母のタイムスリップ日記
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2003年04月30日(水) 通院を取りやめて…


 早めに昼食を摂り母の所に向かった。
少し歩いてから通院しようと計画をしていた。
雨が降っているけど母との相合傘も良いかなと思った。
尋ねて直ぐに、面会表と外出表とに記入した。
居室に入ると母は「おかちゃん」と外を見て泣いていた。
「帰りたい」という。「わかった。帰ろうね。着替えをして」と替えのズボンを渡した。けれど、母はそのズボンを綺麗に綺麗にたたむだけ。ついでにティッシュも綺麗に綺麗にたたむだけ。
私のいる事など忘れてしまって職員がいるかのような感覚らしい。
「おかちゃん」「おかちゃん」と泣いている。
後でわかったのだが小のほうの失敗があったのだった。もっと気を配れば良かったと反省。
押入れに洗濯した物を納めようとしたら以前職員に託したあるばむ、折り紙、ビーズ、毛糸、ノート等が小袋に分けられて入っていた。
このままだとぐちゃぐちゃになりそうなので整理をしてみた。
何故 預かった物を返すのか…。と少し疑問。
別に預けなくとも良かったという事だろうなあ。
折り紙は箱にまとめ、毛糸は全て袋に纏めた。写真やノートは小さな引き出しに入れた。鈎針もあったのだなあ。無いと思ってまた、家から運んだのに…。
職員に聞けば良かったんだな。

居室でゴタゴタしていると「みんなでカレー作ろう」と言う職員の声が聴こえた。
暫くすると母のところまで来て「通院なんですよね」と言った。
薬はまだ、数日分ある筈なのでカレー作りに参加させて貰う事にした。
手を洗い消毒して、ジャガイモの皮むきが始った。
暫く包丁を使っていないし急変以来はさみも使えなくなっているのでどうかなと心配だったが何とか使えるようだった。
母も落ちついてきたので、買い物に出た。買い足しておかなければならないものが在った。
買い物から戻るとカレー作りは終わりおやつだった。
おやつがすんだ頃を見計らって、散歩に出た。
雨も上がり、丁度良いお天気だった。
職員が「藤の花が綺麗ですよ」と言うので藤棚のあるところまで歩いた。
 そうだなあ…昨年もこの藤棚の下でおやつ食べたなあ…。
藤棚の下で休息して施設に戻った。

今日の夕食はカレーなんだな。サラダもあるんだな。
きっと、おいしいだろう。でも、作った事は綺麗さっぱり忘れて「私作ってなんかいませんよ」なんて言うのだろうな。

通院取りやめてよかったな。 



2003年04月29日(火) 収拾がつかなーい


 母の冬物を施設から持ち帰っている。
それも含めて、整理を始めたらどうにも収まらなくなってきた。

物を増やさないようにと努力してはいるのだが…。
買いたい気持ちをグッとおさえて有る物でやりくりしようと思ってはいるのだが…。物は増えていく。

整理をする時は、流れを考えて整理しているつもりだが、毎日の生活の中で「ちょっとここに置いて後でちゃんとしよう」と思ってのちょい置きが増えてくると流れもなにも無くなってしまう。
それも含めての整理となる。

それに、家人の「ちょい置き」もかなり目立つ。

その上、私の最近の悪癖、片付け始めるとあっちこっちに移動する度に行った場所の事に気がとられてしまいそこで作業を始めたりするものだからどうにもこうにも収拾がつかなくなってしまって気がつけば午前零時を回ってしまっていた。
まだ、片付いてないけど明日は母の通院もあるし…この辺で今日は止めておこう。続きは金曜日か…。

なんと整理下手な私なのだろう。
10年前なら、もっと上手に出来たような気がしているのだが…。
過去は美化されるから…。きっと、前も今も変わっていないのだろうな。

片付けが中途だと何だか落ち着かない。



2003年04月28日(月) 迷った挙句


 お風呂を洗ってお湯を張りなおして母に面会に行った。
それにしても良いお天気。

通院しようか?お風呂にしようか?何処かに連れ出そうか?と散々迷った。
居室に入ったら、カーテンの汚れが目に付いた。
そういえば、急変時にカーテンの汚れが気になったのだが、施設を出ることになるかもしれないと思いそのままにしていたんだった。
もう、一年洗ってないのだからなぁー。

よし、今日はお天気も良いからレースのカーテンなら直ぐ乾くなと思いカーテンを持って我が家へ。
直ぐに洗濯機をまわし、母におやつを食べてもらった後入浴。
洗髪。「頭が軽くなったよ」と言った。
土曜日に入浴したものの、暖かくなってくるとやはり毎日でも入浴させてあげたい。

お風呂上りにコーラを一杯。
今日も、靴下を右側だけに重ね履きしようとしていた。
裸足の足を持ち上げるとようやく気がついた。

ちょっと目を離していたら、長袖のTシャツのキラキラ模様を指で擦って剥がそうとしていた。どうやら、がさがさとした感触が気になったみたいである。
「ねぇ。それ 飾りなのよ。取ったら台無しよ」と言ってみた。
母は判らなかった。鏡を見せて模様だと判ってもらうようにしてみたが判ってもやはり同じようだった。
剥がそうとしても簡単には剥がれないと判り余計な事は言わないことにした。
お洒落と思っても 時にわからなくなるのだなぁー。

そうこうしている内に、カーテンが乾いた。
ゆっくりと施設に戻った。

行きも帰りも娘が車を運転してくれたので、私は楽が出来た。
予定した事は出来なかったけれど、カーテンを綺麗に出来たからそれでいいことにしよう。


2003年04月27日(日) 欲張らず さり気無く…。



 昨日 夕食を作る間 久しぶりに塗り絵にチャレンジして貰った。
というのも、施設に迎えに行った時塗り絵をした形跡があったから。
きっと、職員に方が声をかけてくださってのこと思う。
面会の度にチラッチラッとその様子を見てきてはいた。
少しづつ塗り方が変わってきているように感じていたのだった。
枠等無視した塗り方から 枠を意識しながらはみ出す塗り方 枠の中に納まってはいるがぎゅっと力いっぱいの塗り方…。そのうちにだんだん力を抜いた塗り方をするようになってきていた。

塗り絵を出した時「わぁー綺麗」と感嘆の声を上げたので意欲があるな意識が高いなと感じていた。
そして、単色ではあるけれど濃淡のついた塗り方をしていたのだった。

私は、母がここまで回復してくれるなんて考えていなかった。
いつも書いているけれど母は医師も認める立派な完全なる痴呆症である。
忘れる事が当たり前であり出来なくなっている事はいっぱい。そして、意欲だって…。
だから、出来なくなった事を取り戻していくなんてあまり聞かない。
痴呆暦 10数年である。

場合に依っては こんな事も在るのだとただただ驚くばかりである。

娘に絵を見せたら「ここまでよくなったのは、施設の方の努力、家族の努力もあるけれど季節や運みたいなものもあるのじゃないかな…」と言った。
確かに、春に向かい季節が動き出す時だからよかったとも言えるような気がする。これが寒さに向かっていく季節だったら外にも出にくくなっていたのだろう。そう考えると人って人の力で生かされているのでなくいろいろの形の力を得て生かしてもらっているのだなとますます思い知らされてくる。

まだまだ、母の課題は いっぱいある。
欲張らず、さり気無く、楽しめながら、リハが出来ればいいなあ。


2003年04月26日(土) 気が抜けてしまったかな?


 今日は、リハの日である。
先週の内に、施設には昼食いりませんと届け出ていた。
リハは、1時の予定だった。

12時過ぎに施設より電話があった。
「今日のお昼はどうしましょうか?」
普通、そこで気がつきそうなものだが…。
私は、「エー、今日は3時半なのでお昼お願いします」と言った。
職員の方も「はい」と言った。
そして、何故今日に限って電話してきたのだろう…。おかしいな」と思った。

そして、程なく「ピンポン」「はーい」
ドアを開けると理学療法士さんがいた。「…」
「3時と思っていたけど…」と言いかけて施設からの電話とが頭の中をグルグルと周り「ちーーーーん」となった。
私のミスであった。
時間をすっかり勘違いしてしまっていたのである。
理学療法士さんは「夕方6時なら」と言ってくださりその時簡に再訪していただくことにした。

そして、慌てて施設に電話をして うっかり勘違いをしたことをお詫びして、
昼食がどうなったか伺い食べ終えたと聴きお礼を言った。
あらためて 今日の予定を知らせ夕食をカットしていただくようにした。

全く、気が抜けてしまったようである。

それから、慌てて庭に出てビオラを摘み小さな花束にした。都忘れも咲き始めたのでそれも数本摘んだ。八重のチュウリップとフリージヤとで花束を作った。
母には、予定通りシンビジュームを準備した。
それから、大急ぎで施設に迎えに出たのだった。

もう、なんとお詫びしたらよいのか…。ひたすらぺこぺこである。言い訳はせずただただ誤るしかない。
持って言ったお花を渡して飾って貰った。
母を着替えさせて、家に戻った。

それから、入浴、食事の支度とすすめようやくリハの時間となった。
療法士さんにもご迷惑をお詫びした。

ふーっ。暑い、あつい一日だった。

リハを終えてから夕食。私には少し早すぎるので母だけ。
でも、おいしいよと食べてくれた。

施設の就寝は早い。7時半にはもうみんな眠ってしまっているのだ。
でも、いくら頑張ってもその時間に間に合わなかった。
歯は家で磨いたのでパジャマに着替えて明日朝の着替えをそろえてトイレへ。
最後の頑張りでようやく便通があった。
取り敢えず、ほっとした。

母を布団に寝かせて、職員の方に便通を報告して帰宅した。

という訳で、私の勘違いで、多方面に迷惑をかけてしまった。
気が緩みすぎたみたい。もう少し気持ちを引き締めていかなければならない。





2003年04月25日(金) 世界に一つだけの花


 そう、スマップのうた。マッキーが作ったと言う歌。
先日、娘が「あれをマッキーが歌えばいいんだよ」とそうすればもっと何かを訴えた筈…」と言っていた。
いや、別に娘も私もマッキーファンではない。
でも、言われて「そうだなあ。そうすれば、また 違った風に聴かれるな」と思った。(スマップが悪いとは言わないですよ)

あれは、反戦歌と言われたが…。
私が聴いた時 (きっとCD化される前に耳にしていたと思うが)「母の歌」と思った。いや、母というよりもここまで生きてこられたお年を召した方にこそ捧げたいと思ったのだった。
売れるにつれて ますますその意が強くなった。そして、施設で言ってみた。
「この歌って、ここで毎日流して癒しにならないかな?」と。
「あー。」と言われたが 反応はいまいちだったかな?

