ジョージ北峰の日記
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2010年06月23日(水) 青いダイヤ

 6.
  兄の部屋に同居することになりましたが、兄は私に何も教えようとはしませんでした。私が、外で遊んで何時に帰ってこようが、全く勉強しなくても注意することはありませんでした。ただ兄が何かに集中している時には、話しかけ難い雰囲気がありました。
  あれは、確か冬休みのことだったと思います。兄が久しぶりにリラックスしている風でしたので、宿題を教えてもらおうと思って話かけますと、教えてはくれたのですが、その後、兄は「お前の今後の為に話しておくが」と前置きをして、説得するように話し始めたのです。
  「勉強で、分からない問題に出会った時は、まず自分で、一生懸命考えて、考えて、間違っていても良いから、まず答えを出すことだ。それから人に聞くか参考書を見るかすることだ。そうすれば教えるほうも何処を教えればよいか分かるだろう?ただ難しいから教えてくれでは、教えようがない。人間の知恵の成長は、確かに人から教えられて得られる部分もあるだろう。しかし本当は、間違っても良いから、自分で答えを得ようとする努力が一番大切なのだ。結果は間違っていても良いのだ。試験で満点を取ることが出来ないかも知れない。しかしそれでも構わないのだ。それが自分で考えて努力した結果なら---。
  確かに小学生や中学生では、人に聞く方が“勉強が出来る”ようになる為には早道かも知れない。しかしそれでは、本当の意味での人間の成長はない。又、何時まで経っても自分に自信がもてないだろう。
何度間違いを繰り返しても良い。しかし、その度に「何故!」と自分で反省することだ。そして同じ過ちをしないように努力することだ。それが自分自身の能力を高める早道なのだ。
  つまり、それが“自分を知る”と言うことなのだ」と自称哲学者の兄が話すのでした。
  後に母にこの話をすると、“無責任な”と怒っていました。

  当時兄は、家庭教師をしていました。彼は高校生で1週間に2日ほど、兄の部屋に訪ねて来ました。しかしある冬休み、私と一緒に狭い兄の部屋で寝泊りすることになりました。兄は私には構わず、彼に付きっ切りでした。
私は全くの邪魔者扱いでした。兄の私に対する教育は少し、いや随分変わっていました。

  ある満月の夜だったと思います。2人はこれから修行に行くと言うのです。「お前もついてくるか?」と兄が言いました。私は「修行」の意味がよく分からないので、“面白そう”に聞こえ「行く」と答えますと、高校生が笑いながら「怖いぞ!」と脅すのでした。
  3人で裏道から池の畔を抜けて山道に入ったのです。電気の灯りは全くありません。ところが月明かりでも、昼間の様に周囲の景色がよく見えるのです。池の水面に月影がくっきりと映り、松の葉の一本、一本でさえ鮮明に判別できるのです。そう “荒城の月”の景色を想像していただければよいかと思います。
  遠くでフクロウの“ゴロスケホーホー”と鳴く声が聞こえてきました。
兄が見つけた人一人がやっと通れるほどの道を、どんどん進んでいきますと伐採した木を運び出す、トロッコの線路に出くわしました。この辺りに来ると辺りは真っ暗闇で月の光は全く差し込んできません。木々の合間から遠くの山がまるで水墨画の様に時折かすんで見えるのです。師弟の2人は歩きなれているのか私には構わず進んでいきます。
  線路の“渡し木”の下は深い溝になって水が流れてました。私は足を踏み外しそうで2人の足の速さについて行けません。その上線路はくねくね曲がっていますので、とうとう2人姿を見失ってしまいました。
すると、背丈の低い木が幽霊の様に見え今にも“怨めしや”と近づいて来るように思えるのです。私は死に物狂いで線路を登って行きますと、やっとのことで終点に辿り着きました。
  辺りは少し広くなっていて、伐採した沢山の木が積み上げられていました。2人を見失った私は、如何すればよいのか、しばらく呆然としていました。
  と、突然カラスが騒ぎ始めました。真暗闇で聞くカラスの声は地獄の声の様でもありました。私は怖くて震え上がりました。2人に付いてきたことに後悔し始めていました。(後で知ったことですが、フクロウとカラスは天敵で、フクロウはカラスの巣を夜に襲うらしいのですが、昼間カラスがフクロウを見つけると集団で襲うらしいのです)
  最早2人を探す気力もなくなって「帰ろう」と、私が一目散に線路に向かおうとした矢先、“わあっ!”と声がして、材木の陰から2人が飛び出して来ました。
  腰を抜かさんばかりに驚いたことは言うまでもありません。しかし2人は私が不安そうにうろうろしている姿を見ていたらしいのです。兄は「帰りたくなったか?」と笑いながら、キャラメルを3粒くれたのです(よく食べ物の話が出ると思われるでしょうが、当時キャラメルを見ることは、余程の時でない限りありませんでした。子供にとって貴重品だったのです)。
  私は嬉しいのか、悲しいのかよく分からないまま“泣きべそ”をかきながらキャラメルを1粒、そっと口に入れたのを覚えています。それはとろける様に甘く、本当に優しい母の味の様に思えるのでした(その味は今でも決して忘れることありません)。


