スカーレットの心のつぶやき
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11月に開催される絵手紙展。
私の参加する絵手紙展は今回で6回目だ。
今までとは違って今回は大きな紙や扇形の紙をもらっていたので、早速5枚描いた。
姉に聞きたいことがあったので、電話したら、姉が「絵手紙の言葉が出てこない、行き詰まっている」とのことだった。
絵は描けるのだが言葉が出てこないらしい。
確かに絵手紙は絵よりも言葉に重きを置く人も居る。
いくら絵がステキでも、それに添えられた言葉に意味も感情もなければ 受け取った人に何も伝わらない。
私は割りと言葉は出てくる。
画材を見ていてふと思うこともあるし、家事をしていて頭にひらめく言葉もある。
また、言葉が次々出てきて、早く絵を描きたいと思うときさえあるのだ。
こんなときは心が絵手紙へ向けて100パーセント向かっているときだ。
チャンスとばかり直ぐに描けるようにしたくをして描き始める。
そしてとても楽しいのだ。
でも、何か描くものはあるのにことばが出てこないときほど辛く苦しい時はない。
絵は描けても添える言葉が浮かばないと嘆いていた姉の気持がよくわかる。
そんな時は姉にも言ったのだが、机の前に座っていてもいい言葉は浮かばないのでそんな時には、少し気分転換をしたら良い。
今はもう秋の感じがしてきたから、ちょっと散歩をしてみるとか 全く違うことをしてみると良いように思う。
散歩していると、空の雲、木々の揺れ、花々の可愛い姿に出会う。
そして家に居るだけでは感じなかったことをいっぱい感じることがある。
そんな感性の開放があるときこそ言葉は生まれてくるのだと思う。
私も早朝の散歩をしていたときに31文字の「風の詩」が生まれた。
メモを持って歩いていて頭に浮かんだ言葉や詩をちょっと書き留めておくといい。
帰ってから思い出そうとしてもなかなか思い出さない時があるから。
私も後1枚の絵手紙が宿題として残っている。
描きたいものは頭の中にあるから、それが手に入るまでは少し時間がかかる。
その時になったらきっと私の心にぴったりの言葉も浮かんでくるだろう。
そんなことを考えていると苦しさやしんどさも消え、今は楽しみに思える ちょっとわくわくする心で居られる。
人が生きるということそれは楽しいことだけではない。
辛いこと、悲しいことの連続かもしれない。
でも、誰かとの出会いを大切にして人を思う優しさと真心を大事にして生きてゆくことが大事だと思う。
そして、誰かと悲しみを分けない喜びを共に喜ぶことができたらどんなに良いだろう。
人はどうして一人で生きていけないのかと思うときがある。
何故結婚しないといけないのだろう?と思うときもある。
そしていつも思うことは、人は弱い存在だということ。
いくら表面上では強くしっかりとして生きて行っているように見えても 一人になったときに淋しさを感じるからかもしれない。
そしてそんな時こそ、人生の伴侶が必要になるのだろうと思う。
辛いことや悲しいことを分けあって半分に、 嬉しいことや喜びは話すことによって2倍になる。
だからこそ、人は生きていけるのだ。
お互いに支えあって生きていく人生は何者にも変えがたいものだと思う。
でも、いつも順風が吹くとは限らない。
時には逆風に引き戻されながらも前へ進むことが必要な時があるだろう。
でも人は命のある限りいきなければならないのなら、流されるのもよし、 また逆行しない限り回り道をしながらでも前に進んでいきたいと思う。
私の今までの人生にも辛く悲しいことは数多くあった。
そして自らの命さえ投げ出さなければならないときもあった。
でも今私はこうして生きている。
泣いたり笑ったりしながら生きている。
生きていけるというこの素晴らしいことに感謝しよう。
そして共に生きる人の居ることの有り難さに感謝しよう。
夫婦は合わせ鏡と言うけれど、私だけでなく夫の幸せは私の幸せだと思える人生にしたい。
残りの人生を有意義なものにしたい。
後悔の残る人生にはしたくない。
人は皆誰かに支えられて生きている。
それは健常者でも、身障者でも同じだと思う。
確かに身障者の場合は介添えの必要な人が多い。
その介添えの人や周りの支えがあって初めて、この社会の中で生きていけるのだと思う。
私は先天性の心臓疾患で二回の手術を受けている。
そして、大動脈弁を人工弁に換えてから第一種第一級の身障者になった。
毎日の家事育児で精一杯で、周りに居る大勢の人のように、社会の中で働くことはできない。
働くことができなくても、家族に迷惑や心配をかけながらも生きていけるということが嬉しい。
健常者の中での自分の立場を思うとき、 少しでも社会の中に入っていけるように お互いのコミュニケーションを取っていくことが必要になってくる。
そのために同じ病気や立場の者達が集まって会を作り、 その会の活動を通して励ましや生きる勇気を、 与えたり与えられたりしている。
そして私のように心臓疾患を持つ人たちが集まっている会もある。
その会の会長さんから、今日「療友の会の集い」があるとの連絡を受けた。
今までも年一回の集いが行われていたらしいが、私は知らなくて参加したことがなかった。
やはり心臓の弁の置換手術をしている一つ年上の友人と相談して一緒に出席することにした。
行事報告、会計報告、今後の運営についての話の後で、今私が診て貰っている先生のお話があるそうだ。
自分で自分の心臓のことをちゃんと知っておくことが必要だと思うけれど、心臓の仕組みや働きを理解できていない人が多い。
誰のことでもない、自分自身のことなのだから、 どのようなことに注意をして生活をするべきかも知っておくことはとても大事なことだと思う。
今日はそういうことも含めて先生の話を聞いて来ようと思っている。
その話の後はみんなで会食と懇談の予定だそうだ。
10時から14時までの6時間が有意義なものになれば良いと思う。
人は特に女性はいつまで経っても綺麗で居たいと思うのは当たり前。
そのためにお金も努力もいとわないと思っている人だっているはずだ。
私の母は82歳、親せきの叔母は88歳だ。
でも二人共とてもお洒落で美しい。
年を取るに連れて顔かたちの美しさは少しずつ失われていく。
叔母も母も若い頃はとても美人だったらしい。
誰でもそうだが、年を取ってくると嫌でもしわやしみができてくる。
なんとかしてそのしわやしみを出来ないように、 また出来てしまったのは仕方ないけれど、 これ以上は増やしたくないと思うはずだ。
しかし、多くの老人は諦めてしまうのか、化粧もせず、髪は白髪のまま、 服装もおばあさんという感じのものを着て、歩き方も老人そのものになっている。
「人のふり見て我がふり直せ」と言う言葉もあるように、 私は年を取っても母たちのようにいつも綺麗にしていたいと思う。
綺麗にするというのは高価なもので身を飾るというのではない。
勿論綺麗で居る為には、多少のお金は余分に要るだろう。
髪を綺麗にしたければ小まめな白髪染めやパーマやカットのために美容院へ行く回数も増えるだろう。
そしてそれだけお金もかかる。
化粧にしてもするしないでは費用は倍半分違ってくる。
でも、私は髪と化粧は最低の条件だと思うから、 いくら年を取ってもそのための費用は惜しみたくない。
着るものも、別に高価でブランドものを着るのではなくて、 色や形のいいものをセンスよく着こなせればそれが一番だと思う。
けばけばしい色ではなく、落ち着いて似合う色のものを着たいと思う。
今日は2ヶ月に1回の美容院の日だ。
頭のてっぺんに短く出てきた白髪を染め、少しだけカットをしてすっきりと綺麗になってこよう。
一昨日姉から今度11月に開催される私達仲間4人の絵手紙展のための 宿題をもらった。
絵手紙展は今までも数回してきたが、 お互いに行き来している葉書を展示していたので、 新たに何かを描かなければいけないことはなかった。
でも、今回は今までとはちょっと違う趣向にするようだ。
そのために大きな和紙を2枚、扇形の紙を3枚、 そして色紙の額とその中に入れる四角い色紙を1枚、 計6枚の宿題をもらったのだ。
私はいつも葉書に描いていて大きな紙には描いたことがない。
だからもらったときは心が少し重くなったことは確かだ。
まるで作家が出版社に原稿を頼まれて その締め切りもいついつと決っていて書かなければいけないという 何か追い立てられる気持になるのと同じ気持になった。
程度の差こをあれ、同じ気持ではないだろうか?
