母のタイムスリップ日記
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2003年05月31日(土) 私は誰でしょう。


 リハを受けるため 昨日に続いて母を家に連れてきた。
母が「何処かずれている、何かがおかしい」と思っていたが、昨日は話が出来なかったので今日はゆっくり話してみようと思っていた。

今日も、母はおかしい。
涙をうっすらと浮かべている。外に出るときも「出ていいのか?」と幾度も聞いてくる。何か、母にとって面白くない事があったのだろう事は想像できた。
家に着いたとき「賑やかな所に行きたい」と言った。
でも、あいにくのお天気でリハも有るので母の要望に沿う事は出来なかった。

リハをはじめた時、今までになく不安がった。傍で母の手を握って上げたら少し落ち着いた。時々目を開けて存在を確認していた。
暫くすると、気持ちよさそうに眠り始めたので傍を離れたりできるようになった。リハを終えても眠そうだったので余韻で暫く横になって貰った。

「おかちゃん」と言う言葉がやけに多い。
だから、「おかちゃんは何処に居るの?」と聞いてみた。
すると、「ここに居る」と私を指差した。
じゃね、「○○は?」(いとこの名)と言うと。
    「ここに居る」と私を指差す。
じゃね、「××は?」(私の名)を言うと
    「ここに居る」と言いながら流石におかしいと思ったらしく「おかしいね…」と笑い出した。二人で大笑い。
でも、直後、また同じ事を同じ順で聞いてみると、同じように答えてしまい、
母は、大笑いをした。
こんな風に、母をからかってしまういけない娘でありました。

それでも、「おかちゃん」は頻繁に口にしていた。
そのたびに「なあに」と返事をしていたのだが…。
母の言った一言がひっかかっている。
「何回も言ってごめんね。うるさくてごめんね」
私は、一度もうるさいとは言わないし、何回も言っていると言わない。
きっと、入所者から責められたのだろう。其れも、一回では済まない位。
母の頭には、数回の言葉では記憶されないのである。
そんな訳で、ちくりと心が痛みました。


2003年05月30日(金) ドッキン!

「●●おじさんが来るのよ」「ほーっ。久しく会っていないねぇ」
この時の母の頭の中におじさんがちゃんとイメージされていた。
おじさんと会った時もおじさんと認識できて挨拶をしていた。
けれど、おばさんの顔を見ても思い出せない。でも 相手が丁寧に挨拶しているので条件反射で挨拶をしていた。
ところが、二人揃っている所であらためて挨拶を交わすと二人の事をきちんと認識して挨拶しているのである。

こういう感覚は、何となく理解できる。

母が嫁いだ時おじさんは高校生だった筈。
だから、古い記憶なので思い出しやすいようである。
おばさんは、その後 出会っており、其れも離れた所に住まわれていたので記憶が揺らぐのだろう。
二人揃えば、何とか思い出せるようだった。

けれど、母は興味が持続しなかった。
昨年なら同じ話の繰り返しでも断片的な思い出を相手と話すことが出来た。
けれど、今日の母は相手に関連した話題は全く出てこなかった。
詰まった時の「良い天気ですね」すら出なかった。
相手を前にして、何かを話そうとする意志がないのである。
不機嫌だからではない。
とても心地よさそうな表情で穏やかなのである。

食事をしていても、一人黙々と食べる。
私と食事する時は「おいしい」と言う。「これは何だろう」とも言う。
でも、そういう言葉が、一言もない。
まるで、施設でご飯を食べているみたいに…。

おじさん達との会話にも全く入ってこない。
ほんとにひたすら食べ続ける。
目の前にあるものを順番に食べていく。おかずを一つ食べ終えると次のおかずへといった具合だった。
皆より時間がかかると「遅くって…」と気にする母だったが、其れも全くないのである。

完全に自分だけの世界を走っている様に見えた。

おばさんが「横にならないでいいの?」と私に聞いた。
疲れているように見えたのだろう。
「はっ」と思い、母に折り紙や塗り絵を出してあげて傍らで作業して貰った。
其れを見て、おばさんは安心した様子だった。

私にとって当たり前の姿の母だけど久しぶりに母に会うとやはり心配になるのだろう。

それにしても、感情が真平らすぎる。
私の事を「娘」と認識出来なくてもそんなに哀しくはない。
大切な人であると認識できるからそれで充分。
でも、私以外の人が、だんだん記号みたいな存在になって行くと思うと何だか哀しくなっていく。
思い出もどんどん消去されていくのだろうか?
何に対しても関心を示さなくなったら…。
何れは、来るだろうと思っていた現実がそう遠くない所に来ているのだろうか?ちょっと「どきっ」としてる。

久しぶりにいつもと違う人と出会ってみて、何が欠落し始めているかが見えたような気がした。

毎日の生活からは、なかなか 感じ取れない事ってあるんだな。




2003年05月29日(木) きゃっ。


 夕食の支度のために、台所に立つと電話が鳴った。
叔父からだった。隣の県に住んでいる父の末弟である。
叔父は、先月に「近いうちに訪ねるよ」と言ってきていた。
連休あたりかと思っていたのだったが、連絡がないので忙しいのだろうと思い、もう記憶の中から消えかけていた。

明日来るという事だった。
来て貰えて、嬉しい。母にもちょっとした刺激になるだろう。
私も、木曜以外なら大丈夫だからと言っていたのだった。
でも、明日ねぇ。
母の通院と一泊旅行の買い物を予定していたのだった。別に予約でもないし大丈夫なのだけれど。

間の悪い事に、明日生協の配達日なので 今日は 残っている食材で夕食を作ろうとしていた。
こんな時に限って、カリカリ梅を付けようと梅を買ってきて、ジャムを作ろうと地物のイチゴもたっぷり買い込んできていた。

夕食作りを、小休止してスーパーに走った。
走りながら献立を考えた。
戻って、夕食を作りながら明日の昼食の下ごしらえをした。
夕食が9時過ぎになった。
後片付けを済ませて、梅とイチゴの処理。
イチゴは土が付いている。其れを洗い落としてヘタを取った。
今日は急ぐので レンジでジャムを作ろうと思ったラップがきれてしまった。
棚を探してレンジの圧力鍋を取り出した。

今日は、ここまでかな。
今、部屋にはイチゴのいいにおいが広がっている。
こうなると、ババロアかゼリーを作ってこの緩めのジャムをかけて出したくなる。でも、今からじゃ 遅いな。

明日は午前中に母を迎えに行って連れ来て置かないと…。
いや、叔父さんが来てから施設に行こうか等とクルクル考えて見たけどやっぱり、みんなと一緒に食事が一番だろう。早めに連れて来なくてはならない。

来客は嬉しいし、料理の支度も嫌いじゃない。
だから、嫌だなという思いはないけれど、ちょっと忙しくなってしまった。

娘は、未だ 帰宅していないし…。
あー明日の朝のバタバタぶりが目に浮かぶ。
あと少し、お部屋をかたしておこう。
せめて、バタバタが多少でも緩和されればいいと思うから。




2003年05月28日(水) 温度差

 お嫁さんの実家から届け物が有ったのでお礼の電話をした。
お嫁さんのお母さんは一人暮らしである。
比較的家の近くにお住まいである。最近は、母の事に追われてお訪ねできないで居るのでご無沙汰をお詫びした。
母の様子を聞かれたので急変したが今はもう元に戻っていると伝えた。
「其れはよかったですね」と言われた。
昨日は、地震に見舞われたおばの所にお見舞いの電話をした。
やはり、母の事を聞かれた。
急変したが元気になったと伝えた。
「そりゃ、大変だったね。でも良かったね。会いにも行かないでごめんね」と言われた。
「もう、年なのだから自分の事を一番に考えてください」と伝えた。
母の急変の時に会っている友人は、母の姿を見ると「ほんとに良くなったね」と手放しで驚く。
やはり、急変時を見てない人が、今の母に会っても「何も変わってないね」と言うだろうな。

今日、遠距離介護している友人から便りが届いた。
故郷の会が楽しかった事とお母様を受け容れるためにいろいろ調べているという事。そして、あの後、お母様を車椅子に乗せて街つれて出たら目をしっかり開けて神経を集中させていくのがわかった。と書いてあった。
そうなんだよね。
同じ喜びを感じている事が手に取るようにわかり涙腺が緩んでしまった。
「呼び寄せれば、大変さも引き受ける事になる。今のような生活は出来なくなる。でも、今なら、まだ動いて上げられる」彼女はそう言っていた。
きっと、兄弟に助けを求める事もないだろうな。
彼女が納得できる形で、そして揉めることなく移動が出来るようにとそっと祈るのみである。

母は、部屋で塗り絵をしていた。
傍らでFさんが椅子に座っていた。「お姫様みたい」というと笑っていた。
母の塗り絵は、顔が真っ青だった。ドレスも、折角綺麗に塗ったのに、その上を鉛筆で重ね塗りをしてしまいグロテスクになってしまっていた。
程よい所でピリオドを打ってあげないといけないのかな?







