母のタイムスリップ日記
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2003年01月31日(金) 母一睡もせず。私は、亡くなった夢。


 今日は、母の通院日。
ついでに、誕生月検診の受けた。
母を迎えに行った時、母の様子がおかしかった。
やたら、おしゃべり。それも、何か想像の出来事を延々と話した。
誰かお客さんが来ているという。手には、昨年戴いたクリスマスカード。
この人が来ていて、しかも数人で何処に泊めたらいいだろうかと言うのだった。
居室に入り、ゆっくりと話を聞き「判った。私がなんとかしてみるよ」と言ってみた。「そうかね。悪いね。かかる費用は私が持つよ」と言った。
職員の出してくれたお茶を飲み「ちょっと出かけよう」と誘う。
母は、さっきの話など忘れたように「うん」と言った。
気の変わらぬうちに早々に支度してかかりつけの医師の所に向かった。
不思議な事に「お医者さんだねぇ」と母は認識できた。
そして検診。
身長、体重、血圧を計測。レントゲン、心電図、血液採取とした。
血圧は最近高め。今日も高め。
心電図もちょっと引っかかる。心臓は肥大してだらり。肺にも影が少し。
いろいろと問題は出てきてはいるが変動の範囲内という事だ。
正確に言うなら、今すぐ命に直結するような事はない。
散歩を続けて普通の生活を…。という事だ。
だから、問題はあるのである。でも、急に変化しない。
生活の質の維持。

いいんだか、悪いんだかなのだが、高齢でも有るし仕方ないといった所。

母も、真剣に話を聞いていた。「悪くないのですね」「そう、元気だね」
と言った具合なのだが。

腰の痛みに対してカルシュウム剤とビタミン剤が新たに処方された。
「どうしようね」と言われ副作用も聞き、「様子を見て考えます」と処方して戴いた。
今更、カルシュウム剤を服用してもそう簡単に改善しない事は情報として得ている。副作用が強くないのなら良いが強く出るなら止めておくに越した事はない。

施設に戻り、看護士さんに報告。
向こうも了解。

が、おととい母は一睡もせず居室でゴソゴソして起きていたという。
翌日の昼も寝ず、晩にようやく眠ったそうだ。
不穏な訳でなく、人に迷惑をかける訳でもないので そのまま様子を見てました。と言う事だった。
在宅でも、そんな日もあったです。と話した。
でも、一睡もしないのではなく、時々ちょっとは眠るのですがね。
熟睡とは違い、ウトウトとしては起きの繰り返しなのですがね。
介護士さんから見ればきっと一睡もしない事なるのでしょう。

話を伺い、あの忙しなさ、だるいの訴えが納得できた。

運動不足かな?それとも、偶々少し興奮してかな?
それにしても、施設側では心配したのだろうな。
今まで、こういう事なかったみたいだし。
在宅時には、時にあったのでそう心配はしてない。

でも、正直に語るならその日「母が亡くなった夢を見たのでした」
夢の中の私は泣きもせず「さ、これから何処に連絡しようかな」「葬儀場は?」等とさらりと考えていたのでした。
そんな話を娘にしたら「死んだ夢を見るとその人は長生きするって聴いたよ」
と言った。
だから、あまり気にも止めなかったけれど、何か関係在るのかな?




2003年01月30日(木) あ痛っ。 未熟者の失敗。

 今日はボランティアの訪問日。
利用者さんからの手痛い一言。
「あなたは、私の痛みを理解してくれない。寒くなって痛くて動かない身体なのに、理屈をつけて手伝ってくれなかった」
本当は、もっとキツーィ一言もあったけど、いろいろ支障があるので伏せます。(私のためでなく言った方のためです)

そうなんです。
私は、衣類着用時お手伝いした方が時間を短縮できるし、利用者さんも楽できるのです。でも、ぐっと我慢して見守っていたのです。
けれど、利用者さんを傷つけてしまっていたのです。
私の未熟さを改めて知りました。
もっと、配慮してあげるべきでした。心に傷を残してしまうようではいけません。これは、12月の事を今日訴えたのです。
今まで、我慢していたのでしょう。
深く反省しました。これからは、もう少し深く配慮します。

きっと、母にもこういう事いっぱいあったのだろうな。
痴呆だし、身近かだから言葉にしなかっただけなのだろうな。
今日の事を通して、母にも「ご免なさい」です。
それでも、会うことを楽しみにしてくれて「有難う」です。
勿論、利用者さんも「もうくるな」とは言わなかったので「有難う」です。

もう一つの「あいたっ」
ここには、複数の介護の人が入って居ます。
別の曜日に入っている人から連絡帳にメッセージがあった。
「卵のパック捨てないで下さい」  「?」
新旧の区別が付かなくなるからとの事だった。
「新を後ろに。旧を手前に。」が我が家での工夫でそうやって区別してきた。
でも、考えればこれは自分流でした。
以前他の事でもクレームを入れられた。
でも、それもやり方の問題だった。で、事務所と連絡を取りやり方を統一して貰った。所属の違う人が入っているとその辺の連絡が微妙である。
会ったことも無い方との意志の疎通は難しい。
たかが卵のパック。されど卵のパック。

でもね、不燃物とリサイクルゴミが一緒に入っていても此方では分けて処理しているのだけど…。
他にも、ベランダのお掃除、トイレの便器の後ろの掃除、尿瓶の掃除等している形跡のない所もしているのだけどな。別に「してないね」なんて言わずお互い補えればと思っていたけどね。
この事には気が付いてもらっているのかな?
ゴミを貯めたくない私は、パックはゴミ処理して取り出した卵に鉛筆で日付け
を入れてきました。全く、嫌味な私(苦笑)

今日は、オロオロすることばかり。
いくら、心臓に毛が生えているような者でもドキドキしてしまいました。
そして、更なる失敗。
今日は、洗濯を2度に分けてしました。2度目はパジャマのみでした。
忘れてはいけないと幾度も気にかけていました。
でも、どぎまぎしていたのと、後半の用が多いのと時間オーバー気味だった事も有り、2度目の物を干し忘れて帰って来てしまいました。
言い訳が先行する書き方でした。

とにかく、きちんと仕事を処理せずに帰ってきてしまいました。

自宅に戻って「あっ」と気が付き愕然としました。
やってはいけない失敗でした。
慌てて、事務所に連絡。結局、次の人に処理して戴く事になりました。
またまた、ご迷惑をおかけします。
一番の被害者は利用者さんです。

今日は、何と言う日なのでしょう。
昨日、外出等してしまったから 判断力に欠けていたのだろうな。
猛反省の一日です。




2003年01月29日(水) 見える仕事

 
 夫も娘も見える仕事をしている。
娘が幼かった頃は、夫の仕事の後を見に出かける事があった。
そこで、夫と出会う事もあった。ちょっと、お茶したりも。
娘が大きくなって、私一人が見に出かける事もあった。

母が来てからも、母を連れて出かけたこともある。

でも、ここ数年は ご無沙汰の方が多かった。

今日は、久しぶりに夫の仕事後を見に出かけてみた。
とても賑やかで「良かったね」と思った。
これが、休日返上の仕事か?と眺めた。
人々は、誰の仕事なんて思わないし。(関係者は別です)
目に付く物でもないかもしれない。
まして、休みなしで作った事等想像だにしないだろう。

仕事の運び具合、苦労している事等は聞いているので「あーここがね」
「なるほどね」と思って眺めた。
でも、私は仕事に関わった事もないので ただ 眺めるだけ。
とんだ、妻です。

娘の仕事も見える。
これは、別に出て行かなくても見る事が出来る。
夫の仕事も、出て行かなくても見られる時もある。
今回の物は、そうだ。出て行かなくても見る事は出来たが足を運んだのだった。

こうやって、家族の仕事を見ることが出来る事は面白いと思う。

私には、そういう仕事は出来ないから余計そう思う。

夫も娘も、「見て欲しい」と言う思いと「照れ」とが微妙に交錯している。
でも、きっと反応を知りたいのだのだろうと思う。
普通の人の普通の反応を。

きっと、この日記を読んでくださる方の目にも入っている物もあるかもしれない。夫の仕事も娘の仕事も。

私の両親は、見える仕事でなかった。
ただ、両親の仕事と私の仕事がかぶる所があったし また、職場の人もどちらかを知っている人が居た。
時に母の所は、手伝いに出かけたりもした。
逆に、母が権利を使い私の仕事場を覗きに来てあれこれと注文をつけられた。
所謂、過干渉だった。
いろいろと、やりにくい時代でも有った。
もう今は、あれこれ言わない母になった。

見える仕事、関わって行ける仕事。なかなか、見えない仕事。
いろいろな仕事があるなぁ。




2003年01月28日(火) 一月近くでようやく達成。

 健康診断のための検便。
昨日、タイミングよく採取できた。
「後一つ」と思った。
もう一つの容器は、施設に預けていた。
どうしたらよ良いものだろうと思っていた。

採取してくれる気配はなかった。
「取れるか判りませんけど」という断りが付いていた。
母と接するのは、職員のほうが多い。でも、トイレに立ち会うのはどっちが多いのだろう?と思っていた。
外出時だけは、容器を預かっておこうと決めた。

今日のお天気は上々。
私自身の用を足そうと朝っから準備していた。
でも、良く考えれば、こんな日は母だって外出しやすい日なのだ。
そんな訳で、施設に向かった。
今日は、気になっている人の家にも寄るつもりで「テクシー」に決めた。
所要時間を一時間切るようにと考えた。
川に沿っていけば、全ての用は足せる。