2010年06月16日(水) 青いダイヤ

4
  当時は、私自身に勉強机はありませんでした。本箱といっても、現代の人は知らないと思いますがミカン箱(と呼んでしました、木で作った段ボール箱と考えていただければよいかと思います)を横にして使ったり、あるいは又箱を潰して自分で簡単な本立てを作ったりしていた時代のことです。
使い古した折りたたみの食卓を机として利用していました。灯りは、電気スタンドを兄の勉強机(当時イスのある机のことを“たち机”と呼んでいました)から照らすのです。部屋の広さは4畳半、薄暗い灯りなのですが、しばらく2人で居ると電灯の熱で部屋が暑くなってきます。当時は、扇風機も、勿論冷房装置もありません。だから何時も夏は窓を開け放したままでした。(屋敷には何も捕るべきものもありませんから、泥棒など気にかける必要もありません)
  この時代、小学校では先生が二宮金次郎の話をよくされました。貧乏な家の出で、立派な学者になられた人物の話しです。彼は昼間勉強する時間がないので、仕事が終わってから夜、蛍の光で勉強したというのです。最後に、君達は恵まれているのだからしっかり勉強しなければ、と結ぶのです。
「蛍のいない冬は如何していたのだろう?」と疑問はあったのですが、「蛍の光で本は読めないだろう」とは思いませんでした。そんな時代だったのです。
  話を元に戻します。宿題を終わらしますと兄が話し始めたのです。
 「今日何故、お父さんが怒ったか分かるか?」
 「僕がお父さんの言いつけを守らなかったから?」
 「それもあるが、もっと大事なことがある。お前は子供だから分からないかも知れない」と前置きをして、話始めたのです。
子供は生まれた時は、何も知らない真っ白な状態で生まれてくる。そして育つ過程で色々なことを経験して自分の生きる道を見つけていく。
ライオンの親は、子供を谷は突き落とし、そして這い上がって来る子供だけを育てる。それがいずれ一人前のライオンとして生きていく為の子育て教育なのだ。 そのようにして親ライオンは子供が、将来一人で生きてけるかどうか確かめているのだ。
  (この話は、当時の私には随分怖い話でした。出来れば何時までも母と一緒に生きていたと思っていたからです)
 「上って来れないライオンは?」と聞きますと「死ぬだけだよ」あっさりと答えるのです。
 「これは例え話だが、人間の場合は、誰もが無限の可能性を持って生まれてくる。例えば、偉い学者や、音楽家、野球選手などになろうと思えばなれる。しかし何も出来ない人間にだってなることもある。
無限の可能性といっても誰もが同じ無限の可能性を持っているわけではないが、親は、子供の無限の可能性の中から、その子の将来を伸ばせる才能を見つけてやろうと考えているのだ。
  無論ほっておいても子供が自分で、自分の生きる道を見つけて生きていく場合もあるだろう。しかし、子供に好きなようにさせておくと、本来もっている可能性の中でもっとも悪い選択肢を選んでしまうことだってある。例えば食べ物で好き嫌いを放置しておくと体の弱い子に育って、病気になって死んでしまうことさえある。それと同じことだ。
  だから親は子供に出来るだけ良い可能性を見つけてやろう、そして子供の進む良い方向を見つけてやろうと一生懸命なのだ。
  自分が小学校2年性の頃、親父は今よりもっと厳しかった。算数を小学校の低学年のうちに高学年の分まで教えられた。その後さらに中学の勉強へ進んだ」
  そう言えば、母も私に長兄は毎日泣くような勉強をしていたと言っていました。一方父に言わせると、長兄は嫌がらずについてきたと言っていました。(その話を聞いて、父が私に興味を持ちはしないかと心配したものでした)
  (しかし私の経験から言えば、親の子育ての意気込みも子供3人ぐらいまで、15歳も年が離れていますと、もうその子を(親には)どうこうしょうという気力が薄れてしまうものなのです。だから、恐らく父は兄に自分の代わりをさせたかったのだと思います)
  兄は「難しい話だが人間にとって“自分を知る”こと、つまり、それは色々なことをして間違ったり、褒められたりしながら、自分の体で、自分のことを知ることが大切なのだ」と続けました。
 「今日は、お前はひどく叱られた。その経験から、お前は何を学んだのかが重要なのだ」
  当時子供として、父親に反抗していました。
しかし兄は、そこから何かを学べと言う。私には親の気持ちが少しは分かった気がしましたが、しかし、本当のところ、何を学べばよいのかよく分かりませんでした。