2003年05月27日(火) 医師の今、昔。


 娘が幼稚園時代の事。
運動会の日に熱を出した。
父の介護の為に故郷の幼稚園に臨時に通わせて ようやく自分の幼稚園に戻っての運動会だったので(故郷では運動会を済ませてけれど)参加させてやりたかった。
親の都合で、そうさせてしまっていたので、可哀想でもあったから。
その時の娘の罹り付け医は、自宅の電話を教えていてくれた。
休日で申し訳なかったけれど、電話をすると直ぐ診療所に出向いてきてくださった。
医師のお子さんが、家の子と年齢も近く事情を察しても下さったのだろう。
病名は、溶連菌感染症だった。
「他の人にうつさないように離れた所で見学してひとつくらいなら出し物に参加しても良い」と言ってくれた。
それで、何とか、一部参加で最後の運動会に加わる事が出来た。

なぜ、急にこんな事を書いているかと言うと…。
昨日の事、痴呆症で他にも持病のあるお義母様と暮らしておられるヘルパーのOさんと話していたら。
大学病院で診察を受けていたけれど、通うのも大変なので近くに住む開業医に見てもらっていて急変のあった場合大学病院に回してもらうようにしていると言っていたのだった。
大学病院に勤務していた医師なので其れが可能で、おまけに往診もして頂けるというのだった。ヘルパーとして入っている先の人は、違う医師にお世話になっておられ、その医師は、状況によっては、夜間でも往診してくださると言う。その医師は、自宅に機材や薬も持ち帰って居られるのだそうである。

話に上った医師は、二人とも数年前に近くに開業なされたのである。
私などは、長年見ていただいている医師が安心とばかりに新しい医師の事はあまり気にしてもいなかった。
3け所ほど往診対応が出来るとわかってからはそれ以上知ろうともしないでいた。
でも、3け所の所は、急な往診等まずありえない。
まして、長年見ていただいている医師は、往診はしていない。(聞いて見ようとは思っているのだけれど。)

「もしも」を考えた時、罹り付け医のフットワークの軽さも考えていた方がいいのじゃないかと思った。

近年の開業医は、往診は少なくなっていたのだが、最近 また増えてきているのかなぁ。
私の幼かった時には、車もないので自転車でエッチラオッチラ往診してくださった。
自宅に電話等ないのが当たり前の時代で交番まで走り往診をお願いする電話をかけた記憶がある。

往診が頼めるのであれば、助かる。
勿論、安易に往診を頼むべきでないし、患者側のモラルも必要である。

昨日の地震で母の言葉が思い出した。
母の病が軽かったころの事だ。
「若し、地震が来て避難しなければならなかったら、私を置いて行っていいからね」と地震の起きる度に繰り返し言っていた。
人一倍不安がりの癖ににである。
あの頃の母は、充分に動けた。「全く余計な事ばかり言って」と思ってはいたが「大丈夫、一緒に避難できるよ」と声をかけていた。
おそらく、今の母はそんな風に考える事も出来ないだろう。
自分の事を考えるのだって、いっぱいいっぱいなのだろうから。



2003年05月26日(月) 6月のGHの一泊旅行。


母を訪ねたら、施設長さんが居室にいらした。
日記には、まだ 記してないけれど6月にGHで一泊旅行をする。
そのお話だった。

ご家族も参加できます。娘(私)さんご夫婦も如何ですか?と連休直後に話されたが…。
とてもとても。
夫だって、娘だって休日すらまともにないのに平日に休むなんてできっこないのである。「家族は忙しい」と入所時から伝えてあるけれどどの程度かってあまり判って貰えないみたいだな。
私が居ないと困るのは目に見えている。
チャランポランに見えても、家族には頼りにされているんですよ…(施設長)

でも、家族参加が少ないと予定も狂ってくる様子だったので「参加します」と答えていた。
そういうと「無理しなくてもいいんですよ」と言われて「どっちがお望み?」と思ったんだけど、口にはしなかった。
で、入所者は、特に費用は集めないそうで、家族は2万5千円だって。
ちょっと痛いけど、仕方ないよね。
自分の行きたい所だったら、あまり感じないのだけれど…。
其れは、我儘というものですね。
「どれくらいのご家族が参加されるのですか?」と聞くとはっきりと答えて貰えなかった。判らないのだろうなぁ。

と言う経緯が有った。
で、今日の話は、職員が会議を重ねて予定を立てて見たけれど動いてみないと判らないので細かくは決めないという事だった。
取り消された予定を話されたけれど、私は、行く先と出発時間位しか説明を受けていないので「?」と言う感じ。
どうして、概略のプリント出さないのだろう。お知らせだって、個人的に当たらないでプリントで知らせてくれてもいいのになぁ。
変更だって、仕方ないと思うし 痴呆者の旅行なのだからいろいろあるのは家族が一番判っているのだけどな。

そして、部屋割りの話も出た。
母と二人の部屋の様であった。詳しくは後日だそうである。
大きな部屋になるようだった。
当日の洋服などの準備を家族でして貰えるか?という事だったので「はい」と返事しておいた。

ネットで行く先を検索してみると蛍が見られそうだった。でも、そういう時間に外に出ることできるかな?
ついで、気温も調べた。
でも、今 気温を調べてみてもしょうがないので、もっと近くなってから再度調べよう。

GHの旅行は、どんな風なのだろうな?
施設内での生活だって変化が多いのだから…。
いろいろな事が起きそうな気がする。お風呂だって大丈夫なのかな?

その後昨日の母の様子を話された。
散歩の折、膝をカクンとさせて転んだという事だった。
僅かな段差でもつまずく事があるのでそういう事ではないかと思った。

母と散歩に出てみると、後半左足を引きずるようになった。
痛みは、左足の付け根の辺りに痛みがあるようだった。
母は、以前からそういう事があった。季節的なものかも知れない。
戻ってから、その事を職員に伝えておいた。

離れていると、こんな時様子が見えないので、判断に迷いが出るなぁ。
痛みの頻度とかが「いつもと比べてどうだ」と言ってもらえれば少しは判るのだけれど…。
確かに預かっているのは職員でそこでの申し送りは職員間でなされるから良いのだろうけれど。家族には、断片的な説明だけのような気がする。






2003年05月25日(日) 介護職の人ってみんなそうなのかな?


 今朝、新聞の投稿コラムに目が止まった。
「世間体って何」というもので、介護職の人の投稿だった。
介護家族の態度や言葉から「世間体」に拘っている事を感じ疑問を持たれているようだった。
「世間体」に拘る家族に限って入院している患者に無頓着みたいとも記されていた。
介護できなければ「出来ません」と言えばよいのに…。とも。

そんな風に感じる事もあるだろうなとは思う。
けれど、どうなのだろう?
介護者って「面倒見切れません」という言葉を簡単に ストレートに言えるかな?
弟達の言い分がそうだった。
確かに「世間体」には拘ってないと言えるけれど。

でも「面倒見切れません」と言えない人が「世間体」を気にしてるとはならないと思うのだ。
施設に任せる事の不安から悩みながら居る人だって多いと思う。

介護者の心の内側は、複雑である。
ほんとに見たいと思っていても見られなくなる事だってあるだろう。
そういう介護者の内側をどれほど知っているだろう。
在宅で介護したくても、今のサービス内容では出来ないという現実をどれほど理解しているのだろう。

投稿なので、状況が今ひとつはっきり判らないけれど…。

介護と言うのは、人によって重さの感じ方も違う。
持ち合わせている介護の技量だって違う。
排泄の処理が苦手と言う人がいれば、会話する事が苦手と言う人もいる。
入れ歯の洗浄が嫌という人だって居る。
介護の物差しは、人によって異なるようだなと感じる此の頃の私。

そういう部分を介護者に一番近いと思われる人に汲み取って貰えないとしたらちょっと哀しい。

介護職の人みんなが同じように考えては居ないと思うけれど、在宅で介護するにせよ、施設に託すにせよ、家族はそれぞれ相当悩んでいると思うのです。





2003年05月24日(土) 介護サービスに取り組む時


 作業療法士さんが母にリハを施す時、私はいつも傍に座ってその様子を眺めている。
離れていても良いのだが、母が時に不安がる時が有るのでそうしている。

そんな時、療法士さんといろいろなお話をする。
母の事だったり、GHの事だったり、その時々で話題は様々であるが…。
今日は、療法士さんの呟きみたいなものから始った。
「デイケアを始めてみようかと思うのだけれど…。デイの中でリハビリを組込のがいいかなと…」
「あっ、それいいですね。利用したい方いらっしゃるでしょう」
「でもね、いろいろ あるのですよ」

「療法士として、リハメニューを考えても、勝手には出来ないのです。医師の診断が必要になる訳です」
どうやら、療法士としての独自での開業は出来ないという事だった。

私自身 考えた事もない世界の話で、そうか看護士さんが勝手に開業できないのと同じ論理なのだなと思った。

そこで、ふと 永 六輔氏が言っていた「訪問看護の話」を思い出した。
「看護士さんが、独自に訪問看護だけをしてくれると言うのが、僅かだけどあるんですよ」と言っていた。
ラジオでその話をした時問い合わせが殺到したと。
「在宅療法の事を真剣に考えている看護士さんは、いるのですよ。
其れは、自分で探す事、探せばきっと見つかります」と言っていた。

「有名人だから」「お金があるから」とも思わないわけではないが、でも やはり 探す事は、必要な事だろうとその時思った。

そして、今日の療法士さんの話。
おそらく「利用したい人」は絶対あるだろう。
私が、母を見ていていてもとても気持ちよさそうである。
医療保険利用なので、支払いも高くない。
肩こりと無縁の母でマッサージなど受けた事もないのに、ここまで気持ちよさそうにしていると心にまでいい作用が出てきているかな?と感じてしまう。

この、療法士さんが、何処まで頑張れるだろうか?
経営として成り立たないと思った時、やはり諦めてしまうのだろうか?

こういう時に、人の頑張りが見えてくる。

事を起こす時。初めは、きっと大変なんだ。
そこをうまく乗り越えていくと、道は開けてくるんだろう。

療法士さんは、送迎の事も気にしておられた。
「そこは、NPO等のボランティアにお願いしてみたら…。」
すると「いや、自分で何とか考えて見ます」

「ふーん」確かに理想は判るけれど…。
そして、仕事であることもわかるけれど…。だから、お金も必要なんだという事も…。
でも、そこは初めに報酬ありきではなくて、いろいろの助けを借りながら育て上げて行くって姿勢必要なんじゃないの?
これじゃ、利用者さんのためにではなくて、介護でうまく報酬を得るという事になって行くんじゃないの?

