マキュキュのからくり日記
マキュキュ


 エッセイ  人生波茶滅茶


 【ヒッピー時代】

 私達は週末になると決まって新宿に繰り出した。新宿なら家も近いし、なにせ、そうは言ってもまだ中学生の分際なので、小遣いも少ないし意気地も無い。化粧をし、流行の服を着、新宿をブラ付く程度の可愛い不良だ。
新宿ならば安い喫茶店も沢山有るし、青山や六本木はまだまだ十年早いと言った所だ。
 小遣いが足りなくなると母の財布から千円札を一〜二枚ちょろまかしたりした事もあった。
私はお義父さんさえ来ない日は、親の目からは自由だったので、比較的家を抜け出るのは楽だった。
他にも同じ中学内で時たま参加の友人が数人いた。誰もが親が店や仕事で忙しい、鍵っ子や落ちこぼれの寂しがりや達だ。私達はいつ補導されるかと怯えながらも、そんなスリルとワクワク感を満喫していた。
互いの親達には、互いの家に勉強に行くとか言い合い、常に4〜5人の口裏併せの悪友が居た。
 新宿をブラ付いている内、私達はあるヒッピーと仲良しになった。名前をマサ(仮名)と言い、彼は既に三十過ぎた年齢で、職業は絵描きだった。マサは路上の片隅で茣蓙を敷き、絵を売っていた。
マサは最初、説教じみた事を私達に唱えていたが、色々な話をする内に理解してくれ、彼はこう言ってくれたのだ。
「もし新宿で遊ぶなら俺の仲間が集まる茶店を拠点にしな。何か困った事に出遭ったらそこに逃げ込めばいい。皆、優しくて気の良い連中だから安心だよ」
そして私たちは、彼らが屯する【モナ】と呼ばれる喫茶店に案内されたのだ。
 それ以降、殆ど私たちの飲食代は、マサやそのグループであるタクボや、路上でアクセサリーなどを売っているマリ子さんと言う先輩ヒッピー達が払ってくれた。その他のメンバーには、詩人家志望のリミ、カメラマン志望のイサム、バンドボーカルのチョボなど、其々にちゃんと夢や仕事を持つメンバーが多かった。
無論、仲間内では最年少の私達。仲間達は私たちを妹のように可愛がり、大切に扱ってくれ、皆、交代で遊び相手をしてくれた。
私は産まれて初めて、他人に受け入れられたような気がしていた。
【モナ】のあの幻想的でフレンドリーな空間での開放感が、私にはとても居心地が良かった。やっと魂の寂しさを分かり合える人間達に出会えた・・・。それが何より嬉しかった。
 当時の新宿周辺は、いたる処にヒッピーやらフーテン族が屯し、ハードロックが鳴り渡り、あの頃の街並みはサイケデリック一色だった。私達は【モナ】で集まり、雑談をし、それから歌舞伎町に足を伸ばし踊りに行ったり食事をしたりし、再び【モナ】に戻ると言うパターンで遊んでいた。
【モナ】のグループにの中には頭痛薬のオプタリドンでラリッたり、マリファナを吸ったり、アンパンと呼ばれるシンナー遊びをしている連中も居た。
私も物は試しで、頭痛薬とアンパンは一度ずつ経験してみたが、どれもこれも大して面白くは無く、私を満足させてくれる物でもなく、お陰で私は薬物依存にならずに済んだ。
私達がもう一軒良く通った店に【アップル】と言うバカ安のゴーゴー喫茶(古っ!)が有り、そこでも私達は大常連になり、常に先頭を切ってステップを踏んでいた。私達はチョットした【アップル】の顔だったのだ。
サイケデリックで幻想的な当時の新宿は、今のそれとはかなり体質も性質も違っていた。
世間に順応し切れない、外れ者の巡礼者達に取って見たら、あの頃の新宿は不毛な魂を癒す唯一の聖地だったのかも知れない。
 皆脆く、何処か哀しげで、其々が寂しさや虚しさや一種の怒りや諦めなども抱えてはいたけれど、皆純粋で仲間を思いやる気持ちに溢れ、優しくユーモラスで滑稽で、愛すべき仲間達が多かった。
 ある日、留美子とたった今出来たばかりの友達(広美)との三人で歌舞伎町を歩いていたら、偶然にも別れた父にバッタリと出遭った事が有る。父とは両親の離婚後も、時々会ってはいたのだが、友人との遊びに夢中になり始めると父とのデートはめっきり減っていた。
「ダメじゃないか、中学生の癖にこんな時間に盛り場をフラついちゃ!」と、多少叱られはした物の、父は不良の大先輩なのであまり偉そうな事は言えないのだ。
父は私達に食事を奢ってくれ、その後、私達を父の所属する劇団に連れて行った。そこは怪しげな小劇場だ。
父はその劇団に長く所属しているらしく、私達は先刻友人になったばかりの広美の事で父に助け舟を求めたのだ。
 私と留美子がアップルに行くと、広美はホールの中央に一人で居た。彼女は一心不乱に激しく身体をのたくらせ、踊り狂っていた。彼女の何処か妄信的でエキゾチックな激しいダンスはとてもサマになっていて、皆が息を呑むように彼女のダンスに見惚れていた。
ハーフのような愛くるしい顔立ちで背は高く、一瞬何処かのモデルかタレントだと思った。あっけに取られて拍手をした私達に気を良くしたのか、彼女の方から話し掛けて来たのだ。
話を聞いてみれば彼女は何と、つい先程家出をして来たばかりだと言うではないか・・・。
彼女の父親は一年ほど前に自殺しており、母親は会社の社長をしていると言う複雑な家庭環境だ。彼女も一人っ子で、心通わぬお手伝いが彼女の身の回りの世話を焼いていたと言う。しかし彼女はそんな暮らしにうんざりで、厳格で口うるさいだけの母親が嫌で嫌で仕方なく、母に初めて反発したら「誰のお陰でこんなお嬢様生活が出来てると思ってるのよ!」と罵られ、自殺するつもりで家を飛び出たのだと言う。
ただ事ではないと思い、私達は【モナ】に連れて行き、マサ達に相談しようとしていた途中、偶然にも父にバッタリ出遭ったのだ。
 話の途中で知ったのだが、彼女は歌手や女優に憧れていたと言う。顔もスタイルも踊りも抜群なので、その夢は決して無謀ではない。
そしたら何と、父はその後、彼女にアパートを借りてやり、自分の劇団に彼女を入れ、面倒を見続けてくれていたらしい。やがて彼女はその劇場で憧れの女優になったのだそうだ。
一寸アングラ的な劇場ではあるのだが(笑)まぁともかく、彼女の夢は叶った訳だ。
 そんなきっかけで再び父と接触した私は、時々父と会っては、食事代や喫茶店代などをカンパして貰っていた。
やがて留美子は中学を卒業して行き、高校に進学した。尚も私達は不良時期を満喫していたのだが、いよいよ一連の嘘が双方の母にバレ、あえなく外出禁止令が出されてしまう。
私達は暫くの間会う事さえも禁止され、私には家庭教師という監視役が付き、やむを得ず個々の学校に真面目に通い、半年ほどは大人しくしていた。しかし再び親の目を盗んでは遊び歩くと言う、イタチごっこの日々を続けていた。
やがて私も中学を卒業し、それを機に、私達は又引っ越す事となった。
 その時の事情はあまり詳しくは知らないのだが、母は九段で焼き鳥の店の二階で夫婦者を雇い雀荘も経営し始めた。その雀荘の事で、警察とトラブルが発生したと言う事で、まだ借金の元も取らぬまま、階下の店ごと撤退せざるを得なくなったようだ。
 父に事情を話し、父と愛人には中野の店を空けて渡してもらい、私達は再び中野のあの店に舞戻る事になり、私は親友である留美子とも遠く離れ離れになってしまった。