気になっていた人は、留守のようだった。
若しかしたら、疲れてつかの間の休息を取っているかもしれない。
だから、チャイムは、一回のみ。
反応がなかったので「元気出して」と心の中で応援。
直ぐ、施設に向かって歩き出した。

40分で母のところに到着。
無理のない歩きで40分ならいい運動である。
こういう日も有っても良いだろう。

食事を終えて、ホールは静かだった。
職員の人が掃除しながら、入居者に声をかけていた。
こういう光景は、ほっとする。
IさんとI氏は職員と外出らしかった。良いお天気だもの 外に出た方がいいな。
母は、私の顔を観るなり「今日も何もする事もないから唯ぼんやりしているだけの私」と言った。
「外出てみようか?」「うん」
急ぎ支度して施設を後にした。
外に一歩出た途端「お腹がすいたな」と言う母。
「じゃ、おいしい物食べに行こう」と私。「行こう。行こう」と母。
「でも、お金ないよ」と母。「ほら、虎の子預かってるでしょう」と私。
足の痛みも有り、ゆっくり歩かせたいと言うこともありで近くのファミレスで
お茶。
どうなるかなと思いながら「ケーキ」を頼んだ。
私の分はさておいて、母の分を「ケーキとアイスが二つセット」を頼んだ。
流石に、アイス2個は駄目と思い一つは私が分けてもらった。
飲み物は、コーラとコーヒー。
母は、するすると全て平らげて「満腹」と言った。
そりゃ、そうでしょう。
私だって食べられません。

その後、ファミレスを出て外を歩いた。
母の様子をみて、予定のコースを微妙に変えながら、そしてベンチでの休息を入れながら40分近く散歩。
途中、紅梅が咲き始めていたりしていてふたりで眺めた。
「はい。一句」と振るが「不調法でね」と母は笑った。
じゃ、「梅一輪 一輪ほどの…。」次は?「忘れた」
「猿も」⇒「気から落ちる」 「鳶に」⇒「あぶらげ さらわれる」
「豚に」⇒「真珠」
そんな事を言い合いながら施設に戻った。

施設に戻ったら、母が便意をもようした。
急いで、職員さんから検便の容器を貰い採取した。
あー念願の2個摂取だ。「やったね」と一人喜ぶ。
これなら、健康診断にいけるぞ。やっと、いけるぞ。

職員さんの手を煩わすことなく検便終了。今年も、出来てよかった。



2003年01月27日(月) 重箱の隅…?

 施設は昼食の最中だった。
テーブルには、鍋が二つ。ひとつにご飯。一つにうどんが入っていた。
各人の器はひとつ。後はビール。

これが、今日の昼食。

鍋には、半分弱の石狩鍋風の材料。
味付けは、ポン酢とだし汁?

珍しいのは、いつも一人部屋で食事している方が皆とテーブルを囲んでいた。
これは「とてもいいなあ」と思った。
猫舌のFさんが「熱い」と食べるのに苦労していた。
I氏は、黙々と召し上がっていた。いつもよりたくさん食べられるようだった。
Iさんは、定量を食べて後は「ご馳走様」だった。
母も、早々に「ご馳走様」と言っていていたが量的に足りないのがみえたので
「おいしい?」と聞きながらもう少し食べるように勧めたし食べたした。
O氏、F氏は少し不自由なので職員が介助に廻っていた。

私にも勧めてくださったが、昼食後だったので見守りに廻った。

私の興味は、ビールだった。
飲まない人は飲まない。
母のコップは、少し飲んだ形跡があった。
食事が終えて、またビールを口にした。
「大丈夫?」
「うん。苦いけど、アルコールが入っているんだけど」と言いながら飲み干した。Fさんもそうだった。「苦いよ」と言っていた。
母は、お酒と認識した上で飲んでいた。Fさんもそうだった。
でも、認識はあるけれど、それ以上の判断は出来てないと感じた。
感覚が鈍っているんだなと感じた。
母は、アルコールと言うとどんなに薄くした梅酒であっても拒否していた。
たまさか、飲む事はあっても、それなりに勧めないと飲み干す事はなかった。

昼にビール。
飲みたいと要求がないのに飲ませる意味って何だろうか?

いや、その事を責めるつもりは毛頭ないのだが。
何かが、違う。
どう説明してよいかわからないが…。

鍋を食べる時、材料と共にご飯や、うどんを最初から入れてしまうものなのか?
そういうお店も有るけど。
普通、鍋とは別にご飯を出すと思うのだが?
そうでなければ、ビールやジュース等で鍋を囲む。
なぜ、ビールのみしかないのか?お茶という事は?
熱いおじや、うどんは、体が温まる。
でも、量はそんなに食べられない。
なぜ、鍋と白いご飯の選択が出来ないのか?年を取った者はご飯が好きなのに。

何かが違う…。これって、重箱の隅をつつくようなことだろうか?
こう、考えてしまうのは私だけだろうか?

食べ方に対して私が拘りすぎなのだろうか?


食後、体が重いとか言っていた。
それでも、外出すると言うので我が家へと連れて来た。

食後一時間もしない内に、みかん、お菓子、コーヒー、お汁粉、バナナ等を
食べた。おなかも、いっぱいになり、食べる事もおさまった。

タイミングよく排便をもようしたので検便一つ完了。(ほっ)






 


2003年01月26日(日) 情に竿さおしゃ…。


 この言葉を思い出すのに随分の時を要した。
何にも頼らず、時々口の中でブツブツ繰り返していた。
本当は頭の「情」から始まった事でなく「知にはたらばけば角が立つ」から
始ったのだ。「知に○○角が立つ」の○○が出て来なかった。
ようやく思い出した頃にこれは前後にもっと文があったなとまた考えた。
後者のほうは、楽だった。

使わなくなった言葉は、忘れてしまう事が多い。
使わなくとも他の言葉に替えられるので不自由はしないが思い出せないと
すっきりしない。そして、思い出したほうが痴呆の予防になると言うのであれば、さび付いた頭を少しでも使おうかと思ってしまう。
なんと、単純な私だろう。

  情に竿さしゃ流される。
  知にはたらけば角が立つ。
  とかくこの世は生き難い。

あーめでたし。めでたし。

今日は、今月最後の日曜日だった。
夫は、仕事始めから今日まで一日の休みもなかった。
「亭主元気で留守がいい」とは言うけれど、度を越えるとそうも言ってられない。
夫も娘も家は「眠る所」と化している。
 夫は、休日がない。  娘は休日はあるが帰宅が遅い。
同じ働くならどっちがいいか?
どっちもどっちなのだが。
トータルすると労働時間は似たようなものかな?
夫は自分の会社だから同じ条件ではない。でも、給与を払っていくためにはそれなりの仕事をしておかないと困るのだ。
経済が低迷している今は、仕方ないのだが。
でも、「若いよ」と胸を張っていえる年齢でも無いのだから、健康も考えてもらいたいなと思う。

さ、明日は母のところに行こう。
今日は、美容院に行った。
予約の時 「どなたの?」と言われ「私」と言ってから「真ん中です」と言い直した。母、私、娘共に同じ美容院にお世話になっているのだ。
オーナーは、電話の向こうで笑っていた。「はい」ついうっかり言ってしまいました。でも、こういう時 なんて言えばいいのかな?名前かな?
うーん。これも、良く考えようっと。

 








2003年01月25日(土) 介護者って。


土曜の朝日の朝刊に「カルテの余白」と言うコラムがある。
今日は、担当医師の最終回だった。
行動科学の方法論によると、人の内面には3つの自我があるという。
「親のような優位な立場から相手に接する自我」
「理性で接する大人の自我」
「感情的で我儘に接しようとする自我」
この3つの自我が相手のどの自我に接するかに拠っていろんな接し方が生まれる。
という事が書いてあり、医師と看護士対患者の関係について触れていた。

これは、痴呆の家族を抱えている人なら「ピン」と来ると思う。
介護に当たる者は、その役割がクルクル変わる。
病の者だって、時に親、時に親戚 時に他人。と写るのだから。

だから、関係を保つにもかなり複雑になってくるのだろう。
関係だけなら、まだしも、時間の共有だって違うのである。
やっぱり、介護に当たるという事は大変な事だと改めて思った。

若し、介護する側が、相手に折れないで正しい今を求め続けたら…。
混乱が起きるだろうな。
正しい状態でいて欲しいけれど、伝達経路が切れてしまっているのだろうから
な。
でも、違う経路で繋がる事もあると聞いたことがある。
おそらく、これが日常のリハに依って繋がるのだろうなと素人考えをした。

昨日、なんだか久しぶりにホールにいる職員が多いなと感じた。
3人はいたかな?
ゆっくりと入居者に声を掛けていた。一人は除くが。
それだけで、入居者の表情が変わる。
いつも、これくらいの人が居てくれたらなぁと思った。

もう一つ。
其れは、職員の人が勤務に入る前に立って食事をしている事。
以前から気になっていたが、休息室の確保はできないのだろうか?
事務室?職員控え室?で食事は休息の意味を持たない。
勤務、休息ときっちり分けて仕事が出来る環境を整える事が出来ないのだろうか?食事を立って取るなんて、気の毒で仕方がない。
入居者が良いサービスを受けるには、職員の職場の環境も重要だと思うのだ。

そこに、経営者の人に対しての姿勢が見えてきたりもするのだが…。













2003年01月24日(金) 冬の思い出

 雪が降ると窓はほんのりと明るい。
障子戸を開けると窓には花が咲いたように凍りついた模様がびっしり。
手で擦ってみても、解けない。
吐く息は室内でも真っ白になった。

