愛していない、とだけ
ヒトを好きだ好きだと思っていれば裏切られるのが怖い、そんな 子供じみた防衛線を張ってあまり笑わないことにしている 微笑むのは難しくない。 面白そうな雰囲気に従って笑顔を作るだけで。
この心を傾けたヒトが死んで、もう何年だろう。 あの唇に口付けた日から、たぶんもう5年ではきかない。 僕はあの頃の僕の歳よりもあの頃のあのヒトの歳に近くなり、でもやっぱりあのヒトの心の何ひとつわからないままで。 そしてそういうモノがまだ好きだと云っている、ぼそぼそと小声で、小さく。 ここにいないあなたが帰るのをほんの少しだけ、とても微かに願っている。 僕はあのヒトに生きていてほしかった。 たとえ詩の一片も書かなくても、苦しくても死にたくても、希望なんか何ひとつなくても。
そうすれば僕はあのヒトに、屑みたいなものでも綺麗な何かをあげて、少しでも何かやりたいことをして、そばにいて、慰めのようにでも笑わせてあげることができたんじゃないかって それがただの自己満足でも、僕はあのヒトのために一生懸命になりたかった。 それが今もまだとても、悔しいこと。
信じる信じないではなくて、ただ僕はあなたがもういないと思う。
だからもしもまだ僕の気持ちが重たければもう全部忘れてしまっていいよ、 あなたが好きで好きでどうしようもなかったけど、 あなたに幸せでいてほしいっていうそんなことがあなたにはたぶん重荷だったんだろうから、 僕はここで、 あなたがまだどこかで生きているんだなんて絶対に認めないから。
赤々と心が燃えようとするので それはいけない、と灰をかける 丹念に しかし火は消さないように 浅はかでも何でも 続いていくモノが欲しい ここで死んでしまう火ならそれまでだ、と言いながら 灰をかける手は恐る恐る火を気遣う
ひとに他人が近付くのを見ながらひどく不機嫌になっている、これではまるで 何かをひがんでいるようだと思いながら何故こんなにも不機嫌になるのかを考えてみる 考えればひとの姿はどこか未練が匂って もうとうに忘れたはずだと思いながら好きだと言えなかったころの心持ちを浅く掘り返してみる、 それは 先程のひがみや妬みといった理由付けよりは程遠く妙にしっくりと馴染むので あぁ、 と納得しかけている
けれどそれは たぶん執着や僻みや妬みといったものの寄せ集めだと言うほうが はるかに真実に近くて 心をこねて色めいたものを探したいあがきのような あきらめの悪さがさせるのだろうと 冷えたオリオンを見上げてみる
好きだ好きだと言葉に換え声に出せば心はことばに縛られる その 容の定まらぬ心のしずくを どの言葉の型へそそごうかいつも決めかねる そそいだからといってすぐに流れ出る心が干上がっても やはり自由になる心などここにはないのだ
だめだだめだ。 なんか、いなくなろうとしてた。無意識にだけど。 詩がアタマの中をぐるぐるする。 前と違うのは、たぶん、詩とあのひとが切り離されたということ。 たぶんまだ、一部分だけど。 少しだけ解放感。 そして絶望。
**
時計台の文字盤の光が ゆっくりと明るくなってゆくのを 隣で仰いでいた横顔が 帰らなきゃ、と言うので 私は素直に応え 送ってくれる腕を肘に絡めながら 雨の跡の残る階段を下りる そらいろは藍 心もち離れた肩が 最後に笑みだけを置いてまた駅へ戻ってゆく 喉に血のにおいがする のは 明け方まで啼いた鳥のせいだと 熱の残る額にまた 冷えた指先を あててみる
鳥には鳥の理があり 縛られぬ魂があり 融通の利かぬこの身体以上に 巨きな羽と誘惑に弱い舌がある 渇く喉は水を頼み餌を啄ばみ 空を 求める声は明け方に高い
かえりみち 揺られてゆく車の中で 舌に残る苦い珈琲を飴玉で中和し 恵まれた蜜のざらりとした喉通りで 今日ついた嘘のひとつひとつを詫びてゆく 自分だけに都合の良い倫理などありえないことはわかっていても 崩れていく道徳と 閉じてゆく欲望の狭間で それらはどこか惰性の匂いがする
日常に添える憂欝と色鮮やかな退屈の用意 喉の血の味は飴に融けても 詫びるだけの嘘は安らがない夜に忌々しい 足音もしない夜更け 遠く 鳥の啼く声が電気信号に混じる
鳥を飼うひとの穏やかな笑みに どこか透ける疑念の色 あなた ひとり 失えば 餌をなくし けれどまたどこかで水を飲む鳥を このひとはまだ 籠に入れたいのだと 思う
心はそらを 翼もそらを 欲望だけが ここを 指し示し 鳥はまだ 明け方に高く 声を絞る いつか あのひとに縊られる いつかの日を思うたび 空は昼も夜も美しく私を誘う
**
恋にこころ、想いにことば、願いに望みのないはずはなくても。
|