そんなに負担に思うならやめれば良いと思うのだが、 これが好きなものだから直ぐには断れないのだ。
でも、その6枚に宿題を目の前にして、大きなため息をついたことは本当だ。
考えていても駄目だと気を取り直し、早速描くことにした。
まず、大きな紙に私の好きなコスモスを描き、 その言葉として以前にコスモス祭りの時に 俳句コーナーで入選した時の句を思い出して添えた。
花を一輪描いても面白くないと思ったので コスモス祭りの時に写したコスモス畑の写真を見ながら描いた。
もう一枚は私の31文字の詩から一つを選び、絵は秋の風物を描いた。
秋がテーマなので、秋の花や果物や野菜を描けば良いらしい。
だから残る扇形の紙にいがぐりと、彼岸花を描いた。
一度に描くと疲れるのでそこまでにした。
残りの扇形の紙1枚には果物を描こうと思っている。
秋の風景も良いなあと思うのでどこかへ行って 秋の風景を写してきてそれを描いてみようとも思う。
締め切りにはまだまだ日があるので、もう少し色んなものを見てから 考えようかと思っている。
私は何でもシンプルなのが好きだ。
着るものも、食べるものも、住むところも。
そこらあたりごてごてとした飾りがあったり、色んなものが付いていて賑やかなのが苦手だ。
着る服の形はなるべくシンプルなのが良い。
色も最高2色までにおさえたいと思う。
襟は丸襟か少しスタンドしたハイネック。
模様もなく飾りもなくボタンや花の刺繍やその他いらないものがあるのが嫌なのだ。
色はクロが多い。
クロかベージュかグレー。
派手な色を着て似合う人は良いのだけれど、 私は派手な色を着ていると何故か落ち着かなくて自分でないような気がするのだ。
食べるものも、焼く、煮る、湯がく、揚げるというように料理方法はいろいろとあるけれど、 なるべく素材の持つ美味しさを生かす食べ方が好きだ。
勿論工夫して楽しむことは良いと思う。
ただ、食べていてこれは何を食べているのかわからないような料理は苦手だ。
住む家もそうだ。
出来ることなら家具類を一切置かない部屋にしたい。
それが無理なら最低の家具で済ませたい。
そして部屋はいつも掃除をして整頓されているのが良い。
そこらあたりいろんなものが氾濫しているのは本当に嫌だ。
私一人で住んでいればどんなにきちんと整頓された部屋で居られるか!
でも家族が居るとその分置いている物の数も多くなる。
そして夫や娘の部屋は、私に言わせると物置に近い」状態である。
何故要らないものを棄てないのか!
本当に声を大にして言いたい。
以前私があまりの汚さに勝手に要るものと要らないものを分けて、 要らないものを処分した時に夫が文句を言った。
娘も同じだった。
だからそれ以降は勝手には処分しないようにしているのだけれど、 目に付くところが汚いとイライラする。
私のストレスの大きな原因になっている。
どんな人でも綺麗に片付いたところで住むのは気持も良いと思う。
なのにここまでの状態になるまで放っているのかが分からない。
シンプルが一番良い。
人の気持はシンプルで居ることは難しいかもしれない。
心は複雑で色んな気持が入り混じっているから、 私の心も「シンプルイズベスト」とは言えないかもしれない。
2003年09月23日(火) |
全国「かまぼこ板の絵」展覧会 |
今日は高校時代からの親友と、城川町にある「ギャラリーしろかわ」へ 「全国かまぼこ板の絵展覧会」を見に行く。
全国、否、世界中から集まったかまぼこ板の絵がギャラリーいっぱいに 貼られている。
今年も7月20日から始まって、11月23日まで開催されている。
全国から1万3000点あまりの作品が集まったそうだ。
私は昨年に続いて2回目の出品だ。
今年は作品に赤丸がついているそうなので楽しみだ。
また「小さなこころの天使」に会えるのが嬉しい。
帰ってから続きを書こう。
行ってきます。
朝7時半に出て8時45分に着いた。
まだ早すぎたので外で友人と写真を撮る。
この庭がまた良いのだ、まるで京都のお寺かどこかに行っているような 気分になる日本庭園なのだ。
まだ早かったので人も少なく、本当にゆっくりと一枚一枚を見ることができた。
この展覧会は興味のない人にとっては惨い経験になるかもしれないと思うほど、たくさんの絵を見ることは疲れることだ。
でも、私はこれら一枚一枚に作り手の心がこもっていると思うので丁寧に見て行った。
自分のを見つけたときの嬉しさは言葉に出来ないくらいのものだ。
勿論大賞や入賞作品の足元には及ばないけれど、私の幸せへの願いを込めて 描いたものだ。
姉の描いた花の絵も見つかった。
娘の描いた外国の田舎の風景を探すのが大変で時間も掛かったけれど 見つけることが出来て良かった。
この展覧会も段々と知名度が高くなっているようで、全国から集まってきている。
年齢も0歳から90歳までと幅広く、作品が皆展示されると言う点が人気なのだと思う。
来年もまた出品しようと思う。
昔、昔、大昔、私の恋人を選ぶ基準は男性の顔だった。
顔というか、見かけのかっこ良さだった。
今思うと、本当に浅はかだと思う。
でも、10代の後半の私はいつも男の顔形に捉われていた。
何故だろう?
まだ子供だったからだろうか?
本当に大事なものが見えていなかったからだろうか?
どちらにせよ、ボーイフレンドは皆一応に基準を上回っていたように思う。
いくら頭が良くても、性格が良くても顔が今一だと二の足を踏んだ。
大学生になってもその傾向は残っていた。
その頃には付き合っていた人が居たにもかかわらず、 入学して初めてのゼミである男に一目ぼれしてしまった。
私はこの人に会うために生まれてきたんだと思った。
そして毎日が楽しくて仕方なかった。
彼はかっこ良かったし、新鮮だった。
一緒にコンサートにも行った。
彼に勧められてクラブも決めた。
でも、そんな付き合いが長く持つはずはなかった。
数ヶ月で終わった。
そしてその後は色々なことがあって、人間不信、男性不信に陥ったこともあった。
今人生を50年生きてきて分かったことは、 恋人の条件は顔かたちや背の高さ、など見栄えの良い悪いには関係ないということだ。
美人は飽きると言われるように、いくらハンサムでかっこ良くても、 話していて面白みのない人、人間としての深みのない人はつまらないと思う。
飽きると思う。
話していて興味が持てる人、面白い人(この場合の面白いはfunではなく interestingの意味、つまり興味のわく面白いと言う意味だが)が良いと 思うようになった。
例えば政治経済の話、音楽の話、映画の話、本の話、それらをしてても 直ぐに話もなくなって浅い人と思える人が嫌だと思い始めたのだ。
人間としての魅力に富んだ人が良い。
話していて尊敬できる人が良い。
男は顔じゃない、見栄えでもない。
一緒に居て飽きない人が良い。
そして私自身も相手に飽きられないように色々と経験して教養を高めていきたいと思っている。
毎年、何も言わなくても田んぼのあぜ道に赤く、 まるで命を燃やすように咲いている彼岸花が、 今年はお彼岸に入っても目に入らないのは何故だろう?
