ジョージ北峰の日記
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2010年07月26日(月) 青いダイヤ

  9)
  話を戻します。(これからの大部分は、兄が話したことですが、かなり私なりの翻訳が入っています)
  私によく似た環境に育った人には何等かの役に立つかもしれません。思い出しながら話してみましょう。
  兄の話す、(全くその通りだと思うのですが)勉強の極意は、まず勉強は自分探しの「旅」だと知ること。これが大前提だと。誰も私がどんな能力の持ち主かは知らない。自分の能力を見極めるのは自分自身でしかない。他人はアドバイス出来るが、人が(親でさえ)私と入れ替わることは出来ない。生きて行動しているのは自分自身だと明確に知ること、---つまり「自己存在の意味」について充分自覚することが大事だ。最近よく自己責任という言葉が使われますが自分を知るということはまさに自己責任なのだ。
  次に勉強には、(1)本を読んで学ぶことと同時に、(2)自分自身で自分の考えを創り出すことの2つの過程が必要になる。
つまり勉強には既知の知識を学ぶ部分(知識を深める)と自分が新たに知識を作り出す(創造の)部分があると知ること。そして、最初のうちは勉強するに際して、どちらの部分をやろうとしているか意識することが大事だ。
  まず本を読んで正しく知ること、これが最も大切な部分で、知るプロセスは「精密且つ正確」でなければならない。多くの人がこの部分をおろそかにするから、勉強が勉強だけに終わってしまう。面白さが分からないで、投げ出してしまう。スポーツでも芸術でもがむしゃらに練習しても上達しない。過去の人達が築いた方法を学んで、それを理解したうえで練習すれば、かなりの成果が期待される。勉強も同じで、「正しい勉強法を」学んで始めて成果を挙げることが出来る。この「正しい勉強法」を知る能力にはそれぞれ差があるかも知れない。
  しかし自分にあった「正しい勉強法を」知れば、それだけで得た知識を自分でどう使いこなすかが分かるようになる(この部分が、人の創造力を養う訓練にもなる)。分かりやすい例を挙げると、算数なら、教科書には色々説明されている部分があるが、それを「正しく読み、正しく理解する」ことが最も大切な第1の過程である。
  この部分に大半の時間を割いても、無駄になることは決してない。そうすれば、第2の過程、創造力に依存する練習問題や応用問題が簡単に解けるようになるだろう。もしこの第2過程で困難に感じるならそれは第1の過程「知識の理解」が不十分だと知ること。その時は、知識の部分を何度も読んで自分の物になるまで徹底理解に勤めること。その本で駄目なら、他の参考書を使ってみる。
  参考書にも色々あるが、分からない部分を上手に説明している自分に適した本を選ぶこと。自分にとってわかりやすく解説した本は必ず何処かにある、と。新しい本ばかりでなく、古本も探すこと。古本中に「目から鱗」が落ちるような解説を見つけることもある。
  
  ところで、人の話や、本から得る知識を(第1の過程)であるが、人の話を聞いたり、あるいは本から理解したりすることの最も大事なポイントは、話者や著者が何を説明しようとしているのかを“読みとる”ことだ。
この“読み取る”能力が、勉強が出来るようになるか否かの重要な分かれ道になる。

  もし話者や著者が、話そうとしているテーマについて知識が曖昧であれば、聞くほうも、読むほうは、混乱することになるだろう。
それは同様に話者や著者の話のレベルが高すぎると、知識へ取り付くことが出来ず、それも又理解できないことになる。だから、自分に最も適した良い本や先生を見つけ出すことが能力を高める上で最も大切なことだ、と言う。
今話した内容を理解する為には、自分で何かのテーマについて、文章にしてみる。それを他人に読んでもらって、自分の言いたいことが正しく伝わるかどうか試してみる。そうすれば、自分の考えていることを、正確に他人に伝えることがいかに難しいかわかるだろう。
  つまり、他人によって書かれた文章が、どんな工夫がされていて何を伝えようとしているのか?の苦労が少しは分かるようなるだろう。

  人に正しい知識を伝えることが如何に難しいかが分かれば、逆に人の知識を正しく理解する自分なりの方法が見つけられる可能性が高くなる。
いずれ数学を習うようになれば、ややこしい記号が一杯出てくる。記号を見てアレルギーを起こす人もあるが、実は複雑な知識を正確に伝える為には、厳密に定義された記号を使うことが如何に必要不可欠なことか分かるようになる。

  結局勉強対する能力を高める為には、知識の起源にまでさかのぼって、徹底的に理解するように勤めることが最も大切なことだ。しかしそれには根気が要るのだ。その根気を養うことが日々の生活の中で最も重要ことなのだ、と。勉強は、徹底的な精読から始めるのが原則だ。

  生まれつき根気のある人は努力する必要がないだろう。根気は強い意志から生まれるのだ。
  お前は、小さい頃から、甘やかされてきたから、本当の意味での根気の部分が欠落していると思う。その部分をまず根本から鍛えなおさなければならない、親父がお前に厳しいのは「その為なのだ」と言うのでした。
  


