ジョージ北峰の日記
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2010年08月30日(月) 青いダイヤ

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  私の長兄に対して尊敬する気持ちが何処にあったのか思い返してみますと、誰もが認めている“兄の優秀さ”にあったのではなく、(最初に申しましたように)彼が示した猫に対する“行為”だったことに間違いありません。誰も顧(かえり)みることがなかった動物を人間と同じに扱おうとした行為に興味を持ったからでした。猫も何故か、想像以上に兄になついていました。
  この話を聞いて“なーんだ、君は単純だね”と思われるかも知れませんが、自分達が生きていくのが精一杯の時代に---、兄の行為が私には不思議に思えたのです。
この辺りのエピソードを少し詳しく話してみましょう。

  夏には近くの池に兄弟でよく泳ぎに行きました。兄は水泳部に所属したいたことがありますので、近所でも目立つ泳ぎの達人でした。
  又、当時姉も高校生で水泳部に所属していましたが---この話は少ししておきましょう。姉は高校に入るまであまり泳いだことがありませんでした。が、水泳部に入って、瞬く間にその才能を発揮し、1年生の夏には、新記録を出し国体に出場するほどまでになっていたのです。(当時、なんとも思わなかったのですが、私が大人になってから泳いだ時、それがどんなにすごいことか思い知ることになりました)しかしその後、姉は肺炎になって水泳の継続を断念しました。当時は抗生物質がなく、肺炎で若い人達が随分亡くなっていた時代だったのです。
  それだけが理由だったかどうかは知りません。それに母は、特に“女”が部活に熱を入れることを快く思っていませんでした。ただ父はスポーツには理解がある方でしたので少し残念がっていたように思います。ただ当時「肺炎」は若い人にとっては危険な病でした。結核だと家族と離れて療養生活が必要だったのです。父も「仕方がない」と姉に水泳をあきらめるように説得していた光景が今も私の脳裏に不思議に残っています。

  今から想像すると、姉は男の水泳部員から“もてていた”に違いありません。当時、姉は目が大きくクリクリ輝く元気一杯の少女だったに違いありません---。母はそのことを、“女の勘”で心配していたのでしょう。当時は、現代とは違って女性は“大人しく”家庭的であることが最高の美徳だったのですから。

  事情はよく分かりませんが姉は部活をやめました。
当時姉も夏休みには私と一緒に近くの“ため池”について来てくれましたが、やはり泳ぎが抜群に上手で、若い男達が姉に競争を仕掛けるのですが勝てるわけがありません。影で、こそこそ“下手な泳ぎだけど、速い”と悪口を言い合っていました。姉は姉で「あんな素人に負ける訳がない」と意気込んでいました。
  話を戻します。
不思議なことに兄と一緒の時だと猫はまるで犬の様に私達ついて来るのです。面白いことに私達と一緒に“猫かき”で上手に泳ぐのです。そして帰る時も私達の前後を歩いて一緒に帰ってくるのです。(こんな猫を見たことがありませんでした)普通猫は犬に較べると勝手気ままで、人間と行動を共にすることがなかったのです。
  「変わった猫だ」と思っていましたが、ある日兄が興味深い話をしてくれました。兄は「動物と心を通わせることが出来るのだ」と言うのです。
私がその言葉を疑っていますと---兄は真剣に「いずれその証拠を見せてやる」と約束したのです。

  それからどれくらい月日が経ったか忘れましたが、ある日、兄は金魚を買ってきました。それから毎日金魚と“にらめっこ”していました。
で、私が「何をしているの」と尋ねますと「金魚と話しているのだ」と真面目な顔で話すのです」
  「どんな?」
「今からその証拠を見せてやる」と---「どの金魚でもよいから、お前の好きな金魚を1匹選べ」というのです。
  小さな洗面器に3匹、泳いでいました。私が黒斑のある金魚を選びますと、「この金魚を自分の思うとおりに動かして見せるから」と---「黙って見ていろよ」と言って、金魚を睨(にら)み始めたのです。
と!金魚が小刻みに震えるような動作を始めたのです。そして兄が前後左右に動くように指示しますと、その金魚が指示通りにチロチロと移動するのです。私はすっかり仰天してしまいました。
「今ならお前にも出来る、やってみろ」と言うのです。
急いで兄のやっていたように睨みますと、暫くの間、その金魚は私の指示通りに動いたのです。しかし少し目を離した隙に“兄の魔法”が解けたのか、二度と私の指示に従うことはありませんでした。
「なぜ?」と尋ねますが、兄は単に「集中力さ」と答えるだけでした。