続く


2006年11月30日(木)


 エッセイ  人生波茶滅茶


 【中学時代】

 小学校は一クラスだけだったのに、中学は何と一学年だけでもA〜Fクラスまで有った。それ故、親友ともクラスが違ってしまった。一体どこからこんなに人が集まって来ているのだろうかと私はびっくらこいた。
 サァ、いよいよ中学生活の始まりだ。皆新たな一年生だ。皆同じスタートだ。私の汚点を知る人は少ない。新たな気持ちでスタートを切ればいい。此処からちゃんとやり直しをすれば良い。
勉強も頑張ろう。宿題も頑張ろう。持ち物チェックもちゃんとしよう。机の整理整頓にも励もう。友達も沢山作ろう。部活も楽しもう。何しろ楽しく想い出に残る中学生活を送ろう。そんな期待と豊富を掲げ私はワクワク胸を弾ませていた。
 実際には上記の四番目迄はあまり励めず、もっぱら友達選びと部活選びを重視し、その二つは順調だった。
暫くの間は親友と休み時間や昼休みを共有していたのだが、クラスが離れ離れになると互いに新たな友達も出来出し、学校の中では付かず離れずの関係になった。それは致し方がない事で、それでも私達は親同士も仲が良かったという事もあり、家にはよく行き来していた。
 部活は勉強嫌い、スポーツ不万能、入りたかった演劇部が無かったので、唯一泳ぎを得意とする私は、親友と同じ水泳部に入った。
 当時の流行は、ブルーコメッツやタイガース等、GS時代の最先端で、歌番組などもかなり豊富に有った。学校に行けば必ずあちらこちらでそんな話題に盛り上がっている。
人より自由時間が多く、TVっ子だった私は話題性に事欠く事がなかった。なので、常に話の中心に位置する事も出来、友達もどんどん増えて行った。
 それに小学校時代よりも生徒数が多い分、同じ類の落ちこぼれも多く、類は友を呼ぶで自然にそう言ったグループが出来上がる。
 私は勉強面ではてんでダメな代わりに、感覚的な箇所では人よりも多少器用だった。
小学校の時など、リコーダーはクラスで一番上手かったし、歌も上手だと言われた。音楽係の発表会などでは何時もソロなどのパートが付いたりしていた。
そして中学になると、家で退屈な時は漫画ではなく、本も読むようになった。サガンや新書館のフォアレディースシリーズ等を読み漁り、少し人よりませた感性も身に付いた。
父譲りのユーモアや人懐っこさも持っていたので、私に興味を持ってくれる友達も増えた。
 そんな頃、母の店に足繁く通う一人の芸者さんが居た。その人はとても美しい人で、芸者さんの中でもハイクラスだったようだ。母はその芸者さんととても仲良しになり、その芸者さんにも私と同じ年代の娘が居た。後に私の大親友になる娘だ。
その娘は芸者さんとパトロンとの間に出来た子で、そのパトロンは、とある世界の大物だった。その人物は私の伯父とも何がしかの交流が有ったようで、そんな話の向きから母と彼女の母は急接近したようだ。
ある日その芸者さんが母の店に娘さんと同伴し、食事をしに来た事がある。そして私は初めてその母子に紹介される為、店に呼ばれたのだ。  
娘の名は留美子(仮名)と言い、彼女は私よりも一つ年上の中学二年生だった。留美子は彼女の母に似て飛び切りの美人で、私に比べるとかなり大人びていた。
大きな瞳が愛らしく、鼻筋は通り、唇はプックラと咲いた牡丹の花弁のようで、女優の浅丘ルリ子みたい! 私はそう思った。
私達は同じような境遇からか、直ぐに仲良しになり、やがて互いの家に行き来するようになった。
 彼女の家族構成は、祖父と弟と母親の四人暮し。お父さんはほんの偶にしか、家には来ないようだった。
夜の座敷で忙しい母の代わりに、お祖父さんが子供達の世話を焼いていたようだ。しかしお祖父さんはあまり私達には立入って来ないのが嬉しかった。
 やがて二人の母同士も公認で、私達は互いの家に泊り合い、姉妹のように過ごした。
 そして私が中学二年になった時、彼女と私はささやかな不良デビューを果たしたのだ。
 ある日二人は親には内緒で薄化粧を施し、電車に乗り、後楽園遊園地に遊びに行った。
化粧をしたのはこの時が初めてなので、私は胸がドキドキしていた。
 ゲームセンターのジュークボックスからはビートルズが流れており、皆がジュークボックスを囲みながら身体を揺らせていた。
ナンパをしてきた大学生達とお茶を飲んだりもして、一寸スリリングで楽しかった。 
そんな大人びた世界を垣間見、私はとても興奮し、それから私達は新宿に拠点を変え、私たちの不良度はますますエスカレートして行った。