  当時の話を少し大人向きに翻訳してみます。つまり兄の持論は、生まれた時は誰もが隠された潜在能力(
(ダイヤの原石)を持っている。しかしどんな潜在能力があるのか、大人になっても自分ではなかなか分からない。しかし、それは生きる為の力と方向性を与える、人間に最も基本的な能力だというのです。
  ある人はそれを、動物のように表現するかも知れない、又ある人は仙人のような優れた人格を表現するかもしれない。
  つまり潜在能力は人間にとって生きる為の最も基本的な力だと言える。
が、しかしそれだけでは動物と人間との区別は出来ない。人間には、動物と違って潜在能力以外に成長の過程で形作られる“意志”がある。
  
  この意志と潜在能力の競合の中で“人間の、人間たる”人格が形成される。
  つまり意志をどのように形作るかが重要なのだと言う。例えばプロゴロファーなろうという強い意意志が働けば、もし自分に潜在能力があれば、I.R.のような立派な選手に成れるかもしれない。あるいは野球選手になろうと思えばI.S.やM.H.のような優れた選手に成れるかもしれない。あるいは又、ノーベル学者にだってなれるかも知れない。
しかし自分の意志と、自分の潜在能力が矛盾する場合、必ずしも優秀なスポーツ選手や学者になれない場合もある。
  人生が充実していて、成功者になる為には、自分の意志と本来持っている潜在能力が一致した場合だと言っても過言ではない。   
  しかし本当は自分がどんな潜在能力を持っているかということは自分では、なかなか分からないものだ。
だから親や、先生が子供の潜在能力を、早く見つけてやるのが良いと言える。が、本当はそれもなかなか難しいものなのだ。


  ただ一つ、大事なことは、潜在能力の発現時期は兄のように早い場合もあるが、随分遅い場合もある。だから、お前の場合も決して慌てることはない、しかし絶えず意識して自分の潜在能力を探す努力をすること、そしてそれを見つけたら何時からでも良い、躊躇(ためら)わずに、その能力の発現に邁進(まいしん)することだ、と励ましてくれたのでした。「しかしそれには強い意志が必要なのだ。親父は、その意志の大切さをお前に教えようとしているのだ」と言うのでした。


