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小松川戦機
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2009年02月19日(木)
第一章 後悔 8

「ちょ、ちょっと待てよ。勝手に話を進めるな」
 瞬は身体のより僅かに大きいシャツを握り締めていた。小さい頃から何かを我慢するときの癖だ。子供っぽいと優に笑われてからは気をつけていたはずの癖。
 そうだ、昨日の夜までは優と一緒に居たはずなのだ。夕飯を食べ、結局白っぽい墓石を買うことに決めた夜。明日は麻婆豆腐を作って欲しいといったはず。明日とは今日なのか。
「あ、なんだよ。何なんだよ。あんた誰だ。ここはどこだ。俺をどこに連れてきた。帰してくれよ」
 睨みつけた先にあったのは、静かな表情を浮かべた藤原の顔だった。瞬時に悟った。帰れないのだと。
「帰せよ。何なんだよ。ふざけんな」
 それでも理性は警察や法を持ち出して保身を図ろうとする。けれど。光に慣れた視界には広々とした水面。其処から乱立するのは葦でも水草でもなく、硬質な輝きをいくつものひび割れに汚されたビルだった。
 見知った形。
「三十三階……」
 思わずそう呟いた。あのビルは正確にはマンションは瞬たちが住んでいたあたりでは三十三階と呼ばれていた高層マンションだ。戸建てに住んでいた瞬は高い部屋に住む友人をうらやましく思っていたこともあった。
「そう、呼ばれていたらしいね。今は中層の四階と五階の部分が崩れてしまっているから三十一階しかないけど」
「七号棟と九号棟も」
 三十三階を中心に左手に見える直方体は七号棟だ。上から見ると、くの字を逆さにしたような建物は九号棟。
「ってことは……」
 瞬はガラスに額をくっつけた。瞬が居る建物は特徴のある形をしていた。記憶どおりなら建物の半分が十階を越える高さで、残る部分はその半分くらいの高さしかないはずだ。二階部分は広い廊下になっており、三十三階と七号棟の二階につながる広場があった。広場の下は駐車場とゴミ置き場だったはず。
「ここは八号棟?」
 そう思ってみれば、今上がってきた筒のような部分はエレベータのシャフトのようだ。その前に旋回したのが一階のエントランス。ということは細い通路が一階の廊下で、その前に通り過ぎてきたところが自転車置き場だった場所だろう。押尾が住んでいたこのマンションは、瞬にとって二つ目の我が家と言ってよいほど入り浸っていた場所だった。
「押尾は……9階に住んでて」
 視線を上げて行ってその場所を確認する。大きく抉り取られたような傷跡。角部屋だった押尾の家はもう、どこにも無かった。吐き気がこみ上げてくる。
 思わず喉を鳴らして身体を折った。
「おい。この中で吐くなよ。って……吐くものなんて無いだろうが」
 そんな藤原の声を遠くに聞き名がら、瞬の意識は闇に飲み込まれていく。目が覚めたらいつもの部屋に戻っている、そんな希望を抱きながら。
 けれど、視界に入ってくる長く伸びた自分の紙や、借りたばかりで身体に合わない衣服、そしてぼろぼろの床が、小さな希望を打ち砕いた。