日が昇ると外に出る。
誰も出ていないちょっと湿った新雪に身を投げる。
ゆっくり起き上がると、そこには自分の姿の後が凸凹になっている。
着ていたセーターは、雪で真っ白になる。首からは雪が入ってくる。

晴れた日は、降り積もった雪の表面が解ける。
でも、朝の冷え込みで、その表面は凍っている。
特に人の歩かない空き地や畑の上に積もった雪面。
その上をそーっと歩いてみる。
ぬからない。
まるで、魔法をかけたみたいに雪の上を歩けるのだ。
たまに、積もった雪の下の方が解けて空洞があってずぶっと抜かる。
長靴の中に雪が入ってくる。足の温かさで雪が解けて靴下がぐしょぐしょ。
子供なりの勘を働かせながら、抜からない様に歩く。
我を忘れて歩く。
そのうちに足が凍りつくくらいに冷たくなってくる。

長靴を放り出すようにして家の中に入りコタツで足を温める。
でも、感覚がなくなって火の傍まで足を近付けてもちっとも温かくならない。
そして
「あーあんな事するんじゃなかった」と反省する。

毎年、同じ事を繰り返していたような気がする。

大人になっても、同じ経験をした。
其れは、スキー場。
子供の頃の思い出を辿るようにやっていた。
その頃には、もう 濡れるほどは無茶はしないが…。

最近は、スキー場も様代わりをしていると言う。
スキー場というより、スノボ場みたいだと言う。
ロープなんていうものは姿を消し始めていると言う。

でも、人の入らない所はきっとあるだろう。
いつか、また 子供の時と同じ事をしてみようと思う。

今日は、母と「はーるよ来い。はやーく来い」と歌った。
昨日、雪が降った事など記憶にない母。
でも、ちょっと残った雪を見せた。
「んー。寒かったんだね」と言う。

室内で過ごしてばかりなので久々に家に連れて来た。
人ごみはインフルエンザの心配がある。
入浴させようと思ったが、風が冷たいので服を着たまま洗髪。
それでも「気持ちいい」と言った。
ゼリーを食べ、みかんを食べ、お茶とクッキーを食べ施設に戻った。

あと少しで冬も終る。
あと少しだ。
節分用の豆を娘が貰ってきた。「おばあちゃんに」と言った。

「はーるよ来い。はーやく来い」








2003年01月23日(木) ある人の悩み。


痴呆の入り口にある人を介護する時に困る事。
それは、痴呆と診断されると駄目な所だけに目が奪われてしまう事かもしれない。

特に、家事を担ってきた主婦の場合、煮炊きの失敗をすると「ほら、またやった」と責めてしまいがちだ。

私にも覚えがある。
「どうせできない」と家事から離れて貰った。
直接「出来ないから」とは流石に言えず「いいよ、私がするから。ゆっくり休んで好きな事していて」と言ったのだった。
でも、この事は母に自身を失わせた。また、何の役にも立てない事での落ち込みも加速した。
「邪魔ばかりして。」「お世話になってばかりで。」「申し訳ないから帰ります」そんな言葉が繰り返された。

痴呆=何も出来ない訳ではない。
まして、痴呆の入り口にある人はプライドもかなり高い。そして、その裏側で自分がおかしくなってきている事を何となく感じているのだ。
普段の生活は充分出来るのだ。
だから、一緒に仕事をこなす事が大切なのだ。

簡単そうでいて、これが実に大変。
でも、ここで踏ん張っていると其れからの信頼関係はうまく保たれると思う。
介護する方が学習できる貴重な時期であると思う。

相手がミスしたら それを責めずに「ごめん。私がうっかりしてしまった」と謝るのである。すると、「いやこっちが悪かった」という事になることが多いように思う。
意欲をもって生活できれば痴呆の進行も緩やかだと思う。

また、褒めちぎる事も大切だ。
ちょっとうまく出来たら「凄い。私にはできない」と。
本音でそう思わなくとも繰り返し繰り返し褒めていくと不思議に気にならなくなってくる。その上、本人も気分が良くなる。

でも、あまりに見え見えに褒めると「馬鹿にしてる」と思われる時もあるので程ほどに。

私が拗れかけた母との関係修復のために頼んだ仕事は「靴磨き」だった。
「悪いね。ちょっと磨いてもらえる?ごめんね。汚い仕事で。嫌だったらいつでも言ってね」と母に恐る恐る頼んだのだった。
母は、快く引き受けてくれた。そして丁寧に磨いてくれた。
そこで、「あー。さすが。私のような雑な磨き方じゃないね。すごい」と。
そして、家族を呼びみんなに褒めてもらった。

母は、謙遜しながら心地よさそうだった。

それから、少しずつ仕事を依頼するようになった。
母は、そんな私の心を見透かす時があった。

「あんたは褒め上手ね。こんな私を傷つけまいと褒めてくれるんだね。有難う」
こんな風に「どきっ」とする事も起きるが、「いや、ほんとの事よ。やっぱ、凄いね。流石年の功」と乗り切った。

そんな話を、悩める人に言ってみた。
「あっそうだね。責めるばかり、説教ばかりとそういえば言われてるわ」
と言ってくれた。

直ぐにうまく行く事はないかもしれない。
仕事を次々準備して行くのは結構きつい。
でも、共に暮らしていくのだから助け合っていく事から始めないと。
今まで、普通に暮らしてきたのだから、出来る事はいっぱいあると思うので
す。

病が進行してくると、共同作業も困難になってくる。
でも、いつも言うけど「動ける事」を探し続けて動いてもらう。其れが生活の質を保つコツのような気がしている。




2003年01月22日(水) 同じテーブルに付く。


昨夜、ラジオから小耳に挟んだことがある。
携帯電話から自宅の映像を見る事が出来るようになったという。
これは、防犯のためらしい。
でも、「子供の様子を知る」という事でも活用できるとも言っていた。

丁度、娘も居り その時二人目を合せてしまった。
「おばあちゃんも可能」と言う意味合いだ。

かなりの値段になるのだろうと思ったら、以外に安かった。
いや、購入するとしたら迷うだろうけど、買えない値段ではなかったのだ。
十数万円位。
そこでも、「安い」「高い」と意見は割れた。
でも、必要の度合いによって「安い」「高い」と分かれて当然だろうと思う。

但し、「覗き」つまり盗聴により映像を盗めるらしいので別の形の防犯も必要らしい。

でも、我が家の場合、母のプライバシー侵害する事にはなるだろうけど、欲しいねという話しとなった。

取り付けは簡単なのだろうか?施設に届けなければならないだろうか?
そんな事を二人で考えてみたのだった。

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今日はおにぎりを作って母のところに向かった。
たまには、皆とテーブルを囲んで食事してみようと思った。

母の居室は、先日運んだヒヤシンスの香りでいっぱいだった。
大寒が過ぎたばかりだけど、一足先に春が来たような感じがした。

配膳が始り、みな テーブルの周りに集った。
F氏は、お腹が空いていたのだろう皆が席に着く前に食べ始めた。
F氏、O氏、I氏、Fさん、Iさん、母と私でテーブルを囲み食事が始った。
お粥の人もいた。副菜はみんな同じだった。
「みんなと食べるからおいしい」とIさん。
母は、しきりに私におかずをすすめてくれた。
食べはじめて間もなく、職員がお茶を運んでくれた。

家の沢庵も少しだけ持っていった。
其れを、母にあげた。「おいしい」といった。
そうなのだ。ここでの食事で「おいしい」と母は言わないなと思った。
規則違反だが、歯の丈夫なIさんにもちょっと分けた。
そこから、沢庵にまつわる話となった。
Iさんは、食事が済むのが早かった。
母も、ご飯だけは早く済んだので「おにぎり」を半分分けた。
「おいしい」と言ってそれもぺろりと食べた。
Iさんにだって分けてあげたいのだけれど、約束違反を重ねる訳にも行かず
止めた。
「おかわり」と聞く人もなければ、言う人もなかった。
在宅であっても、お代わりと言う意思表示はしないので仕方ないのかな?

全体量としては、やはり、在宅時より少なめと感じた。

今日は、母をお買い物に連れ出してくれる日と言う。
それで、今日は母をお任せして、その間に帰路についた。





2003年01月21日(火) あっ。家族が…。


 いつも、帰宅の遅い夫、娘だが。
今日は、もう、みんな帰宅している。
食事も、済んだ。
後片付けも済んだ。
こんな日は、滅多にない。
だから、早く眠ろうと思う。

さっき、娘と夫との話で「千と千尋の神隠し」の話題となった。
我が家では、まだ誰も見ていない。
今週、日テレで放映される。
其れを観るか観ないかという事になった。
結局の所「どうせ、カットされるのだろうから、ノーカットで見たほうが良い」という事になった。

話を戻して、ゆっくり構えて夕食の支度をしている時に限って帰宅が早かったりする家族。
今日も、その口。
茶碗蒸しを仕上げる頃に帰宅した娘。仕上がってから帰宅した夫。
ま、冷えないうちに食べる事ができたから、善いかぁ。

おやすみなさい。


2003年01月20日(月) いろはカルタと早口言葉

「論より証拠」・・・「わら人形」と続いた。IさんとFさん。
じゃ、「隣の客はよく○○食う客だ」この丸の中にどういう言葉がはいるか?
私は「柿」だが、「餅」と言ったIさん。
地方等では、それぞれ違うのかな?ちょっと、興味が湧いた。

百人一首やいろはカルタは、みんな良く乗ってくる。
言葉が不明瞭で意味が通じているのかな?と思える人だっていろはカルタが
始ったら、満面の笑みとなった。
カルタは、実際取り合わないでも、読み合わせているだけなのに皆 楽しめるのだ。記憶と経験を思い起こせる手段に使えそうと思う。

最近 思うことがある。
メール仲間でオフ会というのがある。
介護の仲間のオフ会ってあるのかな?
きっと、どっかでは有るのかもしれない。
地域の情報や介護の悩み等を話すのにこのオフ会ってあればいいのになと
思うのである。
でも、匿名性の高いPCの世界でもあるし。伏せたい悩みもあるだろうし。
介護していれば、集まる機会だってなかなか取れないだろう。
第一、住んでいる所だって離れているのだろう。
やはり、地域で介護仲間を探して話す機会を作る方がいいのかな?
それに、介護を卒業した人も参加してもらえればもっと良いのかな?

