母のタイムスリップ日記
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2003年02月28日(金) 心の中が見えない

 今日の母も相変わらずだった。
朝のうちは、それでも状態が良かったらしい。私が訪ねたときはもう元に戻って目を瞑っていた。
変わったのは、居室に閉じ篭っているのでなくソファーに座っていた事だ。
「普通の生活を」とお願いした事を理解していただけたようだ。
職員の方は 大変な事だろうと思うが暫く此の儘にして欲しい。

今朝は、一番に精神病院(痴呆対応)に電話をして受診したい旨を告げた。
予約となると3月も後半にならないと無理だった。幸い 以前通院しているので診察して戴ける事になった。
医師が予定を調整して下さった。
この診察の結果次第で、次の病院に行く事になる。
その病院も決めてあるので紹介状も書いていただくと言う所まで道筋はたった。

その後
施設の責任者が出勤してくる時間を見計らって電話した。
電話を取ったのは、昨日の夜勤の方だった。その方は丁寧に昨夜の母の様子を
報告してくれた。そこに責任者の方が見え電話を変わってくれた。
そこで、精神病院への診察を受ける事を告げた。
母の様子を伺い、これからの母の対応について改めてお願いをして了解を戴いた。

その後
母の生活を支える事を考えてた。
私一人で、毎日施設に面会に行きカバーに廻る事には 無理が出そうな気配だ。
そこで、一日か二日私の代理を送り込む事を考えた。
施設入所なので保険利用のヘルパーさんは頼めない。
私が活動しているボランティアに頼めないかと電話した。
今までは、其れはしてはいけなかった。でも、以前からそういう依頼はあり窮状を知った時私は内緒で施設に出向いた事は有った。
電話をすると先日そういう活動も導入しようという方向に動き始めたと言った。
これで、OKである。後は施設側の姿勢だ。

私は面会を辞めるわけではない。今まで通りでかける。
でも、身体的に無理が出た場合、代わりの確保は必要である。
じゃ、必要な時だけというわけにも行かない。
母に慣れて貰っておかないと困る時もあるだろう。

施設の介護では、カバーしきれない生活の局面が時折生じる 。
これは、今まで日記を読んでくださっておられる方には理解していただけると思う。
生活の質を高める為には 家族のフォローが必要なのだ。
本来、施設で満たしてくれるのがベストなのだがそうそう個々に対応してもらえないのが現実である。職員数が足りない。
これから先、いろいろ改善される事を祈るのみだが、おそらくこれから高齢者が増えていく現実では、こういうシステムは必要になってくるだろう。
私がボランティアに関わった初期の頃よりこういう要望はずっとあったのだから。
今、受け容れようと動き出したのは足りない部分に理解が深まったのだろうし、動けない介護者が増えて来ているのだろうと思う。

理想論はさて置いて。
施設についてから責任者に話すと了解して頂けた。ほっとした。
後は、母の様子を見て、診察の結果から徐々に動けばよいのだ。

それにしてもどうなのだろう?
室内では目を瞑り俯いたままで歩行すら困難なのだ。
(足の機能が悪いのでなく、目を瞑っているから怖くて足を出せないのだ)
其れなのに、外に出るとだんだん目を開けて 一人で歩行できるようになるのだ。室内では、肩掛けをして倒れないように必死で支えていたのが嘘の様に成るのだ。公園の低い山だって登れる。鳥や子犬が騒いでいるのも見てしっかり後を追ってみて、数を数えたりも出来る。
普段は施設だともなかなかわからないのに、6階建ての4階に自分の部屋があると言ったりもする。施設を見上げる顔に嫌な物を見る表情も全く無い。
施設に戻った時「ただいま」と母は言った。
其れなのに3歩足を踏み入れた途端また目を瞑り元の木阿弥と化す。
我が家に連れてきても同様だ。室内に入ると目を瞑ってしまう。
職員も今日は散歩帰りの母を見て笑顔に気が付いてくれた。
みんな、信じがたい様子である。無理も無いがこれが痴呆者の現実なのである。
夕食はお任せしようと思っていたが元の状態に戻ってしまい離れがたく全介助の食事にあたった。
夕食の40分前に桜餅とお萩を一つづつ食べたのにいつも通り食事できた。

桜餅の食べ始めに少し口に運んであげた。その時「赤ちゃん見たいだね」と言うと「うん」と言った。「元に戻れる?」と聞くと首を横に振った。
「何時から?」と聞くと「少し前から」と言った。
一体母は何処まで判っているのだろう。何がそうさせるのだろう。
心の中が見えなくなっている。





2003年02月27日(木) 「視点のずれ」パニックはどっち?


 今朝は予定通り利用者さんのお宅を訪問した。
母の事を頭をかすめたが引継ぎ前だろうし看護婦さんは出勤前だ。
仕事を終えて母の所に向かおうと思ったがきっといろいろ時間がかかる事は容易に想像できた。ご飯を食べてからがベストだろうと思った。
家に戻ると2時だった。
テーブルの上には、娘からのメモが残されていた。
娘は昨日 熱の為欠勤。今朝も午前中休み午後出の予定だった。
熱で欠勤していても会社からの電話、ファクシミリが有り休める状況には無かった。
良く見ると、留守電がチカチカして居り2度の留守電が入っているのが判った。娘からだった。
どうやら、施設に行っているようだ。
急ぎ電話すると、「昨日と変わらない」という事だった。
「食事していくよ」というと「むっ」とした様子だったが娘も昼食を摂ってないので家に戻るという事になった。
帰宅した娘から話を聞きながら食事した。その後施設に向かった。
娘も入ろうとしたので「仕事に行きなさい」と会社に向かわせた。

施設に入っても職員の姿はみえなかった。
母の居室に入ると母は半下ズボンのまま座り込み泣いていた。
人の気配を感じたようで「ごめんなさい。ないてばかりで」と謝った。
下を向いているので私が来たとは思ってないようだった。
暫く母の顔をみて、抱いてあげ頭を撫でるしかなかった。
母の目はとても哀しそうだった。
まずは着替えと思い、トイレに誘導した。
娘がさっき替えた筈のオムツは1回分の尿で濡れていた。
今の状況では一人でトイレに立つことはないだろう。もらしてしまった事を感じて泣いていたのだろうと思った。

トイレで着替えしていると職員さんが来て「いらしたのですね。看護士の方からお話があるそうです」と言った。程なくして看護士さんが見えた。
母はトイレで用を足している状況であり、わたしもトイレの母の様子を見ているのである。
こういう状況が在宅の場合、用が済むまでは母が優先だ。普通に考えてもそうだろう。
忙しいのは判る。でも、用が済んだらスイッチで呼べるのだ。其れからでも間に合う話だろう。私は今、ここに居るのだから。
「何が大切か。何をすべきか」の意識度は こういう時に見えてくる。
忙しいのなら尚必要だろう。
母の事があるので話は何度か中断した。

結局の所、看護士さんは、通院と緊急連絡先の確認をしたかったのだ。
そのために、家にも電話してきたのだ。

でも、昨日 仕事で出てしまうと言ってあるし、先日だって木曜は仕事と話したばかりなのだ。
私は、昨日だって来てくださいという依頼が無くとも「行きます」と言って対処しているし家での様子もきちんと伝えてある。
今までだって、連絡が入れば無視した事など一度たりともない。
そして、一日おきに面会に出かけている。
今日の母に緊急性等無いのだ。
食事してからだって充分間に合うではないか?何故、あおるのか?

