そういえばあのひとが死んだのは5月だったのだ、と
数秒の空白の後に僕は気付く
あれは昂揚した日曜の夜 一本の電話で微塵に砕かれる夜
水曜だった、と聞いた そういえば
今から何度も何度も忘れるだろうその日のこと。 思い返すたびに軋むように痛むだろうその日のこと。
まだ語らない よく眠って、忘れてしまえ、と思った夜の暗さ碧さを憶えている。 あのひとは光で、熱で、砂嵐のように茫漠としたこの世界の中にごく稀少な僕のいのちで
ここに井戸を抱えている 底も見えない深い井戸だ。 時折その井戸の中に僕は沈む。 とぷりと、息をひそめて見上げる水面はみどりいろに円い。
この井戸のどこかにあのひとの熱がある
その記憶は僕に秘かに甘い。 ここに井戸を抱えている。
底は見えない。 もう沈んでいくひとの姿は見えない
返信したメールがもう帰ってこないのを知って、 あぁまたやってしまった、と思う。
ひとの求めるものと僕が求めるものとが、限りなく正反対のベクトルを向いていることをまだ理解しきれていないのだと思う。 どうしよう。 といってももうどうしようもないことはわかっているので 重い胸を抱えて横たわってみる。今日はさらに暗い闇の中。
どこへも行けないことくらいわかっている。 禁を破って送ってしまったメール。 たった一通の、それにどんなに時間をかけ逡巡し送信ボタンを押したのかをひとはきっと知らないだろうと思う。
結局、
これからまた永い永い夜を過ごす。
結局、手に取れないものは手に取れないままで、僕は心が磨耗するのを待つしかない。
希望がまたどこにもないのを見る。
だけどこの心がいつか褪せるだろうか。
静寂が耳に痛い。その中を何度も、ひとの声が何度も僕の輪郭をなぞって落ちていく
いつか褪せてくれるだろうか。
そしていつか自分の言葉が意味を変えるのを見る。
いつもいつまでも、おろかなこと ばかり
そうして手に入れた色だけの狂気を許す、どこまでも遠い人を恋うることも。 雨が何かを押し流すように降り、圧迫感に心臓が苦しくなっても、明日はまた空が晴れているのではないかという希望を抱いている。 それは馬鹿げたことかもしれない。 もう少し、もうすこしと 眠りに就くのをただ躊躇っている。
目を閉じなくても明日が来るのをよくわかっていて、それでも悪あがきをするように目を開いている、 まだもう少しだけ、そこに希望があることを 認めたいのか認めたくないのかわからない
これもまた、ゆるい絶望であることがよくわかる
欲しいものがある。とても欲しいものが。 僕はそれが、とてもとても遠くあきれるほど遠くにあることを、幾度となく確かめ認識してきて、何度も何度も死に瀕するまで絶望して、 少しずつ少しずつ自分自身を殺しに殺してきたのに、
また芽吹くのだ。
目を、見交わすこともなく、ただ名らしきものを見るそのことだけで
心が、何度も、咲いては散り咲いては散り散ってなお
穏やかに笑う。 そこに心がなくていいと思う
いとしいひとが、いるとか、いないとか、
いないとか、
ひどく寒い一日。 家を出たときの感覚ではそれほどではなかったのに、街中をかなり長く歩いているうちに、雨に重く濡れて震えが来るほどになってしまう。 せめて手のひらを温めるためにとお茶のペットボトルを買い、まだ少し歩き続けて、何だか相当無理をしたような気がする。帰り道もひどく寒くつらかった。
夜が昼の熱気を残すようになると、空気が甘く香ってやりきれない。 だけどもう後戻りできない。 後悔とか、そういうものがひどく懐かしい
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