ジョージ北峰の日記
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2003年01月19日(日) ノーベル賞と日本経済ーつづき

 私は経済学者ではないので、経済政策の詳細について議論することは避けたいと思う。しかし現代の日本経済は性懲りもなく赤字の上塗りを続け、一向に景気の回復する様子が窺えない。人々の負担は増える一方で、先が全く見えない状況にある。
 日本の経済が最盛期にあった頃、経済音痴の私でさえも日本のバブルは異常であったように思う。歴史のほんの一時期であったとは言え、日本が経済的にあのような好況を謳歌できた要因は、決して日本の実力ではなく戦後日本の置かれた極めて特殊な状況、即ち日本は戦後経済復興期であったこと、日本経済は未だ未成熟でアメリカ経済を脅かすほど強大ではなく、かつ世界は冷戦時代でアメリカは日本の安い加工製品を必要としていたこと、日本人の勤勉さによって作り出された製品が予想以上に優れていたこと、アジアの経済が未熟であったこと等があげられるだろう。 当時一生懸命働けば何とかなる時代背景があった。
 しかし今、日本はアメリカに次ぐ経済大国に成長、アメリカと言えども日本の経済を支えきれなくなってきたと言うのが実情だろう。 加えて中国、韓国を含むアジア諸国の経済力の充実がある。
 本当は、もっと早く日本経済は構造改革の必要があった。それは物を作って売るそれまでの経済体制からアメリカ型へ、即ち知的財産の開発と蓄積、貯蓄だけではなく株式、投資信託など金融商品へ国民が積極的に参加できる仕組みを構築する必要があった。このことはかなり以前から(バブルの最盛期ですら)指摘されていたことである。
 その矢先、資本主義経済下の社会では決してあってはならない、某証券会社の人々を馬鹿にした不公正取り引き。それにのうのうと乗っかった政治家、官僚、経済界のリーダー達。本来彼等こそ、資本主義の秩序を守るべき立場にあったはずである。公正な経済社会の運営・監視は行政(政治家と官僚)とりわけ国家の監視役としての官僚の果たす役割が大きかったはずである。彼等が堕落してしまったら、人々は誰を信じて働けば良いのか。日本の官僚が優秀とされてきたのは単に実務のことだけではなかったはずである。高いインテリジェンス・道徳観に基づく彼等の実務能力こそ世界は評価していたのである。それは、もはや過去のことになってしまったのだろうか。
 現代の日本社会は中枢部(政治家、官僚、経済界のリーダー)にはダイナミズムが失われ、権力機構の交代と言えるほどの変化はほとんどなく、自分達の既得権益を守る為に一生懸命のように見える。また所謂、国民もそのような”ぬるま湯”にどっぷり浸かり安易な生活を謳歌し、未だ過去の夢に浸り本当の変革を望まなくて良いと考える状況にある。
 そのような状況下で優秀だったはずの官僚も堕落してしまったのだろうか。

 今の日本は老化した”末期社会”と言えるのではないか。江戸時代末期の状況に似ているように思える。社会がまさに制度疲労を起こしているのである。
 しかし歴史はどのような社会体制も制度疲労なしに長期にわたって持続したためしがない、ことも教えてくれている。
 この制度疲労(社会の老化)は、社会が栄え成熟しきったあげく、(権力者に限らず)人々の間に徐々に蔓延し始める”公正さ”の持つ意味、重要性(社会が活力をもって成長する為の基本的条件)についての認識の甘さから、又社会全体では蜘蛛の巣のように張り巡らされた。既得権益にぶら下がる(人々)機会の増大が極限値に達するところから始まると言えるのではあるまいか。
 この老化社会の再生には、これまで人類は革命、戦争、クーデター等きわめて巨大なエネルギーの消費を必要としてきた(日本で言えば明治維新であり、第二次世界大戦であった)。今、日本がそのような巨大エネルギーの注入を必要としているかどうか不明であるが、人類の文明が本当に進化しているなら、そのような手段は当然避けるべきだろう。被害が大きすぎるのである。
 この問題の解決には、今回T氏がノーベル賞を受賞されたことにヒントがあるように、私には思えるのである。
      つづく
 
 


ジョージ北峰 |MAIL