腑に落ちない事が他にもある。
オムツ替えもそうだし、来た時の母は娘が去った時の儘だった。
今朝 食事しなかったと言うけれど、昨日介助で拒否なく食べていたし介助にどの程度時間をかけたのか?
少なくとも介助すれば普通食を普通分普通時間で食べられたのだ。
急激な変化は見ている限り感じられない。
昼食は娘の報告通りおかゆだった。それも理解に苦しむ。
家族の話をどう聞いてもらったのだろう?
まして、職員介助で食べていた時母は、入れ歯をしてなかった。
娘は、居室に入って顔を見て直ぐ判ったと言う。
でも、指摘しても…。と思い黙っていて職員が去った後で入れ歯を入れたそうだ。昨晩 娘も立ち会っていたので入れ歯を外している所が判っていてそこにあったそうだ。

施設からの注文は、私にも判る。
悪いけれど、そこまでなら在宅の素人でも考え付く。
でも、通院しても何も変わらないのもある意味事実なのである。
精神科の医師とも内科医ともその辺の所は何回か話しているので判る。
身体的に異常が無いかの確認のみである。其れと、処方箋だろう。
そう、安定剤だ。
確か、入所した時罹り付け医に電話しても良いですか?と聞かれた。
「大丈夫です」と伝えてあるはずだ。

緊急は大切な事だけれど、その前に、転倒させない為にどういった工夫をするのか?トイレ誘導の時間を緊急時どの程度増やせるのか等提示できないのだろうか?「お母様一人だけ見ているわけには行きませんので」と言うけれど・・。
「連れて帰った方が良いでしょうかね」と聞き返してみた。
「いえ、私達がお預かりしているのですから」という事だった。
私は「母の安全をどうやって考えてくれるか」が知りたいし施設は「緊急時の連絡先と通院が第一」

母を通院させ、診察して頂き安定剤を処方して頂き、以前看て頂いた精神科医への紹介状を書いて頂き施設に戻った。
これは、施設から安心してもらうの為である。

おそらく、この状況は暫く続くと私は思っている。
母は、今 痛みが無い。血圧も下がりもせず高くも無い。熱も無い。下痢も便秘も無い。言葉は少しだが此方の話は聞き取れるのだ。

「命に関わる時は夫の会社に。そうでない時は自宅の留守電に。」とお願いをしてきたが・・・。

施設の気持ちは判る。
でも、こっちの気持ちにも理解してもらえ無いのかな?
大事なのは家族でなく利用している本人なんです。






2003年02月26日(水) 其れは突然に…。


 日中は、銀行の振込み等に追われていた。
日も暮れかかり、夕食の支度を支度をしようと台所に立った時電話が鳴った。
母の入所している施設からだった。
「大した事ではないのですけれど。お母様の様子がおかしいのです。朝はようやく食事。昼は召し上がっていません。部屋で、大きな声で泣かれていらして足り、鉢植えの土を巻かれていらっしゃったり・・・。話しても小さな声でしか反応しなくて。塗り絵もまったくしなくて。一日目をつぶっていらっしゃり横になられた…。お母様らしくなくて、鬱の症状のように見えます。」
「わかりました。これからそちらへ参ります」
来所してくれと言われた訳でない。でも、大変だろうと言う状況は理解できたし、母の事も気になったから出かけた。

みな、夕食は済んでいた。母はソファーに座って虚ろだった。
私を見て「来てくれたの?」と言う顔をした。コートを羽織って「取り敢えず家で食事をさせ9時くらいに戻ります。」と伝えた。
母は、目をつぶったまま靴を履いたり歩いたり殻に閉じこもっているように見えた。何に対しても興味を示さなかった。
我が家に着き車を降りる時も門をくぐる時も目は閉じたまま。
盲目の人を連れているような感覚になった。

今日は、お赤飯なのだが、仕込みは出来ていても 他は何にも手をつけてなかった。
久々に、母の前での夕食の支度となった。
母に歌集を広げてあげても目は閉じたままなので駄目。
「折り紙おる?」と聞けば「忘れてしまった」と言う。
ビーズを出しても容器を振るだけで広げようともしないし興味も示さない。
塗り絵を出してみると鉛筆を持ったので塗り絵の作業に決めた。

私は台所に立ち、夕食の準備。
一品出来る度に、母の所にもって行き「味見」をしてもらう。
でも、反応が鈍い。
普通なら、昼食抜きなら「お腹すいたな」と言うのだけれど其れも無い。
でも、味見は嫌がらず「おいしい?」と聞くと「おいしい」と言う。
耳の聞こえもかなり悪い。聞こえているのに聞き取れないと言う状況なのだ。
心因性の難聴といったところだ。

あれこれ遊びながらの支度だったので時間もかなりかかった。
でも、皆が揃わないので其れまで指相撲やジャンケンをした。
これなら、目を閉じている訳には行かない。
それなりに楽しめたが、いつものようではないし、話がトンチンカンだったりもする。アルバムを広げて写真を見るとしっかり見極めるけれど娘の私だけは判らないままだった。これも、いつもと大きく違っている。

不思議なのは、施設に迎えに行った時 私のことを娘と認識できて名前で呼んだ。我が家に着いた時も娘の家と認識出来ていたのだ。

皆が揃って夕食となった。
でも、母は相変わらず目を閉じたまま。
それでも、箸を持ち食べる意欲はあるのだ。目を閉じているのだから箸は食器に当たっても物まではなかなかつかめない。空の箸を口に運ぶのも度々。
仕方が無いので食べさせてあげた。すると拒否せずにちゃんと食べるのだ。
これまでの母の鬱の時は、口を固く閉じ何も受け容れてくれないのが常だったのだが…。
これは鬱ではないのかもしれない。
ひょっとすると「忘れてしまったか?」
痴呆の加速か?
昨日の母の様子からは想像もつかない。
何か嫌な事が有ったのではないか?
頭の中でいろいろ考えて見るが悪い事ばかり考えても何も生まれない。

取り敢えず、いつも通りの量の食事をして、ケーキも食べた。

今日は、こっちに泊めようかなと思った。
でも明日は外せない日だ。私の代わりに入る人は数日前でないと変われない人なのだ。施設からの連絡も5時を回っていたので連絡の取りようも無かった。
仕方なく10時を廻る頃家から施設に戻った。
帰りの車の中で母が妙な事を言った。
「目を開けていい?」「自分で勝手に目を閉じているのでしょ」と喉まで出掛かったがこれはいっても通じないし言ったからとて何も変わらないのだと思い言葉を飲み込んだ。
施設に付く頃には 車の中で母は眠っていた。
ひょっとしたら、ただ、眠いだけじゃなかったのかな?とも思った。

家での様子を職員の方に伝え、パジャマに着替えさせて母を横にならせた。
間もなく母は寝入った。
其れを見届けて帰宅した。

昨日の母と明らかに違う。今までだってこんな事はなかった。
痴呆の進行は、ある時急速にガクッと変化すると聞いている。
これが、大きな変化でない事をただただ祈るのみである。
全く突然の出来事だった。

今日は、他にも書き留めたい事が2点あったのだが其れは後日に回す事にした。


2003年02月25日(火) 凄いよ 未だできるね。


 この所 母の机の上に塗り絵を置いてくる。
2枚くらいをコピーして置いて来る。
次の面会まで仕上がっているので其れを見るのが楽しみなのだ。

最近の母の塗り絵はとてもきれいになった。
昨年の様子を見ていると「もう描けないのだな」と感じていた。
色の選び方、塗り方が単色で荒い染め方になっていた。
痴呆の進行だろうから仕方ないと思っていた。
それでも、楽しんでいる風だったのでぼんやりと過ごすよりいいかなと思って届けていた。
けれど、其れは思い込みに過ぎなかったみたいだ。

在宅の頃から母の塗りが雑になる時は気持ちが安定しない時だった。
だから、昨年も始めはそう捉えていた。そのうちに出来るようになると思っていた。でも、あまりに長い間雑になっていたので進行したと思ったのだった。

そういえば、最近の母は比較的落ち着いている。
更に褒めて貰っている。それも、かなり良い働きかけになっているだろう。
「褒めると集中しすぎてね」と職員の方はおっしゃったが残っている能力を引き出すには褒め言葉が一番大きな力となるのである。
在宅でも「すっごいね」「うまいね」と毎日褒め上げた。
すると、集中する時間がどんどん延びたのだった。
今、きっと在宅に近い褒め言葉を戴いているのだろうな。
すごいね。まだ出来るのだと思うと嬉しい。

F氏も最近機嫌が良い。(私が見た限り)
今日もとてもにこやかに話されていた。
私を見つけるとニコニコとお話された。主語、述語はメチャメチャで単語を繋いで判断するしかないのだけれど…。
それでも、伝わってくる。
言葉を返すと「そうなんだよ」とまたニコニコされる。
本当に良い笑顔なのである。
季節のせいかな?それとも、職員の気配りのおかげかな?

午前中、庭の掃除をしてふきのとうと沈丁花を摘んだ。
それを、施設へのお土産にした。
みんなに、ふきのとうと沈丁花の香りを嗅いで貰った。
せめても春の風を届けたかったのだ。
みんな 鼻先に運んでいた。春 届いたかな?

