2003年11月30日(日) : すっかり素

メッセで「更新した、と何気にプレッシャーをかけてみる」といわれて、何がプレッシャーなのか、本気で一瞬分かりませんでした。
この女、本気で自サイトの更新、ということを頭からすっかりデリートしてやがりますよ! ごめんなさい課長。
一応、頭の片隅にはあると思いますが、更新する気持ちは! ものすっごい隅っこに(駄目すぎる)。
まあまあまったりいきましょうや、とか反省する心皆無であります。
ええとりあえず、今年中には『Shadow Saga』二章も、『華京騒動録』二話も終わらせるつもりではありますが。あくまでもつもり。(最悪)



2003年11月25日(火) : 構想

小説を書く上で、一番楽しいときって、構想を練っているときじゃないでしょうか(書いてないやんけまだそれ)。
基本的に、『Shadow Saga』はリメイクモノなので、一応(ここ強調)基本路線は出来上がってはいるんで、もーひたすら書くだけ……の筈なんですが、ね。直しは直しで大変なんですよ! とか見苦しく言い訳してみます。

構想を練るのは『華京』です。
一話完結形式で、つまり、一話ごとに何かちょっとした騒動を起こさなければ、話にならんのです。
で、現在またまたストップ中(笑えなーい)の二話は、それが殺人事件なわけです。しかし、ネタを上げたからといって、必ずしもそれにちゃんとした話の起承転結がついてくるわけではないのです。あーあ。
もう、三話を書きたいなあ、とか思ってみたり。あーもう。ちなみに、三話は、剣の盗難にまつわる話です。サブタイも「春秋の剣」と決まってます。この話では游敬がちょっと絡んでくるのですが、まさか、游敬が出てくるから、話の構想が進むんではないだろうな、自分! 二話には游敬が出てこないから、話が進まないとか言うんじゃないだろうな、自分!!
その是非はともかくとして(……)、三話はややシリアス気味な進行になるかもしれません。オチで勿論、落としますが。
で、四話が「大鬧英宣節」で、皇帝のお誕生日祭りにまつわる話になります。これはシリアスになります。『華京』でシリアス!? と思われるかもしれませんが、まあ、サブタイが“大鬧”という辺り、『Shadow Saga』ほど重くて暗いシリアスにはなりえませんから、大丈夫です。ちなみに、大鬧、とは「大いに騒がす」ということで、活劇系の京劇のタイトルなんかによく使われたりします。そんなんですので、大丈夫です(何が?)。

……って、考えてるのが、ほんとに一番楽しいんですよね……。いざ、書き始めたら、あんなに書きたかったはずなのに、違う、自分が書きたかったのは、こんなへたれた文章なんかじゃない! とジレンマに滂沱するんですよ……。とほほほ。



2003年11月16日(日) : 他人の目

……って、あんまり気にしすぎるとおどおどビクビクしっぱなしで卑屈になって痛いし、逆に気にし無さ過ぎると、近くの人が頭痛がするほどかっ飛びすぎてやっぱり痛いことになる。
その境界線って、どの辺りなんだろう、とかふと思います。

まあ、あんまり人の目人の目ばっかり気にするんなら、ネットに出てこないで、一人で悶々とやれ、ということになるんですが。突き詰めちゃえば。
でも、なかなかそういうわけにはいかないですよね……。創作物って、やっぱり他人の目に触れてナンボ、ってところがあると思うし。

しつこくループになるんですが、感覚も感性も人それぞれだから、痛い境界線も勿論、人によって違うわけですが。
そんでもまあ、他人を不快にして生きてるより、他人を楽しませて生きる方が、お互い幸せでしょう。ずっとサービスばっかりする、ってのは不可能ですけど。
だから(?)、出来るだけ、嫌い、じゃなくて、好き、という観点でモノを見たいな、と思ってます。
ココは寒々しい辺境の地ですが、間違って迷い込んできた人を、出来るだけ不愉快にさせない……になってるといいなあ。
どっちかっつーと、私は自サイトに引きこもってしまうところがあるし、最近では結構開き直ってるところもあるんですが。
でもやっぱり、人は人との関わりの中で生きているわけですから。リアルでも、ネットでも。
文句ばっかり言ってないで、少しポリアンナを見習おうかな、と思った徒然(笑)。