介護保険のサービスの多様化も実際介護している人からの希望も聞いてみたい
気がする。仕事しながら、また 一人での介護、病を抱えてと、介護者だって
それぞれ環境が違うのだから利用したいサービスもそれぞれ違うのだと思うから。






2003年01月19日(日) 胸 キュン。


 ペンと紙を渡したら、車椅子のO氏は「帰りたい」と書いた。
胸がキュンとした。
その数分前まで皆で家族の話をしていた。
そして、O氏が七人兄弟の2番目で、お子様もいらっしゃると言っていた。
「帰りたいのはお子さの所?故郷?」と聞いてみたら「故郷」と口パクした。
O氏の心の中は見えない。
でも、「帰りたい」と言う思いはビンビンと伝わってきた。

「何をしているの?」と責任者の人が来た。
「帰りたいんだって」と伝えると。
「つくしの出た頃にね」と言い、続けて「こういう事って大切なのよね」と言った。思わず「むっ」とした。
何も本人を前にして後の言葉は 言わなくともいいのにと思ったのだ。

私も余計な事をしていたかもしれない。
いたずらに心を揺さぶってしまったかもしれない。
でも、時に溢れる思いをゆっくり聞いてあげてもいいじゃないか?
面会者の訪問が殆どない泣き虫のO氏なのだから、思いを馳せている時位
黙って受け止めてもいいじゃないか?

責任者が離れた後も故郷の話を続けた。
私も知っている場所なので話しかける事はできた。

その後の流れでフロアに住む人皆で紙風船をした。
一人輪の中に居乍らウトウトしていたI氏も騒ぐ声につられて仲間に入った。
少し汗ばむほどの時間だった。

それぞれが、いろいろの事情で施設入所しているのだろう。
でも、面会って大事だ。
そっと心に寄り添って上げられる人が時折傍にいて欲しい。
私は、職員でないけれど。いや、職員じゃないからこそそう言いたい。

ここに書けない思いを心の奥底に深く閉じ込めながら、そう言いたい。




2003年01月18日(土) 罪ないたずら。


昨日、思わず笑ってしまった。
4人でいろはカルタをした後 Fさんが「どっこいしょ」とソファーに腰を下ろした。
その時、I氏が「どっこいしょと言うな。年寄りみたいじゃないか」と言ったのだった。私は、「ぷっ」と噴出してしまった。(失礼)
ぽかんとするI氏に「この人達は、この3月で米寿なの」と説明した。
I氏は、その米寿のFさんと母をしみじみと眺めて「米寿ね」と。
Fさんと母との二人がニコニコして「米寿です」とオウム返し。
みんな、自分の年齢を大さば読みだ。意識してのさば読みではないので、責められないが。
みんな、気持ちだけは若い。

乾燥しきった此の頃。
北側にある紅梅が、赤く蕾を持っている。でも、何だか乾燥しているように見える。そして、寒さのためか咲きそうで咲かない。
南にある沈丁花だって、赤い蕾なのにまだ咲かない。
今咲いているのは、庭木では椿だけ。
プランターのクリスマスローズだって蕾を持っているのになかなか開かない。
いつもなら、水仙の花が咲き出すのに今年は未だ。

こんな風に庭を眺めまわっていたら、モコモコと土が盛り上がっている所が数箇所あった。

昨秋、ひき蛙が冬眠の場所を求めてウロウロしているのだろうと思っていた。
でも、冬眠するひき蛙と起き出したモグラと混在しているようなのだった。
ひき蛙が休んだ後、モグラが庭に現れているのだ。
モグラは夜行性なので対面したことはない。

でも、草花に水を与えながら私にいたずら心が生まれた。
盛り上がった土にじょうろで水をかけた。
でも、特に変わらなかったので「いないのだな」と思った。
暫くして、見ると何か古い葉があるように見えた。
また そこに水をかけた。
何も変わらなかったので家の中に入った。

夕方、雨戸を閉めようとその場所を見たら、穴が開いていた。
居たんだ。でも、水にびっくりして、日も高いので更に潜ったのだろう。
薄暗くなったので場所を変えたのだろうな。

夕食時 夫に話すと「今晩、モグラの親分が『よくもからかったな』と家の土台を揺らすかも…。と笑った。
そうかもしれない。「モグラの逆襲」
そしたら、謝ろう。「罪ないたずらをしてごめんなさい」と。


2003年01月17日(金) 母が変わった!

 朝方の冷え込みはかなり厳しかった。でも、日が上がるにつれて気温が上昇した。
今日は、母を美容院に連れて出た。
いろいろ重なり延びに延びてしまった。
相変わらず、足の痛みを訴えは続く。
「もう休みたい」「もう歩けない」の連続だった。
幸い、美容院は空いていて、直ぐに取り掛かってもらえた。
シャンプー、カットなので、時間もかからずに済んだ。
その足で、街に出た。
「うわー。高いビルだね。何階あるの?」といつものはしゃぎぶりにほっとした。
風邪も流行っているというので出来る限り混雑する場所を避けた。
で、おばさんの多いお店に入った。
ケーキセットとホットドック。
ホットドックと言ってもバターロールが2個。
母は、あっという間にケーキを食べ終えた。私のホットドックの一つも母に譲った。
「あらら」と言う間にそれもお腹に収まった。砂糖たっぷりのミルクティーも飲み干しお水までもしっかり。
日のあるうちに施設に戻った。

そうそう、施設に戻った時「あー家に着いた」と言った。
確かに言った。聴き間違えてはいない。

居室でコートを脱いでいる時Fさんがやってきた。「どうぞどうぞ」というと
ニコニコしながら入室してきた。母も「よく いらっしゃいました」と迎えたのだ。
一緒にいろはカルタを読んだ。
頭を読むと次の言葉は自然に口から出てくるようだった。
私の声が大きかったのかI氏が入り口に様子を見にきた。
「どうぞどうぞ」と声を掛けるとやはり入室してきた。
母はやっぱり「よく いらっしゃいました」と応対した。
また、いろはカルタを続けた。
みな、良く覚えている。「そうそう」と言いながら楽しそう。
笑い声も響く。
ちょっと飽きたFさんがベランダに向かって手を合わせた。
「?」と思ったらお月様に手を合わせていたのだった。
「明日にでも満月かな?」と言うと皆ベランダを向き並んでお月様を見た。
「有明の月」を読むと皆空で詠んだ。「明けぬれば」も。
やっぱりねぇ。

入所したばかりの頃、こんな日が本当に来るのだろうかと思っていた。
入居者が、自然な形で来訪して母が穏やかに迎え入れる。
「あぁ。夢見たい」
用が済めば、それぞれ「面白かった」と帰っていった。

母が変わったのだな。やはり、馴染んだという事だろう。
後ろめたさが少し消えたような気がする。

職員の方にも感謝。 


2003年01月16日(木) 「旬」

 私は「旬」という言葉に弱いのだろうか?
今日、スーパーで「蛍烏賊が旬です」と繰り返しアナウンスされていた。
「母が 煮付けていたなぁ」
「烏賊の赤ちゃんみたい」とか言いながら食べたなぁ。
とその時代の事を思い浮かべた。
でも、私はあまり食べない。
で、「旬」を振り切りその場を離れた。
でも、献立を考えている内に「蛍烏賊」の前に戻り籠に入れてしまった。

夕方の献立は、「おほうとう」と決まっていた。
ちょっと寂しいので「何か」を足したかったのだ。
そんな訳で、「おほうとう」に「蛍烏賊」の組み合わせとなってしまった。
蛍烏賊は煮付けではなく「イタリアン風」にした。
スライス玉葱、線切りのニンジン、生バジル、と蛍烏賊をバージンオリーブオイルで和えた物。「おいしくはあったけど。ミスマッチな組み合わせ」

同じ「旬」でも納得できない「旬」もある。
この所、「イチゴが旬です」「昔は違ったけど、最近は今が旬です」と言う。
其れを今年になって、2.3度耳にした。
判るけど。確かに今のが一番おいしいと思うけど。
これって「旬」と言いきってしまっていいものなの?

私の中では納得できないでいる。
というか、納得しないで居よう。

旬といえば、ほうれん草。
霜に当たったほうれん草はどうしてあんなに甘くなるのだろう。
そして、柔らかい。
今日は、今年初めての市に行き「ほうれん草」を買った。
明日はお浸しにしよう。

市では、毎年 年の初めの市であったかい物を振舞ってくれる。
時に、けんちん汁だったりするのだが、この所、甘酒が続いている。
麹から作る昔からの作り方の甘酒。
甘みもきつくない。
今年も甘酒だった。
作ってくださった方にに感謝しながら頂戴した。
身も心も温まった。
そう云えば、甘酒も旬といえば旬かな?