母の散歩 今日も出来た。


2003年02月24日(月) 介護卒業の後と…。


 長く介護に携わっていると「介護卒業」なさった方との出会いもある。
痴呆でない方の介護の場合は、本人の意思もわかるし、辛いけれどやり取りもできる。卒業の辛さは、比較するべき物でもないだろうが…。

でも、痴呆の介護では、本人の意思等容易に知りえない。
介護者自身の振り返りもあるだろうし、自分以外の人からの介護の批判を受ける事だってあるだろう。逆に「何も手伝って貰えなかった」と言う思いが広がるかもしれないのだ。

立ち直れずに、心の治療を受ける方もおられる。

私自身、どうなってしまうかなと思う時がある。
母にかかりきりとなり 私から「介護」を取り上げた時何が残るだろう。
介護の大変さで例え母にイライラをぶつけてきて来たとしても「これで解き放たれた」とは思えないような気がする。

父を天に送った時は、母の介護が待っていた。
でも、今度は其れも無いのだ。

いや、母が天に召される事を願っている訳ではない。
どちらが先に行くか等判らないのだけれど。順で考えれば母だから。

そういう意味で、介護を卒業なさった方のお話も聞いておきたい。
これも、これから先 とても大切だと思うのだ。
今、そういうシステムが無い。
これも、介護に関わる大切な事だから創り上げていく事が必要と思う。

病を抱える人、介護する人 それぞれの思いが有るだろう。
自分の思いを大切にする事の多い世の流れだ。
その自分をしっかり見つめておかないと見誤る事も有るだろうな。

自分がこの世を去る時、何が残るか?
娘には、中学生のあたりから「人のゴールは死ぬ時だよ」と教えた。
人様に迷惑をかけ続け、ほんのちょっとよい事もして、私が死ぬ時は負を抱えた儘かもしれない。
プラス、マイナス ゼロを目標にする事が大切かな?

仕事が出来るとか、お金があるとか、世話になったとか そんな物差しでないことだけは判るが…。何を持ってゼロとすべきか、これは私自身の課題だ。
そして、その前に介護卒業の為の準備も…。
生きて行く事は、こういう学びもあるのだな。



2003年02月23日(日) あちゃっ。


 日曜で、娘も予定がないようなので通院の為の足になって貰った。
母を連れて通院。
少し、ふらつき気味。娘と会っても今日は「見た事あるけれど誰かな?」と言うほどぼんやりとしていた。
医師とのやり取りに不安は見えずほっとする。でも、何処かがおかしい。
いつもと何かかが違うと感じた。車の中のぬいぐるみで遊んでいる物のもいつもと違う。いつもなら、外の景色がとても気になっているのに…。
そういえば、「ここ初めてきたね」と言っていたな。
いつもなら、廊下を歩いている時に「来た事ある所」と言うのだけどな。
入り方が違ったから判らないのかな?

診察後、3人で昼食を取る事にした。
レストランに母の食べっぷりに娘が目を丸くした。自分の皿に盛り付けられればきちんと食べきる。サラダも。パンも。ピザも。そろそろ、お腹がいっぱいだろうとスパゲティーをあげなかったら「食べたい」と言うので分けた。
いくら何でも食べ過ぎだろうと思って母の前を片付けた。母は、お手拭を取り出した。手を拭くのだろうと思い私の分を食べ始めたら、そのお手拭をちぎって口に運び出した。
「あちゃっ」である。  「ちょっと待って」と声を掛けても母は何の事か
判らなかった。直ぐに「お手拭でしょ」と取り上げてしまったけれど…。
あれを放って置いたら食べただろうか?
今度は、慌てずにどうするか見届けて判断力を見なくてはいけないねと娘と話した。
そんな騒ぎの後、デザートが運ばれてきた。
「お腹いっぱい」と言いながら「アイスクリーム」をおいしいとぺろり。
でも、その後あちこち歩いたけれど「お腹いっぱい」と言っていたので満腹感
はあるのだろうと思った。

それにしても、ちょっと気が係りがまた増えた。
ひょっとして、以前の石鹸かじり、母じゃないだろうねと気になってきた。
今日の母は、少しおかしかったので、そのせいだと思いたい自分が居る。


2003年02月22日(土) 備え


 今朝、母の罹り付けの医師から電話を戴いた。
先日の健康診断の血液検査の結果に異常が見られたので母の近況を尋ねて下さったのだ。投薬の事も話された。
大きな変化は無く定期診断の時に結果を伺えば良いだろうと思っていたので少し甘く考えていた自分を反省した。
電話の向こうで「いや、数値は酷く気にかけるほどでないからね。次回の時に再検査程度で」とおしゃってくれた。
この医師の配慮にはいつも感謝する。
夫の事、娘の事、そして母の事「どうだい」といつも気にかけてくださるのだ。

頭の隅で考えて来た事をそろそろ具体的に調べたほうが賢明かなと思った。
まずは、大きな病院とのつながり。これは、具体的に考えているので医師に紹介状を書いて頂けば良いのだろう。
暫くは、罹り付け医を中心にして、年1回の病院での検査を受ける事にしていく事になるのかな。
高齢者医療、痴呆対応が出来て家からも比較的近い。

そうそう、娘があるところから最近の医療の利用の仕方(患者VS医師)の小冊子を貰ってきた。
面白いのは、患者側が実際医療を受ける時の順だった。
1・家の近所  
2・周囲の評判
3・待ち時間が短い
4・建物が綺麗



とあった。
これが、理性で選ぶ時とかなりのギャップが生じているのである。
でも、判るような気がした。
具合が悪ければ遠くまで出て行くことには負担が多すぎるのだろう。
家に限って言えば、自分の事だけ考えるなら遠くても良いが家族を巻き込む事を考えると近くてベストな所となるだろうなと思った。

私は母の終末医療は在宅でと思っている。
まだ、遠い先の事ではあろうが、往診の出来る医師、訪問看護に頼る事になるだろう。
今の罹り付け医師は往診はしていない筈。
往診をしている所も2.3件把握しているが実際はどうだろう?
訪問看護はどうだろう?
そろそろ、確実な情報を集めようとネット検索をしてみたがまだ、決めかねる状況だった。これも、罹り付け医と相談してみるのも良いだろうなぁ。

老いの構え、病の構え、これは、自分だけの事に終らない。周囲を巻き込んでの事に成る。母を通して学ぶ事が多いなとつくづく感じる此の頃である。
一人で向き合う事、私は何処まで出来るだろう。


2003年02月21日(金) お休みします♪


 ♪今日は、おやすみします♪


2003年02月20日(木) 猫の首に鈴は必要か


 お訪ねしている方の事
どうも、病に追い討ちをかけるような事を日々為さっている。
いろいろな事があり いろいろ改善を試みて理解を得てはいるが私生活に立ち入ってしまっていると思う事もある。
私一人でできる事ではなく、ケアマネさんや責任者と連絡を取り合いながら試みている。
けれど、利用者さんは 私が言っている事に気が付き始めている。
複数の方が訪ねているのに…私だろうと気が付くって・・・・!

身体介護、家事援助も含めて、何処まで関わっていこうかと悩み所である。

一人暮らしでなかったら、家族の意見も聞けるが…。
痴呆で無いので本人の意思も確実にある。
好き放題の生活を続けてもらった方が、良いのだろうか?
其れが「生きていく」という事だろうか?

医師だって、往診している。
けれど、実際の生活を何処まで把握できているだろうか?
生活面での指導はこういう場合何処でやるべきなのだろう?

本当は、最初に罹った病院での生活指導が一番なのだろうと思う。
おそらく、退院までに指導があったと思う。それの都合の悪い所は聞き流しているのだろうと思う。(話の節々から感じるのだ)

関わっているみんなが何処かで感じているのに、本人に伝わらない。
いや、きっと伝わっているのだと思う。でも、気付かぬ振りをしているのだろう。好きな事を続けたいから。
そして、その先を想像したくないのだ。いや、想像しているから怖いのかも知れない。

その先が、判っているのに改善できない。
これは、本人も、介護に関わる者にとっても辛い事だな。

鈴は要らないか。本人納得ならこれも仕方ないか?
だとしたら、介護する者は虚しい。
でも、「これも人の生き方って」言われれば其れもそうなのだ。
この問答は、訪問を続ける間ずっと繰り替えされるだろうな。

悩みどころだ。
辞めてしまおうかな?と思ったりする。でもなぁ・・・・・・。

そうそう、私達夫婦は、もう直ぐ銀婚式。
きっと、昨日の友人夫婦もその筈だ。
「思えば、随分遠くに来たものだ」
いや、嫁ぎ先が遠いと言うのではない。
夫婦に依っては、「感動」だったりもするのかもしれない。
結婚も出産もそんなに遠い過去とは思えない。
でも、二昔半を確実に過ごしてきたのだ。
一日一日を取り出すことは出来ないけれど、蓄積された何かがある。
良い事ばかりではないが「これが私達」と言えるのだろうと思う。
人様に語る事等何も無いけれど…。


2003年02月19日(水) どうした訳か?


