 しんとした部屋の中。母は横たわっていた。
 先ほどとは違い、ばら色の頬をした母の姿が見える。
「エンバーマーと呼ばれる業者さんが居るんだって。かおりさん、お化粧したほうが喜ぶかな」
 男の去った個室で、優が口にしたのはそんなことだった。
「いっつも綺麗にしてたでしょ。やっぱり、綺麗なほうがいいかなって思うんだけど……他の人がかおりさんに触るのが嫌なんだ。葛藤中」
 瞬はぼんやりと母の姿を見ていた。記憶の中の母はいつもはつらつとした美人だったと思う。多少の身内びいきは入っているが。
「綺麗にしてもらおう。だって、明日もあさっても、母さんはいろんな人に会わなくちゃならないんだ。明日も綺麗でいたいって思うよ、きっと」
「うん……業者さん、男の人じゃないといいな」
 そう言って微笑む優の腹を軽く殴る。
「すっげー独占欲?」
 訊けば頷いて「すっげー独占欲」と返された。
 この人に出会えただけでも、母はきっと幸せだったに違いない。短い夫婦生活でも、優は全力で母を愛していたんだと感じた。
 母には家から持ってきた淡い色合いのスーツを着せてもらった。一旦園に帰った優が抱えてきた沢山のペーパーフラワーは、話を知った園児たちが、母の逝く道が明るく照らされるようにと明るい色の紙で作っていてくれたのだという。折り紙で出来た財布に間違いだらけのブランド名が書いてあるのには笑ってしまった。棺には楽しげなものを沢山詰める。
 スーツ姿を見たことすらなかった父が、一足飛びに喪服を着るのを見るなんて思ってもいなかった。毅然とした態度で通夜も告別式もこなし、途中入れたもののせいで棺が閉まらなくなるというハプニングもあったが、家族二人だけで火葬場へたどり着く。
 やらなくてはならないことが多すぎた。体が要求しているから食べ、眠るという行動はしていたものの、心はどこかにおいてきたようだった。
「ごめん、ちょっと……無理かも」
 そう言ってしゃがみこんだ父を慌てて覗き込む。熱気とともに母が出てきたときだった。
 声を押し殺したまま、優は泣いていた。つられたように瞬の目も潤む。
 そうだ、まだ泣いていなかった。
 係りの人は静かに待っていてくれた。やっとのことで優が立ち上がり、ぐちゃぐちゃの顔を袖口でぬぐう間も、二人の手が震えていて骨が骨壷から零れ落ちてしまっている間も、静かに待っていてくれた。
 整えられ、綺麗な白い壺に収まった母に、優はとてもやさしい仕草でキスをした。
 少し壺が桃色ががってみえる。まるで母が照れたかのようだ。移りこんだピンク色の花は、庭に咲いているのと同じ花だった。


「墓石、何色にする?」
 優はここ最近墓石のパンフレットばかり見ている。
「ランドセルじゃないんだから。普通のがいいんじゃない」
「だって、かおりさんのだよ。この家見てたらやっぱりカラーのほうがいいかなって思ってたんだけど」
 確かに母はかわいらしい色合いが好きだった。バリバリのキャリアウーマンな外見と裏腹にかわいいものに目が無かったのだ。
 おかげで家は全体的にフリフリだ。ちなみに今日の優のエプロンもフリフリつきだった。
「じゃぁ、この程度」
 一応白とピンクの石が混じっている花崗岩を指し示す。
「そうだよね。あんまり明るい色って無いから。……いくつか見積もりを取り寄せてみるよ」
 楽しげにそういいながら、カウンターキッチンの向こう側で鍋をかき回している優を見ながらパンフレットをめくったそのときだった。
 くぐもった声を上げて、優が身体を折る。シンクに放りだされたお玉が金属質の音を立てた。
「優さん!?」
 慌てて駆け寄り、倒れそうな優の身体を支えて座らせる。
「気持ち悪い……ええと……悪阻かも」
「そんなわけの分からない冗談はいいから。吐きそう?」
 優は何か言いかけたが、頷くにとどまった。近くのゴミ箱を優に渡すと、掴むようにして嘔吐する。
「ちょっと……いつから調子悪いんだよ」
 吐いたものがどす黒い。ついで吐き出されたものは血としか思えない色をしていた。
 思わず服を剥いで腹の辺りを見たが、あざも何もない。荒い息をしている優を何とか横にさせると瞬は救急車を呼んだ。
 病院は嫌いだ。