でもなぁ。介護に対する理解、サービスを広げると言う意味から考えていくと、これも必要か…等と感じたり。

難しい所です。

利用者からすれば、安くて、安心できるサービスが一番なんだけれど…。
世の中、そんなに甘くないよねぇ…。


2003年05月23日(金) とんがっている世の中か?怖い!


 今朝、TBSラジオの森本毅朗の番組を聴いていた。
小沢遼子とのやり取りで、先日の出来事を思い出した。
ラジオでは、
世の中が、ささくれ立っていて我慢できなくなってきている人多くなった。
毅朗さんちは、大きな道路に面していて、車庫入れの時苦労するそうだ。
車庫入れしていると、グッと近くに停車して「早く入れろ」って顔で見ているそうだ。車を出し入れする度にあっちペコリこっちペコリ。気が気じゃないと。
小沢さん曰く
荷物を降ろしているのがちゃんと見えているのに、待っていられずに「どけっ」と言わんばかりにクラクションを鳴らす。
待ってあげればいいじゃいいじゃないと思うよ。
「そこのけ、そこのけ」と言う感じで皆、我慢しないよね。と。
運転だって、「へたくそ」が頑張っているなと見守る気持ちがなくなっているよ。と。

私は、「そうだよね」と一人呟いた。

先日の事である。
大きな交差点でバスが右折しようとしていた。
信号が変わるつつあった。その時、直進車が猛スピードで突っ込んできた。
交差点に入る前には、赤になっていた。
だから、バスはゆっくりと動き出していた。
交差点の真ん中で「あわや事故か」と目を瞑った。
急ブレーキの音がして、すれすれの所で事故は回避された。
ここまでは、たまに見かける事もある。
信号の変わり目だから…。危ないけど…。
其れからの、直進車の動きである。
あろう事か、停車した直進車が急発進。クラクションを大きく鳴らして「そこどけ」と曲線をかいてバスを追い越して車体はバスの前に入り込んだ。
車とバスの間は、僅か数センチだった。
片側3斜線の広い道路で、混雑もしていない。
明らかに嫌がらせであった。

確かに、バスの運転者も悪いと思うが、乗客も乗っている。
直進車の嫌がらせは、常識をはるかに超えていた。

とても嫌な風景だった。

そんな場面を思い出したのだった。

世の中、何でこんなにとんがっているのだろう。

今日は、母の所に向かっている入る途中に目がおかしくなってしまった。
私の目は、乱視をベースにして左が近眼右が遠視なのである。
それに、年も加わり 目の周りの筋肉の収縮力が落ちてきている。
疲れてくるとちょっとおかしくなる。物が二重に見えてしまう。」
最近 「危ないな」と感じていた。
今日、その状態がもっと強くなったのだった。
医者は、酷くなったら手術できるから…と言っているのだが…。
慌てて、家にUターンして目を瞑り横になった。
疲れている時は、無理はしない。
一時間ほど、横になって寝てしまった。

目が覚めると、目は落ち着いたようだった。
だましだましでいつまで持つのかな?
若い時は、いい目だったのに…。大事に使わなければ…。

明日は、リハの日で母をつれてくる。
たっぷりの時間を使って母と過ごそう。






 


2003年05月22日(木) えへっ。この年になって…!


 いや、今日は、ビックリ。
夫もニヤニヤ。「親に 感謝しないとな」だって。

一日が忙しく過ぎて、伸びてしまいそうだった。
夕食の支度をしなければならないのに、疲れてボーっとして気力が湧かずに
コーヒーなんか淹れてゆっくりしていた。
ちょっと、蒸し暑いのでタンクトップを着て洗面所に行き顔を洗って鏡を見ると…。
肩の辺りに、どうも筋肉がモコモコと付いて 逞しい肩なのである。
「あれーいつの間に…」
いやはや…。そういえば、最近痩せたのもそういう事か…。

気を取り直して、台所に立ったら、ピンポンとチャイムの音。
「はーい」とドアホンをとると夫の帰宅。
「えっ。早い。早すぎる。夕食の支度未だだよ。」
「お帰りなさい」
「おっ。お前 筋肉付いたなあ。俺なんて 筋肉がなくなっていく一方なのに…。親に感謝しろよ」だって。

どうやら、このところ母に使う力仕事が多いせいみたいだ。

いやぁ参った。
でも、スポーツジム通いで筋トレする時代だから、其れを考えればやっぱり母に感謝すべきかな?

この年になれば、確かに なかなか動かなくなって骨粗しょう症を起こす人も多いのだ。
介護してれば、其れを未然に防げるかぁ。

娘は今朝7時少し前に帰宅。
思考力さえもなくなったようにベットにまっすぐ。

あーこれじゃ、一人で起きられないと直感。
直ぐ事務所に電話を入れて訪問時間をずらして貰えるか聞いた。
代わりの人は、居ないのだ。
トイレだけ一度介助に行き後は時間をずらして貰おうと思った。
でも、ずらしていいとの利用者さんの返事だったとの事で娘を起こすまで自宅に居た。

数時間後、娘を起こしてご飯を食べさせ、完全に目覚めたのを確認してから家を出た。(親としては甘いかしらね…)
利用者さんには、此方の勝手を詫びた。
利用者さんは、母がどうにかなったと思ったらしかった。
幸い、利用者さんは、大分調子が良くて、車椅子での外出を希望される程だった。

そんなこんなで、家に戻ったのが夕方になってしまったのだった。

でも、こういう状態は良くない。娘も暫く こういう日が続きそうだし、代わりの人を探してもらうようにした方がいいみたいだな。いくら、ボランティアと言っても無責任には出来ない。
話合いが必要だな。


2003年05月21日(水) 2回聴けたよ!


 相変わらず布団が温まる時がない娘。
朝食くらい食べて欲しいとミニミニおにぎりを作っては見たが、米粒を口に運ぶのが嫌みたいだった。
しょうがないので、急ぎ 煮ソーメンを作った。
ダシに生姜のすり卸を入れて、せめて身体を内側から温めてもらおう。
そして、温泉卵をのせて。でも、ちと何かが足りない。薬味にオオバを刻んでおしまい。何とか食べたみたい。

家の中に静けさが戻った時 遠くで郭公の声がした。
今年、2回目。
一回目は、故郷に立つ日の朝だった。
あの時は、もっともっと近くだった。あまりに嬉しくて、娘を呼びに行って戻ったら、もう聴こえなかった。

郭公は、故郷でももう聞くことは出来ないのに…。ここは、故郷より自然に恵まれているのかな?

先日、娘が母に念願の椅子を届けていた。
見かけは、何の変哲もない「おもちゃ」のように見える物だ。
樹脂で出来ているので軽く、肘掛もあり、それでいて安定感もある。
腰をかける部分にクッションはないけれど微妙に曲線が施されておりすわり心地も悪くない。高さも母にはぴったり。他の人では、きっと 足が床に付かないだろう。
昨日、職員が「このまま 座るのですか…?」と不安そうに聞いてきた。
「座ってみてください」と腰掛けてもらったら、「あっ。大丈夫ですね。いい椅子ですね。若い人ならではの感覚で…」と言われた。

娘は「お店で買えば高い物だけど社内オークションで買ったから」と自慢げだった。

今日は、介護保険更新の為の調査の日だった。
昨年は、GHで看護師さん立会いのものとで調査していただいた。
今年は、家で。調査する人と母と私の3人。
約束の時間の少し前に見えられた。
ここの職員(以前デイでお世話になっていた支援センターの方だった)はいつも早めである。ほんとに良い心がけだといつも感心してしまう。
調査の方は、初めてお目にかかる方だった。4月に配属されたとの事だった。
少しどきっとしたけれど、きちんと状況把握のできる方とわかりほっとした。

調査報告書の順番に沿って 聞き取りは進められた。有るがままにお話をして痴呆の部分に関しては、特記事項にしていただいた。

この方は、母の経歴を知らない。また、2月の脳出血も知らない。
そのことを話すと、「とても、そういう事があったとは思えないですね」と言われた。
母は、この間、傍で塗り絵をしていた。その絵を見てその方は更に感心なさった。母への質問も有ったが、母は、生年月日すら答えられない。月までヒントを与えても答えられない。全て、答えはトンチンカンだった。
これが、今の母の実態なのだけれど…。
其れなのに、塗り絵の仕上がりは、別なのだった。
そこに驚きを感じられたようだった。
あまりに褒めてくださるので、急変直前のものをお見せしたら「鳥肌が立ってきました」と驚かれた。

「よく、介護なさりましたね」といわれた。
「でも、これは、GHに入所していたからこそできたのであって、もし在宅だけでの対応だったとしたら出来なかったと思う。」と答えた。

本当にそう思うから。
私は、できるなら施設入所していても直ぐに病院に運ぶのでなく状況によって家族の協力を得ながらでも対応できるシステムを考えてもらえれば…と願っているのだ。
だから、機会のある度にこの事を訴えたいと思っている。
施設側も大変な責任を負う事になると思うけれど、足りない所を整備しながらそうなって欲しいと思っているのである。

さあ、肝心の介護度はどうなるだろうか?




