ジョージ北峰の日記
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2002年04月28日(日) 大都会ーpart2

最悪なのは何の意味も無い、当人さえ説明の出来ない、常人では理解の限界を超える、動物虐待、子供同士のいじめ、さらに凄惨な殺人事件など等・・・
 一体どうしたのだろう。誰もが危機を叫んでいる。しかし有効な変革の動きはいまだ手つかず、いや放置されたままと言ったほうが良いだろう。今夜もまた都会の夜の裏町では、厳重なはずの幾つもの心の扉を押し開く、色とりどりの、意味ありげなネオンの洪水。
    足元も危ない一人二人、男女のペアが行き交う。
    忙しく、やけに丁寧な客引きの声。
    安く飲めて、かわいい娘がいるよお客さん。
    通された、空間では今ショウタイム、
    耳をつんざく音楽、舞台では男女の踊子が、
    絡み合い、もつれ合う。
    タイツは目をこらさないと判別できないほど薄い。
    女は黒、男はベージュ色。
    ショウタイムが終わると、あたりは薄暗くセットされ、
    うってかわって静かな音楽。
    形ばかりの飲食を薦める女性の黒い影。
    何処からともなく漏れ広がる、囁き、時に含み笑い、
    そして押し殺したような喘ぎ。とろけゆく理性。
こうして、夕べの一時は、お金と共に混沌と朦朧の意識の彼方へ消えていく。
 お金、そうお金こそすべてだ。お金があっての人生。
 そう考えるのが普通じゃないか。

だが、この欲望に縛られた呪縛こそ、過去の栄えた大都会を含めた国家や社会が滅び去った根源ではなっかったのか。過去、滅びた都市や帝国に発生した巨大な都会、富の集中、富のゆえに広がる虚無、そこから逃れる為の耽美な快楽。
 それこそがデカダンではなかったのか。それこそが大都会、ひいては国家が滅びた原因ではなかったか。

 で、どうすればこの都会に住む悪霊、悪霊の呪縛から人は逃れられるのか?
それは国家、政治、経済、宗教のシステムのありようの問題なのか。
それは一部、そうかもしれない。しかし、日本社会の現代の混乱を見ればすぐ分かることだが、人の心の内面のあり方に深く関わる問題だと考える。人の心の奥深く住む悪霊を、単にシステムを変えることだけで追い詰め、追い払うことが出来るだろうか?とても不可能なことのように思える。
 それは、平凡なことのようだが(人間が突然変異でもして飛躍的進化をとげない限り、とても困難なことと思うが)、高い理想を掲げ、人生の指標となる清新な思想、哲学を語り、それを実行できる勇気があり、その上、国家、宗教、人種を超え、誰からも尊敬され、愛される人物、そんな天才、カリスマの出現が可能な超現代ともいえる時代が迎えられた時ではあるまいか。


