母のタイムスリップ日記
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2003年03月31日(月) ご近所さんと「うふっ」


 今日は、母の誕生日。
赤飯を仕込み、アップルパイを焼き上げて母を迎えに行った。
風呂上りの母は、ぷんと石鹸の香りがした。
「今日はとても調子が良くて入浴時の衣服の着脱は一人で為さいました。周囲の方にもご自分から声をかけていらっしゃいました」と職員は話してくれた。
よい事悪い事をこんなふうに具体的に母の様子を話してくださるととても嬉しい。まして、今日が母の誕生日と覚えていてくださったりしているともう身内みたいな気さえしてくる。

バスのステップも階段も大分安心できるようになった。
タクシーを使わなくてももう大丈夫みたいだ。
一時はステップを上がるのに膝を折り曲げてあげてステップに乗せて上げないと踏みあがる事は出来なかった。もう、「階段よ」と声がけもしなくともよくなり「気をつけてね」で間に合うようになった。

春の景色を楽しみながらそぞろ歩き家に着いた。
直ぐに赤飯を蒸し上げる為に火をつけた。
かど(鰊)を焼き、酢大豆とほうれん草のお浸しとのりの味噌汁。ささみとザーサイの炒め物を作る。其の間 母は私がパタパタ動くのを眺めたり外の景色を見たりしていた。
予め準備していたので30分足らずで仕上がり母とともに昼食。
「お誕生日おめでとう」「有難う」「で今日は何の日?」「んー?」
こんな具合。反射的に「有難う」は出るのだけれどでもね判らないんだよね。

食後、ご近所を散歩。
出て直ぐ、ご近所のかたが付き添われてお散歩する所とばったり。
お相手は杖を突いて高齢の方とご一緒。痴呆はなさそうだが腰がかなり曲がっている。でも、母を見てにっこり為さった。お連れの方も此方も「こんにちわ」と言いながら「お互いに大変ね」という表情を送信している。言葉は無くても伝わってくる。お互いの状況は言わなくても察してると言った風だ。
「うふっ」

休みながら散歩を続けた。
桜を見上げ、枝垂桜も咲いてなんて素敵な景色なのだろう。陽気もいい。
将に「春爛漫」である。
今度は、お向かいさんが娘さんとお孫さん連れでお散歩。
「お久しぶりですね」と母に声をかけてくださる。母も「こんにちわ」と挨拶していた。

家に戻ってアップルパイとコーラでおやつ。ついでにトマトも。
一休みして施設に向かった。

バスを乗り継ぎ降りると、今度は施設の人がお散歩していた。
母を見て「元気になって良かったね」と声を掛けてくれた。
母と違うフロアの人だが最悪の時の母と出会っていたらしかった。
痴呆も軽いので記憶も残っているようだ。
其の方たちと一緒に施設に戻った。
別れた後「知らない人なのにまるで知っているように優しくしてくださるのね」と母は言った。「そうだねぇ」と返事した。
知っていようがいまいが、優しさを感じ取れればそれでいいよね。心地よい思いが広がればそれでいいんだよね。

今日はこんな風に過ぎて行った。


2003年03月30日(日) あーややこしい。

 リハビリ開始の為に罹りつけの医師を訪ねた。
リハ士が医師の同意書が必要と言うのであった。
わざわざ、昨日其の書類を我が家まで届けてくださった。

医師曰く。
「この同意書と言う物は『ここでの医療はおしまいですよ』と言う物なのだよ」と言われた。「?」
一つの病で二重に医療保険は使えないという事らしい。

母は、脳出血での治療は特にしていない。脳神経外科でCTを取ってもらったが其れも心配ないというところまで来た。
若し、これがまだ、CTを撮り続けていたら、リハは出来なくなるのか?
いや、出来なくは無い。ただ、きっとリハの保険が利かなくなりもっと利用料が高くなるのだろう。
これが、在宅であるなら「介護保険」の中でできるのだろう。
では、介護保険を目いっぱい使っていたらどうだろう?
これも、母と同じ状況になるであろう。

幸いというか、母は他にも内科的にお世話になっているので罹りつけ医でこれからも診察は受けられる。

なんという事だろう。

そして、そもそも何故リハを始めるのか?と言う疑問が残る。
精神科医、脳神経外科医、罹り付け医の3人の医師はリハという事は言わない。いや、精神科医が初診の時にチラッとは触れた。でも、最終で診断した脳神経外科医は何も言わなかった。
医師がリハといわないのに施設の職員は「リハを」と言った。
でも、GH内に片側麻痺の方が数人居られるが其の方がリハはしていない。
何故、母だけがリハと言われるのか?
確かに食事等不安定ではあるが。
歩くのだって不安定では歩けれど一人歩行もかなり安定してきた。
他の方は、歩けないにしてもリハの必要って無いのか?筋肉が固まらないようにしていく事は必要ないのか?
勿論、母がよくなる様にと思いリハを薦めてくれたのだろうけれど…。
他の人は動けなくともいいのかな?
家族がよく関わっているから、もっとよくなるようにと言ってもらったのかな?だとしたら不公平である。
きっと、これも入所形態が違うという事なのだろうけれどでも入ってしまえば
皆、入居者であり平等ではないのか?

いや、リハが面倒と言っている訳ではない。
母の為に必要とは思っている。でも、先日の日記でも触れた通り歩行リハより言語リハ。手先のリハ。のほうが必要に思う。
そして、何より「視床痛」を改善できればいい。
だから、リハは受けさせようと思ってはいる。

一昨日、役所でもリハの施設はあるらしいと教えていただいた。
これは、痴呆だと利用できないのかな?
老健、特養、病院それぞれにリハの設備はあるなぁ。
でも、以前 公立病院で見た様な細かなプログラムのリハってこの街では見かけないなぁ。
この街でリハの必要のある人ってどれくらいいるのだろう?
また、痴呆の人ってどの位いるのだろう?
急に気になってきた。調べてみるのもいいかもしれない。

今日は、母の所に鈎針と毛糸を持っていった。後は、ちょっとしたビーズ。
編み物は無理だろうけれど、鎖編みで綾取り糸くらいは編めないかな?と思ったのだ。20センチ位のを2本編めた。少しやってみようと言う気が起きているみたいだった。ちょっとづつ、編んでもらってみよう。
鎖編みをしなくとも綾取りは出来た。Fさんと母と私でやってみた。皆同じくらい出来た。良かった。
その後、車椅子の2人と母とでビーチボール転がしをしようと思った。
そこへ、Iさんも加わった。ところが一人の方の所にIさんはきつく転がす。
あまりに酷いのでちょっとたしなめたらもう反撃されてしまった。
「この人は怠け者で手を動かさないから」と怒る。
言い方を替えて褒めの戦術で行き「バレーボールの選手みたいに強いね」と言ったら「私はバレーボールなんて遊び大嫌いだ。畑仕事に忙しかったから」とまた怒られた。「んー。そうだね。畑仕事していたから俊敏なんだ。きっと、世が世ならオリンピックの選手になれたかもね」といってみた。
でも、手加減はあまり変わらなかった。
今度、どちらかの手を使えようにして、平等の立場でゲームをして見れば少しは判ってもらえるかな?でも、やっぱり怒ってしまうかな?
気分転換を図った方が優しくなるのかな?

介護もややこしいな。


2003年03月29日(土) 鰯の頭も…。


 昨日は、母のところはお休みした。従いトマトもなし。
今日が見物だったが、いつも通りの母だった。
鬱の症状は、大分改善されている。
トマト効果は、鬱に関係ないのだろう。
でも、トマトの効用は血液をさらさらにすることは間違いの無い事だ。
父は、ガンだった。其の父がトマトを山のように食べた。
ガンに効くからと言うより「食べたい」と言う意思で食べていたのだ。
今の母と同じようにおやつのように食べていた。
そして、術後10年生き延びた。
今の母もそうだがトマトをとてもおいしそうに食べる。
食べたいと言う身体の欲求があるようにみえる。
其れが一番だ。
だから、トマトはこれからも食べてもらおうと思ってはいる。
実は先日お会いしたから「トマトの効用ではなく時期的なものだったのではないか?トマトなら毎日食べさせているわよ」と言われた。
うすうすは感じていたが、よくなったきっかけがトマトだったような気がして止められなくなっていたのは事実だ。
それにしても「鰯の頭も信心から」とはよくいったものだ。
これで、息が詰まるような介護の中で救われていた部分があるから不思議だ。
トマトだから悪くないと言う思いもあって試し続けたけれど…。
という訳でお粗末な報告。

昨日、母は頭痛などが有ったと聞いていた。
今日の母は比較的落ち着いていた。
「排便してよいですか」と聞きトイレに誘導するといきむ事も出来た。良かった。

外出してデパートに立ち寄った。
そこで、可愛いピンクのセーターに目が止まった。
胸の辺りに同じピンクの小さなリボンがいっぱい付いていた。
母に合わせて「欲しい?」「似合う?」と聞くと「うん」といった。
急変前なら「あなたならいいけど、私は…」と言っていた筈だ。
散々迷ったが、買うのは止めた。
母が着なくて私に回ってきてもピンクはちょっと…。
無駄にしたら勿体なので…。

ピンクと言えば、さくら。
この街にも5分咲き位のところがある。そこで、さくらの花を見上げた。今年は感慨深いさくらだ。母とともに見ることが出来てよかった。

疲れた表情の母なので家に戻り少し横になってもらった。
5分くらいは静かにしていたが、直ぐに復帰。
お茶で一息ついた。
暗くなる前に施設に戻った。


2003年03月28日(金) リハが始るかな?