今、シンビジュームの花が咲き始めている。
以前 日記でも触れた虐待したあのシンビジュームである。一年中外で暮らしてもらったあのシンビジュームである。
花屋さんの店先に有るようにすーっと茎が伸びている訳ではない。
ちょっと 不恰好だけど野性味があるかな?
私の育て方が、大雑把なのである。
それでも、季節を覚えて咲いてくれた。
「咲いてくれて ありがとう」と言いたい。
そして、明日 母が来た時切って持ち帰って貰おうと思っている。

花 続きだが…。
シクラメンも今咲き始めている。
これも、外で過ごしてもらっている。
自然交配で種が出来て、其れが零れて地面に散った。そこから芽が出た。
昨年、その一部を鉢に上げて南側の軒下に置いた。
温かくなってどんどん葉が成長して今花が咲いたのである。
シクラメンて冬のイメージだけれど自然に任せるとこんな時期に花が咲くのかな?
西側に放置してある地面に育ったシクラメンはまだ、葉だけである。
でも、いっぱいある。また、鉢上げして様子を見てみようかな?

自然に任せて…というけれど、実は手抜きであり、マメに手いれをしてないだけで恥ずかしい話なのである。

これだって、間違いなく一つだけの花である。
此花を咲かせようとしたのは 私ではない。花自身なのである。

今年は どういう訳かハーブや他の植物の成長がめざましく感じる。
力強いのである。
季節通りに過ぎてきたからかな?菊やハーブを挿して見た。それも根がついたようである。2年前にまいたハーブ、昨年はヒョロヒョロだったのに今年はしっかりしている。木苺だってしっかりしている。ブルーベリーだって藤の花だって今年はいっぱーい花が咲いている。
♪何でだろう♪我が家だけなのか他でもそうなのか…。
「いい事が起きる年なのかな?」と勝手に望んでしまっている私である。



2003年04月24日(木) 「ぷんぷん!」 プロなの?


 利用者さんを訪問する時は、15分の余裕を持ってお訪ねするようにしている。連絡ノート等から前日までの様子を把握する為である。
けれど、今日はノートに目を通す時間も無かった。
直ぐに「トイレに行きたいのです」と依頼があった。
活動時間じゃないなんていってられないので、すぐトイレにお連れする。
ベットを見ると もう とうに間に合ってない状態であった。
さぞかし、気持ちが悪かっただろうなと思った。
こういう事をする為に訪問している訳でこれは構わない。

けれど、「昨日下痢をして…。汚れた物が洗濯機にはいっています」といわれ
覗くとなるほど洗濯槽に水が張られていて汚れ物が入っていた。
早めに回さないと時間内に治まらないと直ぐ洗剤を入れて洗濯機を回した。

其の間に布団を拭いた。
おむつも使っていなかったので、酷い状態だった。
雑巾で布団を幾度も幾度も拭いた。次に洗剤をつけてまた幾度も幾度も拭いた。更に洗剤なしの雑巾で幾度も幾度も拭いた。
何とか綺麗になったので曇り空だったけど布団を風にあてた。

洗濯機が終了を知らせたので行って見ると…。
汚物を流さないまま洗濯機に入れたらしく見るも無残な事になってしまっていた。仕方が無いので、洗濯物を一つ一つ風呂場で広げてはたいた。
それから、再度洗濯しなおし。風呂場の後始末…。
汚物は普通処理してから洗濯機に入れるでしょうに…。
不満を言えばきりがないが、下痢をしたなら一回で済むと言う保障はないのだから、オムツ着用、マット使用は常識ではないのか?

その後、本日の汚れ物の処理。洗濯。
おそらく時間オーバーである。
これは、利用者さんの責任でない。前の方の処理が悪い。
本日分だけなら、時間ぎりぎりで出来た筈だ。
いや、前日分の適切な処理さえしてもらえたなら時間内で治まっただろう。
仕事を片付けるだけで目いっぱいと成ってしまった私は話す気力すらなかった。利用者さんが失敗で気落ちしているだろうと思っても声さえ掛けられなかった。
「何時下痢をしたのですか?」「嘔吐は?」「熱測ってください」と聞いていくことだけでいっぱいいっぱいだった。

其の上、こんな時に限ってマットも下着も見つからない焦るばかりだった。
仕方が無いので、新品の下着を下ろし、マットの変わりにと使わなくなった黒のゴミ袋に鋏を入れて広げた。其れを敷き布団のうえにかぶせてマット代わりにした。其の上に使い古したシーツを置いて普通のシーツを敷いた。
これで、応急処置を済ませた。

一仕事終えてようやくノートを広げた。
昨日の下痢の事など一言も書いてなかった。
まして、処理願いの伝言など何も書いてなかった。

ボランティア同士なら連絡を入れるけれど、他の事業所だとそういう事ないのかな?プロの仕事とはとても思えない。
担当のケアマネさん昨日お休みだったから違う人が来たと言っていたけど…。

遅くなったので其のまま母の所に直行した。
母は、「腰が痛い」と言っていた。
散歩に出るとだんだん前かがみになってしまう。
幾度も「背中伸ばしてね」と声がけをした。幸い声がけで背筋を伸ばせたので良かった。
今日は、かぶとの折り方の書いてあるコピーと折り紙を渡した。
途中まで折って上げて渡すと続きは 母が折った。
次のは母が一人で折って行った。
これで、ようやく折り紙リハが一歩前進した。良かった。




2003年04月23日(水) お洒落心。私大丈夫かな?


 先日、母とデパートに寄り春の帽子を探した。
私は、つばのない帽子を選ぼうとしていた。
ちょっと、髪の毛が乱れていても帽子をかぶれば何とか成るみたいな物を選ぼうとしていた。母も、好んで使っていたからもあった。
でも、母はそういうのを嫌がった。おしゃれっぽいつばなし帽子でもつばあり帽子には敵わなかった。
母と二人で「あーでもない。こうでもない」と見ていたら店員さんが数点の帽子を見繕って持ってきた。
母は、鏡に向かって次々にかぶって見ていた。
時につばを折り返したりして、なかなかの拘りを見せていた。
「お洒落心ありますね」と店員さんが言われた。
同じ型の帽子でも色によっても違い、その辺にも拘っている母だった。

母自身「これにする」なんて言わない。買うなんて思ってもいないのだ。
だから、母自身が興味を示した物を此方で選んだ。

「お洒落」と言えば、数日前母のアルバムをパラパラ見ていたら娘が「おばあちゃんて若いころモデル立ちしてるよね」と言った。
今までに何回かは見てきているのに気がつかなかったがあらためて見るとほんとにそうだった。
仕事柄 人前に出る事もあり 洋服はあれこれ拘っていたのは知っていた。
時に注文、時に自分で作ってと様々だった。
でも、立ち方にまで拘っていたなんて判らなかった。
私は、カメラを向けられると嫌だけど母は、あまり嫌がらなかったなあ。

急変時は例外だったとしても、今だって鏡に向かい髪をとかしたり身繕いをしているなぁー。ちゃんとじゃないけれど…。

「生きていく力」ってそういうお洒落なこころも大切なんだろうな。

私、大丈夫かな?