2010年06月09日(水) 青いダイヤ

 2
  話を続ける為に、当時の家の周囲の状況を少し詳しく説明しておきましょう。私の家の東西両側には山、北側には、山の清流が流れ込む灌漑用の溜池がありました。池の底は私の家よりかなり高位に位置し、その堤防が家の北側に高く築かれていました。大雨の際には堤防が決壊しないかと随分心配したものでした。
  家の東側には(庭の中だったのですが)池から流れ込む川があり、春には川魚が活発に泳ぎ始めるのが見えました。又夏には魚だけでなく蛍や糸トンボが飛び交っていました。夏、 我が家は窓を開け放しにしていましたが、よく蛍やカブトムシなどが飛び込んで来ました(蚊や蛾は勿論のこと)。
  西側には山の裾野に沿って広い道があり、道路脇から、さらに5メートルほど降りた所が平地になっていて、我が家はこの平地の一角に建てられていました。つまり山と山の谷間の間に平地が有り、西側には、地域に住む人々が利用する比較的広い人道、そして東側には田圃へ流れる川沿いに林・農道用の狭い道がありました.
  南側は町の中心部へなだらかな傾斜を伴う平地が続いていました。
  池より上流には人家はなく、池には山水(やまみず)、(灌漑用水とは言え飲料水に使っても良いほど)透明で綺麗な水が流れ込んでいました。当時はまだ洗濯機がなかった時代で、母が衣類の洗濯によく利用していたのを思い出します。また水道も整備されていなかった時代のことで、川はお風呂の水としても利用していました。東側に位置する山道は、時に樵(きこり)さんが牛に大八車を引かせて、木の伐採や山の手入れに、又時には農家の人々が池の水門の調節に足しげく通われる道でした。我が家は西側から見れば谷底に、東側から見れば川沿いに建っていたのです。
  私の住んでいた地域は、箱根のように、自然が美しく、山林を巧く(うまく)利用した大きな別荘が立ち並ぶ、風光明媚な土地柄でした。
  しかし私が育った頃は、戦後間もない頃で、お金持ちが住んでいた地域だったのですが、敗戦の影響を色濃く残していました。農地改革で土地を失った人や、戦争で父親を亡くした家族が、なれない養鶏や養豚で生計を立てている姿も見受けました。又、地域には戦後生まれた子供達が沢山育ち始めていました(いま団塊の世代と呼ばれている人達です)。
  東側の道(裏道と呼んでいました)が業務用とすれば、西側の整備された道は、山手の別荘に住む人々が利用する居住用の道路でした。

  私の家は別荘ではありませんでしたが、300坪の敷地があり、私達子供にとって格好の遊び場でした。桜、もみじ、柿、栗の木があり、裏道に通じる橋をかけておきますと、特に春にはハイキングに来た人達がわが家の庭で筵(むしろ)を開いて、花見をすることもありました。
  私家族は大陸からの引揚者で、(今振り返ってみれば)両親、兄弟姉妹は皆若く、元気盛りでした。戦後のことで、家族が離れ離れになったりすることが当たり前の時代だったことを考えれば、家族が皆元気で一緒だったことは、何よりの幸せだったと思います。
3
  引き揚げてきてから、家族はしばらく町の中心部の借家に住んでいたようですが(この時代のことは私の記憶にほとんど残っていません)、私が小学生1年の冬にこの地に引越ししてきたのです。兄や姉達が荷物を大八車に積んで、何度も往復を繰り返し一日がかりで、この地へ引越しして来た日のことは不思議によく覚えています。母に手を引かれ、途中から竹林や畑、林を見ながら歩いてきたのですが、途中辺りに人家が少ないので随分怖い印象がありました。所々防空壕を見た時は、穴の奥からお化けが出てきそうで、随分物騒なところへ住むんだなと、怖い印象を抱いたことを今も鮮明に覚えています。(後になって、住居は山の合間に離れ離れに建っていましたが、遊び友達が結構沢山住んでいることが分かりました)