 移動のシーズンである。
今日、登録しているボランティア先の看護婦さんからお電話を戴いた。
移動で、役所に戻られるとのご挨拶だった。
10年近く所属していて移動を直接知らせて戴いたのは初めてかな?
ここでお会いした会員以外で 信頼して相談できる方が一人いらっしゃる。
其の方は、年上だが、今回お電話くださった方は、年下である。
でも、これからもきっとお付き合いは続きそうな気がする。

昨日の事に追記なのだが…。
私は「介護に熱心だから」とか「よく頑張っていらっしゃるから」とかいわれる事がある。昨日触れた方も言われるらしい。
「でも、介護って、技術じゃないよね」「頑張ったからどうなると言う物でもないよね」と話になったのだ。
勿論、医学的ベースも必要だが、そして介護技術も必要だが。
でも、根本は心のような気がする。
医学的に適正に看病して、介護技術も適正であっても心がないと好転しないように思う。心と一口に言っても難しい。
気持ちが通じ合うと言ったらよいのだろうか?
其れは、よく「家族の愛」と間単に表現されてしまうが、そうではない。
家族以外の人であっても、そういう人はいるのだ。
其の事に気が付いている先生や介護職の人がいる。
よく「ここまでが仕事」ときっちり枠を決めてる方がいる。
確かに業務上は間違いないのである。
でも、相手は心もある生きている人なのである。
仕事との境界線にこそ介護者の本音が見えて来るような気さえしてくる。

と言った所で最初の話に戻る。
看護婦さんは、私の訪問先の人の話をした。
呆れてはいるけれど気懸かりなのだ。私にも其れは判る。今後の事も含めて話をした。マイペースの困ったチャンなのだけれど、黙ってみている事も出来ず良い方法を皆で捜し求めているのだ。
その後、母の話となった。
「もしかするとお世話になるかも…」と話していたので気に掛けてくださったのだ。
そこで、リハの話をした。
すると、電話口で「こことここ」と訪問リハをしている方を教えてくださった。
一つの所は、病院勤務経験ありの理学療法士でケアマネの資格もありヘルパーの資格も持っていらっしゃると言う人だった。
訪問リハで何を基準に選べばよいのかと焦点を絞りきれずにいた私に大きなヒントになった。

これは、この方の仕事の境界線である。
別に、仕事ではないので「大変ですね」で終ってもおかしくないのである。

そういう訳で、夕方、教えていただいた所に電話をした。
状況の飲み込みが早かった。利用前に医師の指示書が必要との事で書類を届けて下さるとの事。気になる利用料は、医療保険(施設入所のため介護保険を使えない)を使い一回400円程度という事だった。
ちょっと目の前が明るくなった。
リハもそうだが、母の痛みは視床痛らしくその治療もしてくださるという。

これは、やってみなければわからない事もあるのでまずは利用してみようと思った。


2003年03月27日(木) リハ通院見直しか?

 今日、罹り付け医に通院。
相変わらず頭が痛いというので鍼治療をしていただく。
母は「いたがゆい」と言っていた。直後は特に変化なし。

先生に紹介状を書いてもらう予定だったが…。
「遠くに行かなくとも訪問でリハしてもらったら?」と言われた。
先生の心当たりや、市役所、福祉協議会に電話をしてくれた。
そういう訳で、予定は少し狂ってきた。
また、一から出直しだ。
先生は、私の苦労を思って言ってくださっているのだろうけれど、予定が狂ってくると少し負担。でも、ま、いいか。
人の温かな配慮なのだし。

そういえば、昨日 スーパーで介護仲間とパタッと行き会った。
お互い忙しい身でちょっとのつもりだったが、一時間も立話。
他の人の邪魔にならないようにあっち移りこっち移りだった。
其の時、人への介護の話を伝える難しさの話となった。

私も時折とても気になることが在る。
介護は人それぞれであり、これがいいという決まった物ではない。
でも、こういう事もあった。こうすると良かった。等介護のヒントになればと話すのだが、其れが、其の通りにしなかったから悪化したと思ってしまう人が人が居て、伝える事の難しさを痛感するのだ。
此方は、其の通りしなさいなんて言う訳ではないし、家に良くても他にはうまく行かない事だってある。
例えば、ある人に銀杏の葉のエキスが良くても別の人には効果なしという事だってあるのだ。試して効果が無かったら直ぐ止めればいいし、やりたくないと思えばやらなくてもよいのだ。それは、介護者が決める事なのである。
また、ジョクが出来ないように無圧マットがいいとか伝えてもそれ以外に良い物はあり選択肢が増えれば其の中から一つ選ぶのは介護者の判断なのだ。

私も伝え方が強すぎるかなといつも気にしている。其の方も最近とても気になってきた。と言う。
私から見て其の方が強く言っていると感じた事はない。
でも、そう感じる人もいるそうだ。

言われた通りにしないから腹を立てたり軽蔑したりなど全く無いのだが…。

それと、介護しながら「これでいいのか?」と悩んだりイライラして大きな声を上げてしまい、あとで自己嫌悪に陥る。其れを繰り返す自分が情けなくなる。そういう日々を過ごしているうち胃痛が始る。其の構造が見えていてもどうにもならない。
介護の日々は、其の繰り返しである。
お互い うんうんと頷いた。

また、デイや施設、ヘルパーさんへの不満や不安。
これも、看て戴いている身だしよくして頂いている事もあり感謝する一方での
此方の思いなのだ。
そして、私にとってはよくないと思うことでも、他の方にとって良い事もある。そうなると、うっかり言えなくなるのだ。

こんな話を止め処も無く話し続けた。

つまり、今日のお医者さんの配慮もそうなのだ。
二人で「介護って難しいね其れを伝えるのも難しいね」と口を揃えてしまった。



2003年03月26日(水) この歌を忘れないように


 母と散歩していた。
其の時「朧月夜」を歌った。母は、ちゃんと歌詞が出ていた。
でも、「何か歌って」と言っても曲はでて来ない。頭を歌えばついて来るのだ。
歌い終わった時「この歌を忘れないように」と母が呟くように言った。
そして「いっぱい覚えていたけれど、忘れてしまった」と続けて言った。

以前の母は、そうは言わなかった。
何かが違う。でも、「これ」と言いきれるものはない。

今日は、ステンシルの使い残しを施設に持って行った。
絵は描けない。折り紙もしない。そういう方が多い。
スタンプ遊びならできる人も居るかなと思ったのだ。
今の母だって絵も塗り絵も折り紙も一人では出来ない。でも、スタンプなら使えそう。葉っぱをスタンプにしてもいいだろう。
何か、作り出す喜びができればいいなぁ。
他にも、歯磨きチューブや薬のキャップ。ミルクの入っていた小さな器。はんこに使えそうなものを多々持って行った。
スタンプ台もペンも持っていった。

今日は、Iさんが着物を着ていた。
昨日、母達が着物を着ていたので出して見たのだろう。
やはり、みんな着たいのだな。
母は、昨日「いつも、着物を着ているから」と言って就寝前までずっと着物を着続けていたそうだ。




2003年03月25日(火) 判断に苦しむ症状。

 今日は、3月生まれの人の誕生会だった。
着物を着付けていただき、みんなからお祝いして頂いた。
ホームに手品のボランティアのかたが見えマジックをひろうしてくださった。
ケーキとお茶。抹茶と和風クレープを戴いた。

母は、着物を着ていたいと誕生会がすんでも着物を着ていた。
ふと、お正月にきついだろうと写真撮影を済ませて直ぐ着替えさせてしまった事を反省した。
今日の母は、きついと帯を下の方にずらしながらも着ていたいという意思表示をしたのだ。お正月の時もそうだったのかな?
私は、つい 忙しくしていて自分の事を優先してしまっていたかも知れない。

母は、ちょっとならスーと歩いたりできるようになりつつある。
ここまで来ると、これまでの事を振り返ってもいいかなと思う。

痴呆の人が病気になるとなかなか判らない事が多くなる。
今回の事も、脳出血だったとわかったのは念のためのCT撮影により判った事だ。
見た限り、麻痺も無く(現に今も麻痺は無い)何かが起こったかもしれない時
誰も傍にいなかった。これは、避けようもないことだ。
在宅だってこういう瞬間はあるだろう。

ここまでは、これまでの事。
今、直面しているのは、リハの事。痛みの事。
罹り付け医に報告がてら電話を入れた。
既に精神科医から報告が入っていた。
脳神経外科医の診察の事を報告した。
其の時、今回の出血場所から考えて運動機能は関係ないだろうという判断があった。素人の私が見ても歩行リハには多少の疑問が残る。
でも、施設側は、歩行が不安定、段差の距離感角度もリハに入るという。
歩行、段差などは初期と比べて随分よくなっている。
また、急変して数日の内に目を開けてちゃんと歩行できていた事を考えるとどうなのだろう?

私は、むしろ言葉の方に気になることがあるのだ。
聞く事は理解できるが、言葉を発する時随分悩み言葉を捜しているのが見えるのだ。例えば「トイレに行く?」と聞くと「トイレに行くことがあまり無いように思うのです」と返ってくるのだ。
そういう反応が多いのだ。此方が母の言葉を推測するのだ。
其の上、母自身がきちんと話そうとしても適した語彙を選べず「わからなくなった」と思っているように感じるのだ。
歩行するのに歩く迷いは見られない。でも、言葉は随分迷っているようにみえるのだ。
言葉も、時にきちんと話せるが其れは質問に答える形でなく自分の意思で話す時は割りに適切な言葉を使う。

もう一つ。
其れは、痛みの訴えだ。
今までと同じような動作の中で急に「痛い」と訴える事がふえた。
肩こりなど無い母が首筋や頭が痛いと訴える。
「すわっ」と身構えてしまうが血圧の上昇があるわけでなく一過性のようにも見える。判断が難しい。
昨日、ネットで脳出血の体験記を見て、痛みが出ることを知った。
ひょっとしたら、これってその痛みではないのかと思った。軽くとも起きるとあった。そして、後遺症なら病状的には心配ないともあった。
でも、本当にそうなのか?母の痛みは後遺症と考えて間違いないのか?

こんなふうに判断に苦しむ事が多くなった。
専門の人でも、判断が微妙に分かれることを思うと家族がしっかり見極める事も大切なのだろうとも思える。
やはり、最後は家族か?

其れと母が此の頃、私の名前を呼ぶ。
在宅の頃から、母は私のことを、母のいとこの名で呼んでいたのだ。
初期の頃こそ「あっ、間違ってた」と訂正していたが、ここ数年は間違いを指摘しても「こんな立派な娘はいません」とか「有難う。勿体無い話です」というくらいだった。
それが、急に正確に呼ぶようになったのだ。娘と認識しているかかは疑問が残るが否定はしなくなっている。
これは、どういうことだろう?
急変以来、始った。
こういう事って、普通にあるのかな?