綾小路きみまろが「リーマン川柳」をパクったとかが話題であるみたい。
面白く世の中に送り出してくれたのになぁ・・・と思っていたら。
今日のTBSの荒川強啓のデイキャッチの川柳コーナーで、川柳とは、盗作ウンヌンよりも其の句が広く世に出れば「あっ あれ俺の」と自慢のネタになるものだからあれはあれでよい。と解説があった。
何でもかんでも、著作権と叫ばれるこの社会でやっぱり「粋なお遊びだな」と思った。

残念ながら、私にはまだ川柳を作り出すセンスは未だない。




2003年04月22日(火) 何をしているのかなぁ・・・


 散歩をしていたら畑を耕している方が視界に入った。
ポツリポツリとある畑が綺麗に耕され始める季節でもある。

そんな風景を母と眺めていたら幼い頃母と歌ったメロディーが浮かんだ。

♪小さいお庭をよく均して 可愛い種を蒔きましたら
 お日様ニコニコ笑って眺め 雨は静かに水をまいた
 其のうち種に芽がはえ出て 土からかわいい頭を出し
 ぐんぐん伸びて大きくなって 蕾が出来て花が咲いた♪

私が歌い出すと母も少し思い出したらしく続いて歌い出した。
季節になると、こんな風に幼い頃のメロディーが浮かぶものなのだなぁ。

今日の母は元気ではあるけれど、訳の判らない動作が目立った。
押入れの扉を指で横に線を引き私の背中までその線引きを延ばしてきた。
「くすぐったいよ。何をしてるの?」
「くすぐったいの?ここまで作ればいいのかなと思って」
「何を作るの?」
「????」
こんな調子であった。

散歩して遠くの遠くに見えた花を手を伸ばして取ろうとしてみたり。
そういう奇行は 以前「何してるの?」と言う言葉で「はっ」と気がつく時があったものだが今は全く気がつくことが無くなっているなあ。

でも、公園のベンチに座りおやつを食べている時
「あなたも食べなさい」という言葉を発した。これは、良い調子である。

施設の周辺を一回りして「疲れない?」と聞いたら「未だ歩ける」という。
足の上がりが気持ち悪いようだったので膝を高く上げるように歩いてみたり
川べりのベンチに座り足首を伸ばしたり縮めたりを繰り返してストレッチをしてみた。そんな風に20分近くやってみて施設に戻った。

今日のフロアは、面会者が3人だった。ほっとした。


2003年04月21日(月) トイレに通う… 偏屈な私。

 施設の事で良い事もあるのです。
先日、職員の方から母の3ヶ月のケアプランの提示を受けた。入所以来初めての事。
ケアプランがある事は聞いていたが「見せてください」とも言えないで居た。
大きく3項目に分かれて介護の計画が記されていた。とても嬉しかった。
「希望があるときは、何時でも言ってください」とも言われた。良かった。

また、金曜日(私が面会に行かなかった日)職員と共にお花屋さんまで外出したようだった。其の時、花屋さんが母に切り落とした花を下さったらしく洗面台に活けてあった。
其の花の存在に私は気がついていた。いつも、散歩の折 摘んだ花や草を活けて置く場所にその花があったのだ。綺麗に変わっていたので「いいなあ」と感じていた。其の事も職員さんが話してくれた。
私が、面会をお休みするとこういう風に職員との触れあいも生まれるのだな。
其れも、いいな。

本題である。
昨日、母は我が家で大の用が出来た。
何回かのトイレ通いだった訳だが…。其の時の会話なのである。

「○○ちゃん。んーーーんってお腹に力入れてみてよ」と顔が真っ赤になるほどに力んで見せる。
母は、顔だけに力を入れて面白い顔をするがお腹に力が入っていない。「んーーーん」は声だけなのだ。
「いきむのよ」とお腹に手を当ててみる。ほんの少し力が入ったのをみて「其の調子」と声をかける。でも直ぐに顔だけのいきみに戻ってしまう。
「出そう?」と聞くと「出ないほうが多いような気がする」
こんな事を数分置きに数回繰り返す。
トイレに入って、下着を下げていきんで、また下着を戻してトイレを出る。これの繰り返しである。
でも、何回かした後で、また部屋の椅子に座ろうとした時母はお腹をさすった。
「痛いの?」と聞くと「痛くない」
「もう出ないの?」「出てくる頃かも知れない」
「トイレで頑張る?」「頑張らないでも出る様な気がする…」
また、空振りかと思いつつ「今度こそ」と思いトイレに戻る。
ようやく排出。めでたしめでたし。
「すっきりしたね」「そうだねぇ…」

ここ数日、こんな事を繰り返していたのだった。

急変前の母の自力での排泄も時にあって下着の汚れで便秘かどうか判断していた。
けれど、今は殆ど自力での排便はない。
以前ならトイレ詣でで「未だでないの?」とイラっとする事もあった。
でも、今は不思議に優しくなれる。きっと、急変以来、私の中で何かが変わったのだ。
痴呆の介護は時にイライラとしてしまう。(そうでない方も居られるが)
介護の本に書いてある「介護者に受容体制が出来た」と成るのかな?
でも、私の中では「本の通りになんか行かないし…。」という思いがあるのだ。
「受容じゃないよ」と何処かで別の私が言っている。偏屈な私である。


2003年04月20日(日) 介護の哀しみ


 イースター礼拝に母を連れて行くことが出来た。
聖歌隊の「ホサナ」をじっと聴き入っていた母…。
本当は、施設内の他のクリスチャンも一緒にお連れしたかった。
けれど、施設のお約束があるので…。「家族の了解」です。
昨年のクリスマス会でたまたま近くの席だったので一人の方からは了解を得ていた。でも、今其の方は骨折している。其れも承知で(車椅子介助は私にも出来るので)先日 施設に申し出たのだが「状況が異なるので再度了解を得てください」と言われた。
違うフロアの家族とどうやって連絡を取れと言うのだろう。電話番号を聞いてもプライバシー保護のガード。(当然では有るけれど)
こういう場合、施設が間に入って確認してくれても良いだろうに…。

教会から、我が家に戻り昼食。暫く ゆっくり過ごして3時ごろ施設に戻った。教会で手作りのカードを戴いたので、一緒に行けなかった方にお届けした。
骨折した方は、午睡中だった。(昼なんだけどな)
Yさんは、私の顔を見るなりそばに走るように寄ってきた。
「今日は、イースターなのよ」というと「そうだった?ここに居るとわからなくなるね。勝手に外にも出れんし…。有難う」
その後、延々と家族の愚痴とここで死ぬまで暮らすしかないんだって…と言う愚痴を零された。私は、黙って聞き続けた。事実と異なる話も有ったがそこは目を瞑った。
結局の所、家族が面会に来ないことが寂しいのだ。外出も儘成らない事が辛いのだ。かなりの勢いで怒って居られた。
「Yさんが怒るなんて珍しいですね。でもね、ご家族は忙しいのですよ。いつも心に掛けていらして きっと、今日もいけなかった。と悔やんで居られますよ。もう少し待ちましょう。其れまで、私で我慢してください」と肩を抱いて頭を撫でた。Yさんは、そっと寄り添ってきた。
いろいろの事情はあるのだろうけれど…。

Yさんと話しているとF氏が居室よりホールに移動された。
数日前には、気がつかなかったが隋分痩せた。背中を撫でるとゴツゴツした。
「痩せたでしょ」何も言わないのにYさんがそういった。私は頷いた。
F氏は、片麻痺で嚥下障害も少しある。食事は刻み食である。
刻み食は、量が少なめ。其のうえ食べ零すロスもある。
痩せた訳は、食か?それとも他の病か?気になる。でも、聞けない。
ご家族は、時折見えるが、頻繁に来られぬ訳があるのだろう。

母の急変時に判ったのだが、生活介助はしないのだそうだ。
私は、面会でいろいろカバーしてきたが、家族の来られない人は…。
なぜ、預かるのだろう?預かるなら、もう少しカバーできないのだろうか?
生きていく為の事はやってくれるけれど…。何とか出来ないのかなぁ。
痩せて抵抗力が無くなり体が弱り病院に…。か。
そうなる前のなんか方法って無いのかな?

他の人の事なのだけれどとても切ない。

そして、今日夫の会社の人のお母様が亡くなられた。
母と同じ病だった。でも、発病は母よりずっと後。そしてお若い。
幾度もの山を乗り越えられてきたのに…。つい先日も「危ないのです」と会社を休まれ持ち直されたばかりだったのに…。
残念です。

介護者の哀しみ、病の嘆き…尽きる事がないなぁー。



2003年04月19日(土) 靴下片方無いよ!

久しぶりにほんとに久しぶりにキッチンからケーキを焼く香りが漂ってくる。そろそろ、焼ける頃だろう。
こんな時間が戻ってくるなんて…。

母への便りが届いた。イースターに寄せての便りである。
故郷の教会からである。
奇跡的に元気になった母の事をとても喜んでくれたお便りだった。
今日、リハを終えてから「脳出血を起こして、歩けなくて、ご飯も食べられなかった事覚えている?」と恐る恐る聞いてみた。
母の様子を見ている限り記憶には無いだろうと思えるから。
やっぱり、全く覚えていなかった。
母自身の中では、何事も無く今日の日まで過ごしてきているという事なのである。
ぱっと見ては、もう 以前と何も変わらないかのようである。

入浴後、靴下を履くようにと渡した。でも、片方だけ履いてもう一つは手に持ったまま「靴下片方ないよ」という。
「そっちの手にあるのは?」と聞くと「靴下」という。でも、其の前に靴下がないと言った事は忘れているのだ。「足が冷たくなるから履きましょう」と声掛けして母の傍を離れた。戻ってみると、履いている方の足に更に重ねて履いており「靴下が無いの」という。
「ほら」と重ね履きしている足を指すと「ちゃんとしっかりはけているねぇ」
「!!」
これを、何回か繰り返してみたが重ね履きした不自然さには気がつかなかった。上に履いた分だけ脱がせて上げて「反対の足にはいてね」でようやく終了した。
こんな調子なのであるが、急変時以来履く意思すら無かった事を思えば一人で履くのだから「良し」としなくてはいけないだろう。

今日のリハは、お灸だった。初めて目にした。
直接当てるのでなく、穴の開いたアイロンみたいな物の中に火をつけたもぐさを入れてつぼに当てていくのだった。部屋中にもぐさの匂いが立ちこめた。
首筋から足の裏までゆっくりゆっくりと当てていった。
母は、また気持ちよさそうに眠った。
歩行はもう心配ないが、腰などの痛みが大分和らいでいるようで痛みの訴えが減ってきているように思う。

今日の母はぼんやりとして眠そうだった。
血圧は、上々の124/75だった。とってもいい。
アルバムを広げると、これも反応は上々。関係はわからないけれど「知っている人」として興味を示した。父の事はぼんやりと息子の事ははっきりと「私の子供」と言った。
きょうは、眠そうだけれど冴えているのかも知れない。

明日はイースターだ。母を教会に連れて行けるかな?