続く


2006年11月29日(水)


 エッセイ  人生波茶滅茶


  【九段の母】

 九段に越し、お義父さんは月に二度程の割合で家を訪れ、十日間ほど泊まって行く。母達は、半同棲のような暮らし振りだった。
一度だけ、真夜中変な物音に目覚め、二人のHを襖の隅から目撃してしまった事があるのだが、あれは何とも言いようの無いショックだった。小学生高学年の多感期だもの、当然と言えば当然だろう。
暫くは母達と目を合わせるのも嫌だった。まだSEXの意味も必要性も知らない年頃だから、やたら大人が不潔に映ったのだ。
お義父さんは自宅と愛人宅との往復をとてもマメにこなしていて、どうやら彼の本妻も母の存在は黙認しているようだった。
 母はそんな生活に大満足し、あの頃の母はきっと母の人生の中で、最も美しく溌剌とし、光り輝いていた時代だったのかも知れない。
母は性格まで潤い、優しく穏やかになり、深夜遅くまで仕事をしているにも拘らず、私の弁当作りなどにも励んでくれた。
しかし、店と家とは近所でも、場所は離れていたので、お義父さんが来ない時の夜は完全に私は鍵っ子だ。やはり一人の夜は寂しいし心細いしつまらない。
 母の店は小さいながらも、和風と洋風と掛け合わせたような店で、中々シックでお洒落な作りの店だった。
 銀座で老舗の焼き鳥屋から兄弟の職人を三人引き抜き、メインは高級焼き鳥と釜飯。後は刺身や一品料理などを出していた。
母の店は結構繁盛し、芸能人の隠れ家的店としてTVなどでよく見掛ける人なども訪れていたようで、昨日は誰それが来た、この前は誰それが来たと、私に自慢気に話していた。
 開店したばかりで母は忙しく、学校から帰ると夕飯は私が店まで食べに行き、店が暇な時間は少しだけ店で遊んでから家に帰るという毎日だった。時々母も家に私の様子を見に来、お客が来たとの電話が入ると店に飛んで行った。
 私が今回転校した小学校は、少子化のせいか六年は一組しかなく、前の学校よりも都会的で垢抜けた子供が多かった。
九段は高級住宅地でもある。どこそこの社長宅や、重役宅なども多かった。その一方、場所柄、個人飲食店や花柳界なども盛んで、片や上流階級の子供、片や水商売系家系の子供など、様々な生徒達が居た。そんな学校で私は小学校生活の最後を送った。
夜は誰も居ないので退屈で寂しかったが、九段での生活は中々楽しい物だった。
学校までの距離は徒歩で5分ほど。なんせ靖国神社も、北の丸公園も、千鳥が淵もすぐ側で、二つ先の駅には後楽園遊園地もある。
その頃母達は、引っ越したばかりで、まだ環境に慣れ切っていない私に気を使い、店の休みと言えば遊園地や食事やデパートなどに良く連れて行ってくれ、普段の寂しさを繕うべく大サービスをしてくれていた。
 家の近くにチンチン電車(都電)乗り場があり、私達はそこから電車に乗り、四谷に有る親戚の家にもしょっちゅう出掛けた。母の姉である、もう一人の伯母の家だ。
 伯母は日本の喜劇王とまで呼ばれていた今は亡き(MN)の正妻で、伯母の家には様々な芸能人などが良く出入りをしていた。
私の家系は代々芸能界に関わっていたらしく、母側の祖父も祖母も、かなりの有名人らしい。早くに亡くなっているので私は実物こそ見た事はないが、祖父は自ら役者でも有り、映画監督やら、多くの脚本やらを手がけていた人で、祖母は映画の主役等もこなすような有名女優だったそうだ。
 しかし祖父と祖母は、母を含めた四人もの子供を残したまま別れてしまい、母達姉妹は祖父に引き取られ、祖母は映画俳優と再婚したと言う。祖父には後妻が来、母達姉妹はその人に育てられたようだ。
母達の代も大人になるにつれ、それぞれが芸能界に進み、伯母はまだ当時無名だった伯父と結婚したそうだ。
そして祖父の後妻となった儀祖母は、伯母の家に引き取られ、ずっと家事を手伝い、周りの人々の面倒を見ながら、ひっそりとつつましく暮らしていた。
儀祖母は皆にバァバ、バァバと呼ばれ、誰からも慕われていた存在である。その儀祖母は一昨年の暮れ、九十二歳の波乱の生涯に幕を閉じてしまった。
サテサテ・・・、話が随分脱線したが、四谷の伯母の家にも年の近い四人の従兄妹達が居る。家族やお手伝いさんや、住み込みの伯父の御弟子さん等を含めると、かなりの大家族なので、いつ行っても賑やかでとても楽しい家なのだ。
寂しがりやの私は、四谷の親戚の家が大好きで、一人で都電に乗り、泊まりに行く事もしょっちゅうだった。
 九段に移ってからは特にその四谷が近くなったので、それだけでも私は嬉しかった。
九段の小学校に転校し立ての頃、まだ友達も居なく、二度の転校で勉強も尚更チンプンカンプンで益々浮いた存在だった私は、一時期学校に行くのが嫌で嫌で堪らなく、学校をよくサボった。
学校に行くフリをしては、北の丸公園を散歩したり、母と良く行く伊勢丹に行ってしまったり、時には補導員に補導もされ、先生や母に油を絞られた。
しかし、徐々に友達も出来はじめ、より親しい親友なんかも出来、それからは学校が楽しくなった。
 そんな小学校生活を間も無く卒業し、そして私は中学に入学した。