痴呆って、一体 どういう進行するのかなぁー。











2003年03月24日(月) こんな私でも喜んでもらえるの?


 午前中の内に施設に出向いた。
今日は、できれば美容院とかかりつけ医に行きたかった。
午前中のうちに美容院に駆け込みカットしてもらう。
「男の人みたいになるから」と母は刈上げを嫌っているのだが今回に限り許してもらおう。通院なども増えてくるので美容院に行く事が少し遠のくかも知れないと思うから。
ごめん。よくなったらまた少し長めに戻すからね。

家に戻り昼食。
スナックえんどうをテーブルに載せると直ぐに手でつまんで食べ始めた。
急いで、お味噌汁、ご飯、お肉、かぼちゃサラダ、トマト等を並べた。
母は、上手に箸を使い食べる事が出来た。
が、食べ終えると直ぐ腹痛を訴えた。
おそらく便秘と言うほどではないが詰まりかけてガスが溜まっているのだ。
数回トイレに通いようやく大が。けれど、その後も痛みのあるようで「おかちゃん」と小さく呟く。入浴で身体を温める事にした。
幸い母も入るという。
入浴後は腹痛も治まりほっとする。
お茶を飲み終える頃には 日が傾き始めていた。
通院を諦め施設へと戻った。

母の言葉に耳を傾けていると判らない事、表現できない事に相当不安があるように感じる。
「忘れられてしまう。忘れられてしまった」という言葉を耳にした。
其れは、私がほんの数分母を一人部屋に残した時のことだった。
メモを残し離れる事もきちんと説明したのだが…。
読めていたし「はい。わかった」といっていたのだけれど…。
記憶に穴が開いているのかな?」顔を見せればとても安堵した表情になった。

そういえば、「こんな私でも人に喜んでもらえるの?良かった」とも言った。
其れは、トイレでちゃんと用を足せた時「良かった。嬉しいね」と母に声をかけた時に返ってきた言葉だ。
人に世話ばかり掛けるという思いでいっぱいなのだろう。
私にしてみれば、好転している状態をつぶさに見せてもらい嬉しいのだけど、母にはきっと辛い事なのだろうと思った。
そういう記憶こそ消えてくれれば母はもっと楽になれるだろうに。

明日は3月生まれの誕生会だ。母とFさんが主役の日である。



2003年03月23日(日) 目で話す

 今日の母は 以前の悪い時の母位に戻っていた。
職員の声がけにもにこやかな笑顔で応えていた。
目を開けて一人で少し歩く事もできた。
「手を洗おう」といえば、洗面台に行き蛇口をひねり手を洗いタオルで手を拭くことまで一人で出来た。
昨日と比べても格段と違う。気候がよくなったせいかな。それともみな同じ目線になって心地よいのかな?
鏡の前に行けばブラシを手にして髪をとかした。
こんな日が来るなんて…。やはり、時間も必要だなぁ。
あれから、もう直ぐ一月経とうとしている。

今日の母の様子をAさんは
「この人ね目を開いて自分で食べている。言葉は無くとも目でお話が出来る。
遠く離れていても目と目が合えば目で話すんだ。良かった。」と喜んでくれた。
Aさんが入居して数日のうちに母が急変したのでAさんはとても気になさっていた。自分がそうなったら…。ととても不安を覚えられていた。
でも、Aさんからみても母がよくなってきている事が判るのだ。
これで、多少Aさんの不安が解消されればいいな。

今日は近くを散歩した。
急変以来、木の種類を認識できなかったのに「つげ」とか「さくら」とかちゃんと自分で見て言えた。
広めの薬局に行きカートを押して歩行訓練。ここのは、普通の大きさだが充分だった。母は声を掛けなくとも目を開きお店のなかを見ていた。

ここまで来ると、歩行リハを通院までしてやる必要があるかな?と思ってしまう。もともと、目をつぶっているから歩行が不安定だった訳で筋力そのものが落ちている訳ではない。階段だって何とか上れていたのだ。
せっせと外に連れ出せばリハ代わりになるように感じるのは違うのかな?
歩行リハって、筋トレだろうと思うけど他にもあるのかな?  

今日は、トマトと文旦を持って行った。母は「おいしい」とぺろりと食べた。
これで、排便調整できるかな?


2003年03月22日(土) スーパーで歩行リハ?


 先日の施設の話し合いのなかで「今は自立歩行は無理だけどきっとできるようになる」という前向きの言葉を戴いた。そのために歩行リハビリを受けた方が良いとも言われた。施設側に近隣でのリハ施設は判らないというので「此方で探してみます」と返事した。
この街にもリハ出来る所は有るのだがGH入所なので介保利用のリハは出来ない。そこは、介保利用の所だというので不可能だ。
先日、別の事でネット検索していた時、少し離れているはいるがそう遠くない所にリハ科のある病院を見つけていた。
今日、思い出して電話してみた。
介保を使わず医療で受けられ、通院も可能だという事がわかった。
外来で診察を受け医師と理学療法士でリハの組み立てを為さるという事だった。
近いうちに通院してみようと思った。でも、良い所かは利用した人が居ないのでわからない。

歩行リハといえば、今日は母を連れてスーパーに行った。
そこは、広めのお店でカートも普通の倍もあった。
「ん?」と思い母の手を離してカートを押してもらった。これがいい塩梅だった。昨日、いくら頑張っても背中をまっすぐに伸ばせなかったのに姿勢がしゃんとした。母一人でも出来るように思ったが安全のため私が調整役をした。
お店で2時間くらい過ごしただろう。帰路、母の姿を見たら背中がシャンと伸びたままだった。偶然の産物だな。
これなら、リハ通院も効果があるかもと思えてきた。

今回の事で、あちらこちらでお世話になった。これから順番にご報告に廻らなければならない。今日は、ケアマネさんに報告の電話を入れた。
直ぐにデイ利用の手続きをしてくださっていたのでそれも取り消す必要がある。快く了解戴いた。
連休が明けたら順に報告していかなければ…。

そう。オンブズマン利用後、職員の方の対応が良い方に変化している。
母の事、家族と同じ目線で考えて貰えるようになった。
以前利用していたデイと同じ視点だ。
やはり、家族にとって同じ目線で介護できる事はとても嬉しい。
家族一人がいくら踏ん張ってみても効果は上がらない。職員の方と協力できれば良い効果が得られし変化も見えてくる。
家族のストレスも減る。職員の方に甘えすぎないように此方の配慮も充分に配慮しなければと思う。


2003年03月21日(金) 重い腰をあげた


 今日の昼食は、握り寿司だったみたい。
入居者の前で職人さんが握ってくれたと言う。
母は御寿司が大好き。一人前をぺろりと平らげたらしい。
そうだね。そういう母だよね。良かった。

で、私の方は午前中に牡丹餅の準備。
台所に、小豆ともち米を炊く香りが立った。
きな粉が無かったので、すりゴマにした。2色の牡丹餅を仕上げて母の所に出向く。
良いお天気だったので、近くの公園まで出かけてベンチに腰掛けて食べた。
母は、好物の牡丹餅とトマトをおいしそうに食べた。

母は、このところ排泄を知らせられなくなっている。
歩けるが、自分の意思で歩行する事が出来ない。怖いようだ。
でも、トイレで用を足したいとは思うみたいだ。
けれど、其れを伝えられないので、その場に立ってみたり「おかちゃん」と声を出したりする。もともと、感情が不安定になるとそういう傾向はあったなだが。
今日も、そんな日だった。「お腹痛い?」と聞くと頷いた。
トイレに誘導して何とかすんだ。
もう一つの問題は、トイレでいきむ事が出来ない。
暫く前から其の事に気が付いていたので誘導の度にいきむ事を繰り返し声を掛けちょっとでもいきめたら「其の調子」と褒めていた。
今日は、力まないと出ない状態で幾度かに分けて排泄を繰り返してみた。
どうも、全部はできらないみたいで「おかちゃん」は続いた。
軟便でなければある程度は我慢できるようなので、りんごで調整していた。
この辺も、母の課題である。
本人に失敗を感じる事が出来、恥ずかしい事と思っているようなのでうまく排泄の誘導をしなければならないだろう。でも、そこまで施設に望む事は無理と思う。仕事外の事と思う。出来る限り私が見ていこうと思う。

今日は、渡米していた娘が帰国する日。母の所に行ったりでなかなか連絡が取れなくなっていたので早めに戻りフライト状況をチェックし、夕食を作る事にした。

とここまで書いて、今日の題名の事に。
昨日のGHからの依頼で弟達に連絡しなければならない。
実は、今までも幾度も話す事を想定してみていた。愚痴や嫌味怒りを出さない事が私の目標なのだ。弟達は弟達と割り切れるようになってはいたのだが声を聞けばどうなるか自信が無かったので自分からは電話しないでいた。
でも、今回は避けて通れない。
追い込まれてようやく重い腰を上げる事となった。
母の急変、施設からの要望を伝えた。
仕事の区切りがつき次第こちらに来ると言う返事だった。
そこで後でもめないように、夫は今とても忙しい時期で此方に歩調はあわせられないので兄弟3人で話し合いになるよと先に伝えた。
うまく行っている時なら、こんな事なんでもないが…。

重い腰もようやく上がり また新たな展開が始る。
でも、助けてもらうという事を期待しない。弟達は弟達。私は私。それぞれのペースでやるしかない。
もう、感情のもつれのゴタゴタは嫌だ。疲労度が増してストレスが溜まっていくだけだから。








2003年03月20日(木) 長い一日でした。(書き足しあり)

 今日から利用者さんの訪問を開始した。
訪問先の方は転倒して相当の打撲を為さったらしい。通院の有無をケアマネさんと看護婦さんで今朝様子を見て決めるという留守電が入っていた。
お訪ねして、通院しないと言う方向に落ち着いた。
そこで、フルに活動して、其の儘母の施設に向かった。