2003年11月14日(金) : 激しく直球ストレート

遠まわしで迂遠な物言いよりも、剛速球の直球ストレートによるストライクが好きです。ボールかどうかギリギリ、なんてきわどい判定じゃなく、もう誰が見ても、ど真ん中のストライクが。
持って回った言い方されるよりも、激しいくらい真っ直ぐな言い方の方が、個人的には超好感度大なのです(よく分かりません)。
そりゃーもう、例えれば『Gガンダム』の最終回のドモンの例の台詞「お前が好きだ! お前が欲しいーっ!!」くらいストレートがツボですよ。笑
だって、その方が漢前だから!
そういうわけで、むしろ私が書くシリアスモノのほうが、直球勝負に出てきます。
『華京』ではありえませんが(どっちかって言うと、日常モノですから)、ヒロイックであるところの『Shadow Saga』にはありありです。
くっせえ台詞も、文句無くかっこよく書けたらいいですねえ。
ちなみに、参考までに言いますと、最も直球ストレートな台詞を得意とするのは、『Shadow Saga』のレオンハルトです。“天然紳士”という、素敵な呼び名も頂戴いたしました。ありがとう、アミーゴ!



2003年11月12日(水) : ゲージュツと猥褻

……まあ、この辺、物議をかもすことはあっても、結論が出るもんではないと思うんですが。
近代小説に限って言えば、『チャタレイ夫人の恋』(だから濃いと一発変換するなっつーのに)の頃から。
どー考えてもポルノだろーなんて小説も、時間の経過とともに「文学」扱いされちゃったり。まあ、文学史なんて不勉強な人間が一席ぶつのもおこがましいですが、所謂「中国四大奇書」の一つ、『金瓶梅』なんて、完全にポルノでしょ。「文学的に」表現されてるだけで、内容は……。
『西遊記』なんかも、解釈の仕方によって、ポルノグラフィが隠されている、という話は興味深く読みました。
中国では、明代から清代にかけて、密かにポルノ小説が流行った、という裏面があったり。

江戸時代の通俗文学と言われるジャンルも、結構露骨ですしね。
十返舎一九の『東海道中膝栗毛』なんて、フツーに読んでもアレですが、実はホモ話だ、と解釈も出来るそうで。

まー何の話だ、っつーと。
Web上における、十八禁のライン、です。
個人的には、十八禁か否か、っていうのは。まあ、ストレートに言っちゃうと、セックス行為を書くことを目的にしてるかどうか、です。要するに、ヤるだけ、の話。セックスが副次的なものでなくて、主体であること。
別に性行為云々だけが、年齢制限のラインではないんですが。かつてはPCエンジンゲームの『リンダキューブ』が、性に関する内容無しで、年齢制限ついたみたいに。(どーでもいいが、某出版社の某雑誌は、もはや少女漫画じゃねえだろ)
大体、「十八禁」と銘打つのは、基本的には性関係ですわね。

回避行動。
一つの目印。目安。
見せちゃ駄目、とゆーよりかは、自分の責任で見るかどうか決めろ、それでショックを受けてもこっちは知らん、と。
年齢開示による請求制にしたって、年齢騙られたらどーしよーもないですしね。(大体の年齢は文面に表れてくるもんだが)
別に性を否定しません、私は。人間の生理的欲求なワケだし。ただ、それをあからさまにされることを喜ばない人だっていることも、やっぱり頭に置いておかないといかんわけでしょう。表現の自由もあれば、選択の自由もあるわけです。

現在、うちは年齢制限するよーなものは、一つもおいてないわけですが。
これから置くのか? といわれると、「……さあ?」と答えるしかないですが。
もっとも、小説の方、そっちの方面に「痛い」エピソードがどーしても出てくるんですけどね。それを考えたら、ふと表題のことを思いついたのです。
自分の小説がゲージュツだなんて、口が裂けても言えませんが! 閻魔様にした抜かれても言えませんが!←そもそもの前提が間違ってませんか。
『華京』は、一切そういうのないけど、中国モノっていう時点で、ある程度の年齢弾いてるよなあ……。