続く


2006年11月28日(火)


 エッセイ  人生波茶滅茶


 【転校・愛人・又転校】

 やっと仲良しのお友達が周りに沢山出来たと言うのに、転校せざるを得なかった。
母が私を連れ、世田谷の家を出た為だ。
父が女の家に転がり込み、父不在の家にいつまでも母と二人で居る訳にも行かない。増してや母と祖母は犬猿の仲なのだ。
私は母と祖母の関係はどう有ろうが、祖母の事も大好きだったので、祖母との別れは辛かった。
別れの日、私を抱き締め、小ちゃいバアチャンが大泣きしていた姿を今も時々思い出す。
私達は今後の方針が決まるまで、幡ヶ谷の叔母の家にいったん身を寄せる事になった。
母は三人姉妹の真ん中で、叔母も、もう一人の伯母も都心に住んでいるので、親戚同士の交流は頻繁だった。常に互いの家を行き来はしていたので、まったく知らぬ環境に移り住む訳ではない。慣れ親しんだ家である。
その叔母は日舞の名取でもあり、私達の家系は親類一同、殆どが皆、日舞を習っていた。叔母は私と母の日舞の師匠でもあるのだ。
 叔母の家には年の近い従兄弟が二人居る。
一人っ子で寂しがり屋の私は急に兄弟が出来たみたいで嬉しかった。
転校手続きも済み、私は従兄弟達と同じ小学校に通うようになる。しかし、元々勉強嫌いだった私は、この頃から勉強に大きな遅れが出始め、付いて行けなくなった。
 私の家は端から家庭臭が無いと言うか不真面目一家と言うか、あまり教育熱心な両親ではなかったので、幸か不幸か学習に対しうるさく言われた事はあまり無い。テストの成績を見て驚愕した母が「偶には勉強ぐらいしなさいよ!」とは言うものの、大して期待している訳でも無さそうだし、母とて、それを言わなければ親らしくない・・・、位の気持ちで言って居たに過ぎないだろう。
なので一般家庭のように親が親身になり勉強や宿題を見てくれたり、本を読んでくれたり、机の中の片付け方や整理整頓の仕方など、丁寧に教えて貰ったという記憶はあまり無い。
増して離婚し母子家庭になったとあらば、母は無論働きに出ていたので、尚更放任主義になった。
母が出掛けてしまえばお茶の子サイサイ、私も勉強に怠慢になって行く。
TVは見放題、漫画は読み放題、自堕落人生まっしぐら。その頃から徐々に忘れ物や、宿題忘れも多くなり、ついにはクラス1〜2位を争う落ちこぼれとなって行く。
 もう、そうなってくると学校が全然つまらない。
 私は幼い頃から、あまり人と群れるのが好きではなかった。本当に心の通う仲良しの友達とだけ居たい方だった。どうも大人ばかりが周りに居たせいか、変な所が冷めていて、あまり子供らしい子供ではなかったと思う。
特に優等生で家が金持ちで、なに不自由の無い恵まれた子供を見ると、私とは別世界の子供だと思った。どうせ私なんか相手にされないのだと、自分から引いてしまう場合が多いのだ。
 転校をすると先ずは興味や好奇心から、必ず人々が寄って来る。根掘り葉掘り色々聞かれ、妙に親切にされ、一瞬的にはクラスの人気者みたいな気分にさせられる。しかし付き合いが始まり、私が勉強も出来ず、だらしなく、金持ちでもない母子家庭だと知られると、急に優等生面した生徒達からはそっぽを向かれてしまう。
 自分達から近づいておきながらそりゃぁ無かんべ、と言いたいが、それもまぁ、仕方が無いか・・・と、変に諦めが良いのも私なのだ。
人々なんて所詮冷酷な物なのだと、子供ながらに悟っていた気がする。
 大好きな人達との別れを何度か強いられて来ると、人との付き合い方も刹那的になって行く。人に対し期待するのが怖いのだ。本当は人恋しくて寂しがり屋の癖に、後々の事を考えると面倒くさくなってしまう。積み上げてもどうせいつか崩れると思えば、積むのも億劫になるものだ。本当はだらしない自分を見透かされ、嫌われるのが怖くもあった。
 この頃から、私は他人に対する姿勢を確立させて来たような気がする。
―来る物拒まず、去る物追わず― 
 どちらにせよ、幡ヶ谷時代は従兄弟達と遊べる事の方が楽しく、学校にはあまり興味も期待も無かった。
大して仲の良い友人も出来ぬまま、叔母の家で一年ほどを過ごす内、その頃から母に新たな男の影が見え隠れするようになる。
 実父は母よりも一つ年下だったのだが、今度の母の恋人は母より一回り以上も年上で、私から見るとかなり爺さんに見えた。
恰幅は良く、見た目は社長タイプで貫禄はあるのだが【全然私好みではない!】という感じ。若手お笑い芸人タイプだった父とはまるで正反対。なんだか歌舞伎役者みたいで私は気に入らなかった。
 その人は築地魚河岸の場内に在る、老舗のマグロ屋の長男坊だそうで、かなりの食道楽だった。母や私を連れ、しょっちゅう美味しい物を食べさせに連れて行ってくれた。
 年に二〜三度程の旅行などにも連れて行ってくれ、いつしか私は母の恋人を「お義父(とう)さん」と呼ばされるようになった。
私は本物の父が大好きだったので、母が父を裏切ったように感じ、一時期は母を憎んだりもした。
でも母に「旅行先でオジサンと呼ぶのはまずいでしょう、お父さんって呼んでちょうだい」と言われた時、抵抗は有ったのだが、私は単純な人間なので、目先の食べ物や旅行の楽しさ等に目がくらみ、それに釣られて自然に「お義父さん」と呼べるようになったのだ。
 お義父さんは妻子のある人だったので、所謂母とは不倫の関係だった。最初は母の気まぐれな付き合いだと思ったのだが、後に母が亡くなるまでの二十数年間、お義父さんと母はずっとその関係を保ち続けた。
ある意味、父の事よりも愛していたのだろう。
それが少し寂しい気もする。
 やがてお義父さんがスポンサーとなり、中野に店舗を探し出して来、母に店を持たせる事になった。そこは店の奥がちょっとした住まいになっている住居付店舗だった。
私達は叔母の家を出、中野に移り住んだ。
 学校は歩いて通えない事も無く、少し遠くはなったが、転校はもう嫌なのでそのまま幡ヶ谷の小学校に通っていた。
母の店は川島通りと言う賑やかな商店街の外れに位置し、店は結構流行り始めていた。料理人を二人雇い、昼間は洋食屋。夜は酒や軽食を出し、スナックと言われる形態の走りのような店で、若い客達でいつも賑わっていた。
しかし、私が五年生の時、再び中野を引っ越す事になったのだ。
今度は千代田区の九段に良い物件が見付かったとの事で、これも又、大層へんてこりんな話ではあるのだが、中野の店は別れた父と父の愛人に任せ、私達は九段に移り住む事になった。
【何で大人はこうして自分達の都合だけで、子供を振り回すのだろうか・・・】
半ば勝手にしてくれと言う心境でもあり、未知との遭遇と言う期待も多少はあり、大人に振り回されるのは私の宿命なのだと諦めの境地でもあった。
まぁ、とにもかくにも、私は再び転校をし、九段の小学校に入ったのだ。