その前に、今回の経緯で日記に記してない部分がある。
其れを先に補足させてい頂きます。

其れは、福祉オンブズマンを利用させていただいた事です。
責任者の方からのお話に納得できないものを感じていました。でも、直接施設の方にお話できずにいました。これは、痴呆の介護をなさっておられる方ならご理解いただけるかと思うのですが、利用者は苦情や疑問をストレートに言い出しにくいものなのです。
以前に、市の職員の方から「なかなか、いいようですよ。気軽に一度覗いてみたら?」と薦められていました。
そんな訳でちょっと相談して見ました。相談員のかたは話をよく聞いてくれました。纏め切れない所を順序良く聞いてくださいました。
その時、結果は2ヵ月後位と言われてました。
母には間に合わないなと思っていました。
でも、ある方から「出来る限り急いで欲しいと伝えなさい」と言う知恵を授かり再度その事を伝えました。

ところが、オンブズマン利用は場合に依って心証を悪くしてしまう事も有るという事が耳に入ったりしました。
「あ、失敗したかな?」と思いました。でも、その時は在宅にすれば良いと心を決めました。
オンブズマンの方は出来る限り名を伏せると言ってくださってはいたのです。
母の為にならなくとも、利用する人が納得できるものになればいいのだし…とも思いました。

そして、今朝、出かける前にオンブズマンの方からお電話を戴きました。
一昨日、訪問調査をしたこと。そして、お互いもう少し話し合ってみなさい。
よく話し合えば大丈夫ですよ。そして、引き続き利用していきたいと意思表示をするように。とアドバイスされました。

電話を頂き励まされたのも事実ですが、心証を悪くしていたらどうしようと不安にも感じました。

施設に着いた時、責任者は見えなかったので母の所に行き、トマトを食べさせたり、ボールの受けっこをしたりしました。
職員の方に責任者の方は?と聞くと今手が離せない用があるので暫く待ってくださいといわれたので昼食を摂りました。
戻って、責任者の方とお話をしました。

始めは少し確認事項などあり、何となくギクシャク感が有りました。
施設側として、行政の査察が入り入所基準に会わない人が居ることを指摘されピリピリしていたようです。
私は、母が何故退所に向けての話になったか納得できなかったのは母より重い方がいて其の方はそういう状態で入所してきている訳で母は今そうなったばかりでしたので何故?と言う思いが強くありました。
私がこの事を日記に書かなかったのはひょっとして其の事に引っかかって別の問題になってはいけないと思ったから其の部分は伏せてました。
でも、今日の話し合いで、其の部分は了解出来ました。
GHの問題は、行政指導、入所基準がかなり影響しており難しい事があると思いました。

その後、言われました。
今回のような母の状態から回復するのはまず無いという事でした。おそらく胃ロウになっていただろう。間違いなく。と言われました。

その後もいろいろお話をしました。
これから、入所を続ける場合、「救急医療の利用の為の了解」「私達兄弟全員の了解」が必要であるという事でした。
それで、初めて終身となるようです。
入所の仕方もちょっと此方は他の方と違っていました。
驚いたのは、広報を見て入居したのは母ともう一人だけで、他の方は別の形で入居なさっておられていた事でした。
だから、例外と言うことも有ったようです。
他にもGHのシステムも初めて知った部分もあります。
やはり、これは聞いて見ないと判らない事でした。

施設側も私が中途半端に制度を知っているので判っていると思っていたようでした。でも、実際の所、GHに当たり前でも部外者にはわからない部分が多いのだけど…。そして、GHが目の敵にされていると言う被害者意識も根底にあることも知りました。

話の流れから推測できるとは思いますが、今回は母は施設に継続して入居できる事となりました。
でも、一応形の上では終身利用となります。でも、医療を利用の時そして急変の時には随時考えていく事にしました。

そうそう行政のGHの基準に急変したら一日も置かない事というくだりがあり違反すると大変なのだそうです。
臨機応変と言う幅って行政にはないのでしょうかね。
その辺のところお役所に伺ってみたいところですね。

話し合いが終わり 家に着いたのは7時を回っていました。
長い一日でした。

特記します。
行政とは市町村レベルでなく、都道府県や厚生労働省レベルの話です。





2003年03月19日(水) 捨てる神有れば拾う神有り


 母の状態は少しづつ良くはなっているが…。
今日は、目は空いていたものの気持ちは落ち込み気味だった。
「何処か痛いの?」と聞くとお腹と歯が痛むようだった。
歯は、口をすすぐしか方策が無い。お腹は、トイレかな?
トイレに誘ったけどまだでないので気分転換と散歩にでた。
歌ったり、さくらの蕾を見たりと楽しんでいるうち空き地で小さな筑紫を見つけた。
母に「これは?」と聞いたが直ぐに固有名詞が出てこない。
「筑紫だね」と言うと「うん」と言った。
暫く経ってからもう一度聞くと今度は「つくしんぼ」と返ってきた。
そして、その後「一つ一つの事がわからなくなって」と涙をためていった。

やはり、何処かでおかしい思い出せないという事を認識していると感じた。
だから、辛いのだな。

母の急変時、Fさんが「目を開けて」と声を掛けてくれていたが、思うように行かないので今では「この人目を開けないの」と投げやりである。
これは、仕方が無い。この事に対しての責任はFさんには無い。
ところが、今日は、I氏が母に声を掛けた。
母も落ち込みから立ち直っていたのでニコニコしていた。
其れを見たI氏は「治ったんだね」と声を掛けてくれた。
「ん、大分よくなったけど、まだ、思い出せないこと多くて哀しくなるんだって」と言うとI氏は目を潤ませて「よく頑張ってここまで来たよ。よくなるまでもう一息だよ」と言ってくれた。
入居者はみんな痴呆だ。さっきの話が通じなかったり、話しかけられても直ぐに反応できなかったりといろいろあるのだけれど、でも、こうやって励ましてくれるのだ。ほんとに嬉しい。
捨てる神有れば拾う神有りと言った所だ。これは、職員の方も聞いていて直ぐに「Iさん凄い。偉いね」と直ぐにフォロウしてくださった。
こういう瞬間に声を掛けてくださる事がGHに増えてきている。

もう一つ。
散歩より戻った時、腹痛があった。
「トイレ行く?」と聞くと「うん」ちゃんと用が足せた。その後時間を置いて尿のお知らせ。トイレでまた用を足せた。やったぁー。
排泄の不安も感情にかなり影響するみたい。その後の母は落ち着いた。

今日は、百人一首を準備予定だった。でも、夫が貫徹の仕事となって午前中はいろいろ 家事に追われて出来なかった。
だから、リハの道具は色板にした。娘の小さい頃遊んだ物だ。
原色でひし形、四角、三角の形のものがある。
これを、形別に集めたり、色別に集めれば認識も高まるかなと思った。
母は、其れを見て「綺麗」と言った。そして四角三角ひし形と言葉を使い分けた。分類はあと一息。少しは分けられたが、…。これを少し続けて見よう。

娘のおもちゃがこんな所で活躍できるとは。

今日は、他にも介護仲間の86歳の方と偶然お会いして暫く話し込んだ。
これは、次の機会に…。





2003年03月18日(火) 百人一首を分解してリハにできるかな?



 母は、花札と言う物を私達にはさせなかった。弟達は、何処からか仕入れてきて花札を父と一緒にしていた事がある。
その時だって「もう…」と言っていた。でも、坊主とか猪鹿蝶とか知っていたみたいだった。
おかげで、私は花札の仕組みがイマイチわかっていない。

母を訪ねると花札をしていた。
と言っても、今の母は順番もカードを引くとも指示されなければ出来なくなっている。それでも、目を開けて仲間に入れてもらっていた。
おそらく、介護士さんがリハの為に取り入れてくださったのだろう。
今日の勤務者は介護に前向きな方達だ。いや、みんな前向きなのだろう。
でも、心を感じるメンバーなのだ。
もう一回訂正。私がそう感じると付け加えさせてもらおう。
どうも、完全にゲームが出来た訳ではないけれど、皆楽しんでいた。
そして、おやつ。
今日もトマトとりんごを持参。職員が「缶詰ですか?」と聞いてきたので「レンジでチンの柔らかりんごです。少しお砂糖かけてます」と言うと硬いと一個は無理ですからね」と言ってくれた。

今日は、彼岸の入りという事もあって、家族の面会が多かった。
こういう日は珍しい。面会ノートには、私の名前ばかりが続く時が多いのだ。

そうか、20日まで後2日か。
そこで、退所が決まるのだなぁ。

少しの時間外に連れ出した。
今日は、左の靴の着脱が大変そうだった。

でも、水道の栓を開ける事が出来た。締めるのはここ数日できて来ていたのだが開ける事は出来なかったのだ。
手を洗う事だって、水のあるところまで手を引いてあげないと出来なかったのに昨日も今日も一人で出来た。
そして、涙も無い。

後は、話す事かな?少しづつ話せるようになっているし、前のように口パクで単語だけという事はもう無い。
これから、文字の切り抜きでも作るかな。それとも文の分解をして並び替えをしてもらうのも良いかもしれない。
其れこそ、母の好きな百人一首なら可能かもしれない。まずは、カルタのコピーを取ってみる事かな?其れを切り離して並び替えてもらえば多少の訓練になるかな?明日の朝の仕事にしよう。


2003年03月17日(月) どっと疲れが…。


 いや、母の事は危ういながらも調子よく行っている。だから、疲れない。
今日も、トマト届けて自力で食べた。おいしいと食べた。夕食の少し前で気になったので職員に「いいでしょうか」と尋ねると、お腹いっぱいだったら夕食を少なくすれば良いですから」と言われそれじゃ困るので夕食まで立ち会って全量食べ終えるまで見守った。

職員は其れでよいだろうけれど、家族としては朝まで食べられなくなるのはあまりにも可哀想に思えてしまう。
私が、もっと早く行けば良かったのだけれど、今日はそういうわけにも行かなくて…。

今日、偶然に精神科医とお会いした。
「どうですか」と聞かれて、CTの結果と今の母の様子をお話しすると少し驚かれていた。やはり、ここまでよくなるとは想像してなかったみたいだった。
「GHとよく話し合ってください」とも言われた。
この度のいろいろの事、無理も無いのだ。それほど母は、深刻な状態だった訳である。
でも、急激な変化の後もちゃんと歩けた。話できた。目をしっかり開けたその場面は私しか見ていないのだ。他の人は、状態の悪い所しか見ていないのだ。
私が、オーバーに話していると思われても仕方の無い側面はある。
でも、脳神経外科医は、そこに着目してくれ「大丈夫でしょう」と言ってくれたのだった。
本当に複雑な思いがしてしまう。

専門家でも予想を少し外してしまう事もある。だから、介護なさっておられる方は、全てを鵜呑みにしないで様子をよく観察なさる事をお勧めしたい。
専門の方のほうが、概ね正しいのだろうけれど、でも、望みを捨てない事もやはり大切だろうと思う。

母が、これから順調に回復すると言う保証は何処にも無い。
明日、急変もゼロではない。
でも、其れと、今回の脳出血とは関係ないという事は言えそうな気がする。

母は、今日も歌を歌ったりお話したりと出来たらしい。
ビーチボールキャッチだって、グーチョキパーだって今日も頑張った。

さ、明日はどうなるかな?

