穏やかに優しく強い目をしたひとと夜、車に乗っている。 雨が降っている。 ワイパーを動かす音が大きく、響いて、 プレーヤーから流れるショパンのピアノ曲を時折濁らせていく。 雨は急に強く、叩きつけるように降って、車の中の沈黙を粟立てる。 ただそこで、強いひとは穏やかに話すので、僕はただ窓の外を流れていく濡れた景色をぼんやりと見送っているだけでいい。
桜を見に行きたい、とぽつりと言った僕に、 あぁ行きたいねぇ、と返すひと。 だけど行けないね、と諦めるように僕は呟き、 そうやなぁきっと、と悔しがるようにひとは応える。
橋を渡る。 雨粒の浮いた窓越しに、川岸の桜が淡くほの白い。 それを横目に見ながら、ここで車を止めて、と言い出せない僕が悲しい。
ただきっとたぶん、ここで車を降りてしまえばもう戻れないような気がしている。
あなたと桜を見に行きたい、 あの仄白く闇に浮かび上がる、崇高に恐ろしい夜桜の影を。 遠く闇に沈んでいくあのひとの影を、このこころの狂おしさを、それで胸の内に納めておけるのかはわからないけど。
あなたとさくらをみにいきたい
雨は強くフロントガラスを叩き、濡れた路面は暗く視界を飲み込む。 にじんだヘッドライトがまた近付いては流れ去り、ゆらゆらと揺れているのはこの僕の内面の方だとようやく気付いてしまう。
連日残業、続く。
今週末は講師やってます。 …なのに全然レジュメの用意とかできなくて、家に持ち帰ってpowerpoint作ったりしてます。 だめだめだー。 そして睡眠時間足りなくてかなり限界。 てゆかこんなの書くの諦めて早く寝ろよ。 胃ーがーいたーい。 ガンバレ僕。 とりあえず。
あるとき自分の臨界を超える、って一瞬がある。 神様の視点と言うか。 普通の思考経路を辿ればどうしても行き着かないポイントに辿り着いてしまうときがある。 たとえば僕はどうあっても自己中心的で、せいぜい自分と・相手との視点としか持てないけど、あるときたぶん第三の目が開いて自分を超越した自分の視点を持つときがある。 今日がそれだ。 ―――生きてて良かった。 とは思わなかったけど、突然僕は理解した。 エウレィカ、の気分だ。
僕の幸せと希望とその他諸々の涙ぐましい祈りにも似たもの、 そしてあのひとの僕が見たところの幸せに似たもの、 それらを超えて僕が為すべきことがとりあえず見えた。 とりあえず。
それで僕がどんなに泣くとしても、あのひとを想うなら僕がしなくてはならないことが。 たとえそれであのひとがどんなに失望するとしても、あのひとを想うなら僕がしなくてはならないことが。
だからこんなところにこんなことを書いておくのはそんな僕の悪あがきと未練とその他諸々の涙ぐましい葛藤にも似たもの、のせいだ。
そしてもちろん、僕自身、自分が決めたことをやりぬくことができるなんて間違っても信じちゃいない。 今なお僕はぐらぐらにぐずぐずでぐだぐだだ。 ただ僕は、ひとつの解決策を見つけたというだけ。 そしてたぶんそれが正しいということが普段よりもはるかに圧倒的に明らかに見えてしまっただけ。
僕は泣かないだろうなぁ。 Kが死んでしまってから、もう話す相手もいないのだもの。 うん。 むごいなぁ、神様。
たとえどんなに、 どんなにくるしくっても、 やり遂げることが僕にできるだろうか。
それがたったひとつの僕の想いを貫く方法、とかだったらいい。 もうそれ以外に道はなくて僕がもう何をどうしようもないのだったらいい。
それならいいのに。
連日残業。 とてもじゃないけど自分の仕事に責任持てない、という気分。 こういう気分はずいぶん長いこと忘れていたな。
家に帰ってくると些細なことで親と口論になる。 軽く流せないあたりが自分もかなり余裕がなくなってきているのだと思う。
家族内の不幸の大半は、親の子供への無理解に端を発している、と友人が言っていた。 そしてそういった状況化にある子供の大半は、親が好きなのだと。 そこに不幸の種があるとも。
自分が自分なりに生きていけるのだ、と思ってから親への遠慮がなくなってしまって怖い。 残酷な自分の思考が。 たぶん僕は親が好きではない。 自分が子を持つことを恐れるのと同じように、親を痛めつける自分を恐れている。(そんな機会があれば僕は嬉々としてやってしまうだろう)
その方が幸せだと思う。
寝不足と頭痛に半ば止まったような頭で考える。
ここにあるのが恋なんだろうか、と。
考えても仕様のないことを。
どこかに答があるんだろうか。 単に僕がまだ答を見つけていないだけなんだろうか。 それとも答なんかなくて、僕は一生ここでうろたえながらぐらぐらしつづけていなければならないんだろうか。
K、
まだあなたを呼ぶよ。 僕はまだあなたを呼ぶ。
どこまで頼ったら気が済むんだ、とあなたは怒るかもしれないけど。
もうどこにもいないあなたをまだ僕は呼ぶよ。
最良の方向性なんかよくわかっている。 そして採るべきでない方法もよくわかっている。それを除いた残りの選択肢が、あんまり多くないこともわかっている。
思わず薄く笑ってしまう。
そしてそれから、どうしたらいいかわからなくなって泣いてしまう。
ねぇK、K、 あなたはなんでここにいないんだろう。
僕にはまだ捨てられないものがあるらしい。 ただそれは、もう歴然とあのひとに関連するものばかり。 紙の一枚、メールの一言でさえ、ごみ箱に投げ入れることができなくてひどく苦しい。
赦されるものなら言いたい。
あなたを愛しているんです、 愛しているんです、 ただ心底愛しているんです、 それがあなたのプラスにならなくっても、ただあなただというだけで僕は目の前の何も見えなくなってしまったりするんです。 愛しているんです、
まるでもう、あなたがいない世界の方が現実だと信じ込んでしまうくらいに。
ねぇK、あなたは何て言って僕を痛ましそうに見るだろう
はっきりと目を向ければそこにあるクレバスに気付いてしまう。 足元は霞がかったようにぼんやりと見え、遥か先は歪みなく見えても少し先ほど明らかに見るのが難しい。 このままどこまで行けるだろう。 知らない振りがどこまでできるだろう。
たった一通のメールに指先が震え立っていられなくなる自分を何としよう
たとえばそこに、摘み取れない花があるとする。 手を伸ばすことさえ禁忌のような。
香りが届く。 色が映る。 風にしなう音が響く。
それでも固く自分に科した戒めがある。
葛藤は、息もできぬほど。 それを見せられるはずはなくとも。
きみのこえがききたいです
メールにすることすら、たぶん、してはいけない。 何度もクリアキーを押す指。 ためらって、ためらって、もう何を書いてさえ途切れてしまうだろうメールのやり取りに、本気で絶望しながら送信キーを押してしまう。 あいたい とも はなしたい とも送ることはできない。 携帯の画面に映る文字に唇を当てる、この胸の燠火が消えないのは何故だろうともう何度となく繰り返した問いを呟く。 あぁ、 あいたい、 ただあいたい、 声を聞くだけでもいい、 姿を見るだけでもいい、 ただそれをあのひとに伝えたい
送信キーを押してしまえば解き放たれた言葉の矢は羽を駆ってあのひとの小さな画面へ届くだろう、
ただそれが何のうるわしい結果も生まないのが口惜しい
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