続く


2006年11月27日(月)


 エッセイ  人生波茶滅茶


【両親ついに離婚する!】

 私が小学校三年生の時だった。
相変わらず両親の喧嘩や嫁姑の諍いは有る物の、束の間の小学校生活をエンジョイし、比較的平安な日々を送っていた。
近所の仲良しも沢山居て、家の前の原っぱや神社で遊んだり、裏山に探検に行ったりと、男の子も女の子も真っ黒になって遊びまくった物だ。学校にも仲良しの友達が数人出来、毎日がとても順調に運んでいた。が、しかし、三年生の三学期に入った頃だ。ついに両親が離婚する事になった。離婚原因は父に女が出来た事だった。
お相手は言わずと知れたストリッパーのオネエチャン。
今までツマミ食い程度の浮気は日常茶飯事だった父だそうだが、どうやら父は、今回本気でそのオネエチャンにイカれてしまったみたいだ。
 当時父は岩手県のストリップ劇場で、長期契約で前座コントに出演していた。要は逆出稼ぎである。
三年生の夏休み、父が友人と車で迎えに来、私を乗せ、十日間ほど私も岩手に遊びに行っていた事が有る。出掛けに母から「頼むから絵日記にストリップに関する事なんか書かないでよ」と、強く念を押された記憶がある。
後に思えばその期間中、やたら父とイチャイチャと仲の良かったオネエチャンが居た。私にも殊の外気を使ってくれ、なにやかんやと買ってくれたり、遊園地などに連れて行ってくれた、至れり尽くせりのオネエチャンだ。どうやらあのオネエチャンが、両親の離婚原因を作った張本人だったみたいだ。
私はそのオネエチャンが好きだったので、少々共犯者めいた意識を持ち、なんだか母に対し心苦しかった。
後に人づてからそれを知った母が、私を連れ、岩手まで直談判に乗り上げた。
しかし、父は子を鎹にはしてくれず、若いオネエチャンとの生活を選んでしまった。
帰りの汽車の中で、母が車窓を見ながら泣いていた光景を今でもハッキリ覚えている。
あの時の重苦しい母の哀しみは、暫くの間私のトラウマになっていた。
私は子供ながらに(とうとう来たか・・・!)と、両親の離婚を予感していた―

 数ヵ月後、珍しく世田谷の家には両親が揃っており、私を呼びつけた両親は厳粛な顔つきで私に言った。
「パパとママ、離婚する事になったけど、アンタはどっちに付いて行きたい?」
どっちに付いて行きたいなんて、い、い、いきなりそんな事を言われても・・・・・・。
 正直この時は辛かった。
私は父も母も同じくらい大好きだったのだ。 どうしようもないけど、優しく、愉しく、ユーモラスでペーソスに溢れた憎めぬ父。
 気性は激しいが、美人で根は優しく、素敵だった母。
「別れない訳にはどうしても行かないの?」
『うん! 行かないの!』
あっさりと異口同音で言い切られ、私は途方に暮れる。
 残酷な選択を選ばされ、しかしながら父に着いて行けば身の破滅は免れない・・・。そう懸念した私は母に着くしかないではないか・・・。
「じゃぁ、ママ・・・」ハイ、一件落着!(笑)
 笑い話的に書いている訳ではなく、子供心などはお構いなしの、本当にこんな感じのアッサリした離婚劇だった。
 もう二度と父に会えなくなる・・・。
そんな寂しさや悲しさや不安に打ち震えていた傷心の子供心はなんたらず、事実、なんてぇ事も無かったのだ。
離婚後も私はしょっちゅう父に会えていたし、母も父と父の愛人と友人との4人でマージャンなどをしたりと、返って家に居た頃
よりも父と母の仲は良くなったくらいだった。
へんてこりんな大人達・・・。
この頃からだ、物事をあまり真剣に捉えられなくなったのは・・・・・・。
 この頃からだ、大人だって結構いい加減な物なんだと思い始めたのは・・・・・・。
 この頃からだ、物事に余り危機感を持てなくなったのは・・・・・・。