2002年04月21日(日) 大都会ーpart1

      都会は、一般的に、多くの人が住んでいて、商工業
     が発達し、文化的な施設が存在する所と定義されている。
     首都となればさらに、国の政治、経済、文化の中心として
     機能する場所と言えるだろう。しかし、もう少し現在の
     世界の状況を踏まえて定義するとすれば、種々の異なった
     文化、宗教、人種が共存するか対立する文明の最前線であるとも
     いえるだろう。そして都会では、人口はますます増加する傾向
     にある。
      多様な文化、多様な人種、多様な職業があふれてる故に、人々
     に多様な生き方の選択肢を与える。自分の知らない文化を理解
     しょうとする人もあれば、排斥しょうとする排他的な人もいるだろう。
     経済活動も多様である故に、安易な拝金主義に毒されて人間性
     を失ってしまう人も出現する。多様な人生を見て、いろいろ学ぶ人
     もあれば途方にくれてしまう人もあるだろう。大都会の行く末は、昔
     からデカダンの増大、倫理観の喪失、人間間の争いそして文化・都会
     の崩壊であった。
      しかし、どうしてそうなのだろう。 国もある一定の年数を超えて
     栄えた国はない。いかに超大国といっても(例えば古代エジプト、
     ローマ帝国、蒙古)必ず、内部の矛盾が増大し、外からではなく、内
     から崩壊していっている。内部からである。 日本だって、超大国
     ではないが、バブルの最盛期の後、政治家、官僚、経済人、いや
     一般の国民を含めて総倫理観の喪失、無責任、利己主義に毒されて
     いるかのように見える。 国民一人一人、その事は良く分かって
     いる。 にもかかわらず、ずるずる崩壊への道を辿っている。
      どうしてなのだろう。人間の示す不思議な行動、自滅への
     道は、もう後戻りできないのだろうか。 しかし、一歩振り返って
     単純に都会を眺めてみれば、そこには胸をときめかす光景が
     広がるばかりである。
         聳え立つ摩天楼、ビルの谷間に覗く灰色ブルーの青空、
         鈍く輝き、急ぎ流れ行く薄い雲。
         生暖かい風に、そよぐ街路樹、柔らかな若葉
         ゆらぐ光と影。
         色とりどりの車が、豹のように街路を行き交う。
          モダンなデザイン、色とりどりの洋服
          目にもまばゆく7色に輝くダイヤモンド、宝石など等
          人の目を奪う店、店、店・・・・
         互いに知ることもない、行き交う人々、時に調和のとれた
         流れをみせているかと思うと、街の角々で淀みが生ずる。
         しかし、あの女(ひと)は何と目立つんだろう。
         ひときわ眩しい白い衣装、あでやかで、しなやかな
         容姿・・・モデル雑誌から抜け出てきたような
          仮面の美を装う、都会の女
         しかし、素敵な都会、都会だからこそ経験する興奮。
          華やかな都会!
          都会よ永遠に!
     しかし、華やかさの陰に人知れず忍び寄る、都会に巣食らう悪魔、いや
     悪霊。その姿を決して人前に現さない。日々、新聞、テレビを賑わす
     事件。曰く、数人の強盗団が金庫を奪う。公人(政治家、教育者
     官僚)にまつわる醜悪な収賄。保険金詐欺、更に最悪は親子の間に
     さえ生ずる保険金殺人。まだしかし、これらは理解の範囲内だ。
                            つづく。
     
     


2002年04月13日(土) エヴェレスト

世界最高峰の山エヴェレスト、いつの日からか憧れるようになった。実物はまだ見たこともなく、写真や、映像でしか知らない。イギリスの登山家が最初に登頂に成功してから、幾人の登山家達がエヴェレストの登頂に成功したかも知らない。しかし、自分も一度は、挑戦してみたいと、何時のときからか、崇拝にも似た憧憬を覚えるようになった。写真や映像にみるエヴェレストでも、四季折々に見せる姿は自分にとって、時に、父母のようであり、恋人のようであり、時に心を惑わす悪魔のようであり、女神のようである。こんな神秘的で、抑えようのない精神の高揚を、何故エヴェレストは抱かせるのか。
  抜けるような青い空
  想像をはるかに越える高い空間
  それを貫くようにそびえる不合理とも言える幾何学的構造
  そして太陽にきらめき、薄雲を従え下界を見下ろす姿。
  一生に一度でいい、眼前に、その姿を見せて欲しい。
  見れば、きっと自然で素直な気持ちで祈りをささげるに違いない。
現実は、恐らく近づきがたい障壁が立ちはだかっているだろう。荒々しくほとばしる急流の河、やっと、日陰の緑の潅木林を過ぎたと思うと、目も眩む絶壁、しかしその上には高山植物が可憐な花を咲かせる、雄大なお花畑、それも過ぎると、雪渓、最後は絶望的とも言える氷壁、時に鬼神のように空間を裂く嵐等等。
 艱難辛苦に耐え、世界の頂上を征服した冒険家たちの喜びはいかばかりのものだったろう。
 人は生を授かった時から、ただ生きる事だけが目的だとは考えない。ときには、恋人のため家族のため、否、仲間のため、国のため、宗教のために死ぬことを恐れない。自分のため、死ぬことは?
 それは卑怯だと考える人が多いだろう。英雄は自分の為ではなく人の為に死んだ人達ではなかったか。で、エヴェレストの為に死んだ人達は?英雄なのか?
 やはり、登頂に成功した人も、失敗した人も自分には英雄に見えてしまうのだ。エヴェレストに挑戦した時には、当然、何パーセントかの死を覚悟したはずだ。何の為に、自分の為に?
 それはあるかもしれないが、自分の生きる目的を問いたいのだ。
その為なら死をも覚悟する存在でありたいのだ。
神の為、死をも辞さない心の有無を、エヴェレストは人に問うている存在、と思えるのだ。 