2003年01月15日(水) 玉手箱を開ける時


 デュ−クエリントン、ナットキンコール、サミーデービスジュニア等々。
ラジオから懐かしいジャズが流れてくる此の頃。

そういえば、昨年 悔しい思いをした。
近くのディスクユニオンでジャズのCDを探していた。その時、サミーのCDがあった。「ワッ」と思ったが、他も見てからとその場を離れた。
ふと見ると、棚の隅から順にきっちりとチェックしている人が居た。
私は慌てて、サミーのCDの有った所に戻った。
でも、もうそこにサミーのCDは無かった。
あの時、欲を出さずにしっかり手に持っていればなぁと悔しいのである。
「2兎を追うもの1兎も得ず」だね。

先日、TBSラジオで一回限りという事で浅丘ルリ子と小堺一機がジャズ音楽の番組があった。
それは、おしゃべりも含めて楽しかった。多少の年齢のズレはあっても時代を共有したような嬉しさを感じた。
若いころ、ちょっと背伸びしながら聴いていた自分が見えたような気がした。

母も音楽が好きだったのは知っている。
私とハモった事もよくあった。
クラッシックのコンサートに連れられて行ったりもした。
でも、実際の所、音楽についてまともに話した事は無いのではないだろうか。
だから、デイで古賀メロディーを歌ったと知った時は「そんな筈は無い」と思った。
私に「流行り歌は安っぽいとか」散々言っていた母だったから。
それが、そらで、うっとりと歌う母の姿を前にした時は本当に驚いてしまった。
親と子であっても、長い付き合いであってもやはり知らない事はたくさんあるのだなと知ったのだった。

私も、いずれ、娘に知らない部分を曝け出す事になるのかな?
別に隠している事も無いけど、話してない事って結構有るのかもしれない。
玉手箱を開けるみたいだな。


2003年01月14日(火) 心もとない二人連れ


母は皆とテーブルを囲み何か折っていた。
私が来たのがわかっても、居室まで来る事はなかった。
その間に衣類の整理をした。おやつをチェックしゴミ箱もチェック。
おやつを補充。
衣類も行く度にゴチャゴチャ。
私が整理していると「汚くてね」と母はすまなそうに言うので離れていてくれた方が仕事はしやすい。
あまりにも多く整理しきれないので少し棚の上のほうに上げて使いやすいようにして また 様子を見てみる事にした。
一通り整理できたので、散歩に出た。

明日から冷え込むというので、温かな今日のうちに歩いた方が良いと思った。

外出の時、職員の方は引継ぎ中だったので声を掛けないで出た。
チラッとも見てなかったので仕方がないと思った。
でも母は「断っていかないと」と言った。「うん大丈夫」と其の儘出た。

近くの薬局まで歩いた。足は痛いようだったがそれほど酷くも無い様で助かった。やはり、痛みは お天気に左右されるようだ。

「広い店だね。こんな処は故郷にはないよ。やっぱり都会だね。」と母は言った。もう、何度となく来ていても母はいつも新鮮なんだな。

ちょっとした買い物をして直ぐ施設へと戻った。
戻ってみると「○○さん」と母を捜していた。黙って外出したので心配を掛けてしまったようだ。「ごめんなさい」と謝った。
やはり、母の感覚の方が正しいようだ。

今日も思い出せない言葉が有った。
白んでいる月の事。
散歩の折 母に尋ねたが母はトンチンカンな答えだった。
「別れるのが辛いという歌でしょ」 「??」「星影のワルツ」と勘違いかな?とも思ったが「白んだ月の話」をしたのだけどな。
未だに思い出せない。「あーくやしい」
母の勘違いと思ったが、星影…でない そういう歌があるのかな?判らなくなり始めた心もとない二人だった。




2003年01月13日(月) 同じ人の事を話しているのに。


 今日、同じ街に住む友人から電話があった。
介護の事、娘の事等他愛も無い話しをしていたのだ。
途中で、「最近どこかにでかけたか?」と聞かれ「何処にも行かない」と応えてから「行きたいところがある」と応じた。笑い転げる事間違いない処だ。
(だめじゃん小出という芸人のライブ)
すると、友人は「最近テレビでみて面白い人がいるのよね」という。
夫婦の事を題材にする人なんだけどと言った。
「ピン」ときた。
でも、名前が出てこない。
友人は、テレビで見た芸人さんのスタイルを説明するが私はテレビとはあまり縁がなく観ていないので分らない。
「わかるよ」といったものの…。
最近、こういう事増えているのだ。
お互い同じ人の事を言っているという感触を得ながら最後まで名前が出てこなかった。

私は、悔しいのでずっと考え続けた。
そして、一時間後台所に立ち思い出した。「綾小路 君麻呂」そう、以前
日記でも触れた事がある。
やっと思い出せてほっとした。
明日、友人に電話しようと思っている。
よく「代名詞の会話」と表現されるが今日のは将にそれだった。
気をつけなければ。で、どう気をつけるのかな?
せめて、忘れたら思い出すまで必死で思い出すのか?
それとも、忘れた事など気にせず流していく事が良いのか?
どっちが、老化防止策なのだろう? みのもんたにでも聞いてみようか(笑)


2003年01月12日(日) 相当の不穏?暴言?だったらしい。

 今日、GHに着くと、母の傍に行く前に責任者に呼び止められた。
悪い事はしてないけれど、日記の事が頭をかすめて「ひやっ」とした。
日記だって、場所はわからぬように配慮しているので大丈夫だろうけど。

呼び止められたのは、一昨日の晩 母は相当不穏になったらしくお手上げ状態となったので 心当たりはありませんかという事だった。

あの日は、皆とボーリングをした日。
いつもより、母との接触は少なかった。
其れが気になっていたので、母から目を離さずにいた。
でも、母は穏やかに他の人の様子を見ており不満げな様子は無かった。
だから、安心して皆と楽しんだ。
でも、母の心の奥まではわからないからと伝えた。

そして、居室に行き外出の準備をした。
お菓子を入れる引き出しもチェックした。
その時「はっ」とひらめた。
「チョコレート!」ライスチョコだったのであまり気にも留めなかったが一昨日、小さなライスチョコを入れておいた。
チョコを食べると、結構 興奮する時があったのだった。
必ずと言う訳ではないがそういう事が多くなるのだった。
山ほど入れた訳ではないし…。
でも、そのことを告げた。
おやつを差し入れている事は 話してなかったので ちょっと驚いた様子だった。でも、「だめ」とは言わなかった。
最初の話では、「管理できるのなら置いてよい」と言われていたもの。
ちゃんと、管理しているもの。腐らなければ良いといっていたもの。

という訳で、暫くはチョコ禁止を自主的に実行する事に決めた。

それから、母を自宅に連れて戻り、一日遅れの鏡開きをした。
「おいしい」と目を細めた。
暮れに漬けた沢庵を出して薄く切りそれも2枚ほど出した。
これも「おいしい」と言っていた。
その後入浴。洗髪からはじめて、身体まで洗った。「あらら」少し臭った。
ちょっと出掛かっていた。急ぎティッシュで拭き取った。後は大丈夫。
トイレでちゃんとチェックしてもこういう事はある。
幸い、母は、気が付かなかったので「ラッキー」

風呂上りに ノンカフェのお茶をたっぷり飲んでもらい、アップルパイを食べた。
どうも、体重減が気になり食べさせてしまう。
お腹がいっぱいなら食べないのは先日判ったので、大丈夫と思った。
母は、其れもしっかり食べた。それから、塗り絵をした。
最近は、きいちの塗り絵が続いていたので、今日は西洋風の物にした。
それも、集中して塗っていた。
ただ、色が一色だけなので他の色をすすめた。「そうだね」と言って受け容れてくれた。
一枚仕上げて、終了。
今度は、枕草子の抜粋を出してあげた。
母は、また夢中になり声を出して読んでいた。3度ほど読んだ所で昔の話を始めた。
「これはね、女学校の2年の時に習ったの」
「先生はとても熱心に教えてくれてね」
「清少納言だね」
等といろいろ、解説をしてくれた。娘も話に乗りいろいろ話し込んだ。
こういう会話は久しぶりだった。
やはり、いつもと違う物を媒介にすると、違った話も出来るのだなと思った。
いっぱいおしゃべりをしたので、水分補給。
その後、血圧測定。今日もやや高めだが、先日のような数値で無いのでほっと
した。

ひょっとしたら、あの日百人一首をして一人勝ちしたので興奮したのかな?と
思ったりもした。
でも、やっぱり 判らないなぁ。

そんなこんなで 日没の頃施設に戻った。
施設では、職員が迎えてくださり、母に話しかけてくれた。
枕草子を出してあげると、職員の方と一緒に枕草子の話を始めていた。

職員の方にそっと挨拶をして帰宅した。




2003年01月11日(土) やっぱり減っていた。何だか哀しい。

 母が痩せてきていると感じていた。
昨夏あたりにパンツが緩くなっていた。
全体にほっそりして来ていると感じていた。
其れは、母だけでない。そういう人が2人くらいいた。

痩せた方が良い場合もあるので他の人の事はさて置いて。

母は、太っては居ない。痩せている方なのだ。
標準体重をかなり下回る。身長160.今は、背骨の間接がつぶれているので、157位かなあ?
それが、30キロ台目前となった。
急激に痩せている訳ではないので病気は心配していない。
でも、あまり痩せると何か在った時急激に悪化しないかと気になる。
神経質な母は、痩せると治らない病気と思い悩むので困る事はあった。
けれど、今は自分が痩せてきていると感じる事はないのでその辺は安心。