続く


2006年11月25日(土)


 エッセイ 人生波茶滅茶


   第一章 ぐうたら神との出遭い
   【こんな私が出来上がった要因】     

 私は昭和三十年八月、記録的な猛暑の日、東京の世田谷区の生家で産婆の手により取り上げられたと言う。
父は全く売れない喜劇役者兼フリーター。母も全く売れない女優兼、銀座のクラブの雇われマダム。その他の家族は、父の実母である祖母と、祖母の姑である曾祖母の5人家族。
 読者は、そもそもこの時点で、私がまともな人間に育つ訳が無いと言う兆候を感じやしないだろうか?
 父は、日本で指折り有名な喜劇王と言われるまでになった母方の親類である伯父の口利きもあり、時には伯父の芝居の端役やTVの脇役で使ってもらったりもしていたようだが、芸風が古いのか、勉強努力が足りないのか、そこから一向に這い上がれずじまいで、いつまで経ってもパッとしなかった。
私の幼少時、父はストリップ劇場の前座のコントや司会などの仕事をしたり、時には仲間達と劇団を作り、小劇場などでアングラ掛かった現代劇などもしていたようだ。そして役者としての仕事が無い時は、得意な料理を活かしたフリーターなどもしていた。
 父は寂しがり屋でお調子者。ユニークで不謹慎でノンベェで、女好き―と、3拍子も4拍子も5拍子も揃った不真面目亭主&ダメ親父。
貧乏なくせにギャラを貰うと殆ど家には入れず、仲間内に奢りまくってしまうような、後先考えぬ楽しい事好きの人間だった。
そんな性格の父だから、各ストリッパーのオネエチャン達にも仕事仲間からも結構可愛がられてはいたと言う。
しかしこんな父でも以外に子煩悩だった。私の事はとても可愛かったらしく、都内での仕事の時などは、例えストリップ劇場だろうが、いかがわしい芝居小屋だろうが、打ち上げ会場のキャバレーだろうが、場所も構わず幼い私を連れ回した。
ただ、地方の仕事などが続くと、父は暫く家に帰って来ない事も多かった。
でも私は、優しくて可笑しくて、いつもふざけては皆を笑わせてくれる父が大好きだった。
 一方私の母は、私が産まれて暫くは子育てに専念していたらしいが、父に生活費を委ねるにはあまりに頼りないので、私が一歳の誕生日を迎えた辺りから、共稼ぎを再開したようだ。祖母と曾祖母に私を預け、再び夜の銀座へと復帰した。
 母は中々の美人だ。そして基本は優しく温厚で、物分りの良い話せる人間だった。
ただ、少々チャランポランな所や、ぶっ飛んでいる面も持つ一方、プライドが高く偶にヒステリックな面なども見せたりで、子供ながらに母の事を複雑な人間だと思っていた。
私に対しての接し方も、とても優しかったり冷たかったり、さっぱりしていたり暗かったりと、その時の母の気分や感情で左右されるような所が有った。
しかし、美人でお洒落で、何処か他の母親とは違うセンスを沢山持つ母は、私の最大の自慢だった。
父が家に居る事が少ない分、私はかなりのママっ子だったと思う。
父と母は仲が良い時と悪い時の差が激しかった。楽天家で事なかれ主義の父はその日が愉しければ良いというお気楽人間。
そんな父に呆れながらも、自分がしっかりしなきゃと、一家を支えていた母。
一家五人の生活費を埋めていたのは、ほぼ母の稼ぎからだろう。そんな事でよく父と母は、口喧嘩をしていた。
変わって、小さいバアチャン(祖母)は当時、まだ五十代の後半くらいだったのだろうか、確か、何処かの大学の売店か何かでパートをしていたと思う。
私の面倒を見てくれていたのはもっぱらこの祖母で、小さな頃はよく多摩川の河原に近所の仲良しと一緒に、遊びに連れて行って貰った記憶が有る。
祖母もかなり勝気な人で、母と祖母の間には始終小さな衝突があった。原因は私を廻っての喧嘩、父の事での喧嘩、互いの事での喧嘩と様々だったようだが、私は両方とも大好きで立場上二人に恩義がある。母の味方も祖母の味方もする訳には行かず、幼心に板ばさみにされ随分困ったものだ。
互いの言い分は幼い私にも良く解るのだが、どちらかの味方をしたら、どちらかが可哀想だと思い、何時もどっち着かずだった。
私に、言いたい事が余りストレートに言えず、平和主義的お調子者の性格が身に付いてしまったのは、どうもこの頃からのようだ。
 大きいバアチャン(曾祖母)は当時八十歳近かっただろうか、あだ名のようにかなりふくよかな体系で、何時もどっしりしていた。
祖母と曾祖母は嫁姑の関係にあり、殊の外仲が悪く、始終私の取り合いをしていたらしい。大きいバアチャンとの記憶で鮮明に覚えているのは、家には白黒の飼い猫が居り、その猫を膝に乗せ、毎日縁側で日向ぼっこをしていた姿と、ホウサン水に真綿を湿らせ、始終目の消毒をしていた姿だ。
曾祖母はモスグリーンと白の水玉のスカーフがお気に入りで、三枚同じ物を用意し、常にトレードマークのようにそれを首に巻いていた。後の曾祖母の葬儀の遺影の首にも確かそれが巻かれていたと思う。
曾祖母が脳溢血で倒れ寝たきり状態になった時、言葉を失い、時々何とも言えぬ唸り声を上げていた。今考えれば大変申し訳ないのだが、当時の私にはそれがとても恐ろしかった。近くを通るたび曾祖母は私を求め、唸りながらおいでおいでと手を伸ばすのだが、どうしても怖くて近付けなかった。
曾祖母は健康時から祖母とは仲が悪かったのだが、母の事は好きで頼っていたみたいだ。
倒れてからの曾祖母は益々祖母に対し疑心暗鬼になり、祖母には一切手を触れさせなくなったと言う。
祖母が食事の世話をしても「毒! 毒!」と、あらぬ妄想を抱き、母が調理した物しか口にしなかったらしい。
そんな事が尚更祖母の機嫌をそこね、母と祖母の関係は益々険悪になった。
当時の母は、仕事、曾祖母の世話、私の世話、父の世話と大変だった。なので私は幼い頃から母に甘える事が中々出来ず、何処か遠慮がちな子供だった。常に母の顔色を伺い、母の機嫌を伺い、機嫌の良い時にだけ、この時とばかり甘え貯めしていたような気がする。
そして、私が幼稚園に上がるか上がらないかの頃、曾祖母が他界した。
この通り、我が家は私の外は大人ばかりで、しかも両親が不規則な仕事を持っていたため、おおよそ生活臭の無い家庭だった。
父も母も揃って家に居る時には、父母どちらかの友人達が家に押し寄せ、明け方までドンチャン騒ぎをしていたり、母も含めマージャンだのポーカーだののゲームで盛り上がっている事も多く、父の悪友の一人は必ず寝ている私を起こすのだ。要はマージャンの順番待ちの間、私は彼の遊び相手にさせられる。
でも、普段寂しい思いをしている私はそんな時間が楽しく、大人に混じりポーカーやコイコイなどをして遊んでもらうと言う、教育上最悪な環境の家だった。
父や母も黙認していて、決して彼を咎めようとはしないから笑っちゃう。
やがて私が小学校に上がるようになっても、父は相変わらず安定した収入を掴めなかった。
役者としての仕事は殆ど金にはならず、フリーターの仕事で凌いでいたようだ。
生活の苦労や日頃の父の浪費などが母の不満となり、私が小学校に上がった頃になると頻繁に父と母はやり合っていた。時には祖母を含め三つ巴で遣り合っている事も有る。
私はそんな場面に出くわすのが嫌で、友達が帰った後も、又公園に一人戻り、暗くなるまでブランコを漕いでいた事が良く有った。
 大人って、何であんなに喧嘩ばかりするのだろうか・・・。子供心に不思議だった。
個性が強い大人達にもみくちゃにされながらも、それでも世田谷の生家は楽しかった。人が沢山居た家が楽しかった。夜中に遊んでくれる大人が集まる家が嬉しかった。
 健全な家庭には程遠いが、その分どこかユニークな魅力に溢れている家だった。
こんな家に生れ落ちたお陰で、私の感性は何処か人とは違う方向性を持つようになる。だから複雑怪奇な家庭に産み落とされた事に対し、決して後悔は無い。
ただ、この辺りから、どうやら宇宙の総神様が私を放っておけなくなり、私の傍らに【ぐうたら神】を派遣させたようだ。
きっとこの神は、神様の中では一番新米でペイペイの神様なのだろう。私の人間レベルに見合う神様は他には誰も居なかったのかも知れない。
ぐうたら神は私の手をしっかりと握り締め、それから後の私の人生の良きパートナーとして大活躍してくれる事になる。
時に私と大喧嘩をし、時に私を絶望の淵へと沈め込み、時に仲良く寄り添い、時に親身に叱ってくれ、親代わりとして私に様々な人生ドラマを体験させてくれるのだ。