2003年05月20日(火) 介護にまつわる風景


 故郷の会に出かけて居る時安否確認の電話を入れた。
携帯電話を持たない主義の私の義務でもある。
すると弟から留守電が入っているという事で「どう対応しようか?」と言われた。「用があれば、かけ直してくるだろうから其の儘で良い」と返事した。
内心では「帰郷している姿でも見たかな?」とドキッである。
家人は、それぞれ用があり家を出た。留守電の設定もせずに…。

母を施設に送り届けて家に戻った。
留守電の設定をしてなかったので、着信履歴を確認してみた。
すると、弟からの履歴があった。
繰り返し電話をかけて来ることはない人なので「何かあったかな」と気になリ弟の携帯に電話した。
けれど、呼び出し音は聞こえても応答なし。
「やっぱり、何かあったか?」と胸騒ぎ。
今度は、自宅にかけ直す。「ピンポンパンポン。この電話は、現在使われて降りません」「えっ。そんなぁ…」
番号表示を見るとダイヤルミスだった」
気を取り直して再度ダイヤルイン。
「はい」 「●●です。▲▲居ますか?」
「いいえ」 「電話貰ったので携帯にかけて見たけど出ないので…」
「電波の届く所に居ます」「はい。じゃ、かけ直します」
これが、弟の家人との会話の全て。
何事もなかったとほっとしたものの「何か相談でもあったかな?」と凝りもせずに携帯にかけ直すがやっぱり出ない。
全く、馬鹿丸出しの姉である。
でも、弟の携帯には姉からの着信履歴がしっかり残されている筈である。

そして昨日の朝、弟から電話が来たのだった。
「連休に行けなくて…。婆さんまだ入院してるのか?」と。
「ギャッふーーーーん」
  母が入院したなんて言ってないもん。そういう事実もないもん。
  あんたはん、母が入院していると思っていたんだぁ。
  それでも、今日まで面会にも来ないし、電話もしなかったんかいな。
  それに連休じゃなくて、3月の4週には仕事の区切りが付くから行くって
  と言ってはったんとチャウかいなぁ。
と言う言葉をググッと飲み込み 母の経過の概略を話した。
すると「よく判らなかったから…。大体わかったよ」と言って電話は切れた。

いつも、こんな風だけれど、今更ながら母に何か有っても当てには出来ない存在であることを再認識させられた。

それにしても、弟にとって母の存在ってどういう位置づけなのかな?
何だか、また、母が不憫に思えて来た。

父の声がした。「兄弟仲良く…」
私の感情のボタンをリセットするしかなかった。
でも、夫には言えない。

実は、故郷でも似たような事が…。
現在、遠距離介護をしているその方を今度の会にお誘いした。
彼女は、介護を会に合わせて帰郷なさった。
病院で待ち合わせをしたので、迎えに行ったのだった。
時間が過ぎてもロビーに下りて来ないので病室まで訪ねてみた。
彼女の目に涙が光っていた。
「別れが辛いのだろう」と思ったが傍に弟さんの姿があり 何となく状況を察せられた。
車に乗り込んでから 話を伺い 貰い涙。

私と兄弟の関係もそうであるが、同じ親から産れ、育ち 仲良く助け合って来たのに、「介護」に関しては何故こうもギクシャクしてしまうのだろう。
親は、遠慮して本人の前では本音を言わない。
できる限り冷静にと思っても、ギャップは深まるばかり。
難しいなあ…。

たまたま、私も友人も立場は嫁いだ娘。
でも、これは、息子だってありえるし、嫁がなくっても起きるのである。

昨日の会の帰り、夫の友人に出会った。
夫と待ち合わせていると言うので、夫の来るまで立ち話。
ここでも親子の事。
彼には同居のお義母様が居られる。
そのお義母様に、家族が口を揃えて「何呆けているの!」を連発しているらしい。あろう事かお孫さんまで。
聞いているとお義母様は、70歳後半でどうやら普通と痴呆のグレーゾーンに居られるようであった。
「痴呆始ってないかな?」と聞くと「いや、ちゃんと生活できている」と言われた。
「痴呆だって普通のちゃんとした生活はできるのよーん」とは言わなかった。
でも、あまり呆けたと言うと自信をなくしてうつ状態となり仮性痴呆になっていくから必要以上に怒らない方がいいよ。とだけ伝えた。
夫も来たので話はその辺で打ち切った。

高齢者の幸せは高齢者でないと判らないし、人によっても違うけれど「心」ってお互いを繋ぐ要のようなもので、介護には欠かせないと特に感じるのです。


2003年05月19日(月) ネバならないでようやく…


 今日は、例会でした。
全くの自由参加が基本であるこの会。
一人の方のためにゴタゴタとしていてちょっと参加するのが重荷になり始めている会。
朝から「行きたくなーい」と休みモードになっていた。
疲労感と面倒さがあり、逃げる事だけ考えていた。
どうやら「嫌だなーーー」と無意識の内に幾度も口にしたらしい。
遅めの出勤をする娘から指摘された。
「行かない」と宣言しても、体が出かける支度を始めてしまう。
少し遅刻だけど、結局出向いた。
遅刻だったので、自分の定位置は塞がっていて苦手な方の隣に着席。
気が重ーくなっていくのを感じた。

でも、見渡すと新規の参加者がいた。
話に耳を傾けているうちに、心当たりの方である事に気が付いた。
大分前から「こういう方がいてこの会を紹介しました。宜しく」と言われていた方だった。
「あーきて良かった。ここに居なかったらなんと無責任な人」と思われてしまっていたかもしれない。
そのうちに、更に遅れて別の参加者がいらした。
良い結果の報告と相談があっていらしたのだった。
これも、良かった。
私が居なくとも会は動くのだけれど…。そういう会なのだけど…。

ここで「ケアマネさんを変えたいのだけれどどういうものか…」という話題になった。
この会の良い所は、各支援センターの方も参加しているけれどその苦情にも率直に、真摯に応えてもらえるのだ。
今日も「合わなければ変えるべきでしょう」と支援センターの方が応えていた。相談した方は、ほんとに安心したようだった。
「デイに慣れないけれど、迷惑を考えて様子を見ている」とも言っていた。
私などは、支援センターの方の居る前で「痴呆を受け容れるプロの集団だから迷惑なんて考えないと思う。其れが仕事なのだから…」等と平気で言えるのである。
全く厚顔無恥なのである。
でも、お許し願えるのである。

私の後からいらした方は「ここで知恵と工夫を頂いてデイ通いがスムースになりました」と言っていらした。
ヒントを得れば 納得行く形が自然に見つかって行くものである。
今度は、その方の知恵を他の方に話せば次の人のヒントになって行くのである。

地元に少しずつ、介護の輪が広がれば 何が必要かおのずと見えてくる。
ばらばらに言っても個の力ではどうにもならない。

次回への課題としてヘルパーさんに鍵を預けたいという事。
一人暮らしや日中一人の方のところでは、ヘルパーさんが鍵を預かってくれないので何か在ると不安と言う訴えがあった。
「公ではいえないけれど、こういう場合も有ります」という例を挙げたりしながら行政として何処まで緩和できるか検討するという事だった。

「行かなければならない…」と自分を叱咤しながらでかけた会ではあるけれど
収穫は山ほどあった。行って良かったぁーーーーーー。

でも、今朝は、気の重ーくなる事が、もう一つあった訳で…。
急変を伝えてから約2ヶ月。弟からの初めての電話であった。
私の頭の中の感情部分にリセットを実行しました。
其れは、明日に…。
書いておきたい事が、2.3有るので忘れないうちにと思っている。



2003年05月18日(日) 驚きの出迎え


 帰ってきました。
娘が、代打日記を書き込みそうな気配は感じていた。
が、母との事は初耳。

その娘が 用があるからついでに迎えに行くと電話では言っていた。
が、母を連れて来るとは、全く予想も付かなかった。

約束の場所は、地元の駅ではない。
そこは、地元からは相当に離れているとても賑やかな場所。
車から降りた娘の隣に母がいた。
「えっ、どうするの?」これから、いくら頑張っても夕食までには施設に着かない。私も疲れてしまっているし…。

でも、どっかでほっとしている自分がいる。
其れは、昨日今日と面会できなかった事、そして、ひょっとすると明日もちょっと、会があって母のところまではいけないかも知れないのだった。
でも、そんなに空白を作ってしまってはよくないだろうし「どうしようかな」と考えていたのだった。

母の顔を見て覚悟を決めた。
夫には悪いけれど夕食は、ここでして行こう。
ちょっと贅沢だけど、たまの事だし。母をここまでつれて出るのは滅多にないだろうと。
イタリアンレストランに入った。
ナイフとフォークがたくさん並べられた時「母には無理」と思った。
案の定だった。でも、できる限りスプーンにのせたり、フォークに刺したりしながら順番に口に運べればよいと思った。何も、ルールに従わなくとも…。
母は、おいしそうに食べていた。
デザートまで、全量食べた。
それから、ちょっと、買い物をして施設に向かった。
娘は、連れ出した責任上施設に遅くなる旨は告げ、更に帰宅も遅いと伝えていたようだった。
施設に戻ったのは、8時を回っていた。
母は、車窓からの夜景を楽しんでいた。
「眠くないの?」と聞くと「大丈夫」とニコニコ。
横になる事もなく程よい疲れだったようである。
施設に着くと行った先を聞いた職員は驚かれ「良かったね」と母に声をかけていた。母は「?」といった所。

私は、旅帰りでホントはかなり疲れていた。やはり年を感じていた。
でも、これで、明日は面会に行かなくとも大丈夫かも。
ちょっと、肩の荷が下りた。

それにしても、大胆な行動をする娘である。唖然としてしまった。


2003年05月17日(土) 【代打日記】親不孝娘の恥さらし日記。

こんばんわ。はな娘です。

母・はなは、本日生まれ故郷での集いに参加する為、
わあわあ、どたばたと支度をしてわらわら出て行きました。
今頃は楽しい宴も終って夢の中でしょうか。
たまにはリラックスして欲しいものです。

祖母の話。
一昨日・・・でしたか(最近日付の感覚がありません。)
母・はなが掲示板にも書いていたように寝過ごしてしまった朝。

その日あたしは朝6時に帰宅したので、起きられるわけもかったのですが
どうしても行かなければならない事情があったのに
寝過ごしてしまったことに自己嫌悪になりイライラしていたら
出掛けにリハの為帰宅していた祖母に一瞬会いました。