昨日、看護士さんが、私の目の前で計測した。
服を着用していた。
目盛りを見て「あっ」と思ったが黙っていた。
在宅時の昨年2月の体重と比較したら、5キロ減。

気にはなっていたのだが、健康診断を受けるからその時にお医者さんと相談だろうと思っていた。
それが、偶然計測現場に居合わせて明確となったのだ。

昨年「痩せてきてませんか?」と職員の一人に尋ねた事がある。
その時「別に」と言っていた。比較しての報告ではなかったが。
職員は便秘で腹痛を訴える母のパンツがきつい事の方に気を取られていた。
その時の母のお腹は膨らんでいた。
だから、体重減は無いと感じたのだろう。
でも、入浴させていると腕が細くなっているなと感じていた。

おそらく、「食」が関係しているのではないかと思う。
在宅時の量とGHの量では明らかに違う。
おやつだって、少ないと感じたから運ぶようになったのだ。母は、いつも食べ残すことなく空っぽになっている。

さあ、何か対策を考えなくてはいけない。

そして、もう一つの不安。
血圧の上昇。
昨日は、200に近かった。下も100を越えていた。
これは、在宅時でも無かった事。
散歩が出来ない状況では有るし、昨日は腹痛の時だったので「高めでしょう」と私が言った。そして、予想を超えた高さだった。
散歩の他に水分補給がある。
夏の間は、かなり気配りをしていた。
入浴後水分補給の場面を幾度もみた。
でも、最近見てない。
GHでの水分摂取は在宅より少ないように思えるのだが。
私は、かなり意識して水分摂取を心がけた。
飲み終えたかもきちんと確認した。
でも、今は確認もない。

看護士さんは「これでも、何の処置もしないのですよねぇ」と私に言った。

本当は「薬の処置より水分補給と運動でしょう。」と言いたかった。
ストレッチ体操等は繰り返しみんなでやってもいい事でしょう。
車椅子の人だって車椅子のまま出来るしリハにも良いでしょう。
立って危ないなら椅子に座ってもいいし、床に腰を下ろしても出来るでしょう。現に在宅では、床の上に寝転んでしていたのだもの。

これは、職員の人のためにもなるでしょう。
使いすぎた身体は、このストレッチで緩和されるでしょう。
多少の気分転換になるでしょう。
軽音楽でも流して。それも職員の人向けのスマップ等の曲でもいいでしょう。

ちょっと、今日は怒りモードになってしまった。
まずは、健康診断を受けて医師と相談した上で対策を考えなくてはいけないのだが…。
その間に気持ちを落ちつかせる事も必要みたい。
カッとしている時はあまり良い考えも浮かばないしなぁ。
人を責めても、GHに入所させたのは私であって、責任の一端は私にもあるのだものなぁ。

やはり、施設では細かな健康管理は無理なのだろうか?
こんなに少人数のGHでも、無理なのだろうか?
望んではいけないのだろうか?
だとしたら、身寄りの無い 母同様の症状の人が 血圧が上がったら薬の処置だけで他の面でのケアは望めないのだろうな?

生きて行くってなんだか哀しいな。飛躍し過ぎだね。







2003年01月10日(金) 何故なのか?記憶の不思議。


 今日、ヒヤシンスの鉢植えを持っていった。
母は、花の名前をどうしても思い出せなかった。「ヒヤシンス」と言うと
直ぐに「あ、そうそう」と言うのだが、直ぐに忘れてまた教えるの繰り返しだった。

ところが、「今日は1月10日だけど、何の日?」と聞くと「市の立つ日」と言う。
故郷では1月10日は、市が立ち 沢山のお店が並ぶのだ。
時代と共に並ぶ物はだんだん変化して来た。
今では、バーゲンセールのようになってしまったが…。
昔は、杵や臼。団子飾り等お正月の必需品が並ぶのだった。
おそらく、今日もこの市はあると思う。
それを、母は覚えているのだ。

看護士さんによると、今日午前中「百人一首大会」をしたらしい。
「お母さんの一人勝ち。上の句も下の句もちゃんと覚えているんですよね」と言っていた。
GHでは、一人勝ちした様子だが、デイでは、同等の人がもっといて一人勝ちという事は無かったが「嫌いではない」という事は私も知っていた。
でも、母は 私が子供の頃から一度も「百人一首」等してみた事はない。
私が中学生の頃古典が始り、その時関わったぐらいだ。
その時だって「百人一首」を広げたりしなかった。
私が、娘に「百人一首」を買ってあげた時初めて孫と一緒にやったぐらいなのだ。
痴呆が始り、デイ利用が始ってその頃から大分出来るのだなと解ったほどだ。

こんな風に、母が覚えている事は様々だ。
興味の深さが違うのだろうか?
花などの名はかなり覚えていたように思うのだが、このところさっぱりなのだ。

そうそう、今日は「声に出して読みたい日本語」の一部をコピーして持って行った。萩原朔太郎の「光る地面に竹が生え」と孔子の「子曰く…」のコピー。
私は其れをテーブルの上にただ置いただけ。
でも、母は興味を示し手に取り声を出して読み始めた。
文の意味も考えながら読んでいるのが解った。
「孔子という人は偉いね」と言っていた。

こういう読解力もまだあるのだ。
其れなのに、私のことは娘と解らないし、着るものの順番だって解らないのだ。

今日は、コールテンのシャツの上に薄手のシャツを着用その上に厚手のカーディガンという妙な格好だった。
「ちょっとね、違うんじゃないの?」と声を掛け鏡を見てもらったが気が付かず「ほら、シャツの上にシャツでしょ」と言うと初めて「あそうか」と言って
着なおそうとする。けれど、其れすら忘れて、また同じ物を着用しようとしてしまうのだ。(こんな時は、脱いだ物から順に母の眼に触れないように片付けるに限るのだ)
着る物の記憶は、薄れつつあるのだろうか?
少なくとも、在宅の頃は着替えを置けば次にはあまり間違えなかった。
GHでは、一人で着替えるからどうしてもこうなってしまうのだろうなぁ。
この辺のところが、私には見えなくてどうにも成らない所だ。
あれこれ望んでも、集団生活なのだから無理なのだろうなぁ。

いつも、繰り返すが痴呆とは本当に不思議な病だ。
私の役目は、今ある記憶を出来る限り失わないように考えてあげる事かな?

実は「声に出して…」のコピーを書き写しさせてみたいと思って鉛筆と自由帳を持って行きそれもテーブルに置いたのだがこれには興味を示さなかった。
これから、何回かチャレンジしてみようとは思っているのだ。







2003年01月09日(木) 冷や汗ものの話


娘が 仕事帰りの深夜の車内で 子供が大泣きしていて(乗ってる間の20分近く)うるさかった。親は一体…。と零した。
私はその場に居合わせた訳でないのでコメントしなかった。
でも、「体調が悪かったのかも」等と庇う気持ちになった。

私が子育てしている時 乗り物内でのマナーを厳しく躾たので、其の事を踏まえた娘は「うんざり」だったのだろう。

その事から子供の頃の厳しい母を思い出したのだろう。
ついでに言われた一言。
「私は訳も判らずよく打たれた」と。
確かに打った。けれど、その後きちんと向き合い目と目を合わせて手を握り、
事後説明をしてフォローアップしたつもりだった。
打たれた恐怖心の方が強く残っていて「怖い」を引きずっていたという事なのだろうな。

親としても「打つ」と言う行為は避けるべきだという意識は深く持っていた。
(正当化しすぎかな?)
でも、訳も分からずに興奮していた時の「ぱしっ」と言うきっかけは効いた。
(冷や汗)
「物を使わない」「頭は避ける」「お尻のみ」と思っていたのだがそうでない時もあったかな?
そして、話はしっかり聞きましたよ。
就寝時には、(赤ちゃんの頃から一人で本を楽しめるように成るまで)毎晩 読み聞かせを続けてスキンシップを計ってきましたよ。
怖いだけの親ではなかったつもりですがねえ。
と、ひたすら親としての苦しい言い訳を自分にしている私。

母は、どうだったか?
痴呆の始る前、子供の頃の母は、「厳しかった」「理不尽だった」と母に話した事があった。
すると、「そうだったかね」「あんたは、頼りがいのある子だった」「それは
悪かったね」と私に謝った。
あの時の母は、どんな気持ちだったのだろう?今の私みたいだったのかな?

母は、ちゃんと謝った。(昔から悪いと気が付いた時は、謝る母ではあったが)
私は、まだ娘に「悪かったね」とは言えない。
親なんだけど、まだ謝れない自分がここにいる。





2003年01月08日(水) 差別は無いですよね。信じてますよ。


書くべきかどうか悩んだ果てに…。
クリスマスの晩にちょっと驚くべき光景があった。
今は冬なので掛け布団は羽根布団2枚とタオルケットだ。
けれど、ある人(二人部屋)の所は羽布団1枚だったのだ。
其の方の家族は、面会は全く無い訳ではない。でも、来ても あまり注意深く見てはいないと感じていた。

いや、別に風邪をひいたとかは無いと思うが、どうなのだろうか?と思ったのだ。

個々の差って、何だろう?

羽布団とは言っても、薄い物なのだ。母には、それだけでも寒いのではないかと案じているくらい。
面会した時には、下着を1枚足してくるのである。長下ズボンも着用させる。
 暖房が、弱いのだ。
よく解らないが、施設の暖房はどうなっているのだろう?
職員は動くから少し温かくなる。
でも、動かない人はどうだろう?
夜間はどうだろう?
必要以上に熱くする事は無いが 適温に保持できないのだろうか?