 昨日の日記は受け付けてくれたものの、新着に記録されてない。
どうも、私だけでないみたいなのでほっとして居るのだが。

母を美容院に連れて行った。
一昨日もそうだったが機嫌もよく落ち着いている母だ。
美容院に母を託し、用足しにちょっと外に出た。20分も経ってないと思うが
母は、全く気に留めないようだった。パーマ液を付けての待ち時間も気にならないようでじっとしていた。
美容院から施設に戻ったら「やっぱ、家は落ち着く」と言った。
その事を職員の方に話すとにこっとなさった。
そして、「昨日、窓から外を眺めていて あそこが○○ちゃん(私)の家なのと言ったのですよ」と話してくれた。
私にも、よく言っているので想像が付いた。やはり、ここ数日は安定しているようだ。

落ち着いていると判るとほんとにほっとするものだ。

家に戻ると友人からのファクシミリが届いていた。

只今、検査の為に通院中という事だった。更なる病を背負ったという事だ。
検査入院と言われたが、通院検査と希望した。と言う。
彼女ならそうするだろうと思った。
切なかったのは「だるくて、動きたくなかったのは怠惰のせいではないという事がわかりほっとした」と言う文面。
頑張りすぎですよ。充分動いてますよ。其れを怠惰だなんて一度も考えていなかったけど、本人は自分を責めていたのだな。なんという事だろう。

私などは、自分に甘く甘くしているのにな。恥ずかしいね。

生活の質を保ちながら、程ほどに暮らして欲しい。
ちょっと心配だからそのうち顔見せに行ってこようと思う。


2003年02月18日(火) 心模様

 ちょっと前から再読している本がある。
河合隼雄の本である。
ある時期、気になって手にした本だ。
母の事に関わるようになってからの私は、かなりの興味が湧かないと本を買う事が無かった。
もともと、話題作として皆が読む時は、外す傾向には有るのだが。

あの頃、きっと家族関係の事での興味から河合氏の本を読み始めたのだと思う。でも、その時の私は、自分の考えの中でグルグルとしていて、どの程度読み込めていたか…。と今思う。

今回の再読で、あの頃と随分視点が変わってきているなと感じている。
「そうだよな」と言う感覚なのだ。以前は、もっと熱かったと思う。
私の読み方は、こんな風にその時の心模様によって大きく変わるのが特徴かな?と思ったりした。

活字という事から考えると、母も今尚 活字を追う。
時に、文から心を読み取る事もある。
此の頃の母は、稀な事となったが…。
今でも、看板や町名等を読んでいる。
看板一つであっても、母には拘りがある。
母は、カタカナや英語表記の物を声を出して読む。意味がわからない時は何回も反芻して、自分の記憶中にある単語に照らし合わせて修正して正しい言葉に到達するのである。
例えば看板がお菓子屋さんの名前で横文字であってお菓子と何の関連性も無い横文字だとしてもその中からCAKUと言う文字を見つければお菓子屋かなと
到達できる。
けれど、抜け落ちた単語や知らない単語もかなりある。
「パソコン」等がそうである。
すると「パソコンて何だろう?」と質問してくる。
「コンピューター」と言うと「あー」とわかる。
けれど、其れ以上の説明は母は必要ではないのだ。
私は、つい 「これが、パソコン」等と説明するが 母はテレビくらいにしか
考えられない。
「昔のコンピューターは大きかったね」等と話しても「ふーん」と聞き流されてしまう。
母との話が瞬間だと言うのはこういう事なのだ。

母にとっては意味のある事でも、普通の生活をする者にとってあまり意味の無い事だったりもする。
それでも、会話する事で何かが伝わるような気がするのだ。

活字から逸れてしまったが…。
母は、本を読むという事は無理なのだ。でも、短い文はやはり読むようである。読み始めると、書くと言う行為も伴ってくる。
先日も「寒い。ストーブのそばに行きたいな」と書いてあった。
テレビよりも活字からの刺激の方が入っていくように見える。
母も、心模様で読めたり読めなかったりするのかもしれないな。


2003年02月17日(月) 何故思いつかなかったか?


 今日は、第三月曜で家族の会の日。
ここでは、介護から離れられない人の為に、会の間 介護される人をボランティアの方が看てくださる。
母が在宅の時は、デイ利用日だったので連れて行く事はなかった。
施設に託してからは、会に参加してから面会に行ったり、面会しない日にしたりしていた。
でも、「2日続けて訪ねてないな」と何処かでちくりと心が痛む事もあった。

今朝、天気予報で「明日は寒いです」と聞いて今日行かないと明日は外に連れ出せないかも知れないと思った。
「そういえば、この会のボランティア利用はこの所無いなあ」とふと思った。
「迎えに行って、それから会に向かうのも面倒だな」とも思った。
母の機嫌、健康状態次第では無駄足になる事だってある。
そんなこんなを考えていた。

でも「駄目もと」精神で行こうと決め、出かけた。
お天気が良く比較的温かな事も幸いした。
施設に行くと母は元気で落ち着いていた。
「でかけよう」と誘うと「うん」と言う返事が戻った。

長いコートでは暑いだろうと思い自宅からショートコートと裏つきの冬ズボン
を持参した。母に其れを着替えて貰った。
最悪にはタクシーと思っていたのだが、幸いにも足の痛みも無くバスで移動できた。
バスの乗換えで、同じ会に参加されるTさんとお会いして同行して頂いた。

母には「これから、話し合いがあるので待っていてね」と言うと「大変だね
こんな広い所話し合うのだね」と反応。
ボランティアの方はいつもなら階下の部屋で待っているのだが、今日は隣室で
待機してくださる事になった。ドアも少し開いていてくださった。
母には、一応折り紙と歌集とおやつを準備していたので其れを渡した。また、万が一の為に、私のコートも預けて「見ていてね」とお願いした。
(覚えているかは判らないけど見慣れた抜け殻が役に立つかもと思った)

会が始っても壁の向こうからは、母の安定した声が小さく響いてきた。
途中から、以前デイでお世話になった施設の職員さんがみえて、ボランティアの方と変わった。その時も、「あら、お久しぶり」と言う母の声が聴こえた。
やはり、お顔だけは忘れていないようだった。
会が終わり母の所に行くと、そこには母が折った折り紙で箱庭が作られていた。話に依ると、折り方を忘れたと職員さんが言うと母は自分の記憶を辿るように集中して折り方を思い出したそうだ。
そうなんだな。
在宅の時も、忘れたフリをして聞いて見ると、母が必死で思い出そうとしていたな。
今、足りないのは、そういうそっと寄り添い待ってあげる時間なのだなと思った。
お買い物も散歩も良いけれど寄り添い待つ時間も作らなければいけないと教えられた。

こういう質の高い介護をしてくださる施設への入居を見送ったのだ。
でも、大勢の人の中での介護だとこううまくは行かないだろうな。

やはり、私が関わることが暫くは必要だろう。

けれど、何故これまで、ここに連れてくる事を思いつかなかったのだろう。
施設への甘えと面倒と言う思いで見えなくなっていたのだろうな。
お天気を見ながら、また連れて来てみよう。


2003年02月16日(日) ある街で。


 遅い夕食を夫と二人で摂っていた。
夫は、今日もお仕事だったのだ。

その仕事先でのお話なのであるが・・・。
私達とはあまり縁の無い地なのだが。
夫が会社の人と仕事をしていると、地元で長くお店を開いているおじさん、おばさんが、様子見に寄ってきたそうだ。
そして、世間話に花が咲いたそうだ。

実は、昨日 夫は弁当を持っていかなかった。近くの商店街で蕎麦を食べたが場所柄凄く高かったと言っていた。
夫が、こんな所は住みにくいだろうと思ったそうだが、今日酒屋さんでお茶などを買ったら、「あ、あそこに来てる人ね。じゃ、百円でいいよ」と定価120円の物を負けてくれたのだそうだ。そして、良く見ると、私達の住む町より物の値段が安いと気が付いたそうだ。
すると、高いものは、飛びぬけて高く其れを買う人も居る。でも、安い物を安くしても、客は買わないと言う。やはり、良い者を安くして初めて客が来るのだと言う。

夫は「それにしても、蕎麦なんて高いよ」と言うと「そりゃ通り掛りの客はそうさ。わしらは、同じ物でも地元価格で食べられる」のだそうだ。
地元の結束が固いという感じがした。そこらの新興住宅地とは訳が違うらしい。

「そうなんだろうね。きっと、バブルを乗り越えてきた人たちなんだものね」と私が相槌を打つと夫は直ぐに「そうそう。凄い話だぞ」と続けた。
そのバブルの頃、毎日のように地上げ屋さんが黒いバックに億単位の札束を詰め込んで訪ねて来たそうだ。
でも、自分はここが好きだから、いつも巌と断っていたそうだ。
地上げ屋さんは、「俺は諦めないからな。また来るぞ」と脅し半分で引き上げていくと言う繰り返しだったらしい。
おまけだが、その人その現金の前でピースサインをして記念写真を摂りたい気分だったそうだ。(しなかったらしいけど)