タイムスリップによって判らなくなってるはずの祖母が
「●●ちゃん。(あたしの名前)なんか疲れた顔してるよ。大丈夫?
もう出かけるんでしょ?気をつけて行ってらっしゃい。」と
さらりと言いました。

「いってきます。」を言う前の出来事でした。
最後に祖母と長いこと一緒にいたのは急変時の事だったので
母が言う「よくなった。」のあらためて意味をかみしめました。

大遅刻をしていて、急いで出てしまったため母・はなにも
まだ話していない事実でした。

明日には、母・はなが帰ってきます。
通常どうりの営業になりますので、今後共どうぞ宜しくお願いいたします。

最後になりましたが、駄文にお付き合い感謝致します。
合掌。


2003年05月16日(金) ちぐはぐな動作


 今日は、療法士さんの都合で午前中のリハとなった。
母を迎えに行くと、朝食が済んだばかりだった。
施設の夕食から朝食までの時間はかなり空いている。施設の朝って、空腹でみんな、さぞかし忙しないのではないかと想像した。

施設から家まではバスを利用した。
そのバスを降りようとしたときの事。
「降りるよ」と母に声をかけ立ち上がったことを確かめて降車口に向かった。けれど、母は石のように動かない。
「降りられない」と言っている。振り向くと母の右手はポールをしっかり掴んでいるのだった。「放して」と言っても母は、理解できない。
直接右手に触れて「放すのよ」と言うとようやく手を放した。
母は、明らかに降りる事は判っていたのだ。でも、手を放せなかった。
通勤 通学の人も大勢いたのでちょっと焦ってしまった。
帰路も似たようなことが起きた。

ちぐはぐな動作はそれだけでなかった。折り紙を折ってみたらと渡したのに、折り紙を重ねて鉛筆で点線を書いていった。
絹さやの筋を取ってねと頼むと筋を取り始めた。でも、今度は筋を取った絹さやを口に運んだのだ。
「食べられないでしょ」というと母はニコニコして「食べられるよ」と口に運ぶ。まるで、いたずら盛りの子供のように。
でも、子供は、食べられないと判っていてするのだ。
母は、ほんとに食べられると思っている。
幸い「トイレに行きたい」と言ったのでトイレに誘導。
戻ると頭の方が自然リセットされたようで口に運ぶ事はなくなった。

見た感じは、とても穏やかでありよい感じなのである。
そして、判ってはいるようで判ってはいない。

大きく動作をするときっと大変なのだろうけれど、母の場合、アクションが小さいので助かっている部分がある。今日の母は、ほんとにちぐはぐだった。

リハを終え、昼食を摂り、入浴して、おやつを食べて、ゆっくり家を出て施設に向かった。

母を送って 家に戻ると介護保険の更新の為の調査の電話があった。
在宅時お世話になっていた支援センターが調査に来るという事だった。
ちょっと、ほっとしている私である。

明日は、日記 休みます。
元は若かった人たち(今はおばちゃん)のおしゃべり会です。一泊してきまーーーす。


2003年05月15日(木) ふーっ。


 今日は、訪問日。
少し早めに訪問した。と言うのも利用者さんが便秘で座薬を使用すかも・・・という報告があったからだ。
もし、出そうで我慢していたらお気の毒だし…。

予感は的中。4時頃より我慢していたらしい。でも、堪えられなくてちょっと。少しだけで、後はトイレでと言う希望に沿う為オムツを外してトイレと思ったが間に合いそうもなくなって…新たにオムツをつけてトイレへ…。
臀部は、ただれが始っている…。
これも、予防できるのであるが…。
なかなか、思うように行かないのが悩みの種。

今日も時間オーバーである。
考えてしまった。

利用者さんは、私が見た限り未だ状態は良い方だと思う。
片側麻痺だけで、動く方はしっかりしている。
便秘というけれど、これは食生活に問題ありと思うのだけれど…。
そこの改善がうまく行っていない。
これは、医師とケアマネさんが何処まで理解できているかが問題のような気がしてきた。
勿論、一番問題なのは利用者さんなのであるが。

今日は、後半で往診があり、ケアマネさんが立ち会った。
本当は、私の活動時間は過ぎていた。でも、終らなかったのでまだ、活動していたのだった。
ケアマネさんに「怒りっぽくなっているように感じますが…。そして、甘えがあるようですが…」と言うと「ヘルパーさんも、言ってます。甘えに関しては医師と相談して此方でやっていきますから…」という事だった。
でも、3人のやり取りを台所で聞きながら、利用者さんの話を鵜呑みにして具体的に踏み込んだ話はしていない。
現場では、本当に困っているのに…。
そして何より、あの怒りっぽさやせっかちは、別の病が始っているのではないかとさえ私は感じているのだ。
そう、痴呆である。
未だまだ、初期の初期である。生活改善で何とか成っていく状態。

自宅に戻り、時間オーバーについて本部の方に相談した。
超過はきちんとつけて置くようにとの事であった。
難しい人であることは、充分承知しておられる。
電話を切ろうとしたら「看護師の方も心配しているので代わります」という。
そこでも、いろいろ 話をした。
看護師さんも、私の捉え方と同じだった。
今後、ケース会議を持ち検討してもらうようにケアマネさんに話すという事だった。
でも、これだって、簡単にいかない事を私は知っている。
前の係りだった看護士さんも散々チャレンジしていたのを見ていたから。

ケアマネさん、医師、看護師、ヘルパー、ボランティアそのどれもが、ちゃんと機能しないと介護はうまく行かない。


2003年05月14日(水) 睡眠時間 20時間


 母が落ち着き始めて ほっとしたのも束の間、今度は娘のことが…。
夫は、繁忙期も過ぎほどほどの勤務体制に(それでも、定時上がりの人の様ではないが)に帰宅するようになったのに。
先週から今週にかけての娘の1週間の睡眠時間が20時間あるかないか位といった所。流石に、今週はなかなか起床出来なくて、悪戦苦闘の日々である。
昨日、一昨日とは 入浴する気力すら無くなっているようであった。
年頃の娘にこんな勤務を続けさせてよいものか…と悩み始めている。
「一段落の見通しは?」と聞くと未だ、なんとも言えない…という返事。
週末のお休みも、出勤だったりもして…。
月曜以来、娘の愛車は駅前の駐車場に預けっぱなしである。
さあ、どうしましょう?考えるまでもないのかかな?
でも、新たな部署に付いたばかりだし…。
「辞めたら…」と言ったらどういう返事が返ってくるものやら…。

今日は、過労になった人がいて、久々に10時過ぎには帰宅したが、でも、どうやら会社から電話が入っているようである。
まだ、仕事している人がいるのだ。「…」

母を美容院に連れて行く。
最近は、拒否しなくなった。いや、むしろ楽しみにしているようでもある。
だから、助かる。
先月、短く刈り込んだ髪がつんつんとはね始めたのでパーマをかけることにした。
先月お休みしていたオーナーが、短髪の母を見て驚かれていた。
「いや、脳出血をおこして 間単に来られないかもと短くして頂いた」と言うと「元気になって良かったですね」と言ってくれた。
オーナーの配慮で、パーマの後あまりカットしないで仕上げてくれた。

美容院を出ると、今まで何処にいたかすっかり忘れてしまう相変わらずの母。でも、施設のエレベーターの鏡を見た時 ヘアスタイルが変わっている事に気が付いた。
経験は忘れてしまっても、変わったという事はどうやらわかるみたい。
「凄いな」そして「不思議だな」


2003年05月13日(火) 介護保険の更新手続き


 今年の介護保険更新は、自力で。
 昨日、書類を送った。
 初めての事では有ったが、難しくはない。後は、訪問調査日の調整の連絡
 が入るまで、待つだけである。
 調査は、昨年、施設の看護師さんが立ち会ってくれたが、あれだったら一
 人でも大丈夫と思った。
 さあ、どうなるかな?

連休に戴いた金魚の卵、数日後に孵化した。
今は、小さな小さな金魚の赤ちゃんがいっぱい。
このうち、何匹育つのだろう?
一昨年も、今回くらい戴いたけれど、育ったのは一匹だった。

めだかは、今年も卵無理かなあ?
ひょっとして、オスだけ?