2003年04月18日(金) 呆けたらどうするのだろう…。

 子供が幼かった頃、カブトムシを貰ったことがきっかけで6年近くカブトムシを育て続けた。
私は、まさか自分がカブトムシを育てる事に成るなんて考えもしなかった。
おかしな話だが、夏の間観察しても あの白い幼虫を家の中で飼うなんて想像だにしなかった。
でも、子供の為にちょっと頑張った。嫌では有ったけど「嫌だ」と言う訳には行かなかった。
でも、育てているうちに「どうなったかな?」と言う興味と共にちょっと楽しみになったりもした。

 今、同じように卵から育てた金魚とめだかがいる。もう2年経った。
これは、ご近所の方が「おばあちゃんの楽しみにでもなれば…」と卵を産みつけた水草を下さったのだった。
初めこそ、家の中に置いて孵化していく様子を見ていた。でも、今は玄関前の瓶の中にいる。瓶も他所様が捨てようとしていたぬかみその瓶を戴いたのだ。
どうやら、今年は我が家で育っためだかは卵を産み付けるようだ。
まだ、はっきり見えてないが…。
金魚は、一匹だけ生き残った。だから、一匹しかいない。ちょっと可哀想。
今年あたり、買い足して上げればいいのか、それともくれた方に返して仲間が増えた方が良いのか…と思ったりする。

ワンちゃんやニャンちゃんは、母が嫌うし母との散歩等も有るので飼わなかった。何回かは「貰って」と言われたが…。
カブトムシとかめだかなら場所もとらないので育てやすい。
そして、母も怖がらない。

と考えて、私はお金を出して生き物を育てた事は無いなあと思った。
いや、植物はあるけれど…。

それも皆さん、私にくれるのでなく、子供だったり母だったりするのだ。
でも、結局の所、育てる役目は自分に回ってきている。
そして、役得と言うか、飼育する事を楽しむようになってしまう。
かといって、更に良い物を育てようなんていう欲はさらさら無いのだ。

先日、趣味は?と質問を受けた。
これと言う物が無いのだ。
若いころは 油絵や水彩の絵を描いた。デッサンもした。
遠い昔の事である。
なんでも、与えられればそこそこやるが上達はないし深めていくこともない。
私に極めると言う能力は無いのだろうか…。
きっと、気持ちが足りないのだろうな。
お料理だってお菓子作りだって玄人はだしの技等無いのだ。

何事も「楽しむ」というくらいの物なのである。
それも、自己満足の領域を踏み出す事はないのだ。
読書だって、音楽だって、それぞれのジャンルをさらっと。
流行を追うことも無くて…。

そう考えてみると、私ってかなりの中途半端なんだな。
そして、受身で与えられた事をそこそこやって行く程度のものなんだな。

呆けたらどうすんだろう…。
何だか呆ける条件が揃いすぎているんじゃないかな。
今からでも遅くないかな?一つ何かを極めてみようか?
で、何をする?

今日は、役所に出向き家の中の雑事を片付けた。
一日ってこんなにいろいろ出来たんだなと思った。
母を施設に託しているとはいえ、かなり時間に縛られているのだなとあらためて思った。

明日は、母のリハ日。
もう、今月でリハ打ち切ってもいいかな?





2003年04月17日(木) そうか・・・。


 母の所に行くと今日は、全ユニットで近くの公園に出ておやつだった。
母は、早い組で外に出ていた。
車椅子の人も含めて順々に職員が外に連れ出していた。
大変な作業とは思うけれど、こういう場面にあうと嬉しい。
目の前にある公園なのだけれど、それでもお日様を浴びたり少しでも外の空気に触れられるってほんとに大切だと思う。
数時間の事だったけど、ちょっぴり陽に焼けた方もいらした。
みんなで、おやつを分け合い、職員の人も一緒にお茶を飲む。
気の合う人、気になる人と話し込む。一人摘み草をする人…。
それぞれの過ごし方があった。
でも、折角外に出たのだからもう一工夫有ればいいのにな。


今まで、室内でしか出会わなかったので一人一人がどの程度歩けるのか判らなかった。室内を歩くくらいは出来ていた。
でも、母ほどの健脚の人はそう居ないことに気がついた。
母より達者に歩く人は一人。この人はきっと、アルツハイマーと思う。
徘徊するくらいだから、歩く意思は充分過ぎるほど持ち合わせている。
職員のかたが付き添って歩かれているのを見たこともある。
だから、足は丈夫である。
他の方は、殆ど足が弱っている。
日常生活は大丈夫みたいだけど…。
入所した時、どの程度歩けていたのだろう?歩行訓練かリハとかを受ければもっと足が丈夫になるのではないか…と感じた。
そうか、母の足って、やっぱ強い方なんだね。
そして、歩く意思を持って歩く事って、やっぱ大切なんだね。

でも、数人施設内に残っていた人もいた。
「出たくない」と言う意思を持った人だ。
無理に出ることも無いけれど、次の機会に出られたらいいのにな。
そのために、近いうちにまた外でのおやつがあればいいな。

朝に家を出て、戻って夕方。
夕方に約束があったことを忘れていた。
其の方がいらして初めて「あっ」と思った。
昨日も今朝も覚えていたのに家に着いて気が緩んだ途端忘れてしまっていた。
そうか、家にいると 気が緩むんだね。
(忘れた事の言い逃れですね)

そうか、日記を公開し始めてから一年と言う日が過ぎてしまっていたんだね。
ホームページを目指していたけど…。日記の中身から考えるとどうしようと言う思いが生まれ始めている。せめて、母の絵を公開する事を目指そうかな・。




2003年04月16日(水) ♪違いが判る…♪でも 何が…。


 用があって外出した時、ケアマネさんとばったり出会った。
昨日、元気になった母の顔見せに連れて行こうと思ったところだった。
でも、家から直ぐ傍であっても施設への行き帰りに立ち寄るとかなりの距離になってしまうので諦めたのだった。
ケアマネさんもデイの職員の方も最悪の状態の母しか知らない。
ここまでよくなったなんて、会わなければ判らないだろうと思っていた。母のデイ利用を心待ちにして下さっていたのでよくなった所を見て頂きたいと思った。そんなところでの出会いだった。

「母、元気になったのですよ」「良かったですね」最初の会話はこんなものだった。「昨日、一人でトイレに行きましてね…。ご飯はもう 一人で食べられます。」ケアマネさんは驚いた表情になった。「一過性のものだったのでしょうかね」ほらね、このケアマネさんならそう捉えてくれると思った。

血管性の痴呆は多少改善されると言うけれどみんながそうともいえないんだよね。(そこは、施設職員の人も判ってくれたけど)
確かに母は 病理的には脳出血を起こしたのだけれど、それだけでは解決のつかないような事だったのだよね。
ここの部分がケアマネさんと施設の職員さんに認識の度合いが違うのだよね。

きっと、この人が施設の職員だったら「ここまでよくなったのだからご家族も無理しないでね。此方も出来る限り対処いきますから」と言ってくれると思うのだ。(あくまでも推測だけど間違ってはいないと思う)

あの最悪な時「今月いっぱい我慢してちょうだい。そうすれば退所して行く人だからと言って職員に我慢して貰っているのです」と利用者に伝えたりしないと思う。
そして、先週の木曜に疲れて面会に行かなかった時の翌日「昨日はいらっしゃいました?」と聞かれて「いいえ、ちょっと疲れて…」と言ったら「疲れていたんだって…」と言ったりはしないと思う。

いや、散々お世話になったし、今もお世話になっているのだからいいのだけれど…。何かが刺さるんです。
これは、一体何なのだろう。
私が、毎日の面会を休めなくなっているのも実は其の辺りの事も有るのだ。
「家族でプレッシャーを感じている方も居ます」と言う一方で全く逆の意味に取れる言葉を受けていて迷っているのだ。年の功で、聞き出して見た方がいいのかな…。

確かにデイと施設は違う。
でも、あそこの施設ならそうは言わないと思うのだけど。

昨日、なんだか背中が痛くて一日中嫌だった。
胃が悪いかな?と思った。眠れば治るだろうと思ったが今朝になっても治らなかった。
今朝、思い立ってストレッチ体操を試みた。
すると、大分よくなった。
ついでに、午後一眠りしたら背中の痛みは消えた。
どうやら、庭の手入れ等で疲れていたのかも知れない。
そういう訳で、今日は母に面会に行かなかった。

明日は、朝から晩までちょっとハードな一日になりそうだ。











2003年04月15日(火) 気がつくと…。


 24時間毎日介護なさっている方の事を思うと贅沢なのだが…。
毎日の面会は、そろそろ限界かなぁ。

気がつくと体重が減っていた。
この所、腰履きのジーパン緩くなった。
減量しようと思っていくら努力してもなかなか減らなかったのに…。
うーん。やっぱ、これも母のプレゼントかな?
嬉しいけど嬉しくない。妙な気分。