2009年02月12日(木)
第一章 後悔 5

 ものの見事な胃炎です。
 父とは古くからの友人だという医師は、ため息とともにそう言った。
「あいつは胃に来るタイプなんだよな。小学生の頃、写生大会の前日も胃痙攣起こしてたし、大学入試のときも胃炎になって、試験の後で病院に直行する羽目になったし。俺はあいつのために医者になったんじゃないかって思うときがあるよ」
「大丈夫なんですか」
 椅子に座り、斜めに机に向かいながらも医師はプリプリと怒っていた。
「医師としては大丈夫。友人としては救いようがない」
「はぁ」
「自覚が無いんだよ。だから進行するまで気がつかない。体調不良を押して生活していたんじゃなくて、倒れるまで不調だとすら思わないんだろ、あいつは」
「ものすごく鈍いってことですか」
 瞬の問いに医師は意地悪く笑った。
「そ。性格だけでなく、腹の中身まで鈍いんだよ」
 ケケケと意地悪く笑うと、医師は音を立ててカルテを閉じた。「薬を出しておくから、確実に飲ませて」という指示に頷く。「確実にね」と念押しされて、優の薬に対する態度が知れた。

「というわけで、明後日には一応退院できるらしいけど、薬だけはちゃんと飲めってさ。通院日も守ることって、般若みたいな顔で僕が怒られたけど」
「ああ、あいつ般若っぽいよね」
 少し疲れた顔で笑う優に瞬は何度目かのため息をついた。
「気をつけてよ。僕、できるならしばらく病院には来たくない」
「……そうだね」
 優は一つ息を吐くと目を閉じた。
「あのね。僕は瞬君に隠し事をしてるんだ。多分かおりさんも。今まで君に嘘をついたことは無いよ。けれど……意図的に隠していることがある」
 瞬はどんな隠し事かとまぜっかえすつもりで口を開きかけるが、すっと目を開けた優の顔を見て口を噤んだ。
「もっと言えば、君や他の人が僕達に関して誤解をしていたとしても、訂正はしてこなかった。だから、それも嘘だというのなら、嘘をついているといわなくてはならないかもしれない」
「なんだよ。やけに真面目に。優さんとかあさんってことは、アレでしょ。二人の出会いとか、再婚とかの話。実は二人は恋人でも夫婦でもないとか」
「ちゃんと恋人を経て夫婦です。……でも、出会いなんかは隠し事の範疇かな」
 優は瞬の言葉に一瞬笑みを浮かべたが、すぐにかぶりを振った。何か考えているらしい。
「いずれ分かってしまうことだから、先に言っておこうかと思って」
 優は傍らの引き出しから財布を取り出した。カードを一枚抜き取って瞬へと差し出す。
 受け取ってみると、キャッシュカードのような質感だった。優の顔写真と左側にはアルファベットで何か綴られている。
「これは?」
「入所証明。僕とかおりさんの職場の」
 カードには確かに優の顔写真が貼ってあった。少し緊張した面持ちで、珍しくワイシャツを着ているようだ。優が勤めている保育施設は、自宅から数キロのところにある幼稚園を母体とし、隣町にある薬剤研究施設の中の託児施設での託児も請け負っているらしい。
「これが、なに?」
「かおりさんは研究所で知り合ったんだ」
「あれでしょ。交流会みたいなやつ。優さんがピンクのエプロンしている写真を見たよ」
 優は少し笑みを浮かべて頷いた。
「交流会で間違いないよ。でも、かおりさんは託児室のスタッフとしてそこにいたわけじゃないんだ。彼女は、研究所側からのスタッフとして参加していたんだ」
「研修所側……」