  さて当時、私は自分にはどんな能力があるのか分かりかねていました。私の兄弟には、それぞれ何か特異な才能を持ち合わせているようで私には羨ましくて仕方がありませんでした。兄は「慌てることはない」と言ってくれるのですが、やはり私なりに焦っていました。

  ある日、兄は私に人間の能力について興味ある話をしてくれました。
一番分かりやすい例として数学の問題を解く能力を上げてみましょう。一生懸命勉強すれば、ある程度のところまでは誰でも問題を解く能力をアップすることが出来る。それを能力“A”と呼ぶことにしましょう。しかしその能力だけでは、過去に経験したことがない新しく難しい問題に出くわした時に解決できないことがある。しかし同じ程度かそれ以下の知識しかない人間でも、問題を解決できる人もある。その差は何処から出てくるのか、それが大問題なのだ。
  それは個人が持っている直感力(能力Bと呼ぶことにします)に負うところが大きい。直感力は理屈を超えた生得の能力で、問題の本質を即座に見抜く能力と言える。直感力が優れた人は他人から見れば天才に見えるかもしれない。勉強のことばかりではない。
  例えば、政治家の直観力は国家を救う場合もあれば、逆に地獄に落とすこともある。つまり政治家は理屈も大事だけれど、大きく世界の動向を見極め、正しい方向へ社会を導く能力に長(た)けた人であるかどうかが、最も大事な資質だと言える。幕末で言えば、坂本竜馬、西郷隆盛、勝海舟などが、そんな資質を持ち合わせていた人物だ。

  分野は違うが、スポーツ能力、芸術家の能力も生得の能力に負うところが大きい。誰もが優れたプロ野球選手や芸術家になれるわけではないからだ。彼等はある意味でB能力を持っている人達だ。
本当の自分の能力を高めたければこのB能力のアップこそが、最も重要なのだと言うのでした。
  そして兄は、自分は心霊現象に興味があり、自分にその能力が備わっているのかどうかを試しているのだと真面目な顔で話すのでした。


2010年08月06日(金) 青い

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  兄は決して私に勉強を教えようとはしませんでした。まず、人間として生きていく為の自覚とか覚悟を教えようとしていたのだと思います。
長い人生で遭遇する色々な出来事に対して「自力で考え、自力で如何対処すれば良いのか」を考える姿勢を私に教えようとしていたのでしょう。

  しかし私は、兄と一緒に生活するようになってからも相変わらず、友達と道なき山林に分け入り、木登りをして、木が撓(たわむ)のを利用して、まるで猿の様に木から木に飛び移り、木の実を取ったり、沢登をして木苺を食べたり、魚釣りをしたりして遊んでいました。時にサルや、鹿に出くわすこともありました。時に番犬に追っかけられて、命からがら逃げたこともありました。あるいは小学校の4年生のころには、ませた子供達がいて、子供はどうして出来るのだろう?などと、とんでもない議論することもありました。勿論そんな話は、皆興味深そうではありましたが真剣ではありませで。しかし今から考えてみると、かなりいい線の推理?が出来ていたように思います。
  その年頃になると、誰もが異性に対してある種の感情が芽生え始めていたのかも知れません。勿論私にも憧れの少女がいました。しかし彼女は私にとって神聖な存在で、性の話を絡めて考えることはとても許されないことのように思えるのでした。そんな腕白が抜け切れませんでした。