2010年07月06日(火) 青いダイヤ

 7.
  その場所から、山道は少し広くなって、暫(しばらく)登って行くと山小屋がひっそりと建つ平地に出ました。山の一角を削って作られた平地で、恐らく樵(きこり)さん達が木の枝を切り落としたり、材木や薪を作ったりする場所だったのだと思います。
  其処から、明るい月の光に照らし出された周囲の山々の稜線がなだらかに重なり合う様が墨絵で描いたように見えるのでした。稜線の合間から(狭い領域ではありますが)街の遠景が望まれ、私の心を少し和(なご)ましてくれるのでした。 
  兄達は平地に新聞紙を広げると、まるで、お坊さん達が修行する時のように足を組みながら(座禅)、私の方を見て「お前もやるか?」と聞くのです。私が頷くと、兄は「少し難しいと思うが、何も考えないで、頭の中を真白にするように努めるのだ」
  兄の話を翻訳すると、頭の中を空にするには大変なエネルギーと集中力が必要なのだ。それが出来るようになれば、どんなことでも「辛い」と思わずに出来るようになると---。私に分かりやすく説明するつもりなのか「勉強にも身が入るぞ」と話すのでした。

  座禅を組んでみると、静かだと思っていた山中にも、時折風の吹く音、大きな鳥が頭上を飛び去る音、木々が風に騒ぐ音など意外に騒がしいことに気付きました。
  最初は簡単な事のように思えたのですが、時間が経つにつれて足が痺れてきて周囲のことを窺うより自分の苦痛に耐える気持ちのほうが勝(まさ)り、2人が何時座禅をやめるのか、そちらの方に気が散り始めたのです。頭の中を空にするどころではありませんでした。
  北から吹き降ろす風に、最初は厳しい寒さを感じていましたが、時間が経つと、足が痺れてきて、その苦痛を我慢していると、逆に全身が熱くなってくるのでした。どれ程、そんな状態が続いたでしょうか(自分では我慢の限界を感じ始めていたのですが、後で兄は30分程度だと話していました)、兄は、「今夜はこれまで」と言って、「少し体を動かそう」と立ち上がると、足の屈伸(スクワット)、腹筋、腕立てなどをするのでした。体を動かすことがこんなに楽なことだとは思いもしませんでした。
しかし兄が腕立て伏せを100回程軽々とこなす間に、私は20回するのがやっとでした。驚いたことに兄は普通なら1000回はやると言うのでした。

  帰り道、兄と高校生は哲学的な難しい話をしていました。私にはよく理解できませんでした。
  私達の影が月明(つきあか)りで、墨で書いた影絵のように地面に張り付いて歩いていました。
  兄が「勉強は自分を磨く為にするのであって、試験の為にするのではない」と話すと、高校生が私に向かって「試験は自分のやってきたことを試すために受けるのだよ」継ぐのでした。2人は随分気が合うようでした。
この頃の兄は仙人めいた生活に没頭しているようでした。
自分の能力の限界に挑戦しているように私には思えるのでした。

  これは、私にとって初めての修行経験でしたが、何かが私の琴線に触れたよう感じられたのです(生ある人間としての自覚)。

 8.
  もう少し兄の話を続けます。私たち家族が戦時中、大陸のS市で住んでいた頃でした(この頃私は恐らく1〜3歳の頃だったと思います)。
その頃の家の状況は、断片的ではありますが、不思議と私の記憶の中に残っているのです。
  私が生まれてから暫くして、母が生死をさまよう大病を患っていたようです。母は寝込んでいました。
  当時、父は忙しく働いていましたので、炊事、洗濯、家の掃除などと誰かが母親代わりをする必要があったのです。
  現代のように、近くに病院があるわけではありません。家は7人の大家族で、誰かが母に代わる仕事をしならなければならないのです。この頃の記憶は、少し前後混乱があるかも知れませんが、兄は学校も行かずに幼い私や母の世話をしていたように思います。又、何処かの医院で母の病気の治療法を教えてもらってきて医者の真似事のようなこともしていました。
  母は病気で母乳が出ないので、兄が私の為に子供用の食べ物を苦労して作ってくれていたそうです(当時は牛乳もなく、戦時中だったこともあって、材料が不足していたのか、あまり美味しいとは思った覚えはありません---)。

  しかしすべての点で、母は安心して兄に頼り切っていたように思います。父の名誉の為に言っておかなければなりませんが、当時我が家は決して貧乏だった訳ではありません。しかし、外地で周囲に頼れる人が住んで居なかったのです。
  兄は、弱音を吐くこともなく、母の仕事を何でも器用にこなしていました。父も兄の助けを当てにして母の病気のことなども色々相談して任せていました。兄の年齢のことを考えれば、随分酷な話だったように思います。しかし今振り返ってみれば、家族一緒に冒険旅行を体験しているような楽しさがあったかもしれません(私が少年の頃冒険小説が好きだったのも、この頃の生活と少しは関係あるのかも知れません)。
  現在、日本では、老人や病人の介護、子供の保育施設のことが問題になっています。しかし当時はほとんどが、大家族で家族の誰かに何かがあれば、家族の誰かが代わりになって働いたのです。その為に、恐らく有能な人材も、家族を支える為に、自分の意思(夢も捨てて)を曲げてでも男の子なら丁稚に女の子なら女中に働きに出るというのが普通の考え方だったのです。
  そして自分の夢を他の兄弟に託す人達も多かったと聞いています(当時は家族が一丸となって生活していたのです)。
  私の家族も母が倒れている間、兄が学業を休んで母代わりに家族を支えていました。しかし兄はその間も、家では勉強を続けていたそうです。



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