面会に出かけると面会ノートに記録するシステムがある。
何時もいつもずーっと私の名前だけが続く。
職員さんが「プレッシャーを感じている家族もいます」と言っていた。
私だってプレッシャーがあるけどなぁ。

母の血圧は、時折 高く上がる時が出てきている。
其れは、私にとってトラウマになってしまっているのだ。
急変前、ずっと高い日が続いていた。在宅と比べて散歩の量がへり腹痛の対応も少ないので血圧が高くなったのだろうと感じた。
脳出血の原因はそれだけではないのだろうけれど、でも一因にはなっているだろう。
私の面会が少なくなった時、また 同じ事が起きるのではないだろうか?と思ってしまう。

じゃ、引き取って面倒看るかと成れば…。保身にまわる。
なんと、情けない。こんな葛藤が続いているのだ。

私の葛藤なんて在宅介護に比べれば比にもならないのだ。
判ってはいるのだけれど…。

そんな私の心の内を見透かしてか「毎日、大変ですね」と声をかけた人が居る。「大分よくなられましたね」「お蔭様で。そうですよね、そろそろ面会を減らしても良いかなと思ってはいるのですが…」と施設のエレベーターの中での会話である。入所いている方の家族ではない。

今日の母は、腹痛も無く血圧良好であった。(自宅で計測)
訪ねた時、トイレにいた。どうやら、自分で歩いてトイレに入ったようだった。でも、大半はトレパンに用を足しパンツを下げている間も出たらしくズボンや下着が少しぬれていた。
一人でトイレに行くようになった事は拍手ものである。
成功も失敗も急変前からあったのだから…。
昨日、お休みした事もあり、また お天気も悪いので家に連れてくることにした。そうすれば移動で歩きも無理なく入ってくる。
家で、昼食を摂った。
筍ご飯は、母が好き(基本的に混ぜご飯が楽しみなのだ)。
今日は、珍しくお代わりをした。おかずも綺麗に食べた。
食後の休息の後入浴。そろそろ上がり時かなと思った時母が妙な事を言った。
「なんだか ここまで(胸)までいっぱいで、出そうと思うけれどめんどくさくて…」「えっ」と言う感じ。「胃が調子悪いのか?」それとも「排泄か?」
聞いても明確な答えは無かった。
まずはトイレと急ぎ身体を拭いて衣類を着用しトイレへ。
暫く頑張ったら出てきた大。良かった。大の事だったのかとほっとした。
そして、便秘でないこともわかってほっとした。
乳酸系が駄目なので摂取させなかったが、ヨーグルトを一日置きに摂取させている。其の間に果物などを取り入れている。
この程度なら、安心だな。頭を乾かし、お茶(羅布茶)で休息して施設に向かった。
バスターミナルまでは徒歩。結構早足で歩いた。「少し早いね」と言われて「ゆっくりにしようか?」と言うと「大丈夫」と言う。
そんな訳で、早足散歩ができた。

ここまでの回復があるのだから、やはり一日置きにしても大丈夫かな?


2003年04月14日(月) 気合を入れて


 朝の時間を植え込みの手入れに取られている。
ここ数年咲いていなかった藤の木に今年はたくさんの蕾がついた。
おととしあたりより気になって、本を読み手入れしてきた。
去年は、季節過ぎに弱々しく一房の花が咲いた。今年はたくさんの花が見られそうだ。

今日は、他にも用が出来て役所に出向いた。
帰路 リサイクルのお店に立ち寄ってみた。
特にお宝探しと言うほどではないのだが、古い食器が好きなのである。
お宝として大事にして取って置くのではなく、普段使いの食器にするのだ。
高級な食器が趣味と言う訳ではない。小皿でも、全てセットされた物でなく風合いのあるものを様々取り入れていくの楽しいのだ。だから、デパートでもセット崩れのバーゲン品を時々チェックしたりもする。
杯か湯のみか小鉢か判別出来なくともいいのだ。
気に入れば買うし、何も無ければ買わない。
だから、リサイクルショップも気になっている。でも、よほどの事がないと其の前を通る事は無いので今日は迷わず入ったのだった。
そして、気合を入れて探す事にした。

クルクルとお店を幾度も回り見ているうちに、中国の茶器が目に入った。
家には、今 2種類の中国茶器があるが、其れよりも風合いがあった。
ちょっと、急須のふたを開けるとキーンと言う金属音に近い音が鳴った。
蓋にも、茶碗にもちょっとした心遣いが見えた。
これは、そう お目にかかれない。買うしかない。値段830円えっいいの?
という訳で、買ってしまった。其れと、小皿3枚。これも、セットが壊れて3枚になったものだろう。一枚30円。これも買い。

嬉しくなってしまった。
家に帰り、早速 中国茶器で「緑牡丹」と言う中国茶を淹れてみた。
これがいい。茶碗のふちが狭まっていて表面張力でお茶がコンモリと入る。
受け皿に零れたお茶はお茶碗の底に吸い込まれる。
「うーん」なかなか良い買い物でした。
お茶もおいしい。

こうなると、中国茶用の茶箪笥がますます欲しくなってきた。
でも、我慢我慢。茶箪笥なんて無くっても、おいしいお茶は楽しめるのだから。安く手に入れられるから楽しいのであって、それなりのお金を出すのなら
ちょっとつまらない。のんびり、また 探そう。

ふと、電話を見ると留守電が入っていた。
友人からだった。久しく話していないので折り返し電話した。
これが、ついついの長電話となってしまった。
友人も、いろいろあって、其の話に耳を傾けていたらすっかり遅くなってしまった。介護にまつわる話である。
何が悪いと言うものでなくどちらも自分が間違っていないという思いがぶつかるのだから、拗れて行くだけである。
思いはあると思うけれど、これ以上面倒にならないように距離を置く事を薦めた。自分自身だってうまく出来ないのに偉そうな事は言えないのだが、親が悲しむ事は出来るだけしない方が良いという進めなのである。「自戒を込めてね」と締めた。

あー、母の所、行かなかった。
今日は、筍ご飯だ。農家の直売で買った。あく抜きをして、炊き込んだ。
庭の山椒の新芽を摘んだ。余分に摘んで山椒の佃煮を作った。
明日は、母に筍ご飯を運ぼう。其れと、筍の木の芽和えでも作って筍づくしとしよう。


2003年04月13日(日) 居場所


 この所、私は帽子をかぶって外出が多い。
髪が纏まらないので、ちょっと横着と紫外線よけ。

今日、母が「いい帽子だね」と其れを見て言った。
母の帽子は、夏の物はあるが春先の帽子はない。
「買おうか」と言ったら「私は…」と言いかけて顔を曇らせた。
「そんな 贅沢は出来ないの。お金が無いから」
「お金なら、私が預かっていたでしょ。忘れていたの?大切な事忘れると損するよ」「あ、そうだったね」

以前は、かなり勢いよく「お金がない」と言ったものだが、最近は控えめな表現だな。でも、いつも そう 思っているのかな?
在宅時だったら、直ぐに「預かっているよ」とフォロウできるけど施設だとどんな風にフォロウしてもらっているのだろう?

春用の帽子、やっぱり 購入してあげようかな?

初夏を思わせる日で、外でおやつを食べようと準備して出かけた。
ところが、目的地についてバックを探したら入ってなかった。
忘れて来たのだった。
仕方が無いので、飲み物とお菓子を買いおやつタイム。

今日もよく頑張って歩いた。
今日は、お腹が痛いとは言わなかった。
職員の方の話でも便が出たとは言ってなかった。
昨日は ガスが溜まっていたのかな?

今日の母は植物より人影が気になるようであった。
行く先に人影が見えると、少し不安げに「あそこに人が…」と言った。
私は、不安さを気ずかぬようにして「日曜でもお仕事偉いね」とか「良い天気だから皆お散歩だね」とか話を振った。

施設近くに戻った時「ここのあそこに私いるんだね」と言った。
「やったー」
これは、急変前の自分の居場所を認識できる所まで戻ったという事である。
確実に覚えている事ではないにしても、建物を見て居場所とわかる時があるという事は嬉しい。


2003年04月12日(土) 言葉の少ない日


 今日の母は言葉が少なかった。

午前中に迎えに行き家で昼食。理学療法士さんを待った。
今日は、早めに来てくださり治療が始った。
雑談でこの方は、この街で水中リハビリを為さっている事を知った。
水中リハの事は知っていた。昔は、この街に無くて利用する時は隣の隣の町まで出かけ無ければならなかったのだ。
こうして考えて見るとそう広くない街で、似たような仕事の場所に居ながら知らない事が案外多いのだなと思う。
母は今日も治療を受けながら、軽いいびきをかき眠った。
やはり気持ちいいのだな。
なんだか、私もやって貰いたくなってくる。
訪問時にしてくださるとは言っていらしたが…。そういう贅沢はしない方が身のためだろう。ストレッチ体操で我慢我慢。

母の言葉を羅列すると
おいしい。水呑みたい。きれい。寒い。暑い。お腹痛い。…かな。
このうち、お腹痛いは痛烈で、一二分置きに続いた。
久々の事である。
激痛と言うほどのものでなく、動きもいつも通りで、食欲も在りである。
散歩に出てもそれは続いた。
歩けない訳ではない。ただ、何をしても腹痛から気持ちが離れないのだった。
だから、痛みが増幅していくのだ。
私は、ひたすら
「トイレに行ってみよう」「大丈夫?」「大変だね」「どうしようね」
「歩いてみようか」の言葉がけとお腹のマッサージに時間を費やした。

夕方、施設に戻った頃 腹痛は少し治まってきているようだった。
母は、リハ、入浴、散歩と一日あれこれあったので今日はきっと疲れてよく眠れるのではないかと思うのだが…。どうだろう?