今年の夏の異変が影響しているのだろうか?
今日は咲いているかなと思って毎日見に行くのだけれど、 その花を見ることがないのだ。
メル友の一人が福島県の相馬地方へ出張があったので 車窓から彼岸花が見えるかと期待していたけれど、 全然見ることができなかったとメールをくれた。
朝のNHKのニュースの中で彼岸花が一面に咲いているのが 中継されたらしいが私は見ていないので残念だ。
本当にどうしてなのだろう?
彼岸花の学名はLycoris radiata var. radiata、 別名は「曼珠沙華」とも言う。
彼岸花のことを母は「手腐り花」と言っていたが、 これは多分彼岸花に毒がある(リコリン)ので, 子どもがそれに触らないようにとの親心から出た言葉なのだろう。
今年のように目にしないとなると余計に見たくなって、 車で遠くの田んぼまで行ってみた。
でも、咲いていないのだ。
本当にどうしたのだろう?
彼岸花を絵手紙に描いた時、あの赤の激しさがまるで女の人の情念のように思えた。
今の私の心の中には彼岸花のように真っ赤に燃える思いがある。
人を想う心、人を愛するこころ。
その情熱があるからこそ、こうして彼岸花に会いたいと思う気持が いっそうつ強くなっているのかもしれない。
彼岸花にも私の好きな白い花があるようだ。
これは「シロバナマンジュシャゲ」と言い ショウキズイセンと彼岸花の交雑種だそうだ。
見えないと思うと余計に見たくなるのが人情だから、 早く咲いている所を見つけて見てみたい。
今日は少し足を延ばしてどこか山の方へ行ってみようかと思っている。
--------------------------------------------------------------------- あった、あった!!
遠くへ行かなくても、朝市へ行く途中の田んぼのあぜに咲いていたのを 見つけた。
まだ蕾も多くてやはり今年は咲くのが少し遅くなっていたのだろう。
彼岸花に会えたのも嬉しかったけれど、丁度同じように写真を撮りに来ていた人に会ってお話が出来た。
出会いを大切にしたいと思っているので、こうして出会えたご縁を大事にしたいと思った。
読売新聞社が先月30、31の両日実施した全国世論調査(面接方式)によると、 「女性は結婚しなくても、十分に幸せな人生をおくることができる」と思っている人は52%と半数を超えたらしい。
また、「男性は結婚し、家庭をもって、初めて一人前だ」と思っている人は 同月調査比5ポイント減の45%にとどまり、 「そうは思わない」が53%(同5ポイント増)に上ったとか。 一般的に言って、人は結婚した方がよいという人は54%を占めたが 45%が「必ずしも結婚する必要はない」と回答。
「結婚する必要はない」という人は20歳代で68%を占めたほか 未婚の男女ともに69%に上っているという。
このことから見ても、結婚が必ずしも幸せに結びついているとは限らないのだと言える。
昔は女の子に将来の希望を聞くと「お嫁さんになりたい」という子が必ず居た。
今の子どもたちに同じ質問をしても、この答えが返ってくることは皆無かもしれない。
確かに、今の社会は男女平等が唱えられている。
そして社会に出て男性と肩を並べて仕事をする有能な女性が多くなった。
私は自分の体のことを思うと、将来の夢もなくただ漠然と成長したから こうして結婚しなくても一人で生きていける女性に憧れる。
私がもしも元気で働くことができていたら結婚はしていなかったかもしれない。
結婚して家庭を持ち、子供を生み育てる。
このことはシンプルで素晴らしいことなのかもしれないが、
結婚しなくても、社会の中で役割を持ち仕事に生きがいを感じることはまた違う意味で素晴らしいことだと思う。
私には一人娘が居るが、もしも彼女が結婚しないで一生の仕事に打ち込みたいと言ったら、 私は母として全面的に賛成してやりたいと思っている。
そして反対に若いうちに愛する人を見つけ結婚して母親になりたいと 言ったならそれも応援してやろうと思っている。
娘の人生は娘のものだから、親が口出しできないところがあると思う。
娘が幸せだと感じる生き方をしてくれれば親としてこんなに嬉しい事はないと思う。
明日は秋のお彼岸の入りだ。
昔から「入り花を立てるな」といわれているので、両親と3人で実家のお墓掃除に行った。
この言葉はきっと迷信だと思う。
ご先祖様を大事にしなさい、お墓掃除を忘れないようにという戒めの言葉だと思う。
でも両親は気にしているので、私も敢えて否定をしたくない。
「暑さ寒さも彼岸まで」の言葉があるけれど、 今年は9月に入ってから残暑が厳しくてまだまだ日中は暑さを感じる。
でもこの数日は朝晩がとても楽で涼しい風も吹いて秋を感じるようになった。
お盆は朝まだ明けきれぬうちに起きてお墓へ行ったのだが、 朝明けるのが遅くなってきたので、今日は少し遅い時間に家を出た。
父はいつものとおりお墓の石磨き、母はお花を代えたりお供え物を供えたりと変わりのない風景だった。
ヒガンバナが咲いているかと探したけれど、まだ見なかった。
今年の夏の気温が低かったし、9月に入って高くなったためかな?
お彼岸は7日間ある。
Googleでお彼岸を検索してみると次のようなことが分かった。
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彼岸という言葉は、古代インド語のパーラミター(波羅蜜多)が語源で、意味は「彼の岸へ至る」ということです。煩悩や迷いに満ちたこの世を「此岸」というのに対し、悟りの世界・仏の世界を「彼岸」といいます。 悟りの世界に至るために、仏教には六波羅蜜の教えというのがあります。 [布施]他人へ施しをすること [持戒]戒を守り、反省すること [忍辱]不平不満を言わず耐え忍ぶこと [精進]精進努力すること [禅定]心を安定させること [智慧]真実を見る智慧を働かせるこ 彼岸に行くことを願って、行いを慎むことがお彼岸法要の本来の意味です。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー この意味を心にとめてご先祖様の供養をしたいと思う。
ああ〜〜、今までと全く違う生き方がしたい。
いつも時間で決めているこの生活から逃れたいと思うことがある。
のんびりというか気楽にというか・・
時間に追われず、時間の観念を忘れてゆっくりと過ごしたい。
「・・・ねばならない」の生活がしんどくなった。
「・・・しないといけない」の生活から 「・・・したい」と思う生活をしたいのだ。
どうすればいいのだろう?
どこかへ行って、丸々2日くらい、家のことも子供のことも夫のことも ぜ〜〜んぶ忘れて寝ては起き、食べ、散歩・・・ 気が向いた時に寝るのも良い。
食べたいものを食べる、 お風呂も自由に掃除もしないで ご飯も作らないで 本当に気ままに暮らす。
これは私の夢なんだ。
実現不可能な夢なんだ。
考え方を変えても状況は変わらないから、思うだけで済むことになるだろう。
一人はつまらないから、気の合う誰かと一緒に居れれば幸せかもしれない。
いつかきっと最初で最後のこういう生活をしよう!
神様も普段の私のことを見てくれていたら、きっと許してくれるだろう。
「ぐうたら生活」万歳!!