と書きながら、今日は非常に疲れた。
諸事情により書けないけれど、たった一人の人に振り回されて疲れてしまったのだ。その方の気持ちも判るし大事にしなければならない事も判っている。
判っていても、諸事情でそこに時間を裂けないという事もある。
通過させなければならない事も出来ないまま時間切れ。
参加者は、みな 疲れた事だろう。
多数決にすると「少数意見の無視か?」と責められてしまう。
たった一人の事で、20名近い人が立ち往生。
これって、民主主義に反すると思うのだけど、無視できない優しさがみんなにある。その事を本人は、何処まで気が付いているのだろう?
人に「謝れ」って言っていたけど、その人だって皆を困らせているのだから謝るべきだろう・・・。と一人思った。
誰かーあの人止めて。

今日一日は、有意義な日になる筈だった。
でも、疲労だけ徒労だけがずっしりと重たく残った。

こんな事でめげられない。気を取り直し、気分転換を図ろう。


2003年03月16日(日) トマト効果?それとも…。


 今朝は娘もいないし、夫も超早朝出勤で送り出した後また寝てしまった。
数年ぶりの2度寝。
折角自由に使える日なのだから起きて早く母の所に行こうと幾度も思ったが、お布団の中は心地よくて離れられなかった。(反省)

それでも、何とか起き出してりんごのコンポートを作った。作ったといってもレンジでチンの簡単な物。砂糖を少量とレモン汁少々を加えた物。
りんご一個を食べるのは母には大変だろうし熱を通せばらくらく食べられるだろう。便秘気味だから…。りんごはぼけた物で充分。
トマトも皮をむき食べやすい大きさに切り少量の塩を振り掛ける。これでトマトの甘みもぐっと増す。そしてクリームチーズ。
これが、母の今日のおやつ。

施設を訪ねた時、皆がエレベーターで降りてきた。「?」と思ったらどうやら避難訓練だった。次ので母も降りてきた。そこで、バトンタッチして私が母に付き添った。母は、目をパッチリと開けていた。
消防車も来ていた。消火器だって有った。其れを母は見て認識できた。どうやら、今日は調子が良い様子だ。
言葉は少ないけれど、主語述語をきちんと使い短かくは有ったが話せた。
職員の話では、昼食は自力で食べたらしい。良かった。これで嘘をついてもなくオーバーでもない事を理解して貰えるだろう。排便も有ったらしい。

訓練終了後、中に戻っておやつとなった。
今日のおやつは硬かった。いつもの母なら食べただろうが今はちょっと。
だから、持参した物を食べてもらった。
まず、りんごのコンポート。これは器を持ちフォークで食べた。其れも自力でだ。お茶も零さないように注意深く飲んでいた。やっぱり今日は調子がいい。
ある所の日記で、トマトがいいというのがあった。それで、トマトを試みている。これは、トマト効果か?はたまた単なる偶然か?

その後、居室に戻りトマトを食べクリームチーズも食べ、お茶も飲んだ。
トイレも意思確認しながら成功。

そしてリハのビーチボールキャッチ。
一回目から片手でボールを打ち返してきた。昨日は出来なかったのに。
歌を歌いながら出来た。自発的に数を数え出した。そして微笑みも。昨日と比べると今日はおととい並みに調子が良い。
脳出血後のリハが大切とよく聞くが、痴呆であっても効果はあるのだろうな。
リハの苦しさは、聞いている。訪問先で「あんたは、この痛さがわからないから…」と抗議された事もあるくらいだから。
母も、きっと苦しいだろう。辛いだろう。
でも、生き続ける限りは少しでも質の良い生活が出来た方がベターだと思う。
今日の母に涙は無かった。

私は、この所母と別れた後涙が零れる。其れは、母の頑張りを目にするからだ。
母がまだ理解出来ている頃「母の役目は終ってないからね。天に召されるまでの姿にも学ぶ事はあるんだからしっかりしてね」と言った事がある。
母は、覚えているだろうか?
私は、今も学んでいますよ。

同じフロアの方から「いいね」と羨望の眼差しを受ける。
そうなのだ。みんなお話したいのだ。遊びたいのだ。だから、時間の許す限りみんなとお話させて戴いている。

さ、明日は、トマト効果あるかしら?有ればいいな。


2003年03月15日(土) 地獄の食事タイム


 昼食を食べている母の隣にいて、ふと思い出した人がいる。
その方が92歳から99歳までお訪ねしていた。

98歳ごろから食事中嚥下が始り、食べる事が苦労だった。
お訪ねして食事していただく時「また、地獄の時間になるけど…。食べる事が大切だからできるところまで頑張ってみましょう」と度々声を掛けていた。
その方は、くくっと笑って「そうだね」とよくおしゃった。
食べたくない時は、あまり無理はしないようにしていた。
それでも、一時間は付き添って励まし、途中で止める時も「ご苦労様でした」と言って笑いあった。
時に不機嫌になることもあったが、私のような者の介助によく我慢してくださったとつくづく思う。

母の食事は、その方とは違う意味で大変なのだ。
母は、強い嚥下は無い。お腹は空く。でも、独りでは 食べる意欲を持続できないのだ。
目を開けさせる事、食べ物を見る事に注意を向けさせなければならない。
幾度も声を掛けられれば、嫌になるかもしれない。それは、出来ない事を認識させてしまう事になるかもしれない。程ほどの加減が必要だ。

今日の母は、時々声掛けに、口をアーンと反射的にあいてしまう事があった。
「独りで食べる様に頑張ろう。大変な仕事だけど、努力家だからできるよね」とできる限り声を掛けた。「もっと早く来て、温かいうちに食べられるように考えればよかったね。ごめん」と母に謝った。

食後、母と二人でビーチボールのキャッチボールを100回続けた。
その後、Fさんにも入ってもらい3人でやってみた。
後半こそ母は、目を瞑ってしまう事もあったが、中盤までは目を開けて頑張った。
ただ、元気な頃と比べると「楽しい」「やったー」と言う表情が無く、失敗した時だけは頭を下げ落ち込んでしまった。

良い日と悪い日があるのだろうか?
私からみれば、やはり箸を使い出した事は画期的だが、GHの職員からすれば
出来てない事になるのだろうな。ボール遊びなんて興味もないかな?

「ずっと、付いて上げられると良いのでしょうけれど」と言う職員の言葉の裏に「ごめんね」と言う思いが隠れていると感じた。
これは、職員みんなから感じる事ではない。
綺麗な言葉を使っていても、そこに「やってあげても無理」という感じが伝わってくる人だって居る。
母も結構感じているようだ。今日の人の声掛けにはにこやかに反応する。
でも、初期の時のように「朝、昼と食べてないのだから、夜くらいはお腹空いて食べるよね」と言う職員だったら食べる気すら起きないだろうと思う。

食べるという事は生きていく上で大切にしてあげたい事なのだ。
私は、今日から栄養補助の為、トマトとクリームチーズを持参する事にした。
居室で、ゆっくり自力で食べてもらった。ホットコーヒーもポットで持参。
今は、おやつ兼栄養補助の方が良いだろうと思った。
明日は、温泉卵とトマトにしてみようかな。
其れとも、ホットドックかな?
せめても、楽しくあったかく食べる事を作り出してみようと思う。
「足りない所は補う」これが入所以来続けている事だから。
それくらいなら、そんなに大変ではない。

地獄でない食事タイムの訪れを祈るばかりである。



2003年03月14日(金) やっぱり母は判っている


今日、通院した時、CTを見て「よくなってます。もう 心配要りません」と言われた時 母は「有難う」と言い涙を零した。
医師も、先週の母と比べてよくなっている事に一目で気が付いて「よかったですね。本当に」と言ってくれた。
初めての診察で、母の事をこれだけ覚えてくれている事に感謝した。

家に帰って「用を頼んでいい?」と聞くと「出来なくなっているから…」とまた涙を零した。
しかし、不思議だ。通院した事等記憶に残ってないし、我が家に泊まった事だって忘れている。其れなのに、出来ない事実はわかっているのだ。
どう言う所で認識を続けるのだろう?