確かに、テレビのドキュメントでもかなりやっていた。其れを通って来た人から直に聞けたのだ。過ぎた事とは云え「すごいな」と感じた。

地元の人に腹は立たないけれど、あのバブル時代に土地を買いあさり街を壊した人々や あの時代に大商いをして 今負債を抱え その付けを税金でまかなっている人々にまたむらむらと腹が立ってしまった。

そして、我が街の事を考えた。この街の人は地元を大切に育て上げる心がないなという事をだ。
新しい物には直ぐ飛び付くが育て上げるという心意気が無い。
良いお店が次々に消えて行く。それが、とても残念に思う。
街を育て上げるのは、そこに住む人達なのに・・・。
安いお店もそりゃいいけれど、品物を良く見て対価を考えてみてよ。高いからいい訳でもないんだよね。情報に飛びつくのも良いけど、それってほんとに正しい情報?
と、偉そうに言っては見ても、私もここの住人なのだけどね。

ある街の話から、とんだ話と成ってしまった。
今日は、母の所に行かなかった。介護の話から大分外れてしまいました。


2003年02月15日(土) ちんぷんかんぷん。


ホーム内は静かだった。
ホールに母は居なかった。居室の戸は開いていて「帰るぅ」と言う声が聴こえた。見ると、畳に座り込み壁に背をもたれて泣いていた。
「どうしたの?」と聞くと「泣いていたの。誰も見てないでしょ」
そこに、Fさんが入ってきた。母は、何事も無かったかのように「いらっしゃい。お座りなさいよ。このお座布に」と声を掛けていた。
私は、空気になってロッカーの整理をしていた。
「私がきちんとしないから整理してくれているの」と母はFさんに説明。
でも、Fさんはそんな事はどうでも良いらしく母の部屋のくまのぷーさんをしきりに触っている。
そんなFさんをおかしいとも思わずに優しく見ている母だ。
居室に私と母とFさんが居るのに交わった会話は一つもないのだ。
それでも、時間は穏やかに流れていく。とても不思議な空間だ。
暫く母とFさんは、窓を開けたりお手玉を手にしたりしていた。
その間にトイレの掃除をした。
やはり、面会の感覚が長く空いてしまうと汚れは目立つ。
「誰かが居るよ」と母はFさんに言った。
どうやら、私が居る事など忘れてしまっている。ちょっと影が見えて「誰?」と思ったらしい。顔を見せると「あーそうだった」と言う顔をした。
こんな風に、母の記憶の消え去るのは本当に早い。
それも、7畳くらいの空間内での出来事なのである。

掃除機を使い始めるとFさんはスーッと部屋から消えていった。
母に「出かけよう」と言うと「いいな」と言った。
外は、少し冷たい風が吹き出していたが「寒い」とは言わなかった。
今日は、久々にデパートに出かけてみる事にした。
母の上履きの底が擦り切れてしまったから。
入所してもう3回目の買い替えだ。家なら、2年は持つのだがそれだけ室内を良く歩き回るのかな?
デパートに入る前に腹ごしらえ。「御寿司食べる?」と聞くと「うん」という。母は、一人前をきちんと食べた。脂の多いもの、いくら等が好きなようだ。お澄ましも、お茶も全量きちんと飲んだ。
それから、靴を見た。母の靴を捜した。
母の履き方に癖があるのだろうか つま先だけがどうしても早く傷む。
つま先がはげてしまうのだ。他に壊れる事はない。
靴磨きをしても、剥げ落ちた所だけがどうしても目立ってしまう。
春先にむけて明るい色の物と思ったが母の足には合わなかった。
以前にも触れたのだが、外反母趾の母の足。それも、24.5とかなりの大足。
それに痴呆で履き方すら判らなくなってしまうこのごろだ。
おのずと、靴の形が決まってしまう。
其れなのに、母はデザインも気になる様子だ。
お店の人もかなり探してくれたがとうとう探し当てられなかった。

ふと見ると、私達の周りをウロウロしている人が居る事に気が付いた。
デパートの袋を持っているので取替えか何かで店員さんの手がすくのを待っていらしたと思った。
けれど、その方は 私達の方ににこやかに寄ってきて「これ、頂き物ですが」と手作りのカンコロ餅を差し出した。カンコロ餅とはサツマイモをこねて作った餅だ。
「どうしよう」と思ったが きっと 母と私を見て自分の親の事を考えたのでないかと察した。(違うかもしれないがそんな気がした)
素直に「有難うございます」と言って戴いた。
その方は、貰った3切れのそのもちを全部下さった。

その後、上履き売り場に行き、底の滑らないちょっとだけ厚みのある室内履きを買い施設へと戻った。

でも、カンコロ餅は施設で焼いてあげる事は出来ない。家に持ち帰り冷凍庫に入れた。母が来た時焼いてあげよう。

母と一緒に歩くと母の年齢に近い人は「娘」を思い。私に年齢に近い人は「母」を思い出す事が多いなぁ。



2003年02月14日(金) ただいま。

 カサカサという音で目が覚めた。
友人1が目覚めて、そっと入浴に出た。
暫く、ウトウトしていたが約束は7時半だったな。となりのベットの友人2は
まだ、夢の中。いつも、9時頃までパジャマでウロウロの人らしいので私も
そっと部屋を出た。
路天に行くと雪がチラチラ。なんだかとても得した気分になった。
友人1は、気が付いた。
「さっきは、もっと降っていたよ」と言われてちょっと損した気分。
友人1は「あつくて寝てられなかった」と言った。
確かに、そうだ。でも、空気口を空けていたのだが…。風邪気味の二人の傍に加湿器を置いたのが悪かったかな?
友人1は和室に一人寝たのだ。

入浴後に戻っても友人2は寝ていた。部屋に入れないので、チャイムを鳴らして起こした。「早いね」と目をこすり起きてきた。

今日の予定は立ってなかったが、観光する事になりそうな気配。
けれど、行く先はバラバラ。
自転車を借りてと思ったが、一台2千円というのであきらめた。
帰路より反対の方に出てみたかったが、友人2は一時間近く歩くのは嫌らしいので、それはキャンセル。
タクシーを使い、賑やかなほうに出向いた。
昨日バスで見たときには、歩いて廻りそうな感じだったがやはり一つ一つは離れているので、ちょっとだけ歩いて観て廻る事にした。
それぞれの口から出るんのは「夫と一緒だったら、細々した小物をみて回れない」という事。そういった訳でじっくり観て廻る事になった。
お土産買いだ。
それぞれがそれぞれの趣でお土産を買った。皆同じには けしてならないのが
個性豊かな3人ゆえの事だろう。

服装だって、皆違う。似ても居ない。全く学生時代の個性を更に突き詰めて来たのだと判る。
友人2が若者の流行をよく掴んでいる。
Gパンだって、股上の浅いGパンを着用していたので「履き難くない?」と思わず聞いてしまった。
実は、私も2本ほど持っているし、夫にも5本ほど買っているが、どうにも
履き心地が悪いのだ。
友人2は、「我慢です」と言った。
そうか、お洒落の為の我慢が足りないかと悟った。

それぞれの姿のままそれぞれを楽しみ、互いに引っ張らないで行けるこの関係は気が楽である。

駅に着いたとき、私の電車は3分後に発車だった。
私は、其れを見送った。
友人1・2は、先に故郷に向かった。
その後、一人駅で時間をつぶし地元の人の雑談にそれとなく耳を傾けた。
こんな時間も、以外に楽しい。周囲には何のお店もないので選択の余地はないのだが。

帰路の電車に乗り、うつらうつらとしているうちに終点だった。

こうして、一泊二日の旅行は終った。
楽しい事がいっぱいだった。誰に遠慮する事なく学生時代の気ままさで過ごした。
 
母の事も、家の事もすっかり忘れて遊んだ。
さ、明日からは また いつもの生活だ。

ただいまぁ。




2003年02月13日(木) 出発進行!