  さて私の子供時代は、現代の様にテレビもなければコンピューターゲームもありません。しかし遊びには苦労しませんでした。当時、子供と雖(いえど)も中学生は、何等かの形で家の仕事を助けていました。しかし小学生以下の子どもは家にいても役にも立たないので、ほとんど放任状態でした。
  学校から帰ってくると小学生や幼稚園児が、一緒に集まって遊んでいたのです。私も小学校からの帰りに友達と遊ぶ約束をし、家にかえるや否や鞄を放り出して、夕暮れまで遊びに熱中したものでした。

  やがて我が家でも両親が働き始め、子供達も学校へ通い、戦後のどさくさの時代も終わり告げようとしていました。

  あれは確か小学校の2年生の頃だったと思います。この地へ引越ししてきたのが初夏の頃、帰校途中、裏山 (当時東側の山を裏山と読んでいました)でゼミが“ジイジイ”と騒がしく鳴いているのに気付きました。それは私が始めて知る蝉の鳴き声だったのです。(当時の子供達には遊び道具は全くありませんでした。だから子供の興味は、まるで猫と一緒、動く昆虫には、ことさら興味があったのです)友達は「あれは松ゼミと言って、一度見たことがあるが、小さくて可愛い蝉だよ」と自慢そうに話すのです。
  私は、如何してもその蝉を見たくなりました。
「あれを捕るのは無理だよ。松ゼミは松の木の高いところで鳴いているので網を持って行っても、子供だけでは捕れない」と一層自慢げに話すのでした。
しかし私は天邪鬼(あまのじゃく)だったのでしょうか、そう言われれば言われるほど、どうしても見たくなったのです。その友達と昼御飯を食べたら会おうと約束をして家に帰ったのです。


  が、運の悪いことに、その日に限って家に父が一人いて、確か新聞を読んでいました。私が帰ったのを気付くと「今日は遊びに行ったら駄目だ」と言うのです。「友達と会う約束がある」と反抗したのですが、「どうしても駄目だ」と言うのです。理由は(恐らく私が勉強に身が入っていないということが)あったのかも知れませんが、とにかく私には大変理不尽な話に思えたのです。しかし今時と違って当時の父親は絶大な権力を持っていました。何しろ当時、親父は「怖いのは地震、雷、火事、親父」と恐れられた存在だったのですから---。
  しかし私は、父が寝た隙にこっそり家を抜け出し友達と山へ蝉を捕りにいったのです。夕暮れ時まで山中を駆け回りましたが、死んだ松ゼミ一匹を見つけただけでした。それは羽が透明で、小さな可憐な姿をしていました。まるでツクツクボウシの子供の様にも見えました。しかしそれでも大満足でした。それっきり父の言葉はすっかり忘れて、子供達と日が完全に暮れるまで遊びほうけていました。
  日がまさに暮れんとする頃、家の方角から血相を変えて、姉達が走ってくるのが見えました。「お父さんが怒っているよ」と私を連れ戻しに来たのです。
その瞬間「はっ!」と父の怒った顔が思い浮かびました。「そうだった!」私は狼狽してしまいました。
  帰ると、どんな目に合わされるか分かりません(当時子供を叱る時は、お尻をたたかれるのです)。姉が「今日は覚悟しておいたほうがいいよ。百発はたたかれると思う」と脅すのです。
 「私は帰るのが嫌だ」と「家出する」と随分ごねたのです。姉達も、最初宥(なだめ)たりすかしたりしていましたが、駄目だと分かると、最後には力ずくで引っ張って連れて行かれたのです。姉も私を連れて帰らなければ「怒られる」ので必死です。小さな私は、姉達には力では勝てません(随分悔しい思いがありました)。
  上の姉は「馬鹿だね」と囁いて笑っていましたが---。