2003年05月12日(月) 車椅子


 施設内の別のフロアにIさんという方がいらっしゃる。
Iさんは、最近 転倒なさったようで現在車椅子で生活なされている。

母を訪ねるとIさんが、母のフロアにいらしていた。
「人が訪ねて来る予定があるから、誰かテーブル外してください」としきりに訴えていた。
入所者の方が、それでは困るだろうとテーブルを外してあげようとしていたが
外せないでいた。
きっと、立ち上がって また 怪我をされても困るのでテーブルつきにしているのだろうと察した。表現は悪いけれど、これも ある意味の抑制である。

職員は、どうやら会議中みたい。
お手伝いの方が一人いらしたが、あれこれ 仕事なさっている。

私は、Iさんの家族ではないし、詳しい事情も知らない。
よく解釈すれば、家族が「怪我を避けて欲しい」という要請があったのだろうと思う。
でも、人手が足らないから車椅子という事もあるだろう。
これは、きっと違法ではないのだろう。
でも「安全の為に」と言う理由での消極的介護はどうなのだろう。

母の急変時の時に、母の部屋に布団が敷いたままになっている事があった。
「何かで急に立って倒れたら困る。目が離せない。」と言われた。
私は、出来る限り普通の生活をさせてくださいとお願いした。
駄目とは言われなかったが「とても面倒」という事が伝わってきていて依頼したことが悪いような…そんな気まずい雰囲気があった。

Iさんは、何もする事がなく「来客予定」の事しか考えられなくなっているのが判った。
心が少しでも安定できれば…と思い母の部屋から折り紙を数枚持ってきてIさんに渡して「かざくるま」を折っていただけますか?と依頼してみた。
始めは、折り紙を折っていても気もそぞろだった。
お手伝いの方も「この人、折り紙あまり得意でないから…」と言われた。
それでも「上手ですね」「やはり評判通りです」「頼んでよかった」「ごめんなさい。無理なお願いをしてしまって…」と話しかけているうち数個のかざくるまを仕上げられた。
「折り紙より、ピアノの方がお得意でしょうか…?」と聞いてみると「うふふ」と微笑みお手伝いの方が準備したキーボードを弾き始めた。
一緒に歌ったりして…。母の部屋から指人形を持ってきてテーブルに置いてあげると「まあ、可愛い」ととても興味を示された。
こんなやり取りを小一時間も続けているうちに…。
「今日は、ここに泊めて貰おうかしら…」と言うようになった。
「そうですね。其れがよいでしょう。これから、お家に帰られて夕食の準備も大変でしょうし…」と言うと「そうですね。そうしましょう」と落ち着かれてきた。

私は、これを機に母を散歩に連れ出すことにした。
母は、この間 ずっと本を読んでいた。
いや、読むというより文字に目をやっていたと言うのが正しいかもしれない。
静かだったので時々母と視線を合わせながら様子を見ていたのであった。

二人で歩き出すと「気持ちいいねえ」と母はご機嫌である。
公園でおやつ休息をしてまた歩き出す。いつもの倍以上歩けた。
今日は気温も上がらずお散歩には丁度よいお天気である。
母の日にと買ったサンダルも、履き心地もよいらしく「足が痛い」の訴えもない。
戻り道を歩き出した時、私達に笑顔で近寄っていらした方が…。
でも、私は知らない。後ろを振り向いたが後ろに人影はない。
「こんな所までもお散歩にいらっしゃるのですか?」と言われた。「??」
「私、以前 デイでお母様をお迎えに行ったことがあります。もう止めたのですが…」
納得がいった。
母がGHに入所した事は知らないのだった。
「変わらずに足が丈夫で何よりですね」と言われた。
母にもあれこれと話しかけてくれていた。

よく、覚えていて話しかけてくださったなあと思った。

更に遠回りして帰路につく。
人に会ったせいだろうか?母の足は更に軽くなっていた。

施設に戻ると Iさんは、まだ、車椅子で母のフロアにいた。
引継ぎを終えてようやく自分のフロアへと戻っていかれた。


2003年05月11日(日) 当たり前の事をする素晴らしさ。


昨日の続きで、朝から庭での仕事が続く。
まずは、草取り。
これが、なかなか 厄介である。

小さいうちに抜いておくのだけれど、油断すると小さい草が一面に出てきてしまう。
地面を這うようにカタバミがあちこちに出ていた。
これが、きゅうりのミニミニサイズのような実を持つと、はじけてまた増える。シダや、どくだみは、根を張って増えていくので根を切るようにしなければならない。
暖かくなると、草もどんどん成長してしまう。悩ましい。

木々も、気温の上昇と共に枝を広げ、鬱陶しくなりそうな所も出てきたのでのこぎりで切った。風通しをよくしておかないと病気や虫に悩まされそう。

なでしこ、風船かずら、矢車草等 先日 種を蒔いた物が程よく育ったので鉢に植え替えをした。

東の方から始めて南 西と移動して夕方ひとまず打ち切った。
ついで、ふきを刈り夕食の一品にした。

今日は、母の日であるが母のところには行かなかった。
2日続けて行った後なので、今日は許してもらおう。

そうそう。ちょっと触れておきたい人がいるのだ。

施設開所時からいる若い職員さんの事。
彼女は 初めの頃、とても 頼りなげであった。
「あなたね、仕事をする為に来ているのでしょ」と言いたくなる場面が度々あった。
でも、最近の彼女は あのころの事が想像出来ないほどに変わった。

入所者に対しての心配り、配慮がとてもあったかいし 入所者に対しての介護のあり方をあれこれと休むことなく考え実行しているのがよく見える。
そして、此方からの質問には即答できなくても 後日 責任を持って返事を下さる。「仕事だから、当たり前の事でしょ」と思われるかもしれないが、これが案外当たり前でないのが現状なのです。

忙しいのに、こういう学びをして行く人もいるんだなあ…と頭が下がった。







2003年05月10日(土) 療法士さんのお休みで…。

「出た?」 「んー?」
「出る?」  「トイレは、出ない」
「当たり前でしょ。トイレは動かないよ」 「そうだね。あれ?なんだっけ」
「何が出るの?」 「・・・・」
「なあに?」  「んーとね。んーとね。」
「おしっこ」と言う言葉がなかなかでない母。

「じゃ、拭いてね」とペーパーを渡してちょっと離れた。
戻ってみると、「はぁて、これをどうしようかな?どう折れば…」みると、トイレットペーパーが折り紙を折るように律儀に畳んで有った!

珍行動は、トイレを出ても続いた。
明らかに、手を洗うために洗面所に行こうと動き始めたのに…。
「えーと、トイレは…?」と言うのだ。
閉め掛けたドアを開けて「トイレはここ」と言うとまたトイレに入ろうとした。

トイレへの用足しの前後は、いつもこんな風である。

考えてみると、急変時の時は、こういう会話すら全く出来なかったし、まして、母の傍を離れる事など数秒単位だった。
トイレに行く意思表示もできなくて 此方からの声がけ誘導だった。
其れも、両手を持って「1センチ足らずの敷居を越える時だって「目を開けてほら段が有るよ」と声をかけなければならなかった。

だから、今は 楽になってきてる。
これくらいの事は、なんともないし、むしろ嬉しいくらい。

私は「ぷっ」と吹き出してしまう事だってある。

初期の頃は、笑う事すら出来なかった。
笑われる事で、母は萎縮してしまうし、プライドを傷つけてしまうのだった。
また、私自身 笑いよりイライラ感の方がずっと、多かった。

訳が判らなくとも ある程度 会話が通じれば 喜びも生まれる。

今日は、リハは療法士さんの都合でお休みとなった。
おかげで、時間がたっぷりできた。
ベランダ側の戸を開けて、母は室内でカレンダーを切リ抜く作業。
私は、外で鉢植えの整理をした。
母は、鋏を使って鳥の絵を切り抜いていた。
「出来ないなあ」というので目をやるとちゃんと出来ていた。
嫌になったかなときくと、「そんな事はない」という。
そして、黙々と切抜きを続けた。
数分毎に、母を見ながら 私も外での仕事を続けた。
母は、全く外の私に興味をしめさずに作業を続けていた。
よく見ると、絵は切り取り終えて、数字を一つ一つ切り抜き始めていた。

鋏も、使えなくなっていたに、もうちゃんと使える。

切りのよい所で作業を終了。
今日も、また入浴してもらった。
昨日、入浴した事など全く覚えている筈もなくて…。


2003年05月09日(金) 折り紙


 母を連れて来て入浴させた。
家に着いた時「初めて来る所だな」と言っていたのにお風呂場に入ると「懐かしいな」だって。
母の頭の中は、どういう順番で情報が伝達されていくのだろう…。

風呂上りに、おやつを食べてもらう。
故郷の粽である。
中華の粽はこってりと味が付いている。名古屋はういろうで、縦長。
故郷の粽は中華と同じでテトラ型で、もち米だけのシンプルな物である。
それに、砂糖の入った黄な粉をまぶして食べるのである。
「おいしいなあ」と母は、言った。「これ、なあーに?」と聞くと考え込んでしまった。仕方ないので♪柱のきずは、おととしのぉー♪と歌ってみた。
ようやく「粽かぁ」と思い出した。
母の満足げな顔を見るのとこっちまで幸せ気分に成る。

母を施設に送り届けて帰宅。

実は、この帰宅にはタイミングがある。
急変以来、「またね」と言う言葉に 母は過敏に反応してしまう。
だから、そっと帰るようにしている。
でも、何も仕事がないとそっとも帰れない。で、塗り絵だったり、本だったりを渡してその隙に帰って来るのである。
母が気付かぬ内に姿を消せば、母も忘れてくれる。職員も、無駄に忙しくはならない。これが、双方に良いと思うから。

今日は、折り紙を渡した。
急変以来、折り紙が折れなくなっていたのだが、この所 簡単なものなら折れるようになって来た。兜などは折れるのだ。
今日は、ちょっと面倒な勲章を折ってもらう事にした。
勲章と言うのは、コースターである。
何故、勲章かというと…。
母が、教職に付いた頃は、戦争の最中だった筈で、勲章を戴く事は、名誉というか栄誉と言う物で有った筈で、子供達も欲しいものの一つだったのだと思う。だから、折り紙でみんなに勲章をいっぱい折ってあげたのだろうと想像している。だから、記憶に焼きついているのだろうとも思う。
母のお得意の勲章なのである。
まっさらな折り紙を縦4つに折り始めたので今日はきっと折れると感じた。
でも、それから先には、進めなかった。
仕方がないので、先の先の先まで折って、母にバトンタッチ。
すると、続きを折り始めた。
向かい側に座っていたFさんも「そこからなら折れる」という顔をして見ていた。Fさんにも、途中まで折って渡した。
二人ともちゃんと勲章を完成させた。
まっさらな折り紙からは、未だ 折ることは出来ない。
でも、この調子なら二人とも、これを繰り返していけばちゃんと折れるようになるなと感じた。
母もFさんも同じ年である。