在宅に時、入浴後直ぐ就寝。それも、部屋は暖房を入れ直前にきった。
早朝に目覚めるので、其れを見越してタイマーでオンにしていた。

そういう事を施設に望んではいけないのだろうか?

もう一つ。
それは、健康診断の際の検便体制だ。
母は、これから健康診断を受ける。
先日の通院の時、検便の容器を貰ってきた。
昨日、「そちらでして戴けるのでしょうか?」と尋ねた。
返事は明快でなかった。
「そういう人も今までいましたが、肛門に入れて残った便から採取した事もありますが、お母様の場合不穏になる事も考えられまして…。」という事だった。
母は、GH外で診療を受けている。
施設の下には開業医もいる。そこで、診療していたとしたら…。
省略されるのか?それとも、きちんとやって貰えるのか?
ちょっと、確かめる勇気も無かった。

施設での健康診断ってどうなのだろう?

私も、聞き方が悪かったかな? 
逃げやすい聞き方だったかな?
「検便なのでお願いします」といえば「出来る」「出来かねる」とはっきり
応えてもらえたのかな?

見えない所での「?」はこんな風に出現している。

検便に関しては、母を此方に泊めた時にでも試みる事にしようかな。
それにしても、他の人だってそういう事はあるのだろうになぁ。
私が、黙っていると他の方も同様に困るのだなぁ。この辺でやはりオンブズマンに相談の時期なのかな?

別に施設の職員の方と気まずくなっている訳ではないが…。





2003年01月07日(火) 車椅子の人も・・・。


冬の衣類は、ウールが多い。
ショートステイの時のパンフに「ウールは避けてください」と言うのがあったので、GHでも気をつけてはいるのだが、やはり、寒いと思うし今まで着用していた物が多いのでウールの物がある。
ところが、これを洗濯機で洗う物だからクチャクチャとなる。
流石に、其れを其の儘と言う訳にも行かないので一昨日持ち帰った。
其れを、午前中 アイロンがけ。
セーターなら、洗うことにも気配りが有るだろうけど パンツやブラウスの
ウールは気が付かない無いみたいだ。
ちょっぴり縮んだ物を引っ張りながらアイロンをかける。
何とか元に戻った。
在宅の頃は、クリーニングに出したが・・・。
いちいち持って帰るのもかさ張るし。
何か良い方法がないかな?
GHの傍にクリーニング屋さんは無いんだなあ。
暫くは、持ち帰るしかないなあ。

早昼にして、母のところに行くと泣いていた。
「泣いた?」と聞くと「泣かない!」と目頭を拭いていた。
帰りたい病みたいだった。
外に連れ出して気分転換をしようと思ったが母に出る気が全く無い。
仕方が無いので、ボーリングセットを出してホールに出た。
ホールではI氏はソファーでウトウト。Fさんを誘った。
Fさんは、腰を下ろしてボールを投げた。コロコロと転がってピンは倒れた。
Fさん「にこっ」何回もFさんはボールを転がした。
「皆倒れるまでね」と熱心だった。
このボーリングは手動である。ボールを拾いFさんに返しピンをならべる。
これの繰り返しの私。
母は、傍で「がんばれ」「うまい」と声援をかけていた。
 暫くして母に代わってもらった。
母は、負けず嫌いなので剥きになり挑戦。
車椅子のF氏も「知ってるよそれ」と言葉明瞭。もう一人の車椅子のO氏も指差した。
二人も興味を示したので仲間に入ってもらった。
F氏は、左手で転がすように投げた。どうしても片方によるので私がちょっとカバーしたらF氏の機嫌が悪くなった。手加減が嫌のようだった。
何回か投げるうちにタイミングが合いピンに当たるようになった。すると、F氏は機嫌も直った。良かった。やはり、いい加減はいけなかった。
O氏も片方に寄るので、ピン全体を移動。
バウンドさせたボールは見事ピンに当たった。拍手ものである。
O氏も満足げだった。
それから、順番に続けたが、入所者の意欲とは逆に私が疲れ始めた。
「ちょっと休憩」と母の居室に入り一休み。
時計を見ると3時。持参したおやつをははに食べてもらっているとホームのおやつも届いた。それらを食べ終えた母は、落ち着きを取り戻していた。
「散歩いく?」「いきたいな」
コートを着込んで外出。
ちょっと、一回りして戻った。
不穏な空気はすっかり消えて歌集を広げ歌い始めていた。落ち着きを確認してから、そっと部屋を出た。
暗くなる前に家に向かった。

今日はやけに眠いとおもったら、ちょい早起きして「七草かゆ」を炊いたのだった。 


2003年01月06日(月) 5年ほど前の母

 
 ちょっとした用があり、5年前の手書き日記をひっぱり出し読んで見た。
その頃は、痴呆の中度のはじめ位の時期だろう。
母は、毎日 自分の記憶を手繰り寄せようとしていた。

「あなたは、わたしの娘?」から始まり 今日 何処に行ったか迄。
思い出せない事もありで困惑したり、全く記憶に無い事もあった。
そして、「何も解らないのです。哀しいです。」と泣いた。
「大丈夫、傍にいるから」と言うと「有難う」と言った。
そして 直ぐ「私は、随分長い間あなたの所にいます。ごめんなさい。お世話になるばかりで何もお返しできません」と言って更に泣いた。
「毎日、いろいろ手伝って貰って此方が助かってます。」と言うと
「いえ、何のお役にも立たず、迷惑をかけるだけです」
「でも、私には帰る家がもうありません。何とか仕事したいのです。
何処かで私を雇ってくれる所は無いでしょうか?」と聞いてきた。

あの頃は、ある程度理解できたので「何故ここにいるか」「生活資金の事」等きちんと説明すれば少し思い出せていた。
だから、「じゃ、あなたに全てお任せします」と言って安心できた。

今は、現在の生活すらわからないだろう。
自分の生活の拠点がGHであるという認識は感覚で出来ても言葉では表せない。
おそらく、「学校の宿泊施設」くらいの認識だろうと思う。
だから、我が家に連れて来ても、自分が何処からここに来たかは判らないと思う。ただ、「誰かの家」とわかり「家はいいねえ」と言う。
そして、生活資金がどうなっているかさえも気にする事はなくなってきていると思う。

痴呆は、緩やかではあるが確実に進行しているのだ。

それでも「忘れてしまう自分」は意識する。
「私は、すっかり馬鹿になってしまって覚えてないのです」と言うのだ。
哀しみは以前ほど あるようには見えないのが救いと言えば救いなのだ。
じゃ、傷つく事は無いのか?其れは、ある。
やはり、下着等汚れたり、自尊心を傷付けられるとかなり落ち込む。
恐らく、これは生涯なくなる事は無いと感じている。
息子の存在も言えば思い出す程度で触れなければ自分から口にする事も無い。
それも、救いである。

痴呆を侮ってはいけない。
記憶は消えても、感情だけは残っているのだから。
やはり、人としての尊厳だけは保ってあげたい。



2003年01月05日(日) どうして邪魔に感じるか?

 お正月もここまで来ると、おせちは邪魔者扱いとなる。
食べ飽きるのだろうけど・・・。あの、元旦の喜びは何だったのかな?
そして、食べるのは 誰の役かといえば作った人の役目。
こうして、お正月もまた太って行く。ブクブク。

今日は、久々に母のところまで自転車を漕ぐ。
冷たい風がコートの襟元から入ってくる。
やはり、冬は厳しい。

Fさんは やはり妹のHさんがいない事をぼんやりと気がついて「みない」と
しきりに言っていた。
一緒にいれば、それはそれで厄介そうなのだが・・・。
「明日には帰ってきますよ」と職員の人は答えていたけどどうなのだろう?
ちょっと、気になる。

母は、皆とホールでぼんやりとしていた。
肩を叩くと「誰かな?」と振り向く。「おまえか?」と言ったら、Iさんから
「お前は無いでしょう」と注意されていた。
「いいんですよ。娘だから」とちょっと母の肩を持ってしまった。
母は、私のことを「お前」と呼ぶ事は殆ど無く「名前にさん付け」で呼んだ。
私が、大人ぶって弟の事を「お前」と呼ぶとすかさず「そういう言葉使いはしないように」ときつく言われたものだ。
だから、今 母が「お前」と呼んでも子供の頃の感覚なるなのだろうとしか感じなくて別に腹も立たないのだ。

お正月の間の訪問で居室のお掃除をしてなかったが、今日はどうにも汚れが目立ち、掃除機をかけ、拭き掃除をした。トイレも洗面台も磨いた。
道具が無いのだから、あまり汚れない内に綺麗にしないと後が大変。

作業をしていると「あんた、朝ごはんたべた?」と聞いてきた。
「お腹空いたの?」と聞き返すとと「そうだね」と言う。
丁度蒸しパンを持参していたので其れを食べてもらった。

色鉛筆も暮れ以来母のところに戻っていないので塗り絵が出来ない。
一体、何処に消えたのだろう?「職員は探して見ます」と言っていたけどな。
近くにあればと散歩に出て探したが置いてある店はなく、母は、また「足が痛い」と言うので早々に戻った。

家族の休みも今日でおしまい。
明日からはまた忙しい日々が始る。
だから、日の暮れる前に帰路についた。

そう、おせちの後片付けを今日のうちに。家族がゆっくり家で食べるのも今日までだもの。1人の口より3人で分けたほうが楽なのだから。
母がいれば、「おいしいよ」と食べてくれるのだけど仕方ないねぇ。 