そんな、母を見るとちょっと辛い。
でも、めげても始らない。

母のリハで「出来ない」事をさせると良くない。
ジャンケンは危うい所だ。だから、グー、チョキ、パーを順番に出す事をしてみた。これなら、少しの間続けられる。
後は、歩く事。
これは、今日もチャレンジ。
我が家から、15分のところの駅まで歩いてみた。両手を取り歩いた。
歩道橋の階段が、3個分もある階段を下りた。
途中、休息3回。約50分かかって目的地に着いた。
「やったね」と声を掛けたが母はかなり疲れた様子だった。あまり無理はいけないが、明日からお天気が崩れそうなので試みたのだった。

これが、気分転換となり、泣き虫風は、吹き飛んだ。

今朝、娘が「アメリカに出かける」と告げると驚いて「気をつけて」と母は言った。言葉も、自分で判断して話せるようになりつつある。
娘も今朝 母が目を自分から開けてパンを一人で食べたのを見て涙した。
この娘は、そういう事で泣く事は無い。でも、ここまで出来るようになるとは
思っていなかったのだろう。
目を真っ赤にしていた。母もつられて涙していた。

この一泊で、前回のようなお漏らしの失敗は無かった。トイレ誘導の結果、お漏らしゼロ。「気持ちよいね。今度は、自分からトイレって言えるといいね」と言ったら母は頷いた。覚えきれるか判らないけど信じてやってみるしかないのだ。

我が家では感動の連続だったけど、GHの職員は、「そうですか?」と言う。
「数日前は出来なかったのです。よくなかったのです」と。
だから なんだか此方が嘘を言っているような気分になってしまう。
確かに出来る時と出来ない時は有るけれど、其れは間違いないのだけど。
でも、そんなことはどうでも良いのだ。
確実に、出来る事が増えているのだし、医師だって褒めてくれた。

母も、夫も、娘も、私も、そういう褒め言葉が一番しみて「良かった」と思えるのだから。そして、明日に繋がっていくのだから。



2003年03月13日(木) 母さん、頑張ったね。嬉しいよ。


今、母は家に居る。
母の寝室で、よく眠っている。数分ごとに見に行くが身動きもせず眠っているようだ。

今日、母の所に行くと「目をあいて」と言わなくとも立ち上がるときに目を開けた。これは、急変以来初めての事。言葉も時折出た。
「家に行く?」と聞くと頷いた。
意識がいつもより長続きして呼びかけにも直ぐ反応してくれる。
そういう訳で、帰路はバスを使った。
所が、ステップを上がるのになかなか足が上がらなくて時間がかかり他の乗客に迷惑をかけてしまった。後ろからノンステップバスが来ているようだったので、そちらに乗るべきだったと反省。

途中、デパートで防水シーツを買った。
先日の失敗は繰り返さないつもりだが、でも、万が一に備えて準備した。
これも、いろいろある事に気が付いた。布感覚の物のほうがきっと蒸れないだろうと思った。大きさも2種類あった。布団全部にかかる様になる物と腰の辺りだけのものと。今回は、腰の所のみの物にした。
折角、デパートに入ったのだからと婦人服売り場にも寄って見た。
母は、ずっと目を開き商品に見入り「綺麗だね」と言った。
母の言葉は、少しずつ増えてきている。
でも、時になかなか通じなくなる時もある。一日の中で波があるのかとも思うがそれでも、今日は、少しはなれた所からの声を掛けただけで目を直ぐ開く事が就寝まで続いた。

夕食時に奇跡が。
今まで、隣に座り箸でご飯を挟み口の所まで持って行くとようやく食べると言う状態だった。今日もそのつもりでいたが、向き合って「食事だから目を開けて」と言い私がご飯を口にする所を見せると母も自然に同じ動作をした。どうなるかと見ていると無事自分の口にご飯を運び食べた。(万歳!)
声を掛け目を開けさせ食べる。(時におかずを運んであげ)その繰り返し。
ご飯をほぼ自力で食べ終えた後、残りのおかずを小皿に移して上げたら其れも自力で食べた。
あれから2週間たつが、今日が一番よい日だ。
あまりに嬉しくて「嬉しい。よく頑張ったね。偉いね」と繰り返し繰り返し母に言った。無表情の顔をしている事の多い母に言葉に反応する笑顔が見られた。これは、急変する前の母に一歩近付いたかな?
あまり期待すると、落ち込みも厳しいので程ほどに喜んでおこう。

そうそう、母が起きている時間に夫が帰宅。
先日よりよくなっていると感じたようで面白い顔を沢山して見せていた。
すると、母は顔を崩して笑った。これも、以前の母に近い反応であった。
夫がからかって「婆さん 呑むかい?」と聞いた。母は笑いながら手を横に振り断っていた。

明日は通院日。また、CTを撮る。






2003年03月12日(水) き・っ・と・で・き・な・い


母のリハを続けながら何処まで有効かなと思うときがある。
母の記憶は数秒前の事さえも消えてしまっていたのだ。
其の事を踏まえると有効性がどの程度かと思ってしまうのだ。

でも、母の残存能力を引き出す事は出来るだろうと思うのである。
塗り絵や絵を描くことだって、初めは興味すら示さずにいた。
でも、ひょんなことから始めたら出来るようになったのだ。

そして今母に「編み物してみる?」と聞くと「き・っ・と・で・き・な・い」と言うのだ。という事は、今の自分を認識できていると思うのだ。
出来ない自分を感じたら、其れはなんとも哀しい気持ちとなりやる気すら起きてこないと思う。
だから、そこは自信を得てもらうために母の頑張りを褒めていくしかないのだろう。

精神科医はこれから行き着く先の話をした。
何れ、生きながらえて行けばそうなっていくだろう事はとうに覚悟している。
でも、介護者は、そこに行き着くまでの道のりを傍観するのでなく何らかの形で関わりを持ち続けたいと願うのである。
その時その時 出来る事を無理なく続ければ 生活の質は状態に見合った程度保っていけるだろうと思う。

生涯施設で過ごして貰うと考えてはいないし あくまでも通過施設と考えているがたまたま出会った方々からの励ましを母はまだ感じる事ができるのだ。
それを、振り切ってしまってよいのだろうか?

今日は、母をファミレスに連れて行った。
外に出た母に「危ないから目を開いていてね」と言うとずっと目を開けて歩けた。信号も「ちょっと急げる?」と言うとすたすたと急いでくれた。
食べる時も、零さないように首を前に伸ばして工夫できる時も増えた。
まだ、普通には程遠いけれど、歩ける事、時に物を口に運ぶ事が出来てきた。
ちょっとではあるけど其れが嬉しい。


2003年03月11日(火) 夫、娘、私それぞれの思い


 夫は、母の変化をとても痛ましく捉えている。
そして、息子達もこの状況を自分の行く先としてきちんと見ておくべきだし、親に対しての声がけをしておくべきと考えているようだ。
弟達が 介護に関わっていない事に腹を立てる事もあったが 今の母を見て腹を立てるより「見ておきなさいよ」という思いに変化しているようだ。
どうも、日曜に電話をしたようだ。
母の状態を伝えるのでなく「見ておいたほうが良いのではないか?」と言ったらしい。それでも、まだ、私のところには電話は来ていないのだが。
 娘は、母の変化を冷静に捉えてはいる。
でも、一方で私の体を気遣い始めているようだ。
「携帯を持って欲しい」と言われている。
万が一に備えての事なのだろう。私の体調の変化を心配しているのだろう。
ダメージの少ないようにと思っていてくれているのが少しだけわかる。
 私はといえば。
相変わらず、弟達に連絡するつもりは無い。
それぞれの立場で考えればいいのだ。私は、私の思いで母を見ていくだけの事である。様子を知りたければ、電話一つで直ぐに聞けるのだから自分で聞いてくればいい。GHの所在だってきちんと知らせたのだから自分で問い合わせすればいいのである。「知るも自由。知らないも自由。」


でも、母の立場から見れば、会いたいかな?例え息子とわからなくとも何処かでわかる筈だから会えばきっと嬉しいだろうな。

そこまで判っていても、わざわざ弟に伝える役目は負いたくないのだ。
そこに行くと、夫は優しいと思う。
怒る事はダイナミックではあるが、思いやりは私より有るのだろうな。
私は、これから先、夫や娘にまた不自由さを味合わせる事を危惧し始めている。

今日の母は、目を開く事が多かった。
母は、声がけしないと目を開かない。声がけしても目を開かない時もある。
今日は「開いて」と言わなくとも開いた時が有った。
其れは、Fさんの来訪した時の事。
Fさんは、遠慮がちに戸をあけてまた直ぐ閉じようとした。
「どうぞお入りください。お花が綺麗に咲いてますから見て言ってください」というと「はい。こんにちわ」と入室してきた。
花を見てから「ね、目をつむっちゃってね」と母を見た。
「Fさんが心配していらっしゃいますよ」と母に言うと母はそっと目を開けた。それから、Fさんの顔をみて「Fさんありがと」と言った。
母の目に涙が光っていた。
その後もFさんが、外の景色の話をしたりする度に母は視線を外に向けたりまたFさんを見たりと意思を持って目を開けていた。
僅かな時間ではあるけれど母が心を開き始めたと感じた。
人の温かみは、痴呆者だからこそ敏感に感じ取れるのだろうか。
これは、在宅でしかも呼び寄せられた空間の家では味わう事の出来ない場面だろうと思う。
無理やり開かせなくともそっと寄り添っていけば心開くのかな?

 


2003年03月10日(月) 毒を持って毒を制す


 母の痴呆が始ってから幾度母に言っただろう。
「呆けてしまった大変だよ」「呆けてしまったら寝たきりになるよ」

この所、その言葉を何回か使っている。
このときの母は「ぱっ」とする。やはり呆けてしまっては困るという意識は
今もってあるという事なのだ。

今日は、予定通りキャッチごっこ。少しは反応したが長くは続かなかった。
でも、やはり自発的に発する言葉は普通だった。回数としては少ないのだが
でも、この機会を作り出すことが大切みたいだ。

今日のおやつはバイキングだった。母を連れて行き選んでもらった。
こういう機会は、母にとって目を開けるチャンスでありいいなぁと思った。

母が変化した事は同じフロアの人も気にかけてくださっている。
今日は「みんな心配しているよ。ほら見てごらん」というと目を開けた。
だから、その一人一人と握手して貰った。皆、嫌がらずに握手してくれた。
これが、私にはとても嬉しかった。

ただ、あまりに「目を開けて」という事は母にとってよくないだろう。
職員の方、同じフロアの方 どれくらいの頻度で声賭けをしてくださっているのだろう?其れに依って私の声の掛け方も違ってくるのだが今は何の報告もないので判らない。状況に応じた対応が出来ているのだろうか?


