刑法奇行
INDEX過去未来


2002年09月29日(日) オープン・キャンパス

 今日は、朝から夕方まで、オープン・キャンパスで忙しかった。全学部が、説明会、講演会、相談会を一斉に開き、キャンパスツアーや早稲田グッズの出店など・・・、学園祭と間違えるほどである。はじめて参加したが、いくつかの相談に応じ、法学部の説明もした。7月にやったときに比べて少なかったということだが、高校生のみならず、父兄の方もいた。こういう時代なのか・・・と考えさせられた。

 すべて先のことを予測して選択するという合理的な思考を否定するつもりはない。われわれは、程度の差はあれ、たぶんこうなるだろう、ああなるだろうと予見して決断している面がある。昔は、その予見の程度が低かっただけだったのかもしれない。まあ、大学なら、東大か、早稲田か、慶應に行けばいいかなというようにである。

 しかし、「一寸先は闇」「あとは野となれ山となれ」「とりあえず」という、この奇行の思想的?基盤からすれば、どうも?なのである。熱心な学生や親御さんには感心するが・・・。
 自分の子供がどこの大学に行っているのか知らない親はいないと思うが、どの学部に入っているのか分からないという、友人の親はかつて何人かいたのである。
 未知の世界にただ飛び込むこと、後のことはそれから考えましょう、というのが、個人的には好きである。「見るまえに飛べ」という大江の小説もあったなあー。

 情報が多いことは、それだけリスクを自分が抱えることを意味する。リスクを多く負うことと、危険に身を晒すこと・・・ルーマンのリスク社会学とベックのリスク社会論との差異と刑罰論とをどう架橋するかが、難しいところだ。犯罪社会学会での報告は大丈夫だろうか。
 もっとも、架橋は、名前がハイブリッジだから、お手の物かもしれない?。外国の研究者と初対面の際、「名前は高橋です。名前の意味は、ドイツ(アメリカでもどこでもいいが)と日本を架橋する高(い)橋です。」と言うと、必ず笑ってくれる。
 しかし、今日の説明会の時、「学生からは福田官房長官といわれています。」と言っても、まったく受けなかったのはなぜだろうか。

ジャーニー to とうとう授業開始か

 





2002年09月22日(日) 狂務は虚無?

 いよいよ狂務の仕事が始動してきた。郵便物も学部事務所に移動させられ、こっちの部屋にいろということなのだろう。研究室にいる機会が極端に減ることだろう。とりあえず、古いパソコンと模範六法を持っていった。備え付けのパソコンは、メールやインターネットはできるが、一太郎をインストしてはいけないのだ。私は昔から一太郎派である。子供も、一姫二太郎ではなく、一太郎二姫なのである。リズムができるまで時間がかかりそうだ。

 昨日のゼーアワークおよびRJ研で、N村H夫先生から、もう研究ができないねと言われたので、狂歌書執筆に専念しますと答えたら、それはいい、狂歌書執筆は研究をしないことだからね、とドキッとすることを言われてしまった。さすがに鋭い。研究の集大成が狂歌書だとすれば、死ぬ寸前に完成させるのが一番である。まさに、「北の国から」じゃないけれど、遺書としての狂歌書である。

 しかし、そうはいっても、S文堂との義理人情も重要である。私の売れない本をいろいろ出してくれたのだから、恩返しをしなくては・・・。鶴の恩返し・・・実はサギだった・・・いや、窃盗なのである。
とりあえず、こまごました仕事は、順調に片づいている。10月には、ドイツ対案グループ著『犯罪被害の回復』という翻訳書と、何度も書いているが、『修復的司法の探求』が公刊され、来年発行される予定の『いちばんやさしい刑事法入門』『先端法学入門』なども片づけた。
 だがしかし、G代K事法の連載もあるし、判例百戦(第5犯)もあるし、そのほかにもいくつかある(企業秘密のアッコちゃん)。ぜんぜん変わらないじゃん・・・。