2003年01月04日(土) 懐かしい風景


昨晩、娘はスノボに出かけた。
会社の仲間と落ち合っている場所まで電車で移動。
ところが、昨晩は電車が立ち往生。乗り換え乗り換えしても、目的地までは
果てしなく遠かったらしい。車で迎えに来てもらったらしい。
昨晩、「電車がおかしい」と電話が入っていたのである程度は知っていたが
今朝の新聞を見てほんとに大変だったのだとわかった。
さっき帰ってきて、「疲れたー」と言っていた。
遊んできたから、グダグダもいえないだろう。

昨日、GHでおせちやお雑煮の話を聞きながら、子供の頃のお正月の遊びを聞いてみた。こま回し等が得意だったとI氏は言っていた。それも、木のこまだそうだ。
その話を聞きながら、北の国でのお正月の遊びは、羽根突きや凧揚げ等条件的に出来なかった事を思い出した。
室内のカルタや双六、トランプ等は共通の遊びだろうけれど。

そんな事を考えていたら、冬の生活の風景が断片的に頭に浮かんだ。
今では見かけることも無いが、箱橇でお買い物をする人も居た。山から降りてくる人は馬が引く橇に乗っていた。車も今ほどは多くないがそれでも走っていた。全てが一つの道を走っていた。信号だってない。勿論 バスだって走っていた。危ないと言われてもバスのバンパーに摑まって竹スキーを滑るやんちゃな男の子がいたりもした。
でも、クラクションを鳴らす人も居なかった。
今より事故が少なかったのだなぁ。
きっと、譲り合いの生活が成り立っていたのだろう。
故郷の今は、そんな生活なんて想像もつかない。

その時代に戻りたい訳ではないが、近代化と共に消えたのは橇等だけでなく
思いやる心、待つ心も共に消えてしまった事はちょっと淋しい気がした。
そんなに、遠い昔では無いと思うが、高度成長期に入る少し前の事だろう。
いや、やっぱり遠い昔の事だった。!!



 


2003年01月03日(金) 思い出のおせち、お雑煮。


 深深と冷え込んだ今朝。
外を見ると雪がひらひら舞っていた。
嬉しいような、面倒のような・・・。
しかし、今年は良く降ります。
今日は、そんなに積もらないので助かったけど。

GHに行くと、フロアに他の階の人も集い歌っていた。
母もその輪の中に入っていた。
ちょっと、仲間に加えてもらった。
直ぐにおやつとなり私もお茶を戴いた。
おやつ後、みんなと話をした。
お正月と言えば、話題はおせちやお雑煮だ。
Iさんは、ニンジン、鳥かウサギの肉、それに椎茸、そして雪を掘って採った
せりを入れたそうだ。野菜を先に入れて煮てそこに、焼いた餅を入れたそうだ。
おせちでは、黒豆、昆布巻き等だったそうだ。
昆布巻きは、そのころ、ご馳走だったと言っていた。
I氏は、ごぼう、ニンジン、鳥肉、せりだそうだ。
そして、おせちに、お父さんが釣った鯉をうま煮にしたそうだ。
やはり、幼い頃の話をする時のみんなの顔は、ニコニコしていて話そうとする意欲が伝わってくる。


母は、特別何も話さなかった。ちょっと、つまらなそうにもみえた。
母は、外出したいのだと感じた。でも、外は寒い。
在宅なら多少の無理をしても外に連れ出すのだが、入所してからは寒いと外出も遠慮がちになってしまう。
居室に入ると、母は外を眺め「行きかう人がいないなあ」と言った。
「外は、とっても寒いよ」と言ったら「そうなの?」と聞いていた。
「お腹空いたなぁ」と言ったので少しおやつをあげた。
あっという間に食べてしまったので3個ほど増やしてあげた。
やはり、お腹が空くのだなぁと感じた。
もう直ぐ夕食になるので、たくさんは食べさせられない。
母の目を他の所に向けさせながら、引き出しに「ねりきり」と「おせんべい」と「チョコ」を入れた。夜でも朝でもお腹が空いたら食べればいいのだ。
やはり、「お腹が空いた」と訴えても聞いてくれる人もいないし、対処してくれる人もいない事の多い施設暮らしなのだ。
仕方の無い事だけど・・・。
みんなそうなのだけど・・・。
おやつは預かって随時渡しますよと言ってはいたけど、この流れでは訴える手段は無いだろう。こちらで、コントロールするのが良いのだなあ。





2003年01月02日(木) 上り坂がきつい。


 施設には「元日の夕方5時ごろ夕食を済ませて戻ります」と伝えてあった。
けれど 元日の家庭はゆったりとしていて5時に夕食を済ませるには無理があった。
母一人、先に夕食と言うのも気が引けた。
そんな訳で、施設に「8時過ぎに戻ります」と電話した。
もう一泊させたい所だが、宿泊する人が居てそうも行かなかった。

母には後日 また 泊まりに来てもらう予定だった。

午後の母は、塗り絵も縫い物も直ぐに飽きてしまい溜息ばかりだった。
外に連れて出ようと思ったが、着物を着るために立っていたら「足が痛い」と言う訴えが強く出ていたので無理はさせられなかった。
そこで、元日の新聞を見せた。
これに、母は はまった。
それは、朝日新聞のあの顔この顔 テレビ50年と言うそっくり人形がたくさん写っているものである。「面白い」と見ていた。
「知ってる顔がある」と言っていたがどれだったのか確かめられなかった。
後で私も見てみたが よくわからないのもあったので、母はどれを指して言ったのかが気になった。
夕食は、客人と共にした。
あれやこれや、楽しそうに食べていた。
ダイニングではなく、居間の畳に座って食べた。
なんだか、半年以上も母の居ない生活があったなんて思えないほどに溶け込んでいた。

8時少し前 娘の運転で母を送って行った。
母のフロアの人は皆、眠りにつきとても静かだった。
お神酒等を飲み、適度に酔って眠られたらしい。

布団を敷き、パジャマに着替えさせて見たが 私と一緒に寝るのではないのか一人は怖いと不安がった。昨日は、一人で寝る時何でもなかったのになぁ。
「私は、上で寝るのよ」咄嗟に言い訳した。(実にいやらしいな)
職員の方も「そうそう、上に泊まるのよ」と口裏あわせしてくれた。
職員の方が母の枕元で話している隙にそっと部屋を出た。
職員の方に「お願いします」と目線で挨拶をした。

そうして、母の宿泊は終了した。
特に大きく困る事もなく過ぎていった。
やはり、母がいると母に付きっ切りとなってしまう。
今の自分がどんなに楽であるかを改めて感じた。

そして今日、夫が外出して帰路を徒歩で帰宅。
少しお酒が入ったせいもあるだろうが「上り坂はきついな」と言った。
その坂を86歳まで毎日歩かせていたのだ。
夫もあらためてその事の偉大さに気が付いたようだった。
私も母を連れて歩かせたのだから、この年で弱音は吐けないしこれから先母の年齢に追いつくまでは歩き続けようと思った。






2003年01月01日(水) ♪とぉーしの はぁーじめのぉ・・・♪

 ♪一月一日♪
母は、この歌が好きだ。
そして、今日は正真正銘の一月一日だから いっぱい歌ってもらった。
母は、昨晩 ぐっすりと眠った。
私が眠る時(午前2時)にトイレに誘導してそれから、朝まで。
トイレに起こした時「ここは、どこだぁ。なんだか違うなぁ。」と寝ぼけ眼で話していた。きちんと記憶は無いのだろうが瞬間に感じる力は正確なのだろうと思う。
トイレの後は、また直ぐ ぐっすりと眠った。

今日は来客が、8時半には来る予定だと言うので、早朝 母の部屋を覗いた。
「おかちゃん」と小さな声で泣いていた。
「どうしたの?」と聞くと「お腹が痛い」と言った。
少し前に目覚めたのだろう枕元の飴が一つ消えていた。ティッシュが二枚ほど丸めてあった。トイレに誘導。オムツを替えた。少し濡れていた。きっと、これが、哀しい原因だったのだろうと思う。エアコンのスイッチをいれ、電気毛布のスイッチも入れた。
暫くするとまた眠った。
その間に、食事の支度。
お正月なので、お餅を焼きお雑煮を作り、後はおせちを出すだけなので楽チンだった。

みんなで囲む、元旦の朝食。やっぱり、賑やか。
そういえば、今朝 初笑い。
「今日は、一月一日よ」と私が声を掛けると。
母は、「おーめでたいね。私の頭もめでたくてね」ぷっと吹き出した。
ついでに、「そうそう、娘の私は隔世遺伝で更にめでたく、二人そろって、
めでたし親子だね」と言って二人で大笑いをしたのだ。
そして、まず「とぉーしの はぁ−じめのぉ・・・」を歌った。

昼前に、母に着物を着せた。
「あなたが着なさい」と始めは渋っていたが・・・。
「ちょっと、モデルになってよ」と説得。何とか着せる事ができた。
母も袖を通し始めると手がさっさと動き出した。やはり、身についた動作なのだろう。
支度が出来たので、デジカメで撮影。
其れを、母の年賀にした。先日、書いた物はキャンセルにした。

母は、自分から出す事をしないと一応お断りのお便りは一昨年のお正月に書いて知らせてある。
それでも、お正月だけはと賀状を下さる方が居られて、嬉しい限りである。
昨年まで、二人の息子家族から賀状が来ていたが 今年は音沙汰なし。
家には来ていたので、投函が遅れていう事ではないと思う。
おそらく、施設にいるだろうと思っての事だろう。
でも、施設の住所だって先日わからなかったし、施設にもお便りは届いてなかった。
形式にこだわっても良い事はないが、それでも「親子って?」と思った。痴呆症だと用は無いみたい。

今日は、とても眠い。
だから、続きは明日。





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