再生するタワゴトver.5
りばいぶ



 スターダス修了公演の戯言

演出の戯言

演劇とは不思議なものだ。
そこがアーデンの森である、と宣言すれば日本のこんな板橋区の環七裏がイギリスの奥深い森にもなれば、僕らはお寺脇の池に棲息するカエルだ、と宣言すればカエルにもなるし、大学のゼミ生になること、女子が男子を演じること、ハタチ過ぎの若者が老人になるなんてザラにある。
想像力のチカラをかりて、
世界を創りだすことができるのだ。
そして、俳優は世界を生き、旅し、そしてそれを観客と共有する。

そこに『生きる』ことが重要だ。
役それぞれの蠢く人生の一点が目の前の舞台上で交錯し、ぶつかり合い、変化していく。
だから存在同士の『心の交流』がちゃんとそこに在ること。
肌の『触れ合い』がそこに在ること。
俳優自身の想像力が『豊か』であること。
人物たちが『呼吸』していること。
表現者は忘れてはならない。

さて今回、俳優クラスの集大成は近代演劇の祖、イプセンの『民衆の敵』。
この難儀な課題に、「私は僕はこうゆう風に解釈しました」の発表なんていらない。目一杯心と身体と頭を駆使して、生きぬくこと。
その果てに、人間の本質みたいなものがお目見えしますかどうか。。。

寝る間も、バイトも、プライドも色んなものを削りながら、寒さに大雪に見舞われながら、まさに心血注いで創ってきた面々。
狭いところで恐縮ですが、最後までどうかごゆっくりご覧ください。


藤井ごう


上質なフィクションは『今』を鋭くあぶり出し、時代を見通すことができる。
いつもそんなことを考えている。
今回、俳優クラスとの喧々諤々の中で、古今東西の物語って所詮イプセンの掌中なんだよな…なんてことをアラタメテ発見してみたりして…

2014年02月22日(土)



 時は早いうちに

毎週末、とはいえ、たった二週間のことだけれど、
豪雪に見舞われている。

こちらはその隙間をぬって、シェイクスピアやる学校に顔を出したり、
4月のシェイクスピアの美術の話なぞしつつ、
四月に高校で口火を切るはずの「父と暮せば』リーディングの稽古なぞはさみながら、
小竹向原の卒業公演が一番近くにあるので、通い尽くしている。

今年はイプセン。

例年ハードルを高くしているような錯覚のような感慨もありながら、
改めて、この作家の奥行き、
とゆうか、扱っている『民衆の敵』自体の難しさもあるのだろうが、
今現在、ドラマ、と言われているものの大枠、基本形、
を感じている。

方や書かれた百何十年前と今の変わらなさ、まあ、もちろんイロイロ変わってはいるわけだけれど、その筆力、思わないわけにはいかない。
名作と言われている古典には必ずついてまわることばだけれど、
この、予言感、予知感。
各人物たちのシーンシーンでのぶつかり合い、目的の変化、そして、人であるがこその選択。

近代演劇の祖とも言われるのは、もう、
ウチナーグチで、ダールダール!である。
今ある色んな作品群は、結局この支流にある亜流でしかないのかもしれない。

タイヘンなホンである。
この課題を渡される生徒も相当なものだと思う。


でも、その場にいる人の言葉が発せられるかどうか。
相手の言葉をちゃんと聞けるかどうか。
生きている息をしている人物がそこに在るかどうか。


あと数日だけれど、
まだまだ脱皮できない子等もいるけれど、
多分、大丈夫。
だと思いながら、今日も明日も明後日も、通うのである。


来週金曜日、土曜日が本番。14時半と18時半。

2014年02月15日(土)
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