 いずれにせよ、どんな状況でも楽しくさせなければならないというのが、私の信条である。明るく楽しい法学部の実現目指して・・・。
そうそう、昨日、わがマンションの管理組合の理事長にもなってしまった。今までにない企画でも打ち出すか。ボーリング大会とかカラオケ大会とかコンパとか・・・。何人かは賛同してくれるかもしれない。そこから、人と人との結が生まれるだろうか。
 エンプチーな時代に何とか一石を投じたいのだが・・・。

ジャーニー to いよいよ優勝






2002年09月15日(日) 屋形船で想い出ゆらゆら

 昨日は、ゼーア・ワークの後、小学校のクラス会(+他クラス+中学の一部)で、吾妻橋から屋形船に乗った。総勢20人ほどである(女性陣も多かった)。結構揺れたので、気持ち悪いし、酔いも早いし、落ち着けない感じで、一方、話しに夢中で、景色もほとんど見ず、あまり飲み食いもせず、屋形船って一体・・・。その後、浅草でのカラオケ大会で盛り上がり、4時集合で10時30分解散という長丁場だった。

 話は多岐に及んだが、誰が誰を好きだったかなんていう、時効成立の話も出た。自分で言うのも何だが、小学校時代は結構もてた。それからだんだん下降していったのである。幹事が当時の写真をもってきたが、なんとまあ、かわいい時代があったものだと思う。ハリーポッターという感じである。驚くべきことに、今の娘の顔にそっくりなのである。どうして今の官房長官になってしまったのだろう。

 まあ、こういう機会が年々増えてきている。みんな人生を一生懸命生きてきて、ふと振り返る年代なのかもしれない。もっとも、こちらは、あまりそういう暇もないのである。つねに追われて追われて・・・。

 当時は、「のっくん」と呼ばれていたが、みんなから「のっくん」「のっくん」と呼ばれて、懐かしい面もあるが、何となく疲れる面もある。事実、帰宅したときは、完全に、ノック(ん)ダウンであった。

ジャーニー to 錦華小(現お茶の水小)


2002年09月10日(火) 「ゆめもちぼうもない」ことはない

 「北の国から2002遺言」と「少年たち3」を見て、いろいろ感想はあるが、共通するキーワードは何かといえば、リング、輪、結び、鎖、つながり、夢、希望・・・ということであろう。人はみな繋がっていて、希望をもって生きるということだ。

 どこかの生命保険会社のCMで、「あなたの守りたい人は誰ですか。」とあり、小田和正の「言葉にできない」によって、涙ひとたらしを誘うのである。五郎は家族を必死に守るために生きている。少年たちは、誰からも守られていない(と勘違いする)から非行に走る。
 ただ、自分が守りたい人がいて、自分を守ってくれる人もいるという個人的な世界が、人間一般の世界にまで広がるためには、どうしたらいいかである。つながりの普遍化が課題であろう。

 われわれの世代は、価値観を転換あるいは破壊させ、現実を暴露してきた世代といっていいかもしれない。確かにこれが必要であることは否定できない。しかし、少し行き過ぎたように思う。つまり、所詮あんな調査官はいないよ、とか、あんな生活は無理だよ、とか、現実はそうはいかない、とか、先生だって所詮人間だよ、とか、きりがないのである。
 サンタクロースはパパである、なまはげは隣のおっさんである、というのも同じである。大人が、サンタクロースはいるのではと思い、なまはげは怖いんだと思わなければ、子供たちがそう思うはずがない。つまり、大人が夢をもたなければ、子供が夢をもつはずがないのである。

 「夢で会いましょう」というテレビ番組がずーと昔あったが、子供の時、かなりのインパクトがあったような気がする。現実的になるのもいいけれど、われわれが、照れることなく、夢や希望を大いに語ることが必要であるように思うのだが・・・。
 
