ジョージ北峰の日記
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2002年05月26日(日) 夜part2

 夜はいったい何時から何時までの時間帯を指すのであろうか?判断には、かなり個人差があるだろう。常識的には午後7時頃から翌日の午前3時までが夜の時間帯と言える。この時間帯をどう使うか、が人の一生を左右するといっても過言ではないと思う。この時間帯は自分の趣味例えばスポーツ、音楽、絵画、書道あるいは仕事に関する技能の開発に費やすことも可能であろう。(人によっては趣味が将来、本職に替わる場合もあるだろう。)
 しかし、出来れば仕事と無関係な活動に専心するか完全にリラックスした方が良いと考える。私がアメリカで研究に意欲を燃やしていた頃、土、日も休まず仕事をしていたところ、周囲に仕事のし過ぎだと言われたことことがあった。誉められているのかと思っていたが・・・夏に2週間の休暇をとって、アメリカ北部の町を旅行したいと恐る恐る申し出たところ意外にも喜んでくれたのである。日本とは随分違うなと、その時は不思議に思った、が後になってその理由が分かったのである。アメリカと日本では仕事に対する考え方が少し違っていることに気付いたのである。アメリカでは自由な時間こそ、人には個性的発想、素晴らしい創造的研究が生まれる下地があると考える。つまり仕事ばかりしていると技術は習熟出来ても、新しい発想、発見は生まれない。むしろ遊びの時間が人間社会の文明の発展に大変大切な役割を(仕事以上に)果たしていると考える。もちろん、自由な時間はその大半が無駄に使われているかも知れない。しかし、その中でもほんの一握りの人々が、とんでもない発見や発明をすれば他の時間は決して浪費ではないと考える。仕事熱心はそれはそれで誉められるべきことであるが、発明、発見は馬車馬的な頑張りからだけでは生まれない。何かを、ぼーと考えている時、休んでいる時、突然ひらめき素晴らしいideaが出現する。しかし、それは何時出現するか分からない、又2度、3度と出現する代物でもない。絶えずメモノート持っていてideaが浮かんだ時直ちにメモする必要があると某科学者は言っている。
 夜は、そのような閃き(ひらめき)がオーロラのように現れる時間帯らしいのである。夜は人間にとって恋から科学的発見にいたるまで豊かな夢、発想、新たな精神の活性化を育む宝庫、(夥しい(おびただしい)数の生命を育む海のような宝庫)らしいのである。このように考えれば、文明社会では人に夜の時間的空間を完全に開放し、ゆとりを持たせること、それが人の想像力や能力を開花させ、文明を発展させる上でとても大切なことと言えるのではあるまいか。
    夜に花開く自由、
    何物にも代えがたい、
    決して失ってはならない宝。
    文明の産みの源泉であり、
    底知れぬ創造の海、
    それは真理を探究する人に
    微笑みかける女神。


2002年05月19日(日) 夜 part1

 昼と夜とは、人々にとって際立って異なった時間的空間を形成している。昼は現実的、強制的で人々が協調したり、競争したり個々人の生活の為、いや、大袈裟に言えば個々人の生存をかけて勝負している時間的空間といえる。それは子供にとって学業(スポーツ、音楽、絵を含む)、大人にとって、奇麗事で言えば職場での仕事(本当を言えば、だましたり、だまされたり、欺瞞に満ちた駆け引き、裏切り、あるいは名声をうるための工作・・・いや中には本当に美しい心で、人々の幸せの為、真剣に頑張っている人もあろうが)をする時間帯、ある意味では身も心もすり減らすか、あるいは又、やむを得ず活動しなければならない時間的空間である、と言えるのではあるまいか。私には昼が人々にとって、あまり創造性の触発される時間的空間であるとは思えない。単に実務(自発的であれ、強制的であれ)をこなしているだけの時間的空間であるように思える。
 一方夜は、癒しの時間的空間を形成している。夜は、本当に個人が自分の裁量でどのように使おうが、誰からも咎められることのない時間帯である。夜はどのように使おうと人の自由である(と言う点で癒しなのである)。仕事に疲れた足で、ぶらリ、赤、青、紫に輝くネオン街へ出かけ、居酒屋、バー、クラブでお酒を飲み、他愛のない話でふざけたり、政治、経済、相棒らの話題で、どうにもならない議論に時間を潰すのもよい。しかし、私にとって夜は現実離れをした夢、科学的空想を観念的に実現する時間帯であり、又私の興味ある対象について、無意識にか、あるいは又、何かに触発され創造性が目覚める時間帯でもある。
 夜の帳(とばり)も降り、人や車の往来が途絶え、スタンドの明かりだけが自分と、自分の周囲をほのかに照らす、静かな夜の仕事部屋。優しい、静かな音楽が心地よい。と、緑輝く南国の孤島、コバルトブルーの海、広々とひろがるサンゴ礁、白い砂浜が展開し始める。まだ見ぬ恋人、想像の恋人と真珠採りに遊ぶ。
    ひっそりと深海に隠れ住む、
    大粒の真珠、美しい真珠、
    神々しい君の涙に似て。
    鼓動が高鳴り、勇気が身を包む、
    君に捧げたい、
    荒々しい岩肌に輝くサファイアのよう、
    珊瑚の岩礁で青く、ためらい光る真珠。
    ひっそり深海に隠れ住む初々しい真珠、
    君の胸なら、満月に似て、
    きっと優しく銀色に輝くに違いない。
 この一方的な男性の女性に対する無知から来る恋愛観は、現実では無残に切り裂かれる運命にあるかも知れない。しかし、時に出没する、この手の異性への憧憬は、若人の性への目覚め・成熟の道程に欠くべからざる精神活動の一里塚、と言えるのではあるまいか。
 又、ある時は、ワシントンの空港近くのホテルへ、夜、食事に出かけたとき、静かにBGMが流れる展望レストランではカップルは語らい、ダンスを興じ夕食を楽しんでいた。空港の周囲を走る高速道路は空港、空港周囲の建物、滑走路、木々等の構造物と見事に調和し、夜にはオレンジ色に並ぶ高速道路の街灯で、その様子が一層美しく浮き彫りにされた。
 つい先ほど遠くに赤・緑に点滅する光に気付いたと思うと瞬く間に大きな飛行機となり、次々滑走路に滑り込んでくる。アメリカはもう宇宙時代に突入しょうとしているのだと錯覚せざるをえない光景だった。このような光景が私の心にダイナミックな探究心を喚起した。人間の能力の無限性、宇宙全体をも征服しかねない予感。そう、私も何かを達成しなければ何のための人生だと、強い精神の高揚を感ぜずにはいられなかった。                     つづく
    