2009年02月14日(土)
第一章 後悔 6

 カードに再び目を落とす。
「研究室で働いていたんだよ。かおりさんは保育士ではなく、小児科の医師だった」
 なんといってよいのかわからずに口を噤んでいると、優が更に話を続けた。
「大学を卒業してしばらくは勤務医として病院に居たらしいんだけど、その後は重病患者のいる小児施設で働いていたらしい。数年前に研究所での勤務をはじめて……託児所が出来たんで交流会をしたってわけ。それまでは子供断ち状態だったらしくて、かおりさんしょっちゅう託児室に来てたんだ」
 瞬はカードを返し、ベッドへ直接腰掛けた。
「隠す必要とか、無いんじゃないの? なにか怪しげな研究とかしてたわけ?」
「まさか」
 慌てた様子で首を振る優に「分かってるって」と返した。優も苦笑いを浮かべる。
「ちょっとしたいたずら心でさ。かおりさんの知り合いに紹介されるたびに、ああ職場結婚ね、みたいな雰囲気になるもんだから。それを過ぎたら言い出すタイミングをつかめなくて」
「……今思うと……たしかに自分が保育士だとは断言してなかったかも……なにやってんだよ、かあさん……」
 照れたように笑う優にため息を一つ落として、瞬は更に先を促した。
「かおりさんも結構ノリノリで。職場で出会ったんですなんて言うするから段々とエスカレートしちゃってさ。ごめんね。瞬君には話しておくべきだったかなって思ったんだよね。その……倒れたときにさ」
「万が一を考えたってわけ?」
 声が低くなるのは仕方ないと思って欲しい。母の死はまだ色濃く記憶に残っているのだから。
「……うん。何が、起きるか分からないって、実感した。そしたら、秘密なんてあったってなんの特にもならないって分かってさ」
 優はカードをしまうと、指先をむやみと動かしてうつむいていた。
「薬もちゃんと飲むよ。これからは、自分の身体のことも考える。自分が死ぬなんてこと考えたことも無かったけど、正直死ぬことが怖いとかも考えたことが無かった。でも、考えるよ。僕は、君の父親だからね。よぼよぼの爺さんになって死ぬまで、絶対に死なない」
「何が起こるかわからないんでしょ」
「わからないよ。でも絶対に死なない」
「絶対なんてありえないじゃん」
「ありえないかもしれないけど、僕と君の間ではありえるんだ。一つ隠し事をしてしまったからね。僕は「絶対」で報いるよ」
「なんだよ、それ」
 瞬は泣き笑いのような声で答えた。
「僕達は血はつながってない。それは僕が泣き喚いて願っても無理なことでしょ。でも、その代わり、ありとあらゆることで繋がるんだから。繋げてみせるから」
 泣きそうになった瞬の頭を抱えて、優は大きく深呼吸をした。
「もう、したくないんだ。もっと早く車を手に入れておけばよかったとか。あの日一緒に研究所まで行けば良かったとか。隠し事なんてしなければよかったとか。そういう後悔は、もう、したくないんだ」

「ねぇ。もしも。もしもだよ」
 優は、しばらく経ってからそう口を開いた。
「もしも、明日世界が終わるかもしれないとして」
「うん?」
「今日一日を過ごしなさいって言われたら、どうする?」
 なぜ突然そんなことを言い出したのだろうと優を見遣れば、やけに真剣な目をしているので思わず目をそらした。
「……わかんないよ。やりたいことだらけで、一日じゃとてもじゃないけど足りない」
 本音だと今でも思っている。学校のことも、遊びのことも、将来のことも、母の墓のことも、もちろん優との生活も。全てが未来に向かって伸びていると思っていたのだ。突然終わると告げられても、優じゃないが後悔ばかりが残るだろう。
 素直にそう伝えると、優は「僕もだ」と返して笑みを浮かべた。
「でも、まずは生き残る方法を考えるかな。まだ死にたくないし」
 瞬が続けた言葉に、優は一瞬息を呑んだようだった。
 そして、この一言が全てを決めるなんて、その時は考えもしなかった。