在宅の頃、こういう日が毎日続き、台所に立つのさえ悩む事があった。
今、切り替えることが出来るのは、やはり施設に託しているからだろうな。

ちょっと情報です。
昨日、本を読んでいて見つけました。
http://www.gambaranaikaigo.com
頑張らない介護生活のチェックをしてみては如何ですか?
介護者を応援してくれるメッセージもありました。息抜きに良いかも。



2003年04月11日(金) 恐ろしくて確かめられないでいる事


 訪問した時、母は、職員さんの詰め所の前に不満気な表情でウロウロとしていた。母の居室に入ると…。
「ここが嫌に成った」
「どうして?」  「だって、みんなわからないのだもの。私も判らないけど…」
「何をしたいの?」 「遊びたい」
「ボール遊びする?」 「うん」
そして、ビーチボールを使い遊び始めた。
つい先日まで、ボールを弾き返す事はできずキャッチボール式だった。
でも、今日は、両手を使い打ち返してきた。それも、ネライを定めて、外したら「ごめん」と謝る事もできた。
ここまで来れば、この能力は、ほぼ完璧に急変前まで回復しているだろう。

その後、数日前から準備しながら出番を待っていたビーズの作業を薦めてみた。これは、全く駄目になっていたのだ。
ワイヤーの端にビーズを留めとしてくくりつけてこれから入れるビーズが抜け落ちないようにしてから、母に渡した。
新しいビーズにワイヤーを通すまでは出来た。でも、そこから、次のビーズを手に取る所までは行かない。ワイヤーをビーズ穴から出したり引っ込めたりを繰り返すだけだった。少し手伝い作業のヒントを与えてみたが次も同じだった。其れを数回繰り替えして見たが数粒で「嫌になったな」といった。
「じゃ、止めよう」と引っ込めようとしたら「未だやりたい」という。
出来る所まで好きなようにさせようと見守った。
この作業は、一人ではまだ出来そうもない。これも、気長に付き合って行くしかないだろう。

Fさんが母の部屋に入ってきて鏡を見つめた。そして、
「まー。真っ白な髪だこと。どうしたんだろう?」と不思議そうに独り言を言った。「髪を染めたんだねきっと」とFさん。
「そうね、今は白髪に染めるのが流行っているから…」と私。
Fさんがにやりとした。
気が付くと施設の中で母の事を「おかしい」とか無性に心配する人が居なくなった。下手をすると、母がおかしかった事を覚えている人はいないのかも。
当の母だって何処まで覚えているのか…。

そういえば、気懸かりな事があるのだ。
ある時、花を摘んでテーブルに花を並べたら次々に食べようと口に運んだ事があった。母に「食べられるもの」と言う認識がどの程度残っているのだろう。
私は、気になりながら恐ろしくて確かめる事が出来ないでいる。
別に手当たり次第何でも口にしてしまう訳ではないのだが…。
ほんとの所はどうなんだろう?


2003年04月10日(木) 空耳?


 今日、カジカ蛙の声を耳にしたような気がした。
まだ、時期的には早すぎるし第一いつも通っていてこれまで一度も耳にした事が無いので空耳かもしれない。
暫く耳を澄ましてみたが、もう 聴こえなかった。
でも、興味と期待は膨らんだ。
これから、気をつけて通るようにしよう。

母は急変以来、お世話になる人全てに深く感謝の意を表す言葉が増えた。
不穏でない限り、基本的には感謝する母ではあったが…。
昨日の日記に書いた通り「天国に…」と言うほどかなりの丁寧なお礼なのである。涙を浮かべている事も無くなった。
先日、拒否したり、注意したりのピリッとした母が早く戻りますように。そうなってくれればいいですね。と職員の一人が言った。
ありがたい言葉である。普通嫌でしょ。

痴呆の進行で拒否がきえたのか?それとも、お世話になっている事がほんとにありがたいと思っていての事か?私にはまだ、判断が付かない。
進行ではないように…。と祈るばかりだ。


2003年04月09日(水) くすっ。いくらなんでも そりゃ…。


 母の所に行き「何処に出かけようね」と聞いてみた。
すると母は、
「○○ちゃん(いとこの名)が連れて行ってくれる所はいつも天国に行っているような気持ちになるから何処でもいいよ」と。
ひょーい!其れは、褒めすぎと言うものでしょう。
私は、次の言葉を失ってしまった。

私、近所をチョコチョコ歩いているだけなんです。

今日はいつもと違う場所に連れ出さなければならない義務感みたいなものがムクムクと湧いてきた。
これは「母の手か?」(冗談)

そんな訳で、久しぶりにいつもと反対の方向に走るバスに乗って隣の町まで出かけた。おやつの時間になったのでお店に入った。
実は、今日はおやつ持参していたのだが まさか お店の中で食べる訳には行かない。
そこで、母にケーキセットを頼んだ。
セットの飲み物はコーラ。運ばれて直ぐ母はコーラを飲み干した。
喉が渇いていたのだろうか?ケーキも食べた。
私の注文した品が届かないうちに母は食べ終えていたのだった。

腹ごなしに、少し歩いた。でも、直ぐに「トイレ行きたいな」だった。
あれだけの量を飲んだのだから当然の事だろう。
ただ、ここは私のエリアではないのでトイレが何処にあるか判らなくて少しウロウロしてしまった。でも、何とか間に合い用を済ませた。
また、あちらこちら歩き、菜の花と桜が綺麗な公園で一休み。
陽も傾き始めるので「帰ろうか?」と聞いてみると「まだいいよ」という。
更に一回りをした。
天国に行ったような気分に成れたのかな?
バス停に着くと「ここは何処ですか?」と聞いてきた。「ここは○○ですよ」と応えた。「へえ、そんなところまで来たのですか?」
判っているのか、はたまた判らないのか…。
でも、ここは天国ではありませんよ。

よく考えてみると母はこんな風に会話できるようになっていた。
口パクで、声も出さずにいた頃があったなんて信じられない。

そういえば、外出前、トイレから出た時、手を洗い、手を拭き、うがいまで全て完璧に一人で出来た。自発的に。
職員さんが、「ほんとに几帳面ですよね」と言った。
そう、几帳面な母が戻ってきたのだ。


2003年04月08日(火) テレビで気が付いた


 今朝、少し遅めの出勤の娘が「ねえ。ちょっと」と呼んだ。
「何事?」と思い行ってみると出勤準備しながらテレビを見ていた。
NHKの「生活ほっと」だった。
施設を利用できないという家族の話だった。
ある地域で、特養待機が3から10年後という事だった。
10年後という事は無いと思うけれど・・・。とは話していたが驚いた。

今、老健等を利用しながら特養待機者は大勢いる。
また、一人で数箇所を申しこんでいる人もいるだろうからそういう数字になるのだろうが…。

ゲストの歌手の水前寺さんが「施設が少なすぎます」と言っていたが、そして
施設職員の待遇がよくないから成り手が無いとも言っていたが…。

でも、器を増やして解決するのだろうか?
職員の待遇をよくして解決するのだろうか?

例えば、ベビーブームに学校を増やした。でも、その結果、学校が荒れていった。(荒れたのは学校が増えたからだけではないと思うが)また、今 学校が統合されて使わなくなった学校が生まれて来ている。
其の時代のニーズにのみ合わせて器だけ増やしていってよいと言う物でもないだろう。

最後に、「厚生労働省は今 地域に根を下ろした施設を考え始めている。」と締めていたが…。

娘は私を呼んで「当たり障りのない話に終始している」と言いたかったらしい。
半公共放送なのだから仕方がない。

でも、私は一つ気が付いた。
其れは、看護士さんが話された事。
訪ねた時「帰れ」と言われて「はい。それでは失礼します」と外に出る。また、たピンポンで訪ねる。其れを訪問時間内に繰り返し、その隙間で受け容れてもらえる場合も有るし、そうできなくともドア一枚で安否を見ていることも出来、仕事を遂行できる。
そんな話だった。
10年前の私だったら、納得いかなかっただろう。
でも、今 「それも有りだね。いい知恵だね」と思える。
母の介護をしてきて、また、介護者との出会いの中でそういう含み幅の大切さに気が付いた。
そこから、訪問介護は始るのかも知れないと思った。

介護している家族は、日々 其れを繰り返している訳なのだから。
安全とか、具体的介護は信頼関係を作り上げて初めて成り立っていくのだろう。
いや プロなのだから できる限り梃子摺らない知恵や工夫は必須である。
でも、そこだけに拘りすぎると介護者は育っていかないだろう。
介護者は、その時はひたすら我慢を強いられるのだろうけれど。
そういう我慢をして花が開くなら介護者も納得できるかもしれない。

母の所に行った。
丁度 母は塗り絵を始めるところだった。昨日、塗りかけた所がどうなっているだろうかとページを繰ってみた。
枠だけを塗っていた。これさえも出来なかった母なので少しよくなって来ているのだろう。其の続きをして貰った。
其の傍らで、職員さんが出してくれたステンシルをIさんとFさんとしてみた。
チラシを使い花の型を作り塗ってもらう。葉の形を抜いて塗ってもらう。
「はんこを押すようにね」とアドバイスすると注意深く押していった。
型を放すとそこに花が咲いた。二人とも「わーっ」と喜んだ。
Iさんは「私、遊ぶ事しなかったから…」と参加しないのが通例だったが今回は、楽しめた。そこに「春」とペン書き、記名してもらった。
其の一連の騒ぎを羨ましそうに母は見ていた。ちょっと、不満げ。
あわてて、母にもして貰った。
3枚のステンシル画が出来上がった。急場しのぎの型作りだったので厚紙で型を作ればもっとみんなで楽に楽しめそうだ。





2003年04月07日(月) 私の外出は雨の日に。


 お天気もよくて、ちょっとお出かけしたいモード。
何事も無ければ、この春出かける予定の場所があった。
友人と約束していた。
でも、母の急変で予定を立てられなくなり約束をキャンセルしていた。
仕事を持つ友人なので、直ぐにと言うわけには行かない。
でも、母がここまで回復してくるとちょっと手放しをしたくなってくる。

今朝は、そんな思いを抑えこんだ。
家の中の季節の仕事は、山ほどある。まして、日に日によくなっている母の事を思うとリハビリ散歩日和の日を逃してはいけないなぁ。
行くなら、雨の日を選ぶしかないか?