 この所にしては、珍しく二日酔いの夫。
朝の目覚めが悪いようだ。ゴロゴロしていた。
それでも「俺のことはいいから、行って来なさい」と夫。
ちょっと、気遣いをしていつもの如くお弁当を詰め、洗濯を済ませた。
「悪いですね」と言いながらも心はもう遠くに飛んでいる。
身支度を整えて、いざ 出発。

友人達は、先に付いていた。
「久しぶり」と言いながら送迎バスに乗り込んだ。
「ほら、女の人が多いね。暇なんだね」と友人1は言った。
友人2が「私は、暇を作り出してきたの!」と言う。
確かに、昨夜10時を廻った頃に「今仕事終えた」と言っていた。
でもね友人2よ。「昨年から毎月旅行に出ている。2月も無事予定通り」と言っていましたね。(笑)
 
平和である事だけは 確かでしょう。
私だって、介護している身なのに月、木と遊んでいるのだし。

友人1のご主人も珍しく風邪気味で…。出発前に「行くの止めようか」と成ったらしい。彼女も私同様、心配のそぶりを見せながら気持ちは「行く」になっていたらしい。どうやら、何処も状況は似ている。

皆、一応に家を気遣ってはいるものの。
顔を合せたら、もう楽しむことしか考えていない。

友人2は「目標、風呂に7回入る」だそうな。そんなに入れるの?
「夕食前に散歩でも」と外に出た。
けれど、歩く事が苦手な友人2 二人に押し切られて渋々歩く。
ちょっとした散策。現地についいた時は曇っていたのに出かけたら雲の切れ間からお日様が顔を出して雪の山々を照らし出した。赤く染まった山々が良かった。選挙が近いのだろうか?選挙カーが行きかっていた。
私達が他所者と知ってか知らずか「宜しくお願いします」と過ぎていく。
愛想の良い友人1は、大きく手を振り「がんばってくださーい」と声援を送った。「無責任ねー」と友人2。
何処にいても、もう好き勝手な3人連れだ。ほんとに騒がしい。
勿論、入浴だって、「熱い。ぬるい」と喧々諤々だ。

そういえば、昨年、こっちでの同僚と3人集った時もかなりの姦しさだった。
今回も、偶然の女3人だ。
でも、この3人は、もう 天下泰平仲間みたい。
底抜けに何も心配ないといった風だ。
姦しさに掛けては、同僚3人には負けてるなと思った。でも、抜けきっている所では今の3人のほうがずっと、突き抜けている。

私は、こ両方に属しているのだ。日記を読んでくださる方の私の像がどうなってしまうかと少々気になったりもする。

此方の3人はいや2人は本当に「マイペース」な人々。
「二人ともマイペースだね」と笑って言ったら「あなたもかなりでしょ」と言われてしまった。(苦笑)

ディナーが始るとアルコールも入りおかしさは更に加速する事となった。


2003年02月12日(水) 自分が嫌に成る時


 朝から鼻水が酷かった。
「危ないな。」と思った。
明日は、どうしても行きたいし。
母の顔がちらちらと浮かぶ。

昼少し前、母の所に行くのを止めようと決めた。

薄情な私。

いろいろの理由付けをしている自分が嫌だ。


2003年02月11日(火) 母の手紙から伝わった事


今日、4日ぶりに母を訪ねた。
皆でカードゲームをしていた。
母は、一ゲーム済んだ所だったらしく、傍で見ていた。

同じフロアのみんなが、ゲームを楽しんでいるのを見て嬉しかった。
職員の人は、大変だろうとは思ったが、今日の方は、同じ目線で対処してくださっているように思えて頭が下がった。

介護は、どうしても「してあげている」と言う風が吹いてしまいがちである。
入居者の方も、楽しんで居られた。

F氏も時折、「馬鹿」と言う声が出そうに成っていたが、職員の方が それとなく注意を向けられていらして安心した。
不穏な言葉でご自身の内側を発散されるのだけれど、時に他の入居者の方の反発を買ってしまい不穏な空気が広がってしまう事もあるので、言動に対しての適度な配慮の言葉も必要であると思う。

母の居室に娘と共に入った。
娘は、在宅の頃と比べて「おばあちゃん、穏やかだね」と言った。
その言葉に間違いはない。
けれど、其れは母と過ごす時間が短いと言う事で不穏な場面に遭遇していない
と言うだけの事だと思っている。
おそらく、在宅に戻ったら、きっと振り回されるだろう。

母の机を整理していたら、母の手紙が見つかった。
A3サイズのメモ帳に色鉛筆で書いてあった。

  お母ちゃん
もう少しここ(地名)に泊まるといっても
少し少しと長くなって嫌になってしまいました。
少し、続けて休みがあればいいとなあと思っています。
そうでなかったら、休暇をとって「○○」(故郷の地名)に帰りたくなってきました。
ここ(地名)は嫌になりました。

旧かなずかいの文字だがきちんと読める。
気持ちもびんびんと伝わってきて、面会をお休みした事を悔いてしまった。
それでも、今週は、もう一度、お休みするのだ。
せめて、明日くらいは、一日 母に付き合おうと思っている。

そう、この所、Iさんの娘さんも面会がない。おそらく一ヶ月近くないだろう。少し離れている所なので面会も大変だろうと察してはいる。
度々、面会にいらしていたので「どうかなさったかな?」と気にもなる。
私よりIさんの方がもっと気になっているみたい。
GHの駐車場で車を降りたとき、Iさんの姿が見えたので手を振った。
ホールに入ったら 職員の方が「手を振られました?」と聞いてきた。
どうやら Iさんは「娘が来たみたい」と話されたようだ。

職員の方は、こんな時利用者さんの思いを受け止めなくてはいけないだろう。
ご苦労も多いのだろうなと察する。

私も、予定が済んだら、みんなとそして母と楽しく遊べる何かを探そう。
一つは、もう題材を見つけている。
あと少しの、材料を準備しなければ…。
其れまで、ちょっとご免なさい。




2003年02月10日(月) 今日も、遊んでます。


先週に書いた通り、今日は蟹です。
そんな訳で、母の面会に出かけない非情な娘です。

蟹はおいしかったけど。
でも、塩味が少し強かったかな。いや、あれぐらいは普通でしょうけど、たくさん食べたら塩分過多になってしまいますね。
もう、蟹食べ放題は、行かなくとも良いかな?
蟹だけが食べ放題ではなくて、昼食のバイキングも出来て予想外。
とても、贅沢な気分。
デザートもあり、もう これ以上は食べられない程に食べてきてしまいました。私にしては珍しい事です。
いや、おいしいからと言うのでなく、今回は「欲」だけだったみたいです(恥)

友人と周囲を見渡して見て「やっぱりね」と同時に言ってしまいました。
ここにいるのは、同じような年代の人の多いこと多い事。
私達より上の方も、外国の方も居りましたが…。

次は、もう少し高尚な所へ行きましょう。
でも、やはり、何処に行っても、同じ様な世代が多いのだそうです。
友人の名誉のために申しますが、彼女は仕事してます。おやすみの日にお出かけです。でも、行く先々で出会うのは、似たような年代なんだと言ってました。
そういえば、歌舞伎、芸術鑑賞とあちこち廻っている人いるなあ。

人の事は言えないですね。
私だって、似たようなものだったのですね。(反省)


2003年02月09日(日) 閉じこもる生活。


 痴呆になり、家の中に閉じこもってしまう人の数ってどのくらいなのだろうか?
今日、出会った方も、零しておられた。
デイに引っ張り出す事の困難さは私も通って来た道なのでよく判る。

引っ張り出す方法は、いろいろあるが…。
一番は、慣らし保育のように、幾度も見学を重ねていく事だろう。
でも、外に出たがらない時は、職員の訪問で顔なじみになってもらう事も大切だろう。
幸いな事に、母の場合、その両方が出来た。
介護保険の導入前で、デイ利用者が少なかった事も幸いしている。
そして何より、とても親身に対処してくださった職員の存在は大きい。

でも、人に左右されてしまうってちょっと哀しいな。
ラッキーとわが身の幸せを喜んでいてはいけないな。

少し辛抱すれば、デイの楽しさは理解できるのだから…。
閉じこもって、痴呆を加速させる悪循環だけは出さないで済むように成ればいいと思う。

とかいいながら、今日は、母の所に出かけてない私です。


2003年02月08日(土) 遺伝子?


 夫が珍しくしんみりと言った。
どうも、仕事先で娘と年齢の近いお嬢さんとお会いしたらしい。
そのお嬢様から「育ちのよさ」を感じたらしい。
「あいつに、苦労させた訳じゃないのになぁ。」と言った。
夫は続けて
「あいつは、頭のてっぺんから足の先まで戦う姿勢むき出し」と言った。
いやいや、それほどではないよとフォローを入れたくなった。
夫も、育った環境からかなり意識して戦ってきたのだろう。
其れが、娘に引き継がれている事を 最近 富みに感じているのだろう。
娘の外見は、私に似ている。が 内面においては、夫と似ているという事は
もう、随分前から感じていた私。

でも、いいじゃないのと思っていた。

当の娘にその事を話すと娘は「?」といった表情。
「私は、今のように育ててくれた親に感謝している」という。
娘は娘で 今の有り様に不満がないようだ。ホォワーとしているのは嫌らしい。

他人事のように話しているが、私も娘の親なのだ。
親として思うのは、やはり ホォワーとしていた方が善い様に思う。
でも、育ちあがってしまった人を元には戻せない。
この事に対しての責任は私にもある。
おそらく、遺伝子だけではないだろうな。
 


2003年02月07日(金) 「三日ぶり」だからかな?