折り紙に集中し始めたのを機にそっと施設を後にした。

明日は、リハの日である。
前回みたいに、勘違いしないように気をつけようっと。


2003年05月08日(木) 父を思い出した日


 今日の利用者さん訪問は、ちょっと時間オーバーしたけれどまずまずと言った所だった。

利用者さんの家には、毎日入れ代わりで援助の人が訪問している。
基本的にする事はそれぞれ決まっているのだが…。

援助以外での生活の流れと言うものが微妙に違っている。
以前にも少し触れたが 冷蔵庫の中の卵の置き方があった。
「新旧区別が付かないから、パックに入れてください」と言う指示だった。
私は、相変わらず日にちを鉛筆で書いてパックを片付けている。
そして、他の人は、パックのまま。
こういう平行線だ。これは、利用者さんの感知するところではないのだが。
どっちもどっちですよね。
でも、私 ホント怖いのです。弾みでパックごと落とすのではないかと…。

でも、着替えの置き場となると少し違ってくる。
初めて訪問した時利用者さんから聞いた場所と置く所が明らかに違ってきている。
先日も、急に着替えが必要になった時あるべき場所に着替えがなくて探す事になった。時間に追われている時にこれは困る。
確かに着替えを出すのに近くにあったほうが何かと便利だ。
でも、そうする事で、いろいろの物が煩雑に入り混じり探すのに苦労してしまうのは困る。かといって、整理する用品を準備してもらうのはお門違いである。
ちょっと、時間がかかると言っても数メートル移動すれば済む事である。

今日、カバーを変えるときに、カバーの間から先日探しても見つからなかった下着がポロっと落ちた。
少し、ゆったり目に仕事が出来ていたので、冬物とそれらの下着を元の場所に戻した。勿論、利用者さんにちゃんと断って。
利用者さんも気がついていて「いろんな人が来るからそれぞれ違うんだよね」と言っていた。

こういう場合の確認はしていないけれど…。きっと、調整はケアマネさんが中心になってくれるのだろう。

他にもある。ゴミ出し。ペットボトル、ビンは洗ってリサイクルと決まっている。でも、いつも不燃ごみと一緒になっている。
これも、いつも、取り出しては洗い出しているのだが…。
言うほどの事でないように思えるし…。
訪問している人は、自分の家でもそうして出しているのかな?と思ったり。

管轄が違う所の人が出入りするとこんな所が訪問者としては面倒だな。

訪問の帰り、地元の農家の人が開く市に寄った。
そこで、蕨とせりを買った。
そういえば…。
春になると山に、蕨採りに入っていた父だった。山から帰ったときの父の顔はキラキラ輝いていたなぁ。父の採った蕨はもっと太くて柔らかだったな。
家族がおいしそうに食べるのを見て嬉しそうだったな。
せりだって、近くの川から摘んできたなあ。

いや、この近辺にだってせりはあるのだ。ただ、時間が無くて摘みにいけないだけの事なのだ。

結局、時間が無いと言って、それらを買ってしまっているのだなあ。

故郷の、父の、昔の 緩やかに流れる時間がとても大切な物だったと最近感じる。  
やっぱり、年かなぁーーー。



















2003年05月07日(水) 母にしてやられてしまったかな?


 ホールで一人クッション付きの椅子の木枠部分を指先でなにやらしていた母だった。何をしているかと見てみると、木枠の汚れを指先で落としていた。
私が来た事など全く気が付かないほど集中していた。
私は、声をかけずに居室に入り花に水を上げた。
母は、思い出したときには、水を差すようだが多かったりもするので行く度にチェックしている。
面会票と外出届けにも早めに記入して、母に声をかけた。
「ご苦労様」   「あっ」
「ちょっと手を見せて」   
「外出するから、手を洗おう」と居室に入った。どうやら指先で擦っても落ちないので爪で擦っていたようである。
石鹸を付けてあげると、腕のほうをゴシゴシ。
「いや、腕でなくて指先見て」と手を持ってあげる。「ホントだ」と母。
ようやく指先を洗った。
帽子を被って居室を出ると今度は椅子に座る。
Fさんは、帽子を被っている母を見て「行ってらっしゃい」とニコニコしているのに…。
母は、玄関まで連れ出さないと判らないみたい。ま、いいか。玄関まで行けばわかるのだからぁ…。

3日振りなのに、母はいつも通りみたいだった。
バスに乗って、いつもと逆の方向へ。同じ街にあるもう一つの駅に向かった。
窓からの景色に「大きな桜の木があったよ。こんなに。」と腕で、表した。
ふーん。花が咲いてなくとも、もう桜の木と判るまでになったんだなぁ。
駅に着くと、大きな看板のローマ字を読み出した。相変わらずである。
手芸屋さんに入ると、あれこれ物色。興味は尽きないようであった。

お菓子の量り売りの所に寄ってみた。
クルクルと廻る台から好きなものを籠に入れて、重量を計ってもらって料金が決まるのだ。

母が興味深そうにしていたので回転と反対に廻って籠に入れてもらった。程よい所で籠を預かり計量してもらおうとしたら…。母は、飴の包みをクルクルと開け始めていた。
慌てて「ちょっと待ってね」と其れを預かり会計へ行った。

レジ待ちの間、母はレジ横のお菓子に手で触ろうとした。
「あのねぇ…」と言いかけると「食べたり取ったりしないよ。みてるだけよ」と先回りして言い返されてしまった。
スーパー等にも同行するが、手で触る事などないのだけれど直接だとこうなってしまうのかな?
気をつけなければ・・・と思った。
「トイレに行こう」と誘うと「面倒くさいなぁー」と言う。
へぇー。自由に遠慮無しに物を言うようになったんだなぁ。
ちょっと、からかって
「自分の用を足すのに、面倒だなんて随分ものぐさになった者だねえ…」と言うと母はへらへらと笑った。

今日は、母にしてやられた感じがする。

明日は、利用者さんを訪問の日。
「どうか、時間オーバーしないで済むように…。」と祈るのみである。


2003年05月06日(火) 気になってはいても・・・。


 客人が熱を出し 我が家で養生。
「帰る」と言われても熱が上がったり下がったりの人を返す訳には行かない。
そんな訳で、この3日ほど看病に追われた。
家人ではない為に、下着類の替えもなく少し買い足して、汗をかいたら直ぐ洗濯を繰り返した。家人なら無理をさせても食べさせたりするのだが、客人だとなかなかそうも行かない。

昼過ぎにようやく熱が下がり、夕食まで待って、食欲が出たのを確認してから「帰宅許可」を出した。

そんな訳で、母のところまで行けなかった。気になっていたのだが、客人の事もあるし…。
こんな時、託していると 安心できる。
母が居たら、どうなっていたか…。

幸い夫が早めに帰宅したので、客人を駅まで送って貰い、看病から開放された。
夕食を食べたら、ドドーッと睡魔に襲われうたたねをして、「いけない」と思いちゃんと就寝。
そういう訳で日記の更新が遅れてしまった。

やはり、看病して回復できる病は 一時的なものだからまだいい。
痴呆の介護はエンドレス。
自分にやり易い介護体制を作り上げて行かないと、共倒れになってしまうだろう。
 




2003年05月05日(月) 頂き物


 昨日、ご近所さんから金魚と金魚の卵を戴いた。
たまに、話題に上った事があるが、家にはめだか2匹(最近一匹減ってしまったので)と金魚一匹が古い瓶を住まいとして玄関先に住まっている。
めだかも金魚も卵で戴いて孵化したものである。
金魚一匹なので可哀想かなと思っていた所に3匹頂いたのだ。
また新たに、卵も戴いた。
仲間が増えて、うれしがっているかな?
卵の方は、別の鉢に入れた。さあ、何匹育つかな?

水槽でポンプをつけて金魚を大切に飼っている人もいる。
でも、私はご近所さんから伝授された通り一年中外で暮らしてもらっている。
差し水や替え水は、大きなペットボトルに一晩汲み置きした水を使っている。
水草は2種類。そのうちの一つのホテイアオイは なかなか 育て切れなくて…。
えさは、市販の物をパラパラと。
ほんとに、いい加減な育て方である。

ご近所さんと金魚の話をしていたら、お隣さんも声につられて出ていらした。
ひとしきり金魚とめだか談義となった。

その後我が家の 自然交配で自然落下、自然発芽のシクラメンを差し上げた。
花の咲いたシクラメンを見たお隣さんは、野にあるような美しさがあると言ってくださった。

確かに暮れに華やかに咲くシクラメンとはちょっと違うと感じていた。
自然の儘に…(私の場合もう少し手を掛けて上げた方が良いと思うが)もいいものだとほんとに思う。

今日は、私の誕生日。
年数を数える楽しみは返上して、「母に感謝する日」としている。
けれど、来客の為、母にお礼を言いに行けなかった。
一日遅れてもいいかな?

