刑法奇行
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2004年12月27日(月) デリダってダリダ

 今年の10月9日という、よりによって私の誕生日に亡くなったのが、脱構築のデリダである。「共同体なき共同体」とか、「関係なき関係」とか、「同一性なき同一性」とか、わけわかんな〜いことを言っていた哲学者である。同僚のフランス語のM中さんの研究対象であり、彼は、岩波・思考のフロンティアの中の「脱構築」を執筆している(2005年2月には同シリーズの「法」も公刊される)。失礼だが、こんな人がいるとはちーとも知らなかったのである。

 まあ、基本的によく分からない考え方であるが、2001年にベルギーのルーヴェンで開催された第5回修復的司法国際会議(この会議には、私を含め、N村先生、H井先生、K長井さんというRJ研の仲間をはじめ、何人かの研究者や実務家が日本から参加した)において、パブリッチ(カナダのアルバータ大学)という人が、再三デリダを引用し、hospitalityという用語をキーワードにして報告したのである。刑法学会東京部会で報告し、刑法雑誌に原稿化して、拙著にも収録したが、ずっとこのキーワードが気になっていた。パブリッチは、これに関連する多くの論文を書いており、論文集も近刊である。楽しみである。

 hospitalityは、一般に「歓待」と訳されており、「歓待について」という翻訳書も公刊されている。デリダは、共同体ではなく、歓待ということで、共同体を構想しているのだろう。デリダは、別の論文で、和解の暴力性も論じており、和解と赦しの差異を強調している。「赦さないが和解する」、「感情を充足しないが紛争を解決する」ことはありうると思う。他者理解の本質を捉えようとしたのであろう。そういう共同体はあるのか・・・。

 修復的司法も、復讐心を否定するものであっては、被害者にそっぽを向けられると思う。復讐心が消えるか、赦しの気持ちが生じるかは、ロング・アンド・ワインディング・ロードであり、ゼアの言うように、「贈り物」なのである。

 復讐心は残存するが、なお修復していく(されていく)という方向を探る必要があろう。

ジャスティス for 刑法の脱構築?


2004年12月24日(金) メニークリシミマス

 昨日はS事法務、今日は第一H規と忙しい。祭日とクリスマスなのに・・・。

 もっとも、今年は娘がクリスマスケーキを作ってくれて、感涙した。もう、コージーコーナーや不二家などに「さよなら、さよなら、さよなら」である。娘は依然としてサンタの存在を信じているようだ。いずれ気がついて、夢を一つ失うことになる。夢を失っていくのが、大人への階段だとしたら、それはあまりにエンプチーである。「星よりひそかに、雨よりやさしく・・・おもちなさいな、いつでも夢を〜」をどれだけ維持できるかが重要である。

 我々業界人の中で、今、夢をもって研究している人がいるだろうか。残念ながら、ほとんど名前が浮かんでこない。刑法学に夢はあるのだろうか。今年お亡くなりになった諸先生方は、夢を持っていたような気がする。しかし、そう思うのは、おそらく、死が「夢の途中」と位置づけられるからではないか、とも思う。

 これに対して、修復的司法にはまだまだ夢が内在している。それはなぜかと考えると、修復的司法が「ジャスティスとは何か」に関わる問題だからであろう。そうであれば、翻って、刑法学もジャスティスの問題と今後深く関わっていけばいいのではないかと思うのである。来年以降の自己の課題としたい。

 クリスマスも、昔は、町中大騒ぎで、サラリーマンが「メリークリスマス!」を連呼していた。まるで、「植木等がいっぱい」状態であった。今はそれほどでもなく、静かでいいのだが、何か醒めた状態である。
  
 サンタはいると思い続ける大人がいなくなり、月ではウサギが餅をついていると思い続ける大人がいなくなり、アリスの不思議の国はあると思い続ける大人がいなくなり・・・、子供達にどんな夢を与えることができるのだろうか。

 今日は、ワインの飲み過ぎかもしれない。

ジャスティス for 七面鳥よりチキンライスがいいや

注:今日から、ジャーニーにかえてジャスティスにしよう。


norio

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