親友に「現実を見ないと」と言われてはっとした。
私の心にずしんと響いてきた言葉だ。
現実は変わらない。
いくらバーチャルの世界を見てもそれは架空の世界なのだ。
夢を見るのは良い。
夢は夢として大事にしたい。
でも人は夢を食べて生きていけない。
獏ではないのだから。
夢見る夢子さんだった私は急に現実の世界に戻された気がする。
別にこの現実が嫌でたまらないということはないのだから 現実を見据えて、それにそって生きなきゃ。
勿論私には私の理想の世界、理想の夫婦、理想の家庭がある。
笑いの耐えない、話の弾む楽しい家庭。
お互いの人格を尊重しながらも仲良く暮らすことができたらどんなに良いだろう。 夫婦が労わりあって支えあって生きていけたらどんなに良いだろう。
でも現実の世界は違う。
ちょっとした言葉の行き違いで言い争う、お互いに無視しあう。
一番嫌なことをしている私が居る。
現実は現実。
夢の世界は夢。
割り切らないといけないのだ。
さあ、今日も始まった。
午前中は母と娘を松山の美容院へ。
午後は「日本語ネットワーク」で勉強が待っている。
久しぶりの実習も待っている。
今日の外人さんはどこの国の人なんだろう。
上手く教えてあげることはできるかな?
今日もまだまだ暑そうだ。
頑張らなくっちゃ!
今日は久しぶりに家族3人でお昼を食べに行ってきた。
私は自分でも情けないほどの少食なので、本当はバイキングは何か損をしたような気持になる。
でも、自分が食べられるものを食べ残すことのない量だけ取れるので良いかなと思って行った。
夫は公休、娘は運動会の振り替え休日だったので一緒に行くことができた。
モーニングバイキングはたまに行くことはあるけれど、 ランチのバイキングは初めてだった。
値段は大人一人が¥1500だったが、これは高いのか安いのかわからない。
でも、私が自分で食べたものを見ると割高になったように思う。
グループが何組か来ていたが、思ったよりは空いていた。
娘が先日のグアムへ行った時にお昼がバイキングの時があったそうだ。
そして、そのホテルのバイキング会場の広さは体育館くらいで、品数が本当にたくさんあって感激したと言っていた。
それで今日行きたいと言ったみたいだ。
和食あり、洋食あり、中華ありと個人個人が好きなものを食べることができた。
私はメインの食べ物よりもデザートに魅力があった。
だから、メインディッシュよりも後の果物やゼリーやプリン、アイスクリームに目が行って、私にしては食べ過ぎたと思うくらいお腹がいっぱいになった。
プリンは勿論手製の焼きプリン、コーヒーゼリーも丁度いいほろ苦さで上に生クリームがちょっと乗っていて、美味しかった。
最後には果物を全種類食べ、ソフトクリームでしめくくった。
果物もメロン、オレンジ、ライチ、パイナップル、葡萄、みかん・・・と種類がいっぱいあった。
今までお正月には私の両親と一緒に5人が大分の城島高原ホテルに行くことが多かった。
このホテルの朝食も夕食もバイキング方式を取っていて、味もよくて これが楽しみの一つでもあった。
母はこの夕食のバイキングを食べにまた来たいねと言っていたくらいだった。
母も私と同じくらいしか食べられないので、本当は損な感じになるのだけれど、好きなものを好きなだけ食べられるのが魅力らしい。
それにしてもこう種類が多いとつい卑しくなってしまって、 普段食べている量の2倍は食べたのではないだろうか?
ちょっと浅ましいかな?
味が良かったので来月の私の誕生日にはここへ夕食バイキングに来たいなあと思っている。
昨日は娘の中学校の運動会だった。
昨年は、娘が左足の小指を骨折していて運動会に出られなかったので 昨日は二年ぶりの応援だった。
台風の影響で実施は難しいと思われたが、良いお天気になり良かった。
日中の日差しは強く暑かったけれど、風は何となく秋を思わせる風だった。
娘は幼稚園の頃から走るのは苦手だ。
だから、今回は走るのではなくて綱引きの選手になったらしい。
前に中学生の運動会はまじめにせずに、見ていてもつまらないと聞いていた。
でも、昨日の運動会は小学校の続きを思わせるような熱気とやる気のあるとても良い運動会に思えた。
走るのも皆必死だった。
綱を引く手には力が籠もっていた。
そしてブロック別の応援はそれぞれ一生懸命にしていて感じが良かった。
私は心臓が悪かったので運動会に多くの思い出は残っていない。
でも、フォークダンスを踊ったことや母には内緒で借り物競争に参加して一位になったことなど、楽しかった思い出もある。
若さって良いなあって思った。
思いっきり汗をかいて、皆と力を合わせて勝利へ向かっていく。
いつみてもその姿に感動を覚える。
見ていても気持が良かった。
運動会の花形は何と言ってもリレーだと思う。
昨日もそうだった。
学年ごとに選ばれた選手が競っていた。
一番目の走者と最後の走者は割りと走るのが得意の人が走っている。
そして一番目の走者に続く人たちは差が出来るに連れて、それを埋めるために必死になって走る。
でも、一度あいた差を縮めることは難しい。
いくら最終走者が素晴らしい走りを見せても結局は追いつくことができないで3位に入れないでおわることが多い。
そしてもう一つ面白かったのはムカデ競走、所謂二人三脚の人数が多くなった形の競争である。
いくら早くても一度皆のタイミングを外すとその途端に転んでしまう。
一度転ぶと初めの体制に立て直すのが大変だ。 先生が大きな声をかけながら一緒に走っている姿は見てみて楽しかった。
本当に力を出し切って思い切り走る子ども達の様子に感動した一日だった。
母との帰りの道での話しはこのことで盛り上がった。
娘に大きな声で「ご苦労さん、良かったよ」と声をかけてやろうと思った。
昔なら絶対に考えられなくなったことが今は普通になっていることが多い。
こうしてネットで世界中の人と話すことができるし、ニュースをいち早く知ることもできる。
家に居ながらこんなにも簡単に世界へ繋がっていることに驚くばかりだ。
私の幼友達で親友が今、息子と一緒にインド旅行をしている。
息子は大学4年を一年休学して世界中を一人で旅したほど、旅行が好きな子だ。
彼女も一人暮らしで自由気ままな生活をしているので、今回のように息子と 一緒にインドへの旅も可能になるのだ。
今から2年前にはやはり息子と一緒にトルコ、イスタンブールへ行った。
期間は今回と同じ約2週間だった。
トルコへは前から憧れがあったらしい。
帰国してから私にそのトルコへの旅の話をしてくれたときに写真を見せてくれた。
私は飛行機が大嫌いなので、海外旅行は難しい。
でも、もしも行くとしても、彼女の行きたいところではなくて、 やはり一般的なヨーロッパ、オーストラリア、アメリカなどへ行くだろう。
彼女はそういうところへは年を取ってからでも行けるので、今は危険だと思われるけれど、自分が行きたいところへ行くのだと言っている。
彼女が日本を旅立つ前に、私は彼女にメールを欲しいと頼んでおいた。
前回のトルコ旅行の時には、彼女も私もまだパソコンをしていなかったので メールのことは思わなかった。
でも、世界中を回った息子からそのいく所からメールが来たらしい。
親としてはわが子が今元気なのか? どこに居るのか?
心配もする。
だからメールが来て短くても様子が分かるメールをもらうととても安心すると言っていた。
あちらにはネットカフェが多いらしい。
今度のインド行きを知らせてくれた時に、メールを頂戴と頼んでおいた。
今朝彼女から2通目ノメールが届いていた。
今はカトマンズに居るらしい。
雨が降っていると言っていた。
食べ物も妙なものを食べるので薬をいっぱい持って行っているらしいが、 お腹をこわしてないか?心配をしていたところだった。
私から返信ができると言ってくれたので早速返信をした。
日本語では駄目らしくてローマ字で打った。
本当に届くのだろうか?ちょっと心配だ。
次には何所からメールをくれるのだろう?