2002年04月08日(月) サクラ

京都は春になると、所謂、春霞のため東山連峰が、空ににじんだような稜線を描き、曙を背景にしたその山並みは北山から望むとさながら墨絵のように見える。しかし、サクラの名所岡崎公園に近づくにつれ、東山の連峰の起伏が明瞭となり、芽を吹き出したばかりの木々の若葉が、まだ眠りから覚めやらぬ常緑樹林を押しのけ合間から顔を覗かそうとする姿が見え始める。あたかも動物が毛代わりする様な観である。そして南禅寺の森、平安神宮の鳥居、そのすぐ端をゆったと流れる疎水へと眺めは展開する。サクラはそのような背景を充分意識し、疎水の石垣沿いに植樹され、自然美の中に溶け込み日本画の一角を担うよう配置されている。
   優しい風、
   春の日差しにほのかな香りを漂わせ
   サクラの枝は揺らめき、時に水面にしなだれる。
   満開時には、緑の水面にその姿を惜しげもなく曝し、
   風に促され、恥じらいながら戯れる花と漣。
   あたかも恋人同士の語らいのよう。
   散り行く花、
   流れ去る花びら、
   失恋にも似た悲しさを覚える。
サクラは日本人にとっては、喜びであり、悲しみであり、寂しさであり、誇りである。人生そのものである。いや、もっともっと大きな存在であるかもしれない。昔から、戦人は戦いに勝っても負けても、自分の置かれた状況をサクラに喩えて、身を引き締めたり、また諦めたりした。サクラの魅力は、尊敬していた兄がいつも言っていたことだが、ぱっと咲いて、短期間の寿命を精一杯謳歌する、そして潔く散る。散った花びらは決してしおれていない、散ってなお毅然としている、そこだ、と言うのである。兄は、そんなサクラの花のような人生を望んでいた。年齢で予科練に入学出来なかったことを悔やんでいた。兄は交通事故に巻き込まれて死んだが、兄らしい死に方だったのかもしれない。しかし兄は生前、意識していたかどうかは知らないが精一杯努力し、家族のため、人のため、自分の美学を守って人生を謳歌していたように思う。サクラを愛していた兄。サクラの季節になると、いつも思い出してしまうのである。少しセンチメンタルな話になったが、花見に出かけ、お酒を飲み、ドンチャン騒ぎを楽しむ人達もまた、それぞれの思いがあってサクラを見ているのでは、と考える。
 サクラは、人と共に生きる植物のように思える。大切にされている木は、やはり捨て去られた野山のサクラより生き生き見えるのである。最近、都会のサクラは、高層ビルの陰に隠れ、周囲の木々、仲間の無い所で寂しそうに咲いたり、(偏見かもしれないが)虐待とまでは言わずとも無視されているように見受けられる。都市の近代化が、日本人の伝統的な心を奪ってしまったのではないかと疑いたくなるような光景が見られるのである。日本の伝統がすべて素晴らしいとは考えていないが、良いところが失われていくのも寂しい。


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