そして、今日 思いもかけずリンクを張らせてくださいとの申し出があった。
日記を立ち上げてから、2人目である。
私自身からリンクを張れないので、こういう申し出は嬉しい。
私の日記は、ほんとに拙い日記なので 恥ずかしいとも思うのだが…。
私にとっては、誕生日記念の良い思いでとなった。




2003年05月04日(日) シビアな世界


 母を訪問した時、おやつの時間になった。
母は、おやつを少しづつしか食べない。かりんとうだったので、食べ零しがないかと手でテーブルを綺麗にしていた。

でも、この動作は、私が感じる事で、他の人がどう受け止めるか…。
確かに、しつこいくらいにやる。
母は、シンク掃除を頼んでもそうなるのだが、とにかくエンドレスになるほど拭き込むのだ。

今日、その様を隣に座っていた方が「見ていてお気の毒になる」と傍を離れたがった。要は「おかしい」と言いたいのであった。

痴呆の程度が違ったり、できること出来ない事が違っているので、施設ではこんな時面倒である。
幸い、母は、耳が遠くその声は聴こえなかったようで助かった。

実は、母がまだ、軽い痴呆だった頃デイでの仲間が、一日中鎖編みばかりしている方がいた。おかしいのは、その一つだけではなかったのだが、母は「あの人いつも同じ事ばかりしているのよ」と帰って言った。
私は「むっ」として、「病気なのよ。みんな、年を取るとそうなるのよねぇ」と母をやんわり注意した事がある。
自分の親がそういったらそんな言葉をかける事も出来るが、言われる方に成ったら…。

ま、母が悪口を言っている訳でないし・・お互い様なのだから仕方ない。

それにしても、シビアな世界である。

今日、嬉しい事に「○○○」と私の名前を呼び捨てで呼んだ。
機嫌も悪くなかった。

それにしても、今日は暑い日だった。


2003年05月03日(土) 庭でふきを刈っていたら…


 今朝、庭でふきを刈っていたら、蛙が目覚めていた。
茶色でこぶし大の蛙である。
もう、お目覚めですか?
まだ、モグラもあちこち動いていて…。
ヤモリは活発に動き回っている。
そういえば、まだ、蛇に会っていないなあ。

爬虫類のお目覚めで庭も賑やかになる。

山椒の葉は、青虫の好物。
まだ、お目にかかっていない。

楽しそうに見えるかもしれないけれど、あまり 嬉しくは無い。
興味は湧くけれど、手で触ったり出来ないのだ。
「見てるだけ」なのである。

娘の小学校の同級生がヤモリをブローチ代わりに胸につけていた娘がいたなあ。あの時「凄い」と思った。
大人になっても、出来ない事をあの娘はやっていた。「偉い」と思った。

どうして、触れないのだろうとあの時考えた。
あの、ぬるっとした感触が駄目なのだろうなあと思った。
子供の頃、怖い思いもしてないし、親も決して怖がったりしなかった。
でも、あまり好きになれなかった。
「きゃっ」と大騒ぎはしないけれど…。

わが娘も嫌いみたい。小学校のあのヤモリブローチの娘の事をやはり「凄い」と見ていたなあ。
一昨年、娘の部屋にヤモリが遊びに入った時はそりゃ大騒ぎだったな。

ここは、私の故郷より自然が残っているのだなあ。
これから先、爬虫類と仲良くできるだろうか?

ご近所にも、蛙もヤモリも蛇もいると言う。
果たして、それぞれの家の庭にいるのかそれとも一匹が動き廻ってるだけなのだけなのか…、ちょっと興味が湧いている。
蛇に関しては、移動するのを見ているので、一匹の可能性はあるのだが…。

鶯もだんだん谷渡りの声に近くなった。
先日、コジュケイが鳴いていた。雉には会えるかしら?
メジロやコゲラはこの冬 随分見かけたなあ。
さあ、今年は郭公の声聴けるかな?



2003年05月02日(金) 大した事ではないのだけれど…この辺が…

 まずは、母の通院。
薬を貰う為の定期的通院をした。
待合室に入った時診察室のドアが開いていた。私のところからは中は見えなかったが母には見えたようである。
「あっ、私の先生がいる」と診察室に入ろうと立ち上がった。
でも「未だ順番じゃないからね」と母を制した。
直ぐ順番が廻り「○○ちゃん」と医師は母の名を呼び手招きした。
母は、椅子に座る前に「お久しぶりです」(ペコリ)
医師は「おー。戻ったねえ。良かったねえ」 母はぽかん。
話がすれ違ってもやはり治ったという事は医師にとっても嬉しい姿のようであった。血圧はやや高め。「いやいや、年だからこれくらいはねえ」と言う医師。そして、お薬を頂きおしまい。
いや、私とはもう少し話はしましたが…。

そういえば、昨日の朝の冷え込みで母は、職員に「寒いので暖房入れてください」と早朝申し出たそうである。母にしては珍しい事らしい。職員が言っていた。そういえば、今日、居室に入った時 もやーっと温かい風にあたり驚いて見上げるとエアコンが入っていた。「珍しい事もあるな」と思いながらスイッチを切ったのだった。という事は昨日から付けっぱなしという事?

本題である。
急変前に施設長から「介護保険証を持ってきてくださいますか?写真を撮ったりするので少し長く預かる事になると思いますがいいですか?」と言われたので介護保険証を渡した。

こういう場合の長く言われれば どれくらいの期間を言うのであろうか?
私は 長くて1から2ヶ月位と受け止めていた。
先日、「確認ですけれど保険証は何時返して戴けるのでしょうか?」と職員に聞いた見た。でも、何の反応もなかった。

今日、介護保険の更新の時期であると役所から通知書が届いた。
書類を書き込みながら、保険の番号も判らないし、保険証だって返さねばならないと思い面会に行った折再度尋ねてみた。
たまたま、施設長も居った。
所が施設長が言うのに「保険証はここでしか使わないものだから此方でお預かりしておくのです」と言うのだった。
「???」
この一年、一度として言った事もなく先日も写真を撮るから預からせて戴いてもいいですか?と言ってきたのに。
その決まりって、何時から決まって説明はしたのだろうか?
普通、今までと変われば「今までは こうだったけど これからはこう変わります」とならないのか…。

いや、確かに使わないから此方に不都合は無いのだ。
でもね、預かるなら「更新」の時期である事くらい把握すべきと思うのだが…

誰にでも、勘違いはある。
先日、私もポカをしたばかりである。
でも、ミスに気が付き言われる前に 直ぐ此方から謝った。
普通、素人でもそうするしルールでもある。

「入居さんの…。」「ご家族の意向…が一番です」と日ごろから言ってはいるけれど、こういう時の言い切り型で さも、此方が判ってないみたいな言い方をされると説明と違うのじゃないかと突っ込みを入れてみたくなる。
でも、大した事でも無いので「はい。わかりました。でも、保険更新なので…」と言った。
「あー保険なら此方でも代行できますよ」と来た。そりゃ、昨年だってここで更新したから判っている事でしょ。立ち会う看護婦さんが「こんな事苦手で、ご家族さんよろしくお願いしますね」と言ってきたのでしょう…。

ま、こういうやり取りのあった後保険証は返していただいた。
実は、今回の更新から私一人でやってみようと思っているのだ。

今回の事は、責任者とのやり取りをしっかり覚えていたのあるが…。
今まで、ニュアンスで覚えていて「違う」と言い切れなかった事が随分ある。
このあたりの都合の良さが、急変時の対応のズレとなっているような気がしているのである。
 
小さな事だけれど、これは大切にしていかなければならない事だと思うのであるが、これは私の心の狭さから来る思いなのだろうか?




2003年05月01日(木) 今日も…

 この所、訪問先の仕事が時間内に終らない。
何故 こんなにも効率が悪いのだろう。
私の技術のなさか?

血圧測定、掃除3LDK、洗濯、清拭、布団干し、着替え、カバー交換、ベッドメイク、買い物(今日は利用者さんを車椅子介助)、ゴミ捨て、新聞出し、食事2食分作り。
これを、3時間の中でする。
麻痺はあっても、痴呆などが無いので作業途中でいろいろの用を頼まれ仕事も中断してしまう。(実は、これが時間が取られる原因のようにも思える)

今日は、実質55分近いオーバーだが、30分だけは、オーバーとして記載した。
勿論利用者さんの了解を得てだが。銀行での待ち時間に時間が取られた。これは、不可抗力である。
実は、買い物だってレジが混雑すると以外に時間がかかってしまう。依頼されたものが2け所に渡るとなおさらである。
以前の係りの人は、「時間大丈夫ですか?」と聞いてくれたが今は係りの人も変わったばかりなので そこまで気がつかない。
もう少し、様子を見て私の技術のなさでないと判ったら 相談してみよう。

活動が延長されると、その日の私の予定も狂ってくる。
私の銀行の用は後日に回した。

夕方、クリーニング屋さんが来た。
近所のお店が廃業したので、ついに宅配クリーニング利用となったのだ。
宅配では、一度紛失事故にあって哀しい思いをしているので嫌なのだが、今まで使った事のある業者さんが宅配を始めたので思い切って利用してみる事にした。
クリーニングさんは、今日の我が家の数の多さに驚いていた。
家で手洗いできる物は、できる限り家でしているのだが…。
冬物のコート、母の手編みのセーター、そして母の毛織のズボン(施設で洗濯機で洗ってしまったもの)等である。
毛織の物を、洗濯機で洗ってしまうと縮んでしまう。それを家でプレスしてもなかなか綺麗に伸びないのだ。

別に、施設への文句ではないが…。せめても、洗わないでいてくれたら家で手洗いするのだけれど…。一つは、完全に縮み裏地の方が10センチほど長くなってしまった。危ないと思い洗った形跡のあるものは持ち帰ってきていた。
買い換えるときは、洗濯機使用可の物にしているが、今までの物は出来る限り使いたいし…。施設はこんな所で面倒だなぁ。

話を戻して。
母の手編みのセーターは、やはり大切にしたい。
もう、大作は編めない。私が編めるのならいいが…。
編めと言われれば、編む事位は出来るだろうけれど とてもとても大変な事になりそう。
夫のセーターだけでも5着はある。
大きな体の夫のセーター等 出来ないと思うので大切にクリーニングに出している。
コートだって、なんだかんだ言っても一人2着から3着でその4倍である。
そりゃ、多くもなりますね。
一度、家でのドライにチャレンジした事があるけれど、やはり後のアイロンがけがうまく行かなかった。子供のならそれでもいいけれど何年も着ていこうとするとそうも言っていられない。

そんな訳で、我が家の冬物のクリーニングは多いのだろう。
実は、何処の家でもそうだと思っていたけど、あの話し振りだと我が家だけなのかな?みんな、家で洗っているのかな?
だとしたら、贅沢をしている事なのかな?
気をつけなければならないかな…。







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