何かこうして世界の何所に居てもネットで結ばれていることが不思議でたまらない。
本当に便利な世の中になったものだ。
彼女からの次のメールを楽しみにして待っている私である。
2003年09月13日(土) |
捨てる神ありゃ拾う神あり |
たった1時間足らずの間にこんなにも幸不幸が変わることがあるんだなあと今日はつくづく思った。
まるで、医者から癌の宣告を受けて気落ちしていたら、 「あれは間違いだった」と言われて大喜びをしているみたいだった。
まさに、地獄から天国へと言う感じだった。
今週の火曜日に追突事故に遭い、車を修理に出している間の代車としてレンタカーを借りていた。
勿論私には負担するものは全くなかった。
借りるときに約束事を書いている紙を読んでいたので、 もしも借りている車が事故に会って損傷した場合の 私である借主の責任事項については分かっていた。
どんな場合も、例えば私には過失がなく、 当て逃げされた場合でも警察へ通報しなければいならないし、 レンタル会社にも連絡をしなければならないと書かれてあった。
そしてもしそれが行われない場合は 借りて乗っている人が全額負担しなければならないとも書いていた。
補償金として最低2万円を支払う義務もあると書かれていた。
そんなことはないだろうと思っていたことは確かだ。
そして細心の注意をして走らせていた。
なるべくは乗らないようにしようと思っていたのも確かだ。
それが昨日の夕方絵手紙をポストに投函しようと郵便局へ行った時のこと、 車を止めて投函し、エンジンをかけたとき、 私の車の横に止めていた自転車が何かの拍子に倒れてきて、 私の借りている車の前のバンパーに当たったのだ。
慌てて下りて見てみると、少し傷がついていた。
その自転車の持ち主が郵便局から出てきたので、 私が事情を話すと「僕は悪くない、だからそんなことを言われても責任はない」と言った。
確かに人が自転車の側に居たのではなくて、その人にはなんの責任はないと思った。
でももっとちゃんと停めていてくれたら倒れることはなかったはずだ。
私がそう言ってもその人は自転車に乗って去っていった。
帰宅してレンタル会社に電話をすると、警察に行って事故証明を作ってもらった上での話しだと言われた。
そして警察署へ行って事情を話して「事故証明書」を作成してもらえることになった。
レンタル会社へ連絡して、補償金額のことについて話していると、 レンタル会社の人が「今回は特別なことだから、補償金は良いですよ」と言ってくれたのだ。
さっきまでは補償金の2万円を支払う覚悟ができていたので、 それを払う必要がないということになったことは最高にハッピーなことだった。
本当に嬉しかった。
さっきまでは気落ちして何もする気にもならないので夕食の仕上げもせずに ぼっーとしていた。
でも私には何も負担することがないと言われて嬉しかった。
まさに地獄に仏と言う感じがした。
5月からの2回も追突事故、そして今日のアクシデントと、 私は今年は年周りが悪いのかな?と思ったほどだった。
メル友に話すと「れが二度あることは三度あるの三度目よ。」と言ってくれた。
本当にそうかもしれない。
大きなことでなくて良かったと神様に心から感謝している。
それにしても大変な日だった。
ああ〜しんど。
今日は2ヶ月に1回の日赤の胃腸センターの診察予約日だ。
母はずっと前に胃潰瘍を患って以来薬が欠かせない。
私も1年に1回は胃の検査はしている。
胃下垂はあるものの胃そのものには異常がなくこれは嬉しいことである。
でも、胃の不快な症状は消えることがなく、 時には猛烈な痛みに襲われることもある。
先生に話して薬をもらってはいるものの一向に改善されない。
いっそ全ての薬を飲むのを止めてみようかとも思うが もしも、胃の不快さが増すと嫌なので飲み続けているというわけだ。
私の友人にやはり私と同じような症状を訴える人が居る。
昨日彼女と電話で話したときに「ピロリ菌」の話が出た。
胃潰瘍や胃がんの原因にもなるというこの「ピロリ菌」のことは 前から聞いていた。
でも、私の胃にその菌が存在するか否かの検査を受けたことはない。
母は2年前に検査したがピロリ菌は居なかった。
友人には居るらしい。
でもこの菌が居たら、2ヶ月ほど薬を飲めば菌は死滅するという。
友人は思い切りができず、まだ薬を飲んではないらしい。
私が私の胃のことを言うと、友人は「一度検査してもらったら?」と言った。
今日は丁度診察日になっているので、主治医に話をしてみようと思う。
ピロリ菌が居なければそれで良いし、居たら薬を飲もうと思う。
とにかく一度検査しないといけないな。
思い切って先生に話してみようと思っている。
日赤から帰った。
ピロリ菌の検査は胃潰瘍と病名がついていなければ検査は保険では 出来ないと言われた。
仕方無いので諦めた。
でも、先生が薬を変えてくれたので当分新しい薬を飲んでみて様子を見ることにしよう。
新しい薬は漢方薬で「六君子湯」だ。
今までよりも楽になれば良いな。
今日はお月見だ。
9月に入って残暑が厳しく、まるで真夏の暑さが続いているが、 季節は知らず知らずの間に秋に移っているようだ。
最近の店先には「秋の味覚」が並び始めている。
果物では梨、無花果、りんご、葡萄、栗。
野菜ではこれからが美味しい大根、白菜、そして秋の代表選手のマツタケと。
昨日の我が家の夕食の献立は「鯖の味噌煮」だった。
娘が好きなのでよく作るのだが、これからは鯖の美味しい季節になるので、味噌煮だけではなく、シンプルに塩焼きも良いなあ。
鯖のほかにも秋刀魚もその美しい姿を見せている。
昔江戸時代の話の中に「目黒の秋刀魚」の話しがあるが、 秋刀魚は庶民的な魚で上の人の口にはなかなか入らなかったようだ。
最近は秋刀魚の値段も張るので下町の味、庶民的な味とも言えなくなっている。
私は自分が秋に生まれたから季節の中で秋が一番好きだ。
物思いにふけるのも良し、 美味しいものをいっぱい食べるのも良いことだ。
秋の味覚のまつたけは最近は口にすることはないのだけれど、 やはりあの食感は何とも言えないものがある。
味シメジともいうし、まいたけの味もなかなかなものだけれど、 やはりマツタケに敵う茸はないと思う。
今の子どもは味を知らないだろうと思っていたが、 娘はマツタケご飯が食べたいと言っている。
今日はお月見だから、すすきを飾ってお月団子を洒落てみようかな。
近くの川では秋恒例になっている「いもたき」も始まったようだ。
皆で車座になって和気藹々とお酒を酌み交わし、 美味しいいもたきを楽しんでいるのは最高の気分だろうと思う。
私はグルメではないが、やはりその季節の旬のものが食べたいと思う。
さあ、今晩は何にしようかな?
秋刀魚でも焼いて大根おろしを添えてポン酢醤油でもかけて食べてみたいな。
酢だちがあればもっと良いかもしれない。
せめて夜だけでも秋を味わいたいと思う今日この頃だ。
2003年09月10日(水) |
二度あることは三度ある |
昨日は日は仏滅だったのか?
それとも先負だったのかな?
ああ〜〜私は本当についてないな。
なんとまた、この前と同じように赤信号で停止している車の最後列で 停車していた私の車に単車がぶつかってきたのだ。
前は車、今度は単車の違いはあるけれど、何で!!また!!という気持だ。
私は今まで自分に過失のある事故はしたことがなかった。
この前の追突事故も私には何も悪いところはないとの警察の判断だった。
そりゃそうよ!
