わわわんわん



ゆびわゆびわゆびわ〜ゆびわ〜を〜たべぇ〜

2002年12月13日(金)

「指輪物語」、字幕翻訳でモメてたんだってね、へえ〜。
えーごわかんないから、それはまあいいや。
抗議サイトをいくつか回って、およよと思ったことがいくつか。

先ず、「少数派の指輪物語ファン」という表現。そうなのか?ワシ、読んだぞ。しかも近くの図書館の子ども図書室にあったから子ども用のちっさい椅子と机で読まされたぞ。もう成人してたけど。
があーん。あんまり読まれてない本だったのか。どうりで司書さんの視線が痛かったのね。ついでに「ゲド戦記」とかも読んじゃったし。

翻訳が酷い、酷すぎる、というよりは、観客に合わせたのかなあと感じられる部分もありました。もしも、もーしもですよ、本当に全巻を読破した「指輪物語」精通者が少数派、しかも考えられる以上の少数派だったら。灰色のガンダルフ〜なんて騒いでも、またそんなオタな単語を吐きやがってと足蹴にされるとしたらば。映画を見にくるヒトは「なんか話題になってるファンタジー」を見るわけで、あの原作のあの世界を実写(ホビットはえらい美少年だし、アラゴルンはやっぱカコイイし、えへへ)で堪能しに来るわけぢゃないのでは。

結局観てないんだけど。

「惑星ソラリス」のリメイクの方が気になるね。え、そんなの元が英語圏じゃないからどうでもいいって?
こないだDVD版観たらビデオと字幕が変わってたよ。セリフではどっちもゆってるんだけど。画像もきれいになってる(気がする)し、1970年前後の東京が未来都市ってことで出演してるのでもすこし騒がれてもいいと思うんだけど。
やっぱ、これも少数派なんでしょうか。


かみあわないはなし

2002年12月06日(金)

仮に「あ」さんと「い」さんが会話をしているとしましょう。

「あ」さんはゲー術はリバースエンジニアリングできる部分があると考えている、のかな。で、「い」さんはエンジニアリングを使ってゲー術(アート)と呼ばれる活動をしている、のかな。

以下はその対談の主観的な超意訳(決してこんなことは書いてありません)
あ:役に立たないものを作ってえらそーにアートだとかゆってんぢゃないよ
  オリジナリティが危機に瀕してるっぽい手法で、(ボクが到達し得ない)すんばらしいアートの世界に肉薄しようなんて、プンプン

い:ヤクにたたないことするのがアーチストの仕事ってゆうか、その〜、そんなに肩に力いれてかなくたってアートだしい〜

具体的には美術手帳に掲載された対談なのだそうです。URLを転記しようとしたらば美術手帳のページではなかったので自粛します。
まあ、おそろしく噛み合っていないというか、読むのがたいへんというか、これは毎月美術手帳を買って読んでるオベンキョウしてるひと以外立ち入り禁止区域の話なのかもしれません(偏見)。何でそんな至高聖所に(まちがって)たどりついてしまったかといえばぼけーっとリンクをたどっていたからなのですが、こうしていろいろ「(まちがって)たどりつく」から面白いのですが、おまえなんかに食べさせるすばらしいクリームパンはありませんって言われそうで困るのですが。

なんでそんなにアートはすばらしいのですか?
なんでそんなに「アーチスト」として扱ってもらいたがるんですか?

「アート=オリジナル=絶対的価値=すばらしい
「アートを理解するワタシ=オリジナリティを備えたワタシ=すばらしい
このようなループ思考を見せびらかしてくださる方もいました。アートな香をまとうことは何がしかの価値を持っているのですね。たぶん。

それでまあ、なんか作品とかがあって上記のようなおれってアーチストをかましてくれるのはホホエマシイ限りということで見なかったふりもできるのですが、特にケンチク周辺でそんな実例を目にするたびにどうしたらいいかと途方にくれてしまうのです。これはケンチクが実は微妙にアートではないってことでしょうか。

で、なんでそんなにアートは価値があるの?
なんでアートでなかったら困るの?


so-ra-mi-mi

2002年12月05日(木)

コーラスの入り方だとか歌詞でウタダの新曲なのかと思ってイたのが全然ちがう歌手のものだと知った驚きでいっぱいの今日。
そう思って聴くとたしかにリズム隊(タイコとか)が甘いかもしれない。

それらしい味がしてればおおむねクリームパンはクリームパンでさほどむづかしいことを考えることもなく、ヒトは音楽を聴いているのだろうか?

クラシックを聴け、と「指導」される場面ではない。が、いったい、ちゃんとしたクリームパンはどこで食べることができるのか。はたまたそのちゃんとしたクリームパンを提供してくれるところがあったとして、だれにでも食べられるものなのか。

いろいろ考えているといやな気持ちになる。どんなクリームパンもおいしいと思って食べている限りはそれがクリームパンのすべてを代表してくれているのだが、他のクリームパンを食べれば食べるほど特定の「クリームパン」は相対化されかつてはこのうえもなくおいしかったあのクリームパンも凡庸なクリームパンのひとつになってしまう。しかし次のクリームパンを食べつづけなくてはならない。それがこのうえもなくおいしかったクリームパンを失い続ける行程でしかないとしても、そこにクリームパンがある限り食べてみなくてはうまいかまずいかわからない。

でもすんごく不味いクリームパンを不味いっていうと怒られたりするのはいやだな〜。

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わわん

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