2002年05月12日(日)

 恋と恋愛とは区別すべきである。恋愛は一定期間、愛が持続する事を前提としている。
 一方、恋は対象に対する、夢、憧れ、期待から生ずる刹那的な精神活動だ、と思う。恋は単純に見えるが、実は人生で遭遇する色々な出来事の中で、時に個々の人々の進路を左右しかねない、ある意味ではとても危険なものである。この恋は、ある時は孤独で寂しくどうしようもない空白感に悩む人に悪魔のように忍び込む。この場合、心の支え、拠りどころを求めんとする勝手な潜在意識が相手の許可を得ようともせず利己的、独善的に頭をもたげ、それ故相手を深く傷つけたり、逆に満たされぬ心故、絶望し死をも受け入れてしまう危険性を孕んでいる。
 一方ある日突然、何の前触れもなくひと目惚れから触発され恋に発展することもあるだろう。
 男の場合、緑の髪、時にバラのように棘があるが華やかで可愛い女(ひと)とか、
深山にひっそり咲くユリに似て可憐で、長い髪、憂いに満ちた瞳、静かで、それでいて気品のある女とか、あるいは又ジュリアン ソレルのように既婚ではあるが、美しく慈愛に満ちた女性に母親のような優しさを感じたとか。
 この場合も、やはり、相手を客観的に見ようともせず、自分の想像の枠内で判断しょうとする。恋は衝動的、動物的であると同時に、厳しい倫理的呪縛に抑圧された極めて複雑な(人間の)精神活動の1表現形である、ともいえる。
 恋は接近が容易でない対象、例えば清純で、神々しい処女マリアのように異性と高く距離を置く女性とか、または物理的、空間的に接近が難しい女性とか・・・そんな女性に挑戦しょうとする、道徳的社会的障壁を無視、あるいは破壊さえ恐れない無謀な精神活動、極めて不道徳な空想的、観念的冒険と言えるのではあるまいか。だから、恋心は冒険心と同様、欲求が現実のものとなった時、湯が冷めていくように、雪が解けていくように消えていく。
 私の恋の冒険は、何時も御伽噺のようなナイーブな空想から始まった。
    果てしなく広く深いブルーブラックの空、
    瞬く星が、いまにも降ってきそうな夜。
    月は青く透明に抜ける傘の中、あたかも
    浮かんでいるように見える。
    大海原に見る波のごとく、幾重にも
    重なる銀色の砂。
    時に巻き起こる風、生き物のように
    崩れ落ちる砂塵。寄り添うラクダに
    王子とお姫様。
    二人は影絵のように、音もなく、静かに舞台を歩む。
    風にひらめく白い上着に
    黄金の冠が光る。波乱万丈を予感させる!
 この続き、物語の行き着く先について考える必要など全くなかった。それは問題外の事柄だった。二人が愛を誓い、幸せを信じ、いたわり抱擁し合う姿を想像する、それだけで良かった。自分が王子様と思ったことはないが、パートナーは何時だって、美しく、可憐で優しいお姫様だった。これまで幾人のお姫様が候補にあがっては通り過ぎていっただろう。通りすがりに、ふと恋をした女(ひと)を含めれば数え切れない。
 しかし最近、年を経るにつれ私の恋心は変質してきたように思う。月の砂漠を連想する事が少なくなってきたのである。
 代わりにアフリカの原野で、鬣(たてがみ)をなびかせ朗々たる咆哮で周囲を威圧する百獣の王ライオンの恋の行く末について、色々考えるようになってきた。百獣の王の恋は人より直接的、情動的であるが故に、死をも伴う危険極まりないものであろう。やっとハーレムの王になって権勢を誇ったとしても、時の経過には逆らえず、病気、老化に伴う力の衰えは如何ともし難く、最後は死闘の末、死ぬか追い落とされてゆく。そんな寂しい光景がやりきれなく、空想されてくるのである。
     君は立派に、生きてきた。多くの子供達、
     家族を守って戦ってきた。
     歴戦の勇者だった。何も悔いることはない、
     ゆっくり休んでくれ。
     それが、今君に捧げられる賞賛の
     言葉。
 私は人の恋の行く末、自分の恋の行く末について、今は知らない。しかしライオンのようであって欲しくない、ギリシャ神話のように、きらめく星空へ静かに消えてゆきたい。それも出来るなら2人で。 