だって赤信号で止まっていたんだから。
今度もそう。
だから100%相手の過失になった。
今日は母を後部座席に乗せていた。
もしも単車でなくて車だったら?と思うとぞっとする。
もしも母に首や腰の怪我があったら可哀想でたまらないから、今回は不幸中の幸いだと思わなければならないだろう。
それにしても相手の女性の不注意には参った。
頭が痛くて下を向いていて前を見た途端に私の車があったと言った。
「しっかりしてよ!前を見て運転してよ!」と言いたい。
その時偶然にも交通課の刑事さんがその女性の後からやはり大きな単車で走っていた。
その刑事さんは女性の運転に何か不安を感じていたらしい。
信号無視、方向指示器を出さないでの左折もしていたらしい。
この2つの交通違反をした運転しているのでわざと後ろついて走っていたという。
そしてこの事故だった。
刑事さんは女性に注意をした後、警察へ電話してくれた。
かけつけて事故処理の警官にいきさつを証言してくれた。
勿論その刑事さんが居なくても私は正しい事故状況を話すつもりだった。
でも今回は私が何も言わなくても刑事さんの証言で女性に過失があることが判明したのだ。
女性は胸や手足を打っていたみたいだし、私もショックで不整脈が出て大変だった。
刑事さんは去っていく前に私に、明日心臓の病院へ行ってちゃんと診察してもらってくださいと言ってくれた。
今日は私の心臓の診察の予約の日だ。
先日来起きている不整脈のことを言おうと思っていたので、ちょうど良かった。
考えたら今回で二度目の追突事故だ。
「二度あることは三度ある」の言葉どおりにならないように、今後も気をつけて運転しようと思う。
昨日本当に久しぶりに大衆演劇を見た。
最後に見たのはいつだろう?
もう13年は経っているだろうなあ。
思えば私は何故あんなにこの大衆演劇に夢中になったのか?とても不思議だ。
大衆演劇というよりも一人の役者に夢中になっていたのだ。
初めて大衆演劇を見たのは、そう今からもう25年くらい前にだと思う。
元々、父も母もこの大衆演劇のファンで松山にある温泉センターによく見に行っていた。
私は初めは何ともなかったのだが、ある劇団の一人の人を好きになり、いわば彼の虜になってしまった。
私は熱しやすいタイプなので、もう彼に夢中になり彼のことしか頭にない状態に陥ってしまった。
その日の芝居が終わると楽屋へ行って何かを差し入れたのがはじまりだった。
その後は舞台の上の役者の写真を撮るだけではなくて、 楽屋へ行ったり、お見送りの時に一緒に写真撮影をしてもらったりした。
本当に夢中だった。
追っかけもした。
好きな座長を追いかけて大阪、神戸、岡山と芝居小屋へ行ったものだ。
何であんなに夢中になったのか?
今思うと、私の生きがいだったのだと思う。
本気で生まれてきて良かった、生きていて良かったと思ったのだ。
この夢の世界がいつまでも続いて欲しいと願っていた。
友達になった劇団の女の子とは一緒に食事に行ったりボーリングに行ったりした。
勿論舞台の彼に「おはな」を上げた。
TVで見るように役者の首にお札のレイを架けてあげることができればどんなに良いだろうと本気で思っていた。
まだ結婚していなかったのでしようと思えば出来たのだが、流石の私もそこまではしなかった。
でも、気持は同じだった。
私が大衆演劇に夢中になったのは結婚後娘が酢生まれるまで続いた。
娘が生まれると暇もなく体力的にも行くのがむつかしくなったことも原因の一つだけれど、 本当は私が夢中になることが出来るものが見つかったからだと思う。
娘という私の生きがいが見つかってから私の大衆演劇通いはぴったりと終わった。
そして今日は本当に久しぶりに見たのだが、前のような気持にならない私が居た。
確かに楽しい夢のような時間だったし、座長も綺麗だった。
踊りも良かったし芝居も良かった。
でも、それだけだった。
もう一度見に行こうとは思わなかった。
私の大衆演劇への熱はもう冷めたのだと思った。
今朝早く起きて外へ出てみると、何となく秋めいた涼しい風が吹いていたのに、太陽が出て上がっていくに連れて段々と暑くなってきた。
今日は娘が運動会の朝練で早くに家を出たので、 その後掃除や洗濯や食事作りという普段の家事を済ませ座ったところだ。
掃除をしていると顔から汗がぽたりぽたりと落ちてきて、化粧も崩れて来る。
本当は化粧などしないで汗をいっぱいかいた後 冷たい水でブルブルと洗いたいのだが、 日焼け防止のため起きたら直ぐに化粧をするのでそういうわけにもいかず、崩れたところだけ上からファンデーションを叩き込んで済ませた。
昨日は娘のお付き合いで買い物に出て数時間街をぶらぶらしていたので本当に疲れた。
前に不整脈がひどくなって24時間ホルダーを装着して検査したことがあり、 その結果一日に200回以上起きているということで薬をもらって飲んでいる。
少し落ち着いていたので、安心していたがまた最近不整脈がひどくなった。
特に夜寝ようとベッドに横になるとひどくなる。
昼間も同じように起きているのかもしれないけれど、 夜横になると自分の心臓の人工弁のカチカチという音が耳につくことがある。
そして不整脈が起きていると今にも心臓が止まりそうに思えて、 知らず知らす胸の上に掌を置いてかばっている私が居る。
今度の水曜日が診察の予約日なので、先生に話してみようと思っている。
それにしても、私はやはり元気な人と同じことはできないのだろうか?
自分では元気だと思っているのだが、何か行事ごとが続いたり心配することがあったりすると直ぐにダウンしてしまう。
情けないな・・と思う。
でも、母に言わせると私は寝込むことなく家事や育児ができるだけで「御の字」だそうだ。
確かに私が寝込むと自分の家のことだけでなく、母の家も大変になる。
父も母も今は元気で二人で暮らしているが、 なにぶん車がないので、遠出や重い荷物のある買い物は私が車で一緒に行っている。
だから、私が寝込んで動けなくなると 私の家のことも母の用事も出来なくなるので 充分に気をつけて寝込まないようにしないといけないと思う。
今年の夏は初めごろは涼しかったので、 「今年の夏は嬉しいな」と思っていた。
でも、9月に入ってからずっと真夏のような暑さが続き 毎日毎日33度を越している。
元気な人でもかなりしんどいと言うのを聞くから、 私のように暑さの苦手なものにとっては 酷暑と言っても言い過ぎではないのだ。
「暑さ寒さも彼岸まで」という言葉があるけれど、 さて秋のお彼岸の頃にはこの暑さも少しは楽になっているのだろうか?
道端に毎年秋の彼岸に咲く「ヒガンバナ」もこの暑さでは咲く時期を間違えてしまいそうだ。
早く秋になってほしいと思う毎日である。
今夜も不整脈に悩まされるのだろうか?
今さっき、朝食に無花果を2個ヨーグルトの中に入れて食べた。
柔らかくて、手で持って薄皮を剥ぎ中を見ると 小さな粒粒がいっぱい。
つい嬉しくなってヨーグルトと一緒に口に入れた。 何とも言えない舌触り、この感触が懐かしい。
昔、私が生まれた家の裏庭に大きな一本の無花果の木があった。
無花果にも色々な種類があるのだろうが、私の家の無花果は他の家の無花果よりも小ぶりな割りに味は格別だった気がする。
私にとって夏の果物の思い出はこの無花果だ。
今思うと清潔ではないが、木に手を伸ばして無花果の実を採り、洗わないで皮を手でむいて食べていた。
一度に何個も食べていたように思う。
母から「無花果は腹薬だ」と聞いていたので、いくら食べても食べ過ぎてお腹を壊すことはないだろうと勝手に思っていた。
無花果の木にはよく「ブイブイ」が寄ってきていた。
「ブイブイ」の本当の名前は何だろう?