冬物を纏めて、クリーニングに出す準備。
庭木をちょっと剪定。可燃ごみ回収日なので急いで片付けた。
植え替えや挿し木は後日にまわした。
北側に置いてあるビオラと南側に置いてあるビオラを入れ替えた。
北側においてあるのはどうしてもヒョロヒョロになってしまうのだ。

急ぎ昼食を摂り、母の所に出向く。
今日は、歩きのコースを変えた。
O神社をコースに入れて昔ながらの和菓子屋さんに寄る事にした。
お得意様ではないけれど顔なじみとなっているので、母の姿をみた店主はとても喜んでくれた。母に柏餅を別パックでおまけしてくださった。
お目当てはイチゴ大福だったがもう売り切れていた。
だから「お花見団子」にした。(3色のお団子)
それから、神社に寄り境内で一休み。
更に景色を楽しみながら歩いた。
出来れば、デパートで母の靴を買い足そうと思ったが時間が足りなくなりバスで施設にもどった。

かなり歩いたが、姿勢もよく足取りもしっかりして安定してきている。
疲れもそう強くないようすだった。
体力もだんだんついて来ているのだろう。よかった。


2003年04月06日(日) 筑紫の佃煮(良い患者の…)


 昨日、筑紫を佃煮にした。
春の風を取りれたつもりだったが、どっこい、母は口に運んでみる物の繊維が残りなかなか食べられなかった。
母は、繊維の多い野菜は不得意である。でも、サツマイモとか筍とか牛蒡は好きである。苦手なのは、蕗とか葉っぱの繊維がどうにも不得意のようだ。
「好き嫌い」を子供の前で言わない母だったので介護するようになって初めて知る事となった。
初めは、入れ歯だから仕方ないと思っていたのだが どうやら そればかりではないようだった。

今日、施設に行った時昨晩の睡眠が気になり尋ねた。やはり何回か起きたようである。「おそらくトイレでしょうね」というと「そうみたいでした」と。
布団から起き上がりトイレに行く事が出来ないのだ。
昨日、夜 水分を多く上げた訳ではないが、食事の時間が遅かったので全てずれ込んだと思う。こういう事は、やはり 調整しにくいので家に一泊させた方が母の為にも施設のためにもいいような気がする。

母は、今日塗り絵に挑戦していた。長く続かないが でも、やってみようという気になったのがわかって嬉しかった。
血圧が高めとなったので、散歩した。今日は戻ってから再度計ってもらった。
すると、30近く下がっていた。母は、散歩の効果が 直ぐ数値となって現れるのだ。やはり、適度の開放が血圧によく反応するのだろう。

昨日、ひさし振りにラジオに耳を傾けた。
TBSの永 六輔の土曜ワイド。
そこで、耳にした事。
介護は、織物の要領で。
縦糸になる身体介護は、社会で(汗をかく介護)。
横糸になる心の介護は、家族で。
生命を支えるという事は、縦糸、横糸がうまく紡がれることが大切と言う。
でも、医療は本来 縦糸横糸両方あるものだったという。
最近は、安全を意識するあまり暖かな医療がなくなりつつ有るのだそうだ。
本当は、医療側と家族の両方が互いに育っていく事が大切とも言っていた。

「良い医者の10か条」と言う物に対抗して「いい患者になるための10か条」を提言していた。
其の中で、特に笑ったのは…。
 誤診、医療ミスでは驚かない。
 簡単に告知させない。
 命の終わりは考えない。
 「臨終です」と言われたら死んだフリをする。
と言う所だった。
痛いところを突いている。でも、そういう事を頭の隅に置いていく事も必要だと思う。医者だって人間ですから。こちらも、また人間ですし。
病名を知る事もとても大切な事だけど、死ぬまで人間で有るし、心のある医療を受けたいと切に思う。
やはり、共に生きる事が大切な視点であると思う。

施設も同じだと思う。
在宅にあっては、家族が縦糸にもなり横糸にもなる場合が多いかもしれない。
そこに、デイやヘルパーなる縦糸が絡む事になるのだろう。
だから、なおの事注意深く紡いで行く必要があるのだろう。


2003年04月05日(土) 新しい制度(いよいよリハ開始)

 住民基本台帳を利用された。
其れは、偶然判った。別に悪用された訳ではないのだが…。
自分の意思を強行に主張しないとこんな風に流れの中で使われていくのだろう。
住基のことは、家族で話し合った。でも、結論の出ないままだった。
家族は、皆、嫌だといった。でも、強行に拒否はしなかった。
だから、当然の成り行きなのである。
何で利用されたのか?
其れは、母が年金を受け取る為の手続きに使われたのだ。
今までは、はがきで生存を知らせていた。
今年、誕生月が過ぎてもはがきが届かないので問い合わせた。
すると、「少しお待ちください。調べてみます」との事で調べた結果「住基を使用しましたのではがきは出さなくとも大丈夫です。手続きは済んでます。」という事であった。
「ふーん。知らないうちに使われたな」と思った。
もしかすると、此方が判らないだけで、もう活用されている事って他にもあるのだろう。
意思を強固に主張しないとこういう風になってしまうのだなとあらためて思った。
 もう一つ。
其れは、これから使用するかも知れない制度。
後見人制度だ。
私は、まだ、其れを使うつもりは無いのだが…。
先日の施設との話し合いの中で、後見人制度利用を薦められた。
私自身が必要に迫られてはいない。
でも、施設として揉め事に巻き込まれたくないという事で其れを薦められた。
裁判沙汰になった時を想定しているのだった。
例えば母が突如亡くなったとしてその時に因縁をつけられるのが困るという事だろう。たとえ、私が了解しても離れた家族はどういうか判らないから。
また、家族の遺産相続の際に、施設の人が証人として呼ばれる事も迷惑という事だ。
そういう事があるとは聞くが、件数にしてそんなに高いものなのだろうか?
確かに 今 私と弟達とは兄弟関係が良好とは言えない。
でも、母に異変が有ったとしても訴訟はしないと思う。また、遺産にしてもたいした額でもないし弟が何か言ったら残金はそれなりに処理しようと思っているし…。だから争いが起こるとは思えないのだ。
ここで、後見人制度利用と口にする事の方が亀裂が深くなりそうな気がする。
制度自体 悪い事ではないし困っている人も大勢居られるのだろうけれど、事
今の私達の上では良い方に変わるとは思えない。
私の考え方は、身内に甘いのだろうか?
そうでは無いと信じるのだが…。

と書きながら、母の急変を知らせては見たものの未だ兄弟から連絡は無いままなのだが…。

新しい制度は いろいろ 悩ましい。

午後一で母を家に連れてきた。
訪問リハまで時間が有るのでいろいろの事を試みた。
まず、写し絵。線のはっきりした絵をコピーして其の上に薄紙を置いて写す。
そこまでは、以外に間単に出来た。その後もとの絵を出して色を塗れないかと思った。でも、やはり未だ無理だった。
でも、文字を読む事は出来た。だから、歌詞や短い文を渡せば多少楽しめるだろう。筑紫のはかま取りは危うかった。生を口に入れそうに思えた。でも、実際は食べる訳でなく匂いをかいでいたのだった。けれど出来たのは1.2本程度で作業は無理だった。
そうこうしている内に、理学療法士さんが見えた。
初めは、身体をほぐす事から始った。マッサージと電気お灸。
最初こそ少し熱いといったが直ぐになれて気持ちよくなり眠ってしまった。
母は、横になってもまず眠らない。いくら眠くても眠らない。直ぐ起き上がってしまう習性がある。でも、今日は気持ちよさそうに眠ってしまった。
終ったらゆっくり目を覚まして「気持ちいい」と言った。
その後、立ち上がるリハを数回。
やはり、歩行や立ち上がりに問題は見られないようだった。
でも、これで様子を見て、また来週やって見ましょうという事になった。

夕食は、我が家で摂った。
先日の「かど」それに「たこ」「菜の花のおひたし」「たけのことさつま揚げと白滝の炊き合わせ」「洋風かつおたたきのサラダ」「豆腐となめこの味噌汁」「青豆のお浸し」
全て母の好きなものだ。
ただ、「かど」は一人ではなかなか解せなかった。少し手伝った。
「たこ」と「青豆」はお皿をテーブルに載せた途端お箸で取って食べ始めた。
やはり、ほんとに食べたかったのだな。
きっと、「たこ」なんてお年寄りだからあまり出ないのだろう。