2002年05月05日(日) 新生

 目覚めたばかりの木々の新芽が淡い緑を山に、森に、街に、あるいは狭い道や庭にも背の丈一杯広げようとする季節。装いも新たな、青年、娘達の笑顔が街、レストラン、喫茶店ではじけ、新しい出会い、新しい出来事の期待に胸をときめかす初々しい季節。 
 長い暗い冬、神社に参り、別れの決意を告げた頃、寂しさに絶望し、涙で暗いトンネルの出口さえ見えなかった。しかし今、新生がすべてを消し去ろうとしている。喜びも、悲しみも、すべて一纏めにして。
    新しい生が蘇った大地。
    そよぐ風、
    再び強くなり始めた日差しに、
    歓喜を祝う小鳥達の影が
    若葉の合間を駆け巡る。
    かすかな虫の羽音さえ心地よく。
    水面増す川の流れが、
    新生の到来を魚や蛙たちに伝える。
 受験生活、ゆがんだ恋愛、重いつらい仕事、景気の停滞、失業、否もっと深刻な戦争、飢餓など等。 新生とは過酷な灰色の生活に苦しみ、耐え抜いた人達だけが知りうる歓喜。それこそが真実の新生。
 雪、氷、容赦なく吹き付ける風、厳冬のしびれるような寒さ・ひもじさを耐え抜いた動物や植物。多くの犠牲者がでるのは計算され、その厳しい冬を耐え生き抜いた者にだけ到来する春の歓喜。だからこそ、春は彼等にとって新生。
 今、人々は春を迎えて新生を期待する。しかし、人々は本当の試練、苦しみを耐えて来ただろうか?何もしないで、ただぼんやりと新生を期待しているのではないだろうね。自分達に新生を望む資格が本当にあるかどうか、真剣に考えて来ただろうか?
 過去、人間の歴史を塗り替え、人間社会に真の新生、歓喜をもたらした様々な出来事、人々の試練と苦労・・・

 人間性の回復を実現したルネッサンスの影にどれだけの犠牲者があったのか?科学界の天才ガリレオだって、誰からも理解されることなく、狂人扱いされ、最後は宗教裁判で処刑。フランス独立の為、祖国の為立ち上がったジャンヌ ダルク、20歳にも満たない少女、彼女もまた女としての経験も浅いまま、弁解の余地も与えられず魔女として火炙りのの刑で果ててしまった。
 日本の文明開化だって、幕府を信頼し保守を死守しょうと果敢に戦い散っていった少年白虎隊の純真で無垢な心。一方、日本の近代化を夢見た若き吉田松陰や坂本竜馬、夢の実現を知らぬままの非業の死。つい最近では、国を愛し、家族を愛し、恋人への憧憬を抱き、悩み苦しみながら未来の人々の繁栄を信じ、特攻に身を投じて行った若き荒鷲達。

 彼等の勇気と犠牲がなかったら、我々は現在の平和で幸せな自由と民主主義を享受できていただろうか?人々が春を迎えて抱く新生への期待。
 自然界(人間社会を除く)にとっては春は真の新生。
    青い空、
    暖かい南風、山には
    あふれ燃え立ち、重なり合う若葉。
    人間社会の新生への期待をよそに、
    再び活動を開始する生命(いのち)、
    花開き、恋する生命。
    躍動する新生、
    とても嬉しい新生。
 人間にとって春は単に季節の変わり目。
 21世紀を迎えて、日本の社会状況は相変わらずの政治、経済界の腐敗と堕落、一般国民に蔓延るモラルの低下。
 それでも、今年の春は新生と言えるのか。新生どころか滅亡へのブラックホールへ引きずりこまれる予感さえするではないか。
 人間社会の新生は真に変革を目指した人々の確固たる信念(執念)、硬い決意だけが(その動機がいかなるものであれ)可能にしてきた。
 で、私に新生は? 遠い遠い先のこと?

    遠く、長い悩みと苦しみ、
    何処まで続く 真っ暗なトンネル。
    1条の光が 見え始めたと思うと、
    春の日差しに 春の雪。
    水晶の滴(しずく)に、たわむ枝
    垂れる若葉
    
    無垢で無限の魂、
    決してへこたれることのない魂の発見!
    歓喜と新生の発見!


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