今日は、温かな一日だった。
母を訪ねると、待っていたかの様子で私を傍に呼んだ。
「どうしたの?」と言うと「私、家に帰るあなたも帰るのでしょ」という。
「そうだね。帰ろうね」「お腹は痛いし、足は痛いし…」
直ぐ隣には職員の方が居り「さっき、排便がありました。昨日は、皆と歌を歌ったりして楽しそうに過ごされていたのですよ」と教えてくれた。
Iさんも傍に居り「具合が悪いとね。私も、○○病院に入院してね」と母に同情を寄せてくれた。
それでも、出されたおやつを食べお茶を飲んだ。
でも、お腹と足の痛みは続いているようだったし「帰宅願望」も強かった。
少し風気味の私は散歩に行く事は重荷だった。
それでも、母の事を考えると「外出」しかないように思われた。

身支度して、外に出た。
母は「家はどっち?」「足が痛い」と心が落ち着かない様子だ。
川辺りまで出て、ベンチに座り飴を一粒。空を見上げて「綺麗だね」と気をそらしてみた。ちょっとのってくれたけど、「家はどっち?私歩いていけるくらい?」と続く。
また立ち上がり、様子を見ながら歩く。
気持ちが不安なので痛みが強まっているようにみえた。
ゆっくりと春のうたをメドレーで歌ってみた。母も歌い出した。
♪春が来た♪ ♪菜の花ばたけに♪ ♪何処かで春が♪ ♪春よこい♪
これをエンドレスで…。

途中、GH内の人が、職員と共にお散歩(車椅子で)していた。
「お久しぶり。お元気でいいですね」と入居者から声を掛けられた。
この人は、別のフロアに居られるのだ。
母も何となく判ったようで、挨拶していた。
こんな風に、外で入居者と出会うのも良いなと思った。
大分お日様を浴びたので、例のファミレスに。
ケーキとお茶。今日は、普通の量。
「さ、行きましょう」と外に出た。
歩いていると紅白の梅の花が目に入った。
「綺麗だね」と二人立ち止まり眺めた。
もう、この頃には 母も落ち着き「何処へ」等と言わなくなり足の痛みも薄れ腹痛もすっかり消えていた。
そろりそろりと施設に戻った。
母の拒否はなく、居室に入ると「あー家に帰った」と満足そう。
「良かった」
外に出たばかりの時は
「ここには居たくない。家に行く。あんたの家でも良い。でも、私騒いで迷惑かけるかな?」ともう納まりそうにもない様子だったので本当に良かった。

帰路、鼻水が出始めた。
大事に至らぬうちにと、通院して家に戻った。
家人の帰宅する前に一眠りした。






2003年02月06日(木) 救われた?

 先日、長く使っていた皮の手袋の片方を無くした。
今は、冬物のバーゲン中なので早速買った。
同じ頃に母にも買ってあげてた。先日見たら 母のはヨレヨレになっていた。
それで「母の分も…」と頭をかすめた。でも、「まだ使える」と思って控えた。
それが、悪かった訳でもないのだろうが、今日 また片方無くしてしまった。
運の悪い事に、同じ右手だ。(溜息)
あの時、値段の高いほうにしようかと随分悩んだ。
でも、安い方を選んだのだった。
これから、更に買い足してもあの高い値の手袋より安い。
考えれば、其れだけが救いである。

先週の木曜に触れた事。
「手痛い一言…」のお宅を訪問。
洗濯物の干し忘れをお詫びして、更に配慮不足もお詫びした。
利用者さんは、他の事の話をしていたのに、お詫びした途端また責められてしまった。ま、私が悪いのだから仕方ないのだ。苦情はひたすら聞いているしかない。
私は、配慮不足を謝っているのだが、利用者さんは、痛いのに手伝わない事に
いかっているのだ。通じてないのは私も判っていたが…。
それで、着替えの時。
「動かないから手伝って」と言われた。
今日は、動きがよいと見ていたのだが…。足元を見られた感じ。
私は、先週学ばせて頂き、深く反省したので、手伝うフリをしながら利用者さんが自分で着用するように仕向けた。「動かさないと困るのよ」と言う言葉は
グッと押さえ込み「リハビリ頑張っていらっしゃるから痛みも少なそうですね。」と笑顔で声がけした。
利用者さんがどう受け止めたかはわからない。
でも、今日は私の勝ちでしょう。きっと。
これは、頭脳戦だな。

苦情は辛かった。
でも、「あんたの作ってくれた野菜サンドおいしかった」と言ってくれた。
この方、いつも、昼食の他にサンドを作ってと頼まれる。
それが、卵サンド、ハムサンド、ママレード、トマトサンドのみのご注文。
もっと、他の物をと思って、ポテトサンドを作ったのだった。
其れがおいしかったと言う。
不思議な事に、ポテトサンド等食べた事もないという。
なるほど。ポテトサンドを食べた事ないというのもあるのかと納得した。

褒めてもらえて苦情のモヤモヤは解消された。これも、救われた事。

だが、今日は利用者さんが、途中で「銀行に用があるので行きたい」と望まれた。車椅子の介助なので時間がかかった。30分以内に納めたが、これは予定外の事。仕事をする者は、こういう事をやってはいけない。
でも、利用者さんの外出の意欲はかいたかった。
外気に触れる事は、大切な事だから。そのためには良かった。

お腹ペコペコで家に戻り昼食を摂ったら、母の所に行く気力がなくなってしまった。  勘弁してください。母上様。(なんてジコチュウ)

木曜の私は、ピリピリしているらしい。娘の指摘だ。
唯一、責任ある仕事のある日だから これも ご勘弁願いたい。

それにしても、毎日のお勤めで大切な仕事をなさり、更に在宅介護を続けていらっしゃる方々は、本当に「偉い」と感じてしまう。




 


2003年02月05日(水) 裏切らないでね。

一寸した用で締め切りがあり その事で頭がパニック状態。
慣れない事をするって、プレッシャーだな。
でも、こういう変化は老化防止になると信じて用を作ってくれた方を恨まずに
感謝しなくちゃ。

来週は、楽しい事が二つ。
一つは、友人とカニ食べ放題に出かける。
娘とその友人の反応は「食べ放題なんておいしい筈はない」と冷たい目線だ。
私、そのお店をとても信頼している。「裏切らないでね!」
もう一つ。
学生時代の友人と温泉一泊。
気の置けない友人との3人揃っての宿泊は、おそらく初めてだ。
夫も娘も了解してくれた。でも、母は…。

少し贅沢かな?とも思う。
娘が
「母が居て当たり前の生活だったけど、他所を見れば皆出かけているよ」
「親が旅行って、ちょっとリッチになった匂いがする」
だそうだ。
私にしたら、ムリクリの現実なのだが、立場が変われば感じ方も違うかな?

さ、あと一頑張りしよう。



2003年02月04日(火) 電話が来た


 電話。
其れは、特養からだった。
入所の意思の再確認だった。
私は、此方の揺れを正直に語った。
・母は、ようやくGHに慣れた事。個室の良さがあること。
・介護者としては、費用の面、面会に行く為の時間がかかる事の困難。
 そして、健康不安。
その狭間でどちらを優先させるべきか悩んでいると。
前にも触れたが、特養までは徒歩5分だ。
GHまでは、自転車で15分。バスだと乗り継いで30分弱。
だから、私にとっては特養のほうがずっと楽になれるのだ。

これから、入所基準が変わっていくと聞いているが…。と聞いてみた。
すると、重い順になると言った。母は、要介護4であるからけして軽くはないという事だ。

待機者の方は重いのだそうだ。緊急を要するようだった。

私の今の体調は、非常に悪い訳ではない。何時どうなるかは判らないが、でも
今は、何とかなりそうである。
という訳で今回の入居は見送る事にした。
母が慣れて比較的安定している事も理由にはなった。