食後、入浴し洗髪をして、施設に送って行った。
まだ、8時前だったが皆就寝していた。急いで布団を敷き、横になってもらった。ゆっくり眠ってくれる事を祈るのみである。


2003年04月04日(金) 夫が帰らない

 
 昨日、夫は帰らなかった。
着替えを運ぼうと思ったが、何処にいるかわからないし、若し仮眠を取っているとしたら起こしてしまうので思い留まった。
娘も午前4時の朝帰り。久しぶりだ。
夫は この時期通例であるので仕方ない。
娘はと言えば、時期は限られてない物の立て込んでくるとこんな風になる。
昨年のある時期の一ヶ月の最高残業時間は180時間を越えた。
それでも、ここ数ヶ月はせいぜい午前様くらいで可愛い残業だ。
でも、普通と比べると残業率は高いほうだろう。

こんな家族なので、家族の健康には気を使う。
食事と心の休息は、一番に気に掛けている。
だけど、私の事だから どの程度役立っているか等は判らない。
余計なお世話と言う所もあるかもしれないから。

朝、少し早く目が覚めた。食事ものんびりでよいのでシンビジュームに水やりをした。
我が家のシンビジュームは虐待されている。
冬の間も、軒下で百均の傘を差してもらって外で暮らしているのだ。
それでも、この時期になると蕾を持ってくれる。
アボガドは今年の寒さで葉を大分枯らしてしまった。どうなるだろう?
ウチワサボテンも北では冬越しできなかった。あーあっ。
それでも、今年のいいことは、ブルーベリーに実がつきそうだ。去年は数粒の実が小鳥についばまれてしまった。クランべりーも芽を吹き出した。
明日葉も新しい葉を広げ始めている。ローズマリーだって花が咲いている。
ビオラ、パンジー、水仙、プリムラ、クリスマスローズだってまだ花を咲かせている。春なんだ!

母の所にバスで向かった。バスを下りると川向こうに人影が見えた。
小指の爪くらいにしか見えないのだが其れがお年寄りだとわかる。

♪何でだろう♪♪何でだろう♪(今流行っているようだけど私はもう6,7年前から知っているぞ)
お年寄り独特の姿勢かそれとも衣類の色からか…。
そして、なぜかそこに母もいるような気がした。
施設に着くとやはり母は散歩中だった。
ゆっくり、そこに出向く。
すると、職員のかたが「さっき、息子さんが通りかかりましたよ」と言った。
「?」あそうか夫か。夫は生きて仕事を続けているのだな。
一休みして、他の方は施設に戻られると言うのでお別れして母と散歩を続けた。
すると、ゴールデンリトリバーをお散歩させているご婦人に出会う。
この方は、夫の会社に助っ人に来てくれる方の奥様。
「急がしいそうですね。今日、お手伝いに行きましたよ」とご挨拶。
ここでも、仕事している夫の影が見えた。
母と一緒なので話もそこそこにお別れした。

今日の散歩の収穫はつくし。
あしたは、佃煮にして食卓に載せよう。

母は、子供の摘み草した筑紫をいつも佃煮にしてくれたな。
春の風を食卓に載せてくれたな。

あしたは、リハの日である。
家でリハを受ける。


2003年04月03日(木) ♪どしたらよかんべ♪


 今日は、利用者さんを訪問する日。
利用者さんはここ3週間ほど外出していない。ちょっとした事で一人で起き上がる事も出来ない状態になっていた。
そのため、依頼心がかなり強くなってしまった。
勿論 外出への意欲もなくなっていた。
「情けない」と呟くのみだった。

若しこの人が自分の親だったら、どうあっても外出させただろうし、無理を承知でリハに取り組んでいただろう。

でも、私の家族ではない。
ちょっと無理を言うと「障害者の気持ちがわかってない」と恨まれる。
だから、少し控えめな対応を続けてしまっている。
ほんとは、よくないのだけれど私だって普通の人間だから非難されると心も痛む。

♪どしたらよかんべ♪と思いながら♪こしたらよかんべ♪の方法も無いままお訪ねした。

利用者さんは、まだ、ベットの上だった。
挨拶をした後、昨日までの様子を書いてある日誌にさっと目を通した。
それから、やるべきことを順々にこなした。
すると利用者さんが言った。
「桜もそろそろ終わりだね。今日はお花見がてら外出したい」「ワッ!やった!」(心の声)
大急ぎで支度した。
車椅子での外出だ。
外は、少し風が冷たいが、それでも、まだ、桜は見頃だもの。
「寒いけど気持ちよいよ。やっぱり出てよかったよ」「そうそう」(心の声)
買い物の為お店にも同行して貰った。

利用者さんの前向きな姿に出会うと此方も心が弾む。
難しい方だけど、こういう時はほんとに嬉しい。

少しの時間だけど、春を満喫して頂いた。

それに気をよくしていたら…。
なんと玄関ドアが閉まらなくなってしまった。
開閉を調整する弁を留めているねじが外れてしまっていた。
間単になおせると思っていたら一人ではどうにもならなかった。

またまた♪どしたらよかんべ♪である。

利用者さんに言っても見に出る訳でもなくて…。
「どうしましょうね?管理人さんに見て戴きましょうか?」「そうだね」
でもな、こんな事は、個人の家の問題だけど、いいのかな?と思いながら訪ねる。すると、戸惑いながらも「見てみましょう」と言ってくださった。
管理人さん一人でもやっぱり駄目で、二人で知恵を出し合って力を出し合ってようやく元に戻せた。

訪問の時間を軽くオーバー。
本来、私の仕事ではないし、管理人さんの仕事でもない。
でもな、今日は自発的に外出したいと言ってくれたしそれだけよくなったのだから「快気祝い」としましょう。
きっと、利用者さんは、オーバーしているなんて気が付いていないし私も時計を見なかったことにしましょう。

今日は、そんなこんなで遅くなった。
家に戻って遅い昼食を取っていたらホコリが目に付いてきた。
今日は、母のところお休みしてお掃除とお料理に時間を使う事にした。
母の事と家族が忙しくて帰宅もかなり遅いのをいいことに手抜きだった。
そんな訳で、気分転換をかねて家事に励む事に。


2003年04月02日(水) たこがおいしそう。食べたいな。


 今日出かけると、数日顔をを見なかった職員さんがいらした。
其の方が「この数日お休みして。でも其の間に随分よくなられましたね」と言ってくださった。ほんとに驚かれた様子だった。

今日は、かみでっぽうを折り持って行った。
みんなで出来ればと思ったのだが、手首のスナップがうまく出来ない様子で駄目だった。急遽、箱を折りそこに折ったかみでっぽうを投げ入れて遊んでみた。すると何とかできそうだった。
でも、よく考えると母の居室には小さなスポンジのボールや原毛で作ったボール毛糸だまなど有ったので其れを持ち出してきてあそんだ。
テーブルの真ん中に箱を置きそこにボールを入れるのだ。
一時間くらいそんな遊びをして楽しんだ。

一休みする為母をテレビの傍に座らせた。すると画面を見て「たこがおいしそう。たこが食べたい」と言った。
母は、食べたいものを口にする事は全くない。
「あれが食べたい」とは言わない人なのだ。
「んー」今度、たこ食べさせてあげよう。
でも、言葉もこんな風に出るようになった。

「よくなってよかったね。」と言うと「お蔭様で。ほんとに有難う」と言った。まるで、職員に言うようだったので「私誰?」と思わず聞いてしまった。
するといとこの名で呼んだ。
職員じゃないとわかっているんだな。よかった。


2003年04月01日(火) 痴呆の医療のバリアフリーってできないかな?


 今日は、用が有り母の所に出かけたのは夕方になった。
母は珍しくテレビに目を運んでいた。
こういう日は比較的調子がよいと言う傾向だ。
立ったり座ったりの忙しさも無かった。

職員の方が「今日はお散歩に出ました。お母様、歩くのもしっかり為さってました。お母様より歩けない方多かったですよ。かなり歩けますね」「姿勢も声を掛けるとちゃんと治せました」とも言われた。
今まで「散歩をしました」と聞いてもこんな風に状態まで教えてくれる人はいなかった。もっとも、散歩は私が連れ出すのが日課だったのでこういう機会も少なかったかも知れない。そして、施設でも外出しやすい季節になったので外に連れ出してくれるようになったと言う事情もあると思う。

私が「歩きました。しっかり歩けました」と言うのと母と職員で散歩に出たのでは職員と散歩に出たほうが直接母の状態を知ってもらえるだろうな。

私が「歩行リハって特別しないでもお散歩でも充分と思うのだけど…」というと「私もそう感じます」といってくれた。
唯、状態が悪い時もあるのでリハで安定できるかも知れないと言われた。
それなら、私も納得できる。

こういう話が出来るようになったのも母の急変のおかげかなと思ったりである。
話イコールクレームではないのだ。
母の状態をみて同じ視点で見ていけることが家族にとってはとても嬉しい事なのである。
「土曜からリハ始めます」と報告した。

それにしても、過日も触れたが施設、医療、リハビリと共通の基盤でに立って
一人一人を見ていくことって出来ないのかな?
なんか、一人の人間の治療が「ぷつっ。ぷつっ。」と細切れにされているような気がする。
痴呆という病に別の病が加わるとほんとにややこしい。
そうでなくとも、痴呆の人の病を見つけるのは大変なのに…。
医療制度、介護保険の改定により更に面倒になり利用できる病院や施設が狭められる予感がする。


 


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