  案の定、家に帰り着いた途端、上から怒鳴り声が降ってきました。「お前は父の言うことが聞けないのか! お前の様な馬鹿は、帰ってこなくてよい(父は馬鹿という言葉が好きなようでした)!」と---。しかし、今振り返って見れば、父も本気ではなかったのだと思いますが、私は、父の声に縮み上がってしまいました。
  それからは、厳しいお仕置きの刑が待っていました。
さて何発ぐらい叩かれたか忘れましたが、恐らく私は泣き叫んでいたと思います。見かねた母が「もう、許してやってください」と頼むのですが、父は「何を言うか!」と怒鳴るのです。母は「この子ばかりが悪いのではなく、長兄の教育が悪いのです」となんと私の悪さを、兄のせいにするのです。
  「お前がそんなに甘いから、この子が駄目になるのだ」父の怒りはおさまりませんでした。
  そんな折、運よく長兄が帰ってきたのです。事態が飲み込めた兄は「確かに、僕が悪いかも---」と、「後で充分言って聞かせますから許してやってください」と頼むのです。父はいかに、私が悪餓鬼かを兄に話すと、少し気が治まったのか「今夜は、晩御飯抜きだ」と言って、やっとのことで私を解放してくれました。

  私はお腹をすかしたまま、部屋に引篭もって蝉を見ながら泣いていますと、兄が部屋に戻ってきて「お母さんからだ」とこっそり“御握り”を持ってきてくれたのでした。「宿題はしたか?」と尋ねながら「手伝ってやるから」と私に勉強するように促すのでした。
 そして、笑いながら「お前も強情なやつだが見所もある」と言ってから、「少し話がある」と言ったのです。

 その頃の私には、理解不能でしたが、哲学を専攻した兄らしい面白い話をしてくれたのでした。その話が、私の一生左右することになるとは、当時思ってもみませんでした。



2010年06月01日(火) 青いダイヤ

  私の家族は両親と子供5人で長兄と私以外に次男、長女、次女も7人で構成されていました。私のすぐ上の姉(次女)でさえ5歳の年齢差がありましたので、正直に言って、他の兄達や姉達の逸話について、直接知ることはありませんでした。ただ父や、母の話から兄弟姉妹の“武勇伝”とも言える自慢話を絶えず聞かされていました(私をしっかりさせようと思ってのことだったのかもしれません)。

  私は母が40歳を超えてから偶然に生まれた子供だったので、それこそ目に入れても痛くない程、可愛がってくれました。家の経済状況は“火の車”だったにも関わらず、母は古着を染め直して、まるで新調したように見せるほど上手に子供服を縫い上げ、(ミシンではない)いつも着せてくれていました。だから私は良家のボンボンのように見えたかも知れません。
年齢からも、私は兄弟姉妹とはかなり離れていたせいもあって、やはり彼等も私を「仕方がない甘えん坊」と特別扱いしてくれていたように思います。

  話を元に戻しますと、長兄は小学生の2年の頃から勉強で頭角を現し、“かみそり”と呼ばれ、頭脳明晰、父が教えると物事の呑み込みが速く、瞬く間に6年生のレベルに達し、後は父が教えなくても自分で積極的に勉強するようになったと言うのです。当時、長兄の天才ぶりの逸話には事欠きませんでした。
受験勉強もほとんど苦労することなく、英才教育のための中学特別クラスに入学したらしいのですが、中学でも4年生の時に、既に当時旧制高等学校の受験組みと一緒に試験を受けて1,2番の好成績を収めるようになっていたのです。
  しかし、この辺りから、母の話によると困ったことが持ち上がったらしいのです。つまり長兄の学校嫌いが始まったのです。「学校では何も学ぶことがない、無駄だから家で勉強するほうが良い」と言って登校拒否をするようになったらしいのです。「いくら勉強が出来るからといって学校に出席しなければ卒業もできない」と母が何度説得しても、頑として「それじゃ試験だけ受けに行く」と言って、話を聞こうとしなかったのです。勿論父も随分叱ったらしいのですが、兄はやはり耳を貸そうとしませんでした。 「強情なやつだった」と後日、私にあきれたように話すのでした。
  