母の所に行くと、居室にはFさんもいた。
母はまた泣いていた。それも、パンツを半分下げてお尻というか腰の部分をさすっていた。Fさんは、心配してこれ(チラシを丸めた物)を持ち「これで、
痛いところを擦ればきっと直るよ。私も治った物」と母を慰めていた。
私は笑いを必死で堪えた。
「有難う。そうしてみるね」と声を掛けたらFさんは心配しながら部屋を出て行った。
母の着ているものを見ると、パンツの下は下着の5分パンだった。少し冷えていると思い長下ズボンを着用させホッカイロを痛む所に貼り付けた。(下着)
それから、オニューのシャツを試着してもらい、それから、床にホットカーペットを敷き横になりリハ体操をした。兎と亀の歌に合せて。
そのうちに、だんだん身体も温まり、気分も変わり痛みも薄れて行ったようだった。
ちょっとした事なのだけれど、落ち込んでしまうと自分で気持ちを起こす事はなかなか出来ない母である。痛み自体は大した事もないように見える。でも、感じてしまうと増幅してしまうのである。
今回は、リハ体操で治ったのでホッとした。
おやつを一緒に食べて、皆とホールで凄し帰ってきた。



2003年02月03日(月) 一人で豆まき、太巻き食べて。


 今日は、節分。
昨年までは、家人の帰宅が遅くとも母がいたので二人で豆まきをした。
母に「鬼になって」と頼むと嫌がった。で、私が鬼だった。全部の部屋に豆をまいた。(トイレも浴室も)
特に、娘の部屋に豆をたくさんまいて、嫌がられた。(笑)
豆は、端数分だけ食べた。母の年いや私だって年の分だけなんてとても食べられない。鰯も焼いた。夕食に、大根おろしで食べ、頭を残して門前に置いた。
そして、近年は、太巻きも作るようになった。
母は流石に切ってあげないと難しかった。

私の幼かった頃、家族みんなで豆まきをした。
大きな声で「福は内、鬼は外」と。
ご近所からも同じように聞こえた。
あのころ、たくさんの鬼が外に出されてしまうのだなと思った。
少しずつ大人になると具体的な鬼でないと判ってきた。

結婚してからも豆まきは続けた。
でも、団地での豆まきはちょっと小さな声だった。
ご近所からも聞こえなかった。

ここに来ても、やはり豆をまく時の「福は内」は聞こえない。
みんな、しないのかな?

先日、施設でも豆まきをすると言っていた。
きっと、母もしたのだろうな。

私は、豆を煎り、一人でそっと「福は内。鬼は外」と豆をまいた。
鬼役はいない。見えない鬼にまいた。
具体的に見えないのも寂しいので、自分に向かってまいた。
ちょっとはいい事あるかな?
鰯を焼き、頭を残して柊に刺して、門前に。
そして、具が芯より少し外れた太巻きを北西の方を向いて丸かじり。
やはり、誰かいないと豆まきはつまらないな。

幼い頃、豆は拾って食べるなと言われた。
熱い豆で鬼を追う。と聞いた。
残った豆は、味噌豆にしていたなぁ。
硬くてかむのが大変だったな。
あの頃は、太巻きなんて食べなかった。
今朝のラジオで「太巻きはここ20年、大阪で火がついた」と言っていた。
昔からあったようだが今ほどはしてなかったようだ。
太巻きは、作るのがちょっと苦手の私。でも、今年も作ってみた。

夫も娘も豆まきは出来ないだろうけど、鰯と太巻きは食べてもらおう。




2003年02月02日(日) 在宅時の母のリハビリ

 母と共に過ごしていた時いろいろの手伝いをして貰った。

この手伝いは、大体の準備は此方でする。
散歩に出ると野の草花を摘む。其れをテーブルに飾り散歩の様子を振り返る。
花の水を替えるのは母の仕事。

木の実を集める。
エゴノキの下には実がいっぱい落ちており誰も拾う気配はない。
エゴの実(種)を散歩の度に集めて洗い干す。
端切れの布でお手玉作り。エゴの実は虫が湧かないのでお手玉には最適。
お手玉は小さいので縫い物は楽。
数珠の実があればなお良し。これは、お手玉にすると音が良い。
この時も散歩の様子を話題にしながら仕事が出来る

鍋つかみ作りは編み物で。
細編み等を使いただただ丸く編んでいくだけ。解いたりも有るが案外簡単。
綿の編みきりサイズの糸が最適だった。
その昔、編み物が好きだった人なら誰でも出来る代物だ。
これは、家だけでなく他の人にも随分差し上げ喜ばれた。
一時などは、母自身、売って身を立てる気になったものだ。(笑)

刺し子。これは、繕い物から発展した物。ボタン付けも。

そうそう繕い物が出る訳でもないので刺し子をして貰った。
これも、かなりの集中度で身を立てる話になった。
ふきんとして重宝したし、知り合いにも分けたしバザーにも出品。

台所仕事は、3度3度の食器洗い。
洗剤が判らないので、此方で準備。食器も洗い安いように同じ器は同じ所に集めた。お湯も此方で設定。
汚れている事もあるので、ふきん等は直ぐ真っ黒になった。
でも、本人は満足するし上手に出来る時もあった。

ふきん洗いもそう。これも、洗剤とお湯を準備して置く。
後は見守りのみ。

食事作りは、野菜の皮むき、カット。菜っ葉洗い。大根おろし。さや剥き。
卵溶き。ゴマすり。等様々手伝ってもらった。
食事の時にこれは、おばあちゃん作と皆に報告。食卓に花が咲く。

玄関や庭の掃き掃除。マンション時代はベランダ。
これも、とても丁寧だった。ゴミ袋を渡してもきちんと出来た。

プランターの草取り、庭の草取り、畑の草取り。

他にもずいきや味噌作り等々。

そうそう、肩もみもあった。
力はないけれど、気持ちよかった。夫の肩も良くもんでいた。

「ちょっと助けてくれる?」とお願いすると大体快く引き受けてくれた。
終ったら「有難う。とても助かった」とお礼も忘れず。
「ごめんね。大変な仕事頼んでしまって」といい訳もあると尚可。

注意は、いくらできるからと言って凄い量を頼むとなかなか大変。
あまり負担にならない量を。

家事ではこんなところかな?
初めは、とても面倒だった。一人でしたほうが早いし楽。
でも、一緒にやっていると話が徒切れず(痴呆なのでつながりのある話が出来ない)母も安定した。

今日、台所に立ちながらそんな風景をふと思い出した。

午後、施設に足を運ぶとホールで歌集を広げてみんなで歌い始める所だった。
歌集を手にした途端歌い出すので輪唱のようだった。
職員が一人で悪戦苦闘していたので脇からサポート。リズムを取ったり、口伴奏をしたり、手拍子を取ったり。
ようやく、みなそろって歌えた。
一人で、やるのはちょっときつそうだった。こういう側面を見ると考えてしまう。
F氏が両手を合せて手拍子を打った。そして、車椅子でなく、抑制もない状態だった。「手拍子 上手」と褒めるとほんとに良い笑顔で応えてくれた。
気分良かったのだな。良かった。
今日は母も皆と溶け込んでいたし外はとても風が冷たいので早々に施設を後にした。












2003年02月01日(土) ホッカホッカの焼き芋。(涙もね)


 昨日、職員の人が言っていた。
少し前、焼き芋屋さんに時間を指定して来てもらったそうだ。
入居者が買いやすいように小さめにカットして貰ったと言う。

そして、入居者が買いに出たそうだ。
みな、目を輝かせてお芋を買ったそうだ。
買うが早いかパクパク食べ始めたそうだ。
母も全部食べたと思ったら、洋服の中に半分残して「○○に(私)食べさせるから取って置く」と言ったそうだ。(涙目)

その後どうしたのかは言ってなかったが…。
自分でお金を使ったのだったら偉いな、良かったなと思う。
細かい話は聞いてないのでわからない。

でも、母の時代は自分たちで焼いたのではないかな。いや、私達だって焚き火の中に入れて焼きあがるのを楽しみにしていたなぁ。
ホームで焼き芋鍋でも買って焼いた方が匂いも楽しめるのにな。
職員の人が大変なのかな?

と水を差すようなことは、流石に言えなかったけど、最近の値段の高さを思うとそう思ってしまった。
私は意地悪な見方をしているかな?

今日、ちょっと人と話して得た事。
GHが施設入居できない人の逃げ場になり始めている。また、痴呆ではなく
単に麻痺などにより体が不自由になった人が入居している。等という事が多くなりつつあり行政も調査を開始していると言う。
GHの今後の有り方が検討されるだろうな。
初めの頃と違う形のGHが増えてきているのは事実だ。
実に丁寧な介護をしている所のGHは赤字経営が多くなっているらしい。
他にもいろいろ耳にしたが確定ではないのでまだ書けない。

昨日、GHの検索をして全国の様子を見てみた。
でも、一日の生活の流れはあっても、リハ作業の割合、参加率、また具体的な内容等の明記は殆どなかった。
おそらく、家族が知りたい情報と施設の出す情報がかみ合ってないように感じた。
情報も開所当時のままが多く、実際を知るには物足りなさを覚えた。
まだ、難しいのかな?







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