次回に続く


2006年11月23日(木)


 長編エッセイ  人生波茶滅茶


 【ぐうたら神と手に手を取って】
(前書きのようなもの)

 今も私(アタシ)は、ぐうたら神に生かされている。
昨年の八月、私はついに五十歳の大台に乗ってしまった。
満五十歳と言うのは何か不思議な感覚だ。三十歳とか、四十歳の時の方が中途半端に年を食っちゃったような気がして嫌だったが、いざ五十歳になってみると返って小気味良い。
そして私に取ってこの五十歳こそが、何か人生の大きな節目になるような気がする。逆に言えばいくら何でも、もうそろそろ節目を作らなければ私は一生涯ダメなままで死んでしまう事になる・・・。そんなの絶対に嫌だ。
それにしても、この私が五十歳かぁ。もう人生の三分の二も生きちゃったんだよなぁ。
この五十年に至る人生、とてもじゃないが人様に自慢できる代物など何も無く、自分でも嫌気が差すほど波乱ずくめのダメ人生だった。
よくもまぁ、此処までずうずうしくも生きて来られたものだ。
 実は、幼い頃の私に【ぐうたら神】という名の一人の神様が取り着いた。
ぐうたら神とは私が勝手に付けた彼へのあだ名だ。
ぐうたら神は、万年の貧乏神、時に疫病神、挙句は死に神にまで変身し、私を容赦なく痛め付ける事のみに快感を見出し、私をよほど憎んでいるのか愛しているのか、今尚私の傍らに寄り添ったまま一瞬たりとも離れてくれようとはしない。
でも、このぐうたら神、満更悪い事ばかりを起こす訳でもなく、諦め掛けた頃になってチョビットだけ嬉しい事なんかを送り込んでくれちゃったりする物だから始末に終えない。そこが憎み切れない訳で、又、曲者なのだ。
どうも私の人生は、束の間良い事が起こると、その数倍悪い事が起こると言うシステムになっているみたいだ。言い換えれば、辛く苦しい事があれでもかこれでもかと続き、マックスに達すると、チョトだけ御褒美を与えられるような仕組みになっているようだ。
もう、そんな人生に慣れ切ってしまい、良い事が少し続くと、その後のアクシデントがより大きくなるようで恐ろしくていけない。
五十歳になった今現在も、後ほんの一突きでトドメ? と言う場所で、喘ぎながら生きている。果たしてこの神は、何れは私にどんな人生結果を齎してくれるのだろうか?  
今度こそダメだ、今度こそ終わりだ。そう言い続けながら、ついに私は五十歳になった。
 でも、もしぐうたら神に何れは取り殺されるくらいなら、最後の最後くらいは自力で何かしてからじゃなければ悔しくて死ぬに死ねない。
彼と離別する最後のチャンスになればと思い、ある意味、捨て身でこの自虐手記を書く決心をした。
 誰かがこれを読み【こんな生き様で良くもまぁ、今まで生きて来れたもんだ。私より(俺より)無様な人間も居るじゃないか。ならばもう少し私も(俺も)頑張って生きてみるか!】そう感じてくれたら本望なのだ。
 きっと世の中の人々は、今現在成功している人はともかく、人の失態を知る事でより気楽になれるケースもアリではないかと思う。 
私が僻みっぽいからかも知れないが、自分がダメで落ち込んでいる時、サクセスストーリーほど読むに耐えない物は無いもの・・・。
ただ、こんな私でも、人生の生き方や、成功法、哲学書やポジティブシンキングのノウハウ本など、図書館通いをしながら散々読み漁ってはみた。しかし私の人生は一向に上向きにも金持ちにもならなかった。それどころか自分の粗ばかり余計に思い知らされ、返って酷く落ち込む事の方が多かった。
あれは成功した人が書いた本だから成功本と呼ばれるのだ。別にそれを書いた後に成功したのではないと思う。ならば私は逆を行く。
私は人生の失敗本を書いて成功したい。
 そんな私の【波乱万丈玉突き式踏んだり蹴ったりズタボロ人生】を、是非とも最後の最後まで読んでいただきたい。
そしてこんな最悪人間でも、結構楽しみながら生きては行ける物なんだという事を知って頂き、今が辛過ぎる人には少し、肩の荷を降ろして楽になって欲しいのだ。
これは勿論、サクセスストーリーなどではない。
未だ発展途上人間の赤裸々白書だ。
又、最たるダメ人間の私が、ダメ人間だと思い込んでいる人々に送るエールでも有り、私自身の遺言書のような物でもある。