2009年02月16日(月)
第一章 後悔 7

 目の前に広がる光景は、到底受け入れられるものではなかった。
 傍らに立つ男は藤原と名乗り、瞬を映画で見るような潜水艇に似た乗り物に載せてこの建物に連れてきた。
 建物自体は普通のコンクリートで出来ているようで、経年劣化の激しい表層からは水が染み出ている。プラスチックのようなものがその周りを覆っているので、何か補強がされているのだと推測できた。でなければ、水に埋もれたこの建物が、これほどに劣化していながら存在している説明がつかない気がする。
 暗い水底を這うように移動した潜水艇は、柱と奇妙な鉄の塊の間を抜けて、細い通路へと入っていった。暗くてはっきりとは見えないが、それでも誘導灯のようなオレンジの光がところどころに取り付けられているおかげで、おぼろげながらあたりを観察することが出来る。
 右手の壁にはポッカリと黒い四角があいており、そのいくつかには扉の残骸のようなものがついていた。対して左側は低い塀が続いているようで、その向こう側には闇と表現するのが正しい色が存在している。
 潜水艇は細い通路を神業的な操舵で通り抜けた。不意に左右の壁や塀が無くなる。そのまま静かに旋回すると、新に姿を現した黒い四角の中に滑り込んだ。
 音も無く艇内の明かりが消えた。
「まぶしくなるよ」
 藤原はそういうと、くるりと椅子を回して瞬に向き合った。今まで彼の真後ろに座っていた瞬は、その行動に身体を強張らせる。
「……そう、警戒しなくてもいいよ。俺はあんたに危害を加えるつもりは無い」
「そんなの、分からないだろ」
「もし、何かしようとしていたら、全裸で寝こけてたときに出来たんだぜ。何をいまさら」
「抵抗するのを抑えてってことかもしれないじゃんか」
 藤原は一瞬目を見開いた。意外と若いかもしれない。
 四十代だろうという認識を少しだけ下へ修正する。
「なんだよそれ。俺はレイプ犯か。残念ながらケツの穴に突っ込む趣味はねぇよ」
 瞬は口を開きかけたが、次の瞬間息を呑んだ。一面の白。
 眼球を通過して脳に突き刺さるかのようなその色は、無音を伴って瞬を責める。
「いきなりだときついだろうが、バイザーは高価くてやすやすとは手に入らないんだ。根性で慣れてくれ」
「っう。何だ、これ」
「いっただろ。まぶしくなるってさ。正真正銘の太陽光だよ。君の知っているものよりちょっと攻撃性が増しているかもしれないけど。それでも連邦政府から借り受けたシールドが一帯を覆っているから、まぶしい割りに人体影響は少ないんだ」
「太陽、光」
 瞼に力を入れて、ほんの少しだけ持ち上げる。その隙間から差し込む光すら瞬にはまぶしすぎた。
「さっきまで、あんなに薄暗かったのに」
 瞬の呟きに藤原は神妙な面持ちで頷く。
「俺たちには「薄暗い」んだよな。彼らには「闇」だよ。誘導灯がついていたってほんの少し先すら見えないらしい。俺が運転してきた探査船……潜水艇っていったほうが分かりやすいか。あれだって自動運転装置がついていないから格安になっていたんだが、コッチの人たちにとってその装置がついていないってのは、運転できないってのと同じことらしい。最初はガラクタを買わされたのだろうって笑われたさ」