  しかし兄と生活を共にしているうちに、私にも勉強に対する自覚が少し出てきたのか、夕食後は自分から進んで勉強する習慣がつきはじめました。以前は9時ごろには寝ていたのですが、その後夜11時頃まで起きて勉強をするようになりました。「時間を有効に使えば、自分の力で何かが出来る」ことの喜びが少し分かるようになってきたのです。
  当時母が保護者会に参加した日、私に「自覚」が出来たようだ、仲間からも尊敬されるようになってきたと先生が褒めてくれたそうです。


  ある日、兄が映画に連れてやろうと誘いました。当時は勿論テレビはありません。「映画をみる」のは、時々夏休みに小学校の運動場で無料の野外映画大会で見る程度でした。
その日、兄はたまたま家庭教師をしていた学生の家から映画の招待券もらったらしいのです。
  私は映画館に行くのは始めてでした。ドキドキ胸をときめかして真暗闇の映画館は入った時の様子はいまも鮮明に記憶しています。

  映画は、戦争映画で日本の敗戦の様相が濃くなり、日本が特攻隊をやむなく敢行するくだりの話でした。主人公はベテラン戦闘機乗りで、若い特攻隊員を連れて出撃していく様子を描いた話でした。私が感激したのは、その隊長が「特攻」に直面しているのに、恐れる様子もなく若い特攻隊員たちに  「出撃するからには、お国の為に敵戦艦を絶対に沈めなければならない。敵も必死で反撃してくるから、簡単ではない。その為には、お前達は最後まで俺から放れずについて来い。必ず成功させてやる。だから今夜はゆっくり休め」と笑顔で話す態度でした。若い隊員達も緊張した面持ちで、泣き言を言うこともなく、凛々しく敬礼するのでした。映画館のあちこちからすすり泣く声が聞こえていました。
  私は、子供ながらに「大人になれば、こんな風に笑顔で死ねるのだろうか?」と頼もしく思えるのでしたが、自分にはとてもそんな勇気はありませんでした。だから一層感激したのかも知れません。

  帰り道、兄は人の「死の代価」について話していました。あの状況下なら、自分の命を投げ出すのに充分な価値があるだろう、と話していました。すると高校生は「しかし結局、戦争に負けたのだから無駄死だったのでは?」と反論したようでした。しかし兄は「彼の(隊長)名前は日本国がある限り、忘れ去られることはないだろう」と、「戦闘機乗りとして戦い続けることも出来ただろうが、その為に撃墜されたとしても、誰も彼の業績を知る人はなかっただろう。しかし彼の死は日本人の心に深く突き刺さる出来事だった。彼の純粋な心は、誰にでも理解されることではないだろうが、しかし少なくとも敵国は、何処かで日本人は馬鹿に出来ないと恐れるだろう。日本人の心意気を名刺代わりに突きつけたことになる」と言うのでした。
しかし、兄は、その後の日本の特攻攻撃が正しいかったと考えてはいないようでした。
  ただ兄は一人の人間が死を賭(と)してする行為の代価について話したかったのだと思います。その後、何年か経て有名な作家が切腹自害した時も、彼の「死の代価」について、いずれ歴史が評価することになるだろうがと、少し疑問を投げかけるのでした。

  しかし兄は人間の「死の代価」を厭わない自己犠牲こそ、人の真の倫理的判断に基づく崇高な行為と考えているようでした。

  「人間は皆、何等かの目的を持って生まれてきている。その目的を果たさずに死ぬことは許されない。だから自己の死は他人からの影響ではなくて、あくまで自分自身が正当と判断した場合でなければ、つまり自分の生の論理と矛盾しない死、自分にとって死の必然性がなければ意味がない---」と議論するのでした。
   後(のち)に分かったことですが、兄は、自分の「生きている意味」は、自分自身で見つけることだと私に教えたかったのでしょう。
   生きる行為は実は「常に自らの死を代償にできるほどのものでなければ意味がない」と言いたかったのでしょう。
  つまり「ふらふら生きるんじゃない」と---


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