      平成一八年・十一月の晴れた日。

続く



2006年11月22日(水)


 (日記) 日記再開 


この所長いあいだ日記が滞っていた。
書きたいけど書けなかった。いや、書かなかった・・・・・・。

何人もの人に催促され、心配され、それはそれで嬉しく、口では「そろそろ書き始めなきゃね」などと言うだけで一向にタイピングが進まずに居た。
かなり、心身ともに痛んでたのだ。
私だけは楽天家なので鬱にはならないと思っていたのだが、完全にその兆候が現れ始めていた。何をするのも嫌で億劫で、思考も回らず、完全にサイトで見る限りでは鬱の状態に当てはまっていた。
病院に行きたかったのだが、そんなお金も無かった。

1年半を掛け、紆余曲折があり、もうダメかも知れないという状況を何度かくぐり抜け、今年の7月8月と思いのほか店が忙しくなり、やっとマイナス面を埋められ、起動に乗り始めたのかと思いきや、9月以来の異常なまでの飲酒検問の厳しさや様々なアクシデントの重複などで、出費と収入のバランスが大きく崩れ、もう店を維持していくのも無理になり、昨日でとうとう私の店は営業不可能な状態に陥った。
私たち夫婦の全財産は、店の釣り銭を含め、今現在たったの6500円になってしまったのだ。仕入れはおろか、夫婦共々今のガソリンが無くなれば、もうガソリンも入れられない現状だ・・・。

もう人様に心配を掛けるのも、迷惑を掛けるのも、助けてもらうのも嫌なので、昨日は一応店には出てきた物の、茫然自失状態で包丁片手に自殺防止支援サイトなどを検索しながら、国際ビフレンダーズと言う所に電話しようかしまいかずっと悩んでいた。
結局電話も出来ず、怖いので死ぬ事も出来ず、幸か不幸か一人の客も来なかったので店を11時頃閉め、家に帰り眠れぬ夜を悔し泣きしながら過ごした。

今朝ベッドから抜け出て、あまり好きではないワイドショー番組を見るとも無く見ていて、なぜか無性に、再び物が書きたくなった。
去年の今頃も店が絶望的な状態に襲われ、やはり私は何をやってもダメなのだと思い悩んだ。
でも、せめて何かをちゃんと書き終えてからでも死ぬのは遅くないと思い、偶々見つけた懸賞公募のエッセイに応募したのだった。
それがボツになり深く意気消沈していたのだが、後日編集者の方からわざわざ電話をいただき、最終審査まで残っていたと言うことを知り、又書く勇気が出たはずだっだ。しかし、最近では物を書く心の余裕も消えうせていた。

でも、やはり私はまだ死ぬ勇気が無いし、やはりもう一度書くことに挑戦してみたい。
私の文章に共感してくれ、店を持たせる為に大切なお金を援助してくれた人々のためにも、もう少し生きなきゃなぁ・・・と反省した。
そして、皆に約束をした、その時のエッセイを本にする事が今は出来そうにないけれど、楽しみにしていてくれた人を騙した事になってしまうのは嫌なので、少しずつこれから毎日載せてみる事にした。
あえて手直しをせず、誤字脱字は多いかもしれないが原文のまま載せてみる。
そうすれば良い所まで行きながらもボツになった理由も解るだろうし、読者からのありのままの感想もいただけるように思うのだ。なので明日からボツになったエッセイ【人生波茶滅茶。 〜ぐうたら神と手に手を取って〜】を載せさせてもらうので、興味がある方は是非読んでください。

今朝から家のパソコンで新しいエッセイに挑戦し始めた。それを書き終えるまで、又、私なりに頑張って生きてみようと思う。
店共々、応援してください。
今日の日記は大変暗かったけど、引かないでね。
ウソが書きようのない人間なので、どうかご理解ください。


2006年11月21日(火)

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