えー本日の内容は、恥じらいも慎みも無くてすんません。暴走してます……。



2003年11月08日(土) : ぽろぽろと

色んなところでうっかりネタバレ(すれすれも含む)してしまう自分。

多分、自分がネタバレされても、割と平気だからかなーと思いますが。
歴史もの読むことが多かったからかな。歴史ものってのは、仮想ものじゃない限りは、筋書きは決まってるよーなもんですからね。それをどう料理するか、であって。
ただ、その感覚でいったら、色々まずいですよねえ……。
世の中には、ネタバレすんな! 派の人の方が多いわけでしょう(多分)。
ありがたくもウチの小説に興味あって、でもネタバレしてんじゃねーよって方は、出来るだけここは覗かない方がいいかもしれません……。
話の根幹に関わるような、激しいネタバレはしてない(つもり)ですけど、細かいことはぽろぽろ口走ってると思います。
『Shadow Saga』と『華京騒動録』それぞれChapter-1と一話が終わった後、あとがきみたいなの書いてますが。一応、ネタバレって明記して。
ネタバレっぽいことを書いてるときは、何か印つけておいたほうがいいですかね?

……書くのがなかなか進まないので、つい、思いのたけをぶつけてしまうっちゅーか。
遅筆に乾杯……いや、この場合は完敗ですな。負けてどうすんねん。



2003年11月07日(金) : 文章表現

うわー結構書いたのに、間違ってウィンドウ閉じちゃったよ! 自分のバカ! アホ!!
と、ショックを受けながら、再現を試みる。(多分大幅に変わってる)

「小説において重要なのは、ストーリーの筋そのものであって、文章の巧緻はさほど問題ではない」

本日の命題。
コレをイエスかノーかで答えろ、と言われると、「ノー。そんなことはありません」と私は答えます。
いや、だってね。
小説は「文章を読んで物語を理解する」ものでしょう?
それがあんまりにも悪文(作家の中には、癖のありすぎる悪文を売りにする人もいますが)だと、物語を理解する以前の段階でストップです。
主語と述語がかみ合ってないとか、修飾語が何を修飾しているのか分からんとか、だらだらだらだら読点で文章が繋がっていて目的語が意味不明だとか、山場がさっぱり分からん感じで、同じ調子で文が続くとか。
小説における文章とは、漫画における絵と似てはいますが、やっぱり違うんですよ。漫画だと、多少絵が上手でなくても、ネームの上手さで引っ張っていけたりしますし、魅せ方が絵だけじゃないですから。多角的です。
小説は、文章だけです。文章だけで、世界観から、その場の様子から、登場人物の容姿から心情から、全部を表現しなくてはなりません。
やはり、物語を読んでもらうには、文章表現にもそれなりに気を使わねばならん、と思うわけですよ。
せっかく書いた物語を、誤読されたりしたら哀しいでしょ、やっぱ。
文章が平坦すぎて、山場に気付いてもらえなかったりしたら、寂しいでしょ。

文章を書くっつーのは結局、技術ですからね。色々読んで、「こんな風に書いてみようか」って書いてみることを繰り返して積み上げて、自然と向上するもの(だと思いたい)です。
一応、サイトに上げる文章は整えて書くように気をつけてますが、適当に書き散らしてる文章はめちゃめちゃですよ私。目的語と主語が入れ替わってるとか、述語が変なところに来てるとか、もうしょっちゅうです。変な文! と後で見て、自分で突っ込みを入れるほどです。
小説からは文章を切り離すことは出来ないのですから、どうせなら、もっともっと上手に書いていきたいものです。
綺麗な、かつ読みやすい文章。
コレが私の目標です。
語彙なんてなー、生きてるうちに勝手に増えてくるモンです。それをどう料理するか、ですね。精進精進。



2003年11月06日(木) : 思いを馳せる

……完結もしていない小説の登場人物の、行く末に対して思いを馳せてどうする。

てなもんですが。
まー何度も書いてるように、考えるのが好きなんですってば。その後、っていうのを。

ただ、どーしても、『Shadow Saga』のレオンハルトとカインだけは、どうなるのか分かりません。(お前が分からんのか)
本編のエピローグとして、五年後の話が出てくるのは決まってます。
ただ、その後、二人がどうなるのか、さっぱり予想がつきません。
彼等が「選ぶ」結末だけは、勿論、知ってるんですけど。その後、どうやっていくのか、全く不明です。