姿はあまり良いものではない。
ゴキブリに似た色や大きさだ。
この「ブイブイ」を無花果の木で見つけるとそれを捕ってつかまえて家に入った。
そして首の辺りに糸を巻き付けて長く伸ばし、その端を手に持って家の中で飛ばして遊んだ。
今思うとなんて惨いことをしたんだろう?と思うのだが、当時の私にはそんな思いは全くなかった。
寧ろ家の中じゅうを飛び回る「ブイブイ」が面白くて楽しくて仕方なかった。
子供と言うものは時として、考えられないような惨いことを平気ですることがある。
母に聞いたのだが、母は大昔子どもの頃蛙を捕まえてお尻から空気を入れて 蛙のお腹が大きく脹らむのを楽しんでいたという。
当時は今のようなストローはなかったと思うので、きっとそこらの竹の木か何か、中に空気が通るような枝を取ってストローも代わりをしていたのではないかと思う。
私は母の話を聞いたときに本当に可哀想な気がした。
「何でそんなことを?」と思った。
しかし、私が「ブイブイ」のことを娘に話すと私が母に言ったと同じ言葉が返ってきた。
娘は「ブイブイ」を飛ばして遊んでいた私が惨いことをしていたと思ったようだ。
私が小さい頃は今と全く違って娯楽もなく、夏休みの思い出と言えば、 この「ブイブイ飛ばし」と裏の川でのいかだ遊びくらいしかなかった。
あの頃に今の子どもたちのような娯楽があれば 私だって「ブイブイ飛ばし」などしていなかったと思う。
朝食に無花果を食べながらこうして昔、私の小さかった頃を思い出し、 夏の思い出に浸れたことは嬉しかった。
やはり私にとって無花果は郷愁を誘う食べ物だと思える。
昨日DVDを借りていて、「戦場のピアニスト」を見た。
今年の2月に封切られた時に映画館へ行って見たいと思っていたが行けず見逃してしまった。
レンタルビデオ屋でこのDVDが新作であったので、 返却されるのを待って昨日ようやく借りてきて見ることができた。
この映画がドイツ軍によるユダヤ人への迫害、 虐殺シーンが多いとは聞いていたが、 いざ見てみるとその残酷さに目を被いたくなるシーンがいっぱい出てきた。
実話にそう映画だから本当に当時のポーランドでのユダヤ人の大量虐殺はあったのだと思う。
昔小さい頃に「アンネの日記」を読み、映画も見たことがある。
ドイツナチスによるユダヤ人への迫害やいかに惨い虐殺が行われてきたかを知っていたが、
昨日のこの「戦場のピアニスト」を見て再びその場目を目にすると言葉もなかった。
人間の戦場での狂気を感じた。
実際に戦争は人を変える。
人を殺すことが何でもなくなるのかもしれない。
この今の平和が嘘のような時代があったことが私には辛く悲しく思う。
この映画は監督であるポランスキーの原体験に基づいて作られたものだ。
ポランスキー監督自身が幼い頃にこのクラクフのゲットーで暮らし母親を収容所で亡くしている
ポーランドの名ピアニスト「W.シュピルマン」の奇跡的生還体験を回想した本に基づいて描かれた映画だ。
ナチスの犠牲となった家族、仲間たちの悲劇。
立場は異なっても彼を隠し保護し、救った人々の闘争。
そして最後まで持ち続けた彼の音楽への情熱が描かれていた。
実話だけに心に重く感じる場面も多かったけれど、 ドイツ将校が彼がピアニストだと知りピアノの演奏をさせ、命さえ助けたシーンは感動した。
ショパンの曲を聴きながら涙が出て止まらなかった。
この映画は只単にナチスドイツの惨さを訴える映画ではないと思う。
一番の心を打つ場面であるシュピルマンにピアノ演奏をさせ命を救い、 自らは後にソ連収容所で死んだドイツ将校の存在を描いたことも大きなことだと思う。
本当に久しぶりの感動映画だった。
そして戦争の惨さをしみじみ感じた。
戦争のない平和な世界をこころから望んでいる。
皆さんは父親似?それとも母親似?
私は父親に似ていると言われる。
2歳上の姉は父よりは父の弟つまり叔父に似ている。
姉と私は顔も性格も似ていないから、一緒に居ても姉妹だというと皆が驚く。
昔から娘は父親に似ると幸せになるという。
本当か嘘かはわからないけれど、幸せになれるということは嬉しいことだ。
今までの私の人生は山あり谷あり、いろいろなことがあった。
悲しくて生きる勇気がなくなって、自暴自棄になったこともある。
けれど、今昔を振り返ってみてみると、辛い思い出は遠くなり、 嬉しかったことや幸せだと思ったことしか思い出さなくなっている。
だから幸せなのかなと思う。
私には一人娘が居るが、娘が又父親、つまり夫にそっくりなのだ。
顔は勿論、髪の毛の生え方、爪の生え方、血液型、性格、・・・ 全て父親そっくりなのだ。
思春期の娘は一時的に父親を嫌悪する時期はあると聞く。
しかし、私の家ではそれは皆無だ。
むしろ私がのけ者扱いされる。
娘が小さいころは、父親との親密感が濃くて、私一人が疎外感を味わっていた。
今は娘も自分というものを意識するようになり、 父親との関係も少しずつ変化しているように思う。
夫に似ている娘がとても可愛く感じるときがある。
母と娘は同性ということもあり、なかなか分かり合えるときがない気がする。
喧嘩も多く起きる。
だから夫は嬉しいだろうな。
娘はいつか家を出るだろう。
それまでの間夫には父親としての言うべき言葉伝えるべきことをちゃんと 話していてほしいと思う。
それが出来て初めて父親似の娘の父になれるのだと思う。
昔歌で「男と女の間には深くて黒い河がある・・・」と聞いたことがある。
人は特に異性間では元々持っている感覚が違うので色々とトラブルも起きる。
昨日買った本にそのトラブルを引き起こさないようにするための方法として 相手を異星人だと思おうと書いてあった。
その本とはジョン・グレイ著、「ベスト・パートナーになるために」という本である。
もうずっと以前にベストセラーになったように思うので、読まれた人も多いと思う。
男性は火星人であり、女性は金星人であるという考えから入って、 男性と女性とのものの感じ方、価値観の違い、感じ方の違いなど、 今読んでもなるほどと思えることが多かった。
男性は自主独立こそが男の誇りであり、 達成感が男の「自己証明」であるという章では、 「なるほどうんうん・・・」と頷けることばかりだった。
又違う章では、 女性は人とのコミュニケーションを一番大切にしているということ、 そして「アドバイスよりも慰めがほしい」と思っていることなども 頷けることばかりだった。
夫との関係を良くしたいと思うなら、 男性が一生懸命になって何かをしている時は、 言いたくてもだまっってじっと待つということが大事なんだと分かった。
又反対に女性が愛する人に悩みを相談した時には、 男性はただ黙って女性の言うことを聞くだけで良いのだ、 「こうしなさい」とか「こうしたらいい」とか たとえそのアドバイスに間違いがなかったとしても、 女性はそのアドバイスを求めているのではなくて、 自分の気持に同調してほしい、 「そうだね」というたった一言言ってくれると満足するのだ。
難しいことはない。
お互いが相手のことを理解し合えば 本当に今まで険悪な二人だったとしても 直すことができるのだということがわかった。
私のメル友にも忙しく自分の趣味の勉強をし出すと私の存在を忘れて没頭する人が居る。
そんな時私は私の存在を忘れられたと悲観してしまう。
でも、そうではなくて自分が落ち込んだり忙しくて周りが見えなくなっているだけなのだと思えば納得することが多い。
相手のことを理解して待つということは異性間のことだけでなく 人間関係、親子関係にも言えると思う。
これからはもう少し自分でない相手の立場を理解してあげなくてはとつくづく思う。
「男と女の間には深くて黒い河があるから渡れないのではなくて」 「その河に心の橋をかけてお互いに通る道を作っていかなければならない」のだと思う。
実行してみたい。
一昨日娘が二学期の始業式を終え帰宅した時、 友人が交通事故に遭って入院していると言う話をしてくれた。
その友人は娘とは小学校に上がる以前からの知り合いで、 同じクラスにもなったことのある子だったので、 話している娘自身かなりショックを受けていたようだった。
今朝友人のお母さんに電話をかけて少し話しを聞くことができた。
その事故は19日の朝に起きたそうだ。
夏休みも後半の部活の練習で学校へ向かう途中の道で事故に遭った。
事故に遭った場所は小さい道から大きい道に出るところで、 道の右側には割りと高い塀があり見通しは悪かった。
彼女は(友人)割合慎重な子なので、大きい道に出る時には必ず一時停止して左右の確認をしていたという。
事故の相手は女性で、助手席に友達を乗せ、話ながらの運転をしていた。
だから車からは一時停止している子供が見えるはずなのに、 そこで事故をしたということは、多分運転手の前方不注意なのだろうと思う。
交通事故は起こそうと思って起こす人は少ない。
いつも何かちょっとしたことが原因で起きている。
おしゃべりに夢中になっていたとか、携帯で話をしていたとか、又オーディオを触っていたとか・・
本当にささいなことが原因になることが多い。
勿論そのほかにも色々と重大な原因はある。
でも、あの時にもっと気をつけていれば、あの時にちゃんと前を見ていれば 良かったと思うことが多いのではないだろうか?