  両親は彼の奇行には随分困ったそうですが、幸か不幸か日本が第二次世界大戦に敗れ、旧制教育体制から新制教育体制に変わり旧制中学・高校は廃止、新制高校に移行しました。そして長兄は何とか高校を卒業、新制の大学に入学したらしいのです。しかしその時もトップで入学したと父が語っていました。しかし入学式の時“晴れがましい”代表挨拶は拒否したらしいのです。

 とにかく父や母から聞く長兄の評価は、私にとっては、驚きと、羨ましさ、理解し難い部分ばかりで、彼の不思議な(いや神秘的といったほうが正しいのかも知れませんが)行動にますます畏敬の念抱くようになるのでした。

  長兄は理数系が特に得意だったようですが、大学では(母に言わせれば悪いことに)哲学を専攻していたらしいのです。

  大学へ入学してから、長兄は暫らく家で生活していましたが、やがて家では集中できないと、人家の少ない山手の方に山小屋(粋人が建てた茶室だったようですが)を借りて夕食後は其処に籠もって生活するようになりました。母に言わせると、当時長兄は父との関係がうまくいっていなかったそうで、母も長兄が山小屋に住むことを同意したと言うのです。

  当時、私も山小屋に行く機会があったのですが、(几帳面な)兄のことですから部屋はいつもきちんと整理整頓されていました。ただカントとかショウペンハウエルといった哲学書が山積されていたのをかすかに覚えています。
  
  一方私は、当時あまり出来の良い子供ではありませんでした。私の兄弟姉妹が、あらゆる点で秀でていましたので、私は一体何をすれば良いのかさっぱり分からなかったのです。両親も私には何も期待していなかったのか、あらゆる点で私には甘かったのです。
  
  だから私の本当に競争意欲もなくただ“のほほん”としていたようです。信じられないかも知れませんが、小学生の低学年の頃、運動会では競争して走るのだということさえ知りませんでした。ただテープへ向かって走るだけでよいと思っていたのです(両親も運動会を応援に来たことがありませんでした)。私としては何でこんなことをするのか、周囲の観客席で、親達が何故そんなにわあわあ”騒いでいるのかよく分かりませんでした。
  
  又、教室でも、手を挙げて積極的に発言することもありませんでした。先生も母に少し積極性にかけると言っていたようです。
今なら、私は格好のイジメの対象児童だったに違いありません。私が小学校2年生の頃、私のすぐ上の姉が6年生だったのですが、通知表はスポーツ、図画、音楽を含めてオール5、しかし私はほとんどが4、ほんの2、3個5の評価だったように思います。母に見せますと「何が悪かったのだろう」と褒めてくれなかったのです。父にいたっては「この子は馬鹿だ」と一刀両断でした。当時私は通知表の評価さえも何なのか知らなかったのです。
「試験は、ほとんど100点なのに」と口をふくらませますと、母は「お前は字の練習をさせていないし、絵も下手だから」と「私の責任だよ」と少しかばってくれたのです。しかし父は「低学年の試験なんて誰でも100点だから、試験の成績は関係ない」とひどい侮辱の言葉を投げかけるのでした(確かにそれは真実かもしれませんが)。「この子には何かダイヤの様な“キラっ”と光るものがない」とさえ言うのです。しかし私には「キラっ」光るとは何のことなのか、子供だったこともあって、さっぱり分かりませんでした。


 両親は、私をどうすればよいのか随分話し合っていたようですが、結論は「長兄と同じ部屋で寝泊りさせる」ことなったようでした。


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