『華京』はちゃんと決まってます。まあ、孝姫さんとか、葉喬とか微妙なところもあるんですが、大まかなところは。こと、祥竜と後、游敬なんかはきっちり決まってます。秀昂や武承さんや、の庶民とはちがいますからね(含みあり)。正史に名前が残る人間ですから(更に含みあり)。

妄想癖過多な人間のくせに、我ながら変な話だと思います。



2003年11月05日(水) : 感想を書くこと受けること

不定期的に出てきますね、この話題。
そして、しょっちゅう誘いうけっぽい発言をしてしまい、申し訳ないアミーゴたち。駄目人間。

いきなりぶっちゃけてしまうと、私は実は(と言うまでのこともないが)、感想を書くのがいたく苦手だったりします。
自分が思ったことを、他人に伝える言葉が乏しいんですね……。後、「言葉足らずかも……」「何か偉そうじゃ……」とか、余計なことを考えすぎてしまうんです。
こと、創作に関しては、二次創作と違い、書き手と読み手との共通バックボーンがないわけですよ。だから、余計に感想の伝え方が難しい、と思ってしまう。
要するに、かっこつけなわけですね、自分。自分を相手に良く見せようってー……うわあ、ヤなヤツ。そんな下心がバリバリじゃあ、そりゃ感想を書くのも苦手になる罠。(嫌な結論)
一応、気をつけていることといえば、やっぱり、小説の作者様が、不愉快にならないような感想を書くように、出来るだけ気を使う、ですかね。中でも、自分は自分は、の自分語りをしないように。(コレあると、「私はこんなことを知っている、凄いでしょ?」系スメルがぷんぷんして、物凄く態度がでかそうに見えるので)

対して、感想を受けること。
まあ、自分がほとんど感想を書きに行かない人間ですので、一方的に「くれくれ」と言うのはとっても傲慢身勝手失礼。大抵、感想って言うのは贈りあいですよね。むっちゃくちゃ優れた小説だと、自分から行動を起こさなくても、感想は転がり込んでくるわけですが、そんなのは滅多にない。
感想は、感想がないのが感想だ、ってよく言いますがね……。感想を書いてくださる、ということは、それだけその人が作品に「何か」を感じてくれて、感想を書かずにいられなかった、ってことですよね。
もう、本っっっっ当に我が家は間口が狭いわけですが(しかも涙も出ないほど、更新も遅いしな!)、そんな中で感想を書き込んでくれる方々は神様です。
おかげさまで、カッチーン! と来るような感想を頂戴したこともないです。いや、作者様じゃなくて、第三者のお前が腹立ててどうする、といわれそうですが、実際、ヨソ様のサイトで、そういう「感想」を何度か見かけたことがあるので……。
私としては、もしもココが分かりにくい、とか、ココはちょっと変じゃない? とか、この字間違ってるよ、とかはどんどん指摘していただきたい方ですが。ものの考え方、捉え方とかの、主義主観の問題についての、否定は困りますね……。
それはもう、感性の違いってヤツですから、変えられませんし。言いがかりですよ、それこそ。そういうこと言ってこられても、受け手は「感性が合わなくて残念です」としか言いようがありませんよね。

基本はやっぱり「愛」ですよ、「愛」。



2003年11月01日(土) : 愛と萌え

愛と萌えの具体的な違いって何でしょう。
感覚としたら、「そりゃ違うよ、全然違う」とは思うのですが、言葉では説明し辛いなー……と。そこを上手く表現するのが字書きだろう、と言われると辛いですが。
あえて、自分の感覚で言ってみるとすると……。
萌え、の方が軽いイメージでしょうか。お手軽な感じ。言葉としても何となく軽い。
愛、の方が包容力あるイメージでしょうか。優しい感じで。
という印象を、人に与えるかな、と。

いや、自分の作品やキャラを愛してる人はいいが、萌えてる人は……という意見を見たので。
それで、愛と萌えの違いって何なんだろうな、と思ったわけですよ。
萌えは自己完結してる感じだから、他人に引かれるだろうか、とか。

自分が読む場合、自作に愛がない人の話を読むのは大変辛いです。
あんまりにも露骨に萌え〜だと、やっぱり引くかな、とは思いますが。
……自分が引かれてる可能性は莫大。









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