2003年03月09日(日) 介護者の素人的判断リハ


 母が家で過ごす戻った間、母の状態を私なりに判断した。
私は、脳神経外科医の判断に近い受け止め方をしている。
治るのじゃないかと。

母の実際は、確かに虚ろであり、反応も鈍く精神科医の言う「せん妄」が出ている。空に文字を書いて見たり、言葉にも反応しないか若しくは反応しても動作が伴わない事が多い。一人の世界に入り込んでしまっているように見える。
急に意味も無くすくっと立ち上がったりもある。
話し掛けに反応しても、発する言葉は「○・○・○」と一文字一文字を確認するかのようにゆっくりと話す。抑揚が無い言い方である。
だから、精神科医や、施設の人の言う事が外れている訳ではない。

けれど、母は痴呆であり、尚且つ耳が遠いのだ。
精神科医の聞き取りは 割りに聞き取りにくい話し方だった。
それに比べて、脳神経外科医の話し方は、聞こえが良かったようだ。
「ここが、脳出血の所です」と説明した時 其れまで反応の鈍かった母がぱっと目を開けて写真をじっと見入ったのだ。
同じ場面は、精神科医の所でもあったが全く無反応だった。聴こえてなかったのではないかと思った。

夜、入浴時少し熱めの湯加減だった。ぬるい湯の好きな母は瞬間「熱い」といつも通りの言葉を発した。「あ・つ・い」ではなかったのだ。また、物を投げると其れをキャッチできた。
その事実は、あまりにも普通の事なので此方もあたりまえとして受け止めてしまった。でも、明らかに今出来なくなっている事から考えると不思議な事なのである。

今日の面会であらためて試してみた。洗面所で手を洗う時蛇口の所に手を引っ張り水道水手をつけた瞬間「冷たい」と言った。
何かの拍子で手をぶっつけた時「痛い」と言った。
やはり反射的に発する言葉は普通なのである。

物は試しと掃除する時も私の行動が見えるようにして椅子に座らせ声を掛けてみた。ちょっとの間は目を開く。行動を変えるたびに繰り返しやってみると目を開く回数もちょっとづつ増えた。
次に椅子を離れた所に置いて「椅子の所まで一人で歩いてみて」と言った。
すると、3歩歩き立ち止まり「あの椅子まで?」と言葉を発した。

目を開けた生活が出来る訳ではないが、少なくとも増えてきてはいるようだ。
心許ない母の状態ではあるには違いないが、ここを切り口ににしてリハをして見たらと思った。
明日は、ビーチボールとかでキャッチボールをしてみようと思う。
瞬間なら大丈夫じゃないかな。

目をつぶる生活から3日目4日目辺りは外に出ると目を開いていたし歩けた。その事から考えてもやはり 治る可能性があるのではと思うのである。
家に居る時「りんごを描いて」というと略画ながらりんごと判る絵を描いていた。其れも、気になる。点と点を結べば繋がっていくのではないかと素人的には考える。


2003年03月08日(土) 2泊3日の結論


 今日の夕方、母をまた施設に託してきた。
この間、頭で判っていての失敗が一つある。
其れは、排尿の事。
今まで、出そうな時は、自分でトイレに行ったり、口で教えてくれたしトレーニングパンツで何とかできた。
でも、今の母は、完全に言えない。だから、4時間くらいじゃ何とかできた事が今は母にまかせっきりは出来なくなった事を実感した。

施設の人が「お母さんの尿量少ないのです。午前中なんて濡れてないです。」と心配そうに言っていた事を鵜呑みにしてしまった事もある。

母の尿量なんて今までと変わりなかった。
通院の日、出掛けにトイレに行き確認してから外出。
精神科医から、急いで次の病院に行ったこともあり、そこが初診という事もあり、トイレの事はすっかり抜けていた。
家に戻ったのが昼過ぎで、昼食のが先としてしまった。
食事後、母をトイレに誘うと、クッションが冷たかった。見ると、もう下半身はぐしょぐしょだった。
慌ててトイレに連れて行き「ごめん。気が付かなかった。冷たかったでしょう」と謝った。綺麗さっぱりして元に戻った。
でも、トイレに誘う度に遅れている。溢れるほどではないのだがタイミングがずれていると思った。
一度失敗したのだから、もうしないと思っていたら…。
今朝、やってしまった。
隣で「アー悔しい。何で…」と言う母の泣く声で目覚めた。
気が付くとパジャマがぐっしょりだった。シーツまで溢れていた。
昨夜、一時ごろまでゴロゴロしていたので途中トイレに行った事もあり油断した。私も、隣に寝ているし何か有ればわかると思った。
でも、ここ一年近くぐっすり眠る事に慣れてしまった。目が覚めなかった。
またしても失敗。
それも、母が「悔しい」と言うほど気持ち悪かったのだろう。
これも、母に謝るしかなかった。

何処が、尿量が減っているのか?
水分摂取量が足りないと言う事が疑わしくなった。
やはり、目の前に母が居ないという事はこれほど不確かなのだと思った。
ちょっと前までは、自分で喉が渇けば水を飲めたのだ。
それも無くなってからは、出された物しか飲めなくなっているのだろう。
「水」とは言うけれど、これは、かなり近くに居ないと聞こえなかった。

施設から言われた事を鵜呑みにした自分がみえた。
痴呆になると、なかなか、過去の話は出来ない。苦情だって言えない。その辺の管理は施設の場合 甘くないのだろうか?
食事だって、下手をすると隣の人にぱくっと食べられてしまうのだ。その現場も私は目にしている。

施設の対応はさておき、こんなふうに私の失敗があった。
きちんと、生活のサイクルを考えうまくトイレに誘導して排尿の意識を高めて行くことが大切に成るかな?


2003年03月07日(金) 精神科の診断、脳外科の診断。


精神科でCTを写した。脳内出血を起こしていたらしい。けれど、麻痺はない。
脳外科に紹介状を書いていただきその足で脳外科に車を飛ばした。
写真を見た先生は、確かに出血の跡はあるがもうこの事はなんの処置も必要ない。内科的にも外科的にも何もする事は無く、定期的にCTを取る事くらいでしょう。生活リハででしょう。在宅可ですよ。という事だった。

診察を終えて、精神科の医師にその旨を話すと、脳外科の先生の判断は正しいのです。と言われた。ただ、臨床例から考えると少し時間がかかるらしい。
で、GHは無理でしょうか?特養はどうでしょうか?と尋ねると相談でしょうねと言われた。

精神科の診察を受けている時の母は、ボーっとしていて反応が鈍かった。
けれど、脳神経外科では、少しよくなっていた。おまけに脳出血と言う単語を耳にした途端目をカッと開いて写真を見入った。
まあ、どちらにしてもリハは必要な訳で、其れを在宅にしてみようかという事である。おそらく、GHでは、リハはやらないだろうからなぁ。

今日も、母は家に居る。
ちょっと、様子を見てみたかった。
一日の中で反応のよい時と悪い時がある。
そして、一日一緒に居て声がけで多少改善できる所もぼんやり見えてくる。
明日は、ケアマネさんが来訪予定。ここで、母の様子を見てもらおうと思っている。この人の判断は信頼できるのだ。

そうそう、精神科の病院は母の利用したデイの隣にある。
玄関で、そのデイの建物を見た母が「学校」と言った。
記憶はあり、みえてもいる。言葉もある。
でも、これは良い状態の時であって、悪かったら俯いて言葉も無くなる。

生活リハが出来て、病気の面も見ていただける施設と病院の中間施設でしっかりした体制の所が欲しいなぁ。特に痴呆の場合は、深刻だ。

さて、どうしようかな?
きっぱり、在宅に切り替えた方が母の為にはよさそうだ。
でも、塗り絵も、編み物も、折り紙も楽しめないんだな。
何か、方策を考えなければ…。
ジャンケンと歌だけはOK.まずは其れからはじめる事になるかな?
無いよりいいし、麻痺も無いのだから良かったとプラス思考で行く事にしよう。エイ エイ オー!



2003年03月06日(木) 母がいる家


 私の通院後、母を迎えに行く。
今日は、職員のSさんなので母の表情も穏やかであり、言葉も途切れ単語でなく、ゆっくりではあるが話し言葉になっていた。
失語症みたいな症状の毎日なのである。

着替え等、自分のメモに沿って揃えた。
コートを着せて、支度が整った。
看護婦さんが、薬を渡してくれた。簡単な一日の流れを教えてくださった。其れは、職員のSさんからも報告を受けていた。
帰路の足を心配してくださり「タクシーを呼びましょうか?」と言ってくださったが「歩いてみます」と言って断った。

玄関まで、出ようとしたら看護婦さんに同僚の方が面会に来られた。
一人、母を連れ玄関まで行く。着替えの荷物もあり、母を引いてなので狭い施設の壁に引っかかりながらようやくの事だった。
玄関まで行くと引継ぎの終ったばかりのSさんが出てくださり、私の靴の履き替えの間母を見てくださった。見送りは、Sさん一人だけ。

外に出ても、母は目を開けずに歩いた。マスクをかけているのでうまく声が届かないのだろうか?
バスが来たので、乗ろうと思った。若者二人がいたので先に乗ってもらった。
私達の番だが、母の足が上がらない。「しまった」と思ったが幸い車内は空いており運転手さんも席に着くまでじっと待ってくれた。
ノンステップのバスだが、それでも母には高いステップだった。
終点で降りる時、運転手さんが気を使って「もっと前に出そうか」と言ってくださった。「何とかなると思います。有難うございます」と配慮に対してお礼を言った。

次にちょっと買い物をしてタクシーに乗った。
手伝いは無かったけど、ゆっくり待ってくださり助かった。
家の門前に止めて貰い、母を降ろした。門柱に寄りかからせてから荷物を降ろした。

玄関までは、数段の階段。そこは何とか出来たけど、玄関からフロアに上がるのにはバスのステップ以上の段差がある。これには閉口した。この前は娘も居たので助かったのだが今日は一人。母を座らせた儘、暖房を入れて荷物を中に入れそれから声をかけながら足を上げてもらった。

今日の母は椅子に座っている事は出来るようなので椅子に腰掛けさせた。
お茶を飲ませて、一息ついて台所に立ち夕食の支度をした。
母の様子は、数分毎にみていた。
「ごめんなさい。ごめんなさい」と何回言ったかな?
後は、テーブルに突っ伏しているか、何か手で字を書いている。
カタカナみたいで「ナミダデナイ」と文字を重ねて書いている。
なんだか判らないけど、母を見ているとこっちの方の目がウルウルしてしまう。ほんとにどうなってしまったのだろう?