私が5月に遭った事故のときもそうだった。
私が運転していて後部座席に友人が乗っていた。
赤信号で停止して、信号が青に変わったが前にはまだ数台止まっていたので 私もブレーキペダルをしっかりと踏んで停止したままだった。
その時にどーんという物凄い音ともに後ろからぶつけられた衝撃を感じた。
運転していた人は前を見ていなかったと証言した。
幸い私も友人も怪我は少なく軽い鞭打ちですんだものの、 これが後ろが大きなトラックだったら?と思うと今思ってもぞっとする。
このように事故は本当に小さな心のミスが原因になることが多い。
今度の娘の友人はショックで夢を見ているよねと言って動揺していたという。
今は大分おちついているらしい。 娘がお見舞いに行きたいと言っているので、 もう少し様子を見て友人が気持も落ち着いて人と接することが出来るまで待ってから行こうねと言っている。
彼女の怪我が一日も早く治って又元気で学校に行ける日が来ることを心から居願っている。
私だけでなく誰でも皆いつ何時不慮の事故に遭うあかもしれないので、充分気をつけよう。
今年の夏は冷夏だといわれるが、この数日の暑さには閉口だ。
今までが割りと涼しかったから余計に暑さを感じるのかもしれない。
昔は夕方には家の前の道に打ち水をし、少しでも涼しさを求めていた。
この頃はどの家も窓を閉め切ってクーラーをつけている。
車もそうだ。
5月頃から車の中は一足早く夏が来たような暑さになる。
だから窓を全開して走るのがしんどいほど温度も上昇する。
こうして日中はまだまだ残暑が厳しく、秋訪れを感じることは殆どないけれど、夜寝るときベッドに横になると私の窓側の網戸越しに鈴虫の鳴く声が最近特に多くなった。
耳を澄ませて聞いていると本当に綺麗な鈴を転がすような「りんりいいりん」と言った声が聞こえてくるようになった。
店先には秋ものが並べられて、夏物は肩身の狭い感じでワゴンの中に入れられている。
こうして少しずつ秋の気配を感じるのだろう。
暑さ寒さも彼岸までの言葉のどおりまだひと月は残暑が厳しいだろう。
でも、ゆっくりと秋はやってきていると思う。
今年は紅葉があまり綺麗ではないと言っていた。
紅葉が美しくなるには夏のひどい暑さから急に涼しくなったときだそうだ。
だから今年は夏の暑さが厳しくなかっただけ、葉っぱの色の変化も 思いっきりというわけにはいかないみたいだ。
夏の嫌いな私にとっては今年は過ごしやすい夏だった。
でも海やプールは大赤字だそうだ。 夏も終わりだ。
娘の学校も昨日から二学期に入った。
長いようで短かった?夏だったが、人それぞれの思い出も出来ただろうと思う。
秋口には健康を崩す人が多いと聞く。
もう少しの辛抱だ。
秋はもうそこまで来ている。
頑張ろう。
今日9月1日は私達の結婚記念日だ。
昭和60年に式を挙げたから今年は18年目になる。
夫に言ってもなんの反応もなし。
今日は何の日?と聞いてもどうせ分からないと思っていたらその通りだった。
18回目の結婚記念日は柘榴婚式だそうだ。
ガーネットをプレゼントするしきたりがあるみたい。
でも夫に言っても何も返事がなかった。
それにしても、もう18年になるのだなあ・・・
よく今まで無事に持ったものだ。
不思議でたまらない。
知り合って7年目に結婚したから新鮮さはなくてお互いに嫌なところが目に付く時期だった。
もっと早く結婚していれば少しは相手のことを想う気持が残っていたに違いない。
普通7年目は倦怠期のはじまりと言われる。
7年目の浮気と言う言葉もあるくらいだ。
それでも娘が生まれる前までは、二人で遊びに行くこともあったし、 それなりに共通する楽しい思い出もあった。
娘が生まれて夫は父親に私は母親になってから夫婦の間は微妙に変化していった。
家族が子供を中心にしたものになった。
私は日本の家族に疑問を持つことがある。
それは欧米では夫婦がまず一つの単位として存在し、それに付加する形で子供の存在がある。
でも、日本では子供中心の家が多い。
何でも子供を中心に動く。
娘が生まれて以来、夫と二人の時間を持つことは難しくなった。
私は子育てで毎日忙しく働き、夜はもう子供と一緒に寝るくらい疲れていた。
夫は夫で仕事が一番になり、家族サービスもなかなかできる環境ではなかった。
それでも3人では色々な所へも行ったし、娘を真ん中に挟んで手をつないで歩いた。
でも、私は正直言っていつも満たされない思いがしていた。
何か違うと言う気がしていたことは確かだ。
娘が居なくても夫婦の時間を楽しみたいと思っていた。
会話もしたい、映画にも行きたい、ドライブもしたい・・・
色々としたいことがあった。
でも、結局は3人で動くしかなかった。
今思うとそれでよかったと思う時がある。
娘も段々とおやから自立する時期になり、友人との時間を大切にしている。
そして後数年もしたら嫌でも夫と二人になってしまう。
だから、娘との楽しい思い出をいっぱい作ることができたことが良かったと思える。
娘が居なくなった後の二人の生き方を考えないといけないと思う。
今から少しでも夫との関係を充実したものにしなければと思う。
後何年かしたら、今度は私が夫との二人だけの時間を嫌になるのかもしれない。
そうならないためにも今のうちに夫との会話や関係を修復しておく必要が あるように思う。
スカーレット
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