 ところで、「ゆめもちぼうもない」と言っていた東京ボン太はどこに行ったのだろうか。

ジャーニー to (ショート)ホープ

後記:その後の情報により、東京ボン太は、1986年に47歳の若さで亡くなったとのことである。そういえば、そういう記憶もうっすらある・・・合掌。
 


2002年09月05日(木) 鉄の道と事の故

 今日は、K土K通省の鉄道事故調査業務研修で、「鉄道事故と刑事責任」について話をしに、柏の研修所まで行って来た。民法のU川先生から頼まれたのである。本来なら、O塚さん、K川さんの管轄なのだが・・・。もっとも、修論のテーマ決めの時、共犯論と過失犯論と故意犯論の3つのテーマにつきそれぞれ目次をつくっていき、恩師が共犯論でいいんじゃないと言われて決まったわけで、過失犯論になっていたかもしれないのである。

 鉄道事故に関する判例を調べて臨んだが、研修生が40代以上の技官の方ばかりだったので、刑法とは何かからはじまり、とくに、因果関係と過失犯の構造をやさしく説明し、そして、信楽高原鉄道事故などを分析しただけであった。聞き手がどういう人かによって、内容を急遽変更することは、うまくなったような気がする。名宛人は誰かがやはり重要である。

 この関係で、いくつか文献を調べたが、藤木さんの『刑法各論』(講義ではないやつ)に、1項目としてあったから、改めてすごさを実感した。亡くなられたとき、たしかM2だったか(D1かもしれない)、海の研究室合宿の際に、その頃ヴェルツェルも亡くなったので、行為無価値論の終焉ですね、と恩師に何気なく言ってしまったら、恩師は、ウーンと言って、空を見つめてしまったのにはさすがに参った。
 恩師は、藤木さんが亡くなったとき、院の授業の際に、「彼は自分ががんばらねば日本は駄目になると思っていた。早稲田にこういう人がどこにいますか。」と声を震わせていたことを思い出すのである。

 まあ、日本のためにというのは、ちょっと身を引くが、何のために研究しているのかを問い続けることが必要だろうが、これもよく分からない。自分のためか、他人のためか・・・まあ、疲れたから、「明日考えよう」。 

 ところで、Nジーランドに行ったM藤君、キリイギリスから帰国したI井さんは、連絡ないけど、どうしたのでしょうか。それと、髭倉さんも帰国していないし、そろそろ、SS喜寿の論文の順番やパーティーの打ち合わせなど、課題は山ほどあるのでござるござる。

ジャーニー to Deutsche Bahn(DB)


2002年09月04日(水) 悩ンデルタール人と根病ンデルタール人

 今週は、大学院マスター入試の願書提出期間である。学部生は、人生の選択を迫られる。自分はどこへ行こうとしているのか。そんなこと分からないのが青春であり、この不安定さこそが(今は分からないかもしれないが、ずっと後になって気づくのだが)素晴らしいことなのである。明確な目標をもっている人は楽である。悩まないからである。しかし、悩まないのは、おかしなことであり、悩むのがふつうである。バカボンのパパは「これでいいのだ」というが、いまだにそうは思えない。今の状態に安住したら終わりかもしれない。大いに悩もうではないか。

 これに対して、最近は、病んでいる若者が多いような気がしてならない。自分の現実を他人のせいにしたり、他人をすべて敵だと思いこんだり、自分のこと以外まるで関心がなかったり・・・。こういう人は悩みもしない。悩んでいるうちが花かもしれない。こういう状態になるには、それなりの原因があるはずである。しかし、その原因(そしてその解決策)を本人は分からない。なら、どうするか。本人が気づくまで待つか、誰かが気づかせるか、みんなで叩きのめすか・・・、家康・秀吉・信長のどの方法論でいくかが問題だ。

 われわれ同業者は、こうした、悩みそして病む人々の前では、まったく無力である。机の上で本を読んでいるだけであり、現実に対処なんかできないのである。「しかたないんじゃない」と居直るか、自分の無力さを背負っていくか、の二者択一である。「少年たち3」と「北の国から―遺言―」を見ながら、じっくり考えたいと思う。

ジャーニー to 人間とは何か



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