夕食は、ご飯とおかず少しは自分で食べた。目をつぶった儘だが大分学習したのかな?最初の日は、其れさえも出来なかった。

トイレも、入浴も、全盲の人を新しい場所で入浴させる状態だった。
全てが終ったら、此方は汗びっしょりだった。

難関は更に続く。寝室は2階なのだ。
母に「ここは、普通の家だから段差があるよ。よく見てね」と幾度も声を掛けた。でも、階段は思いのほか楽だった。其れは手すりがあるのでしっかり摑まり一歩一歩上れた。やれやれ。
何とか、布団に入ってもらった。

いつもより、遅い時間なので直ぐ寝入ってしまった。やれやれ。





2003年03月05日(水) 今夜は(書き足してます)

 家族が珍しくもう揃ったので早めに就寝します。

書き足し。

午前中から、あちこちに電話した。「出かけて直接」と思ったが体の事を考えて電話に切り替えた。
有り難い事に、電話でも皆さん丁寧な対応でほんとに感謝だった。

在宅に戻った場合、立場上ご迷惑をおかけする事も推測されるので私自身の黄色の信号点滅をあちこちに知らせておかなければ成らない。
相手の方はわたし抜きの準備態勢も整えてもらわなくてはいけないから。

電話をしていると、母の話は避けて通れない。
意外な事に、話してみると、これから先の展開は、いろいろあるという事がだんだん見えてくる。自分が知らない事がたくさんあるのだと思い知らされた。
やはり、話してみる事は大切であり学習効果は出て来るものだと思った。
専門分野の知識を持った方との連携はこういう場合大切と感じた。
(GH入所後、今までのケアマネさんとは、契約が切れる。
この時点で、専門分野の方はGHの職員のみとなってしまうのが現実である。)
いろいろの知恵を授けて戴き、明日の通院に望む事となった。

3月4日の話し合いの事を冷静に振り返ると。
話し合いの展開に施設側の落ち度は無いだろうと思った。
全ての選択は、家族に任せているのだ。(いつもそうだが)
私がそう応えざろう得ない状況に質問の設定がなされてしまっているようだ。
職員が大変だろう。迷惑をかける。母も可哀想と配慮するとそうなってしまうようだ。
これが、私以外の人間の同席。前もっての準備が出来ていたならもう少し違う姿勢で判断できたと思った。
職員は「家族のお考えが大切」とは言うが、その力関係は平等ではないのが現実なのだ。
話し合いの持ち方が一方的だったかなと思った。
他にも疑問点はあるが、徐々に整理しながら行きたい。

朝と言うより昼に近い時間に施設に電話した。
朝食は半介助で半量召し上がってます。
状態はどうですか? 昨日とお変わりありません。

状態が変わらないのに半介助?全介助でしますと言っていたけど説明はなし。
「どうしてですか」と聞く勇気も無く「有難うございました。宜しくお願いします」というだけの私。

夕食の時間に合わせて、面会に行った。
聞くと、昼は全介助で全量摂取。風邪薬の服用は、今朝から止めた事。熱も無いので入浴できた事などがわかった。
でも、これは昼前の電話でもわかっていた事だろう。
忙しいから仕方ないだろうと考えるが、でも、事が起きた時はもうせっつくような言い方をされて、家族が心配している事に対してのフォロウは、足りなくないのかな?

夕食前、ちょっとだけ外に連れ出したが、室内より多少は良いという程度で大きな変化は見られなかった。
安定剤、風邪薬服用していたので、直ぐによくなるとも思えない。

ひとまず、母の風邪は治まったことでホッとした。
今日は、母を連れてきて明日の通院に備える。










2003年03月04日(火) もう一週間?まだ一週間?


 昨日、施設でお話が有りますのでお時間とって下さいますか?と言われた。
「何の用?」と思ったが直ぐに「はい」と今日の日を約束した。

今日は、昨日の散らし寿司を持って行きまず母に食べてもらった。
なかなか、目を開けなかったが「見てよ」と何回かいったら目を開けて「き・れ・い・だ」と言った。今朝はあまり食欲が無いと言っていたがちゃんと食べた。(全介助)こういえば、施設から「ご家族がいらっしゃると違いますね」と言われる。
勿論、其れを否定はしない。でも、はっきりいうなら「職員に寄っても違いますね」と言いたくなる。

今日は、怒り口調になってしまう。
で、其れでは あまりに良くないので日を置いてゆっくり書き直すつもり。

でも、「あっ」という事を言われました。
その前に、今朝、母の様子を伺う為に施設に電話した。
すると「今後の事についてのお話ですが」と昨日の補足をしてきた。
「嫌な予感」
その通りで退所に向けての話でした。
まだ、こうなって一週間です。施設は、もう一週間と言いました。
今日まで、黙ってきた訳でなく「家に連れて帰りましょうか?」ともいいました。でも「これは私達の仕事ですから大丈夫ですよ」と言われました。
おとといは「誕生月で25日に誕生会をしますのでご参加を」と言われました。
何がどうなると、こうも突然にそういう事が言えるのかと思いました。

いずれ、退所する時は来ると思っていました。
その事も頭の隅に覚悟として有りました。
でも、特養だって私の都合からいえば移したほうがずっと楽になるのに母の事を思い先延ばししたのに…。
そういう、「情」というか、「愛」というか、そういう心はどうもこのGHには無いみたい。
介護の仕方で危うさは感じていたけれど、おいおい改善されつつあると思っていただけに、哀しかった。
信頼しようと思い続けたのは、無駄だったか?

話し合いの末、20日までに母が変わらなかったらという事に納まったが…。
この点々の先には書けない思いがいっぱい詰まっています。

「何より母が優先です。ここが無理なら在宅でも踏ん張ります」と言うのがせいいっぱい。

家に戻り、直ぐケアマネさんに電話した。
診察を受けてそれからですね。といわれ、特養は入所先送りを取り消しておきます。と言う返事だった。
そう、直ぐには動けないけど受け止めてくれる所って大切です。

愚痴を書き出すと止まらなくなりそう。もう止めよう。

困ってはいるけれど、「でも、これで良かったかも」と思っている自分がいる。
通院を理由に明日にでも連れ帰ってきて母を見ようかなと言う勢いである。
自分の熱なんていつかは直るだろうし「何とか成るさ。何とかしてみせる」と強がっている自分が見える。

ふーーーーーーーーーっ。おやすみなさい。


2003年03月03日(月) ぎりぎりの介護


 母の様子がおかしくなった頃から私は風邪気味だった。
昨日、通院した。
母を帰して薬を服用したけど、間に合わず発熱。
今朝、気になって施設に電話した。
その時は、熱は無いとの事だった。1時間半後、施設より電話があり熱があると連絡が来た。(ふぅー)

私から感染したのだろうな。
危ういと思ったけれど、咳もゴボゴボしてたけど施設からは面会といわれていたしなぁ。

昨年で懲りた筈だけど、学んでないなぁ。
今日は、薬で熱が下がっているけど…。(溜息)

明日までに、母の熱が下がりますように。
今日の母はしんどそうだった。鬱(?)と風邪のダブルパンチだものね。
今日、母も投薬開始なので大丈夫とは思うけれど。
これじゃ、在宅より感染率が高いなぁ。

在宅の時は、かなり気をつけていたので家族からの感染は無かったのだけど。

仕方のないことかな?


2003年03月02日(日) どっちがいいかな?


 母を連れて家に戻った。
今日の母は、立ち上がる事も困難。

「立ちたいと思うのだけれど」
「やりたいと思うのだけれど」
「動かない」

これが母の言葉だ。
おそらく本当の事だろう。

鬱の状態になったらあまりに強い言葉は心が逆を向いてしまう。
その場で心が和むように笑顔で対処するしかない。
母の心が開くのを待ちながら介助するしかないないだろう。

家に来ても母は特に変わらない。
でも、少しの間家に連れてきたほうがいいのかな?
それとも、施設に預けながら面会にでかけた方がいいのかな?

家で入浴させようと思ったが、今日の状態では無理、清拭と洗髪のみにした。
今日の母の身体は重かった。


2003年03月01日(土) 有難うFさん


母の居室には以前からFさんがフラッと入って来ていた。
入居者の方は、母の変化が何となく判るようだが傍観する方が多い。
でも、Fさんは違う。
母に変化が起きてからFさんは、そっと中を窺い様子が違うと思うと「ごめんなさい。お大事に」と言ってドアを閉めていくらしい。娘が言っていた。
今日も、Fさんは母を気遣っていた。
「あんた、具合悪いのなら布団ね寝なさい」「手が冷たいね」「ほら、目を開けたほうがいいよ」ととてもまめに声を掛けてくださる。
私が持参した歌詞のコピーをみて母の隣で歌ってくれた。
母もつられて歌っていた。時に口パク(声を出さずに口パクで話す事もある)
で歌ったり、声を出したり手拍子を打ったり。
すると、Fさんはとても安心した表情を為さった。
Fさんは、妹のHさんが別の場所に移られた事はもう忘れているようである。
これくらいの痴呆であっても傍に困っている人がいたら励ます心は残っているのだ。母も、ショートの時他の入居者の傍で「元気出して」と折り紙を折ってあげたり歌を歌ったりしていた事があった。

母は と言えば。
時折目を開けてはまた目を瞑ってしまう。注意しなければ、背中はだんだん前に曲がっていき70度くらいの傾斜。3日くらいしか立ってないのに。

そんな、母なのだが今日も雨の中、相合傘で外出を試みた。
母は外に出たいと言ったのだ。
近くのドラックストアに入った。
母は、目を開き一つ一つの品物を目を開いて見ていた。
「大きなお店だね」とも言った。
お菓子の前で「どれが食べたい?」と聞くと「団子」と言った。
いつもなら、「要らないよ」とか「無駄使いしないでいいよ」とか言うのだ。
おせんべとチョコの並んでいる所では「塩辛いのがいい」言った。
以前からデパート等は全天候型の散歩スペースとばかりに連れ出していた。
興味を引く品々があれば、気持ちも自然に起きてくるようだ。
ドラックストアストアだってそうなのだな。

今日も職員の方が母の小さな変化に気が付いてくださった。
「いつも通りの声がけの方が、良く反応してくれますね。」と言っていた。
激する事なく優しすぎず、いつも通りが母には一番良いのだ。

昨日、書き忘れたが安定剤も少なめに使用してよいですかと聞かれた。
これも、ありがたい事である。こういう気配りが嬉しい。
それと、先日の話を受けて母のフロアに職員が常時いる様に努力していきます。とも言ってくれた。
おそらく、時が来れば良くなるだろうと感じている。
痴呆の加速のようにはやはり見えない。


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