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■ エッセイ 人生波茶滅茶
【ヒッピー時代】
私達は週末になると決まって新宿に繰り出した。新宿なら家も近いし、なにせ、そうは言ってもまだ中学生の分際なので、小遣いも少ないし意気地も無い。化粧をし、流行の服を着、新宿をブラ付く程度の可愛い不良だ。 新宿ならば安い喫茶店も沢山有るし、青山や六本木はまだまだ十年早いと言った所だ。 小遣いが足りなくなると母の財布から千円札を一〜二枚ちょろまかしたりした事もあった。 私はお義父さんさえ来ない日は、親の目からは自由だったので、比較的家を抜け出るのは楽だった。 他にも同じ中学内で時たま参加の友人が数人いた。誰もが親が店や仕事で忙しい、鍵っ子や落ちこぼれの寂しがりや達だ。私達はいつ補導されるかと怯えながらも、そんなスリルとワクワク感を満喫していた。 互いの親達には、互いの家に勉強に行くとか言い合い、常に4〜5人の口裏併せの悪友が居た。 新宿をブラ付いている内、私達はあるヒッピーと仲良しになった。名前をマサ(仮名)と言い、彼は既に三十過ぎた年齢で、職業は絵描きだった。マサは路上の片隅で茣蓙を敷き、絵を売っていた。 マサは最初、説教じみた事を私達に唱えていたが、色々な話をする内に理解してくれ、彼はこう言ってくれたのだ。 「もし新宿で遊ぶなら俺の仲間が集まる茶店を拠点にしな。何か困った事に出遭ったらそこに逃げ込めばいい。皆、優しくて気の良い連中だから安心だよ」 そして私たちは、彼らが屯する【モナ】と呼ばれる喫茶店に案内されたのだ。 それ以降、殆ど私たちの飲食代は、マサやそのグループであるタクボや、路上でアクセサリーなどを売っているマリ子さんと言う先輩ヒッピー達が払ってくれた。その他のメンバーには、詩人家志望のリミ、カメラマン志望のイサム、バンドボーカルのチョボなど、其々にちゃんと夢や仕事を持つメンバーが多かった。 無論、仲間内では最年少の私達。仲間達は私たちを妹のように可愛がり、大切に扱ってくれ、皆、交代で遊び相手をしてくれた。 私は産まれて初めて、他人に受け入れられたような気がしていた。 【モナ】のあの幻想的でフレンドリーな空間での開放感が、私にはとても居心地が良かった。やっと魂の寂しさを分かり合える人間達に出会えた・・・。それが何より嬉しかった。 当時の新宿周辺は、いたる処にヒッピーやらフーテン族が屯し、ハードロックが鳴り渡り、あの頃の街並みはサイケデリック一色だった。私達は【モナ】で集まり、雑談をし、それから歌舞伎町に足を伸ばし踊りに行ったり食事をしたりし、再び【モナ】に戻ると言うパターンで遊んでいた。 【モナ】のグループにの中には頭痛薬のオプタリドンでラリッたり、マリファナを吸ったり、アンパンと呼ばれるシンナー遊びをしている連中も居た。 私も物は試しで、頭痛薬とアンパンは一度ずつ経験してみたが、どれもこれも大して面白くは無く、私を満足させてくれる物でもなく、お陰で私は薬物依存にならずに済んだ。 私達がもう一軒良く通った店に【アップル】と言うバカ安のゴーゴー喫茶(古っ!)が有り、そこでも私達は大常連になり、常に先頭を切ってステップを踏んでいた。私達はチョットした【アップル】の顔だったのだ。 サイケデリックで幻想的な当時の新宿は、今のそれとはかなり体質も性質も違っていた。 世間に順応し切れない、外れ者の巡礼者達に取って見たら、あの頃の新宿は不毛な魂を癒す唯一の聖地だったのかも知れない。 皆脆く、何処か哀しげで、其々が寂しさや虚しさや一種の怒りや諦めなども抱えてはいたけれど、皆純粋で仲間を思いやる気持ちに溢れ、優しくユーモラスで滑稽で、愛すべき仲間達が多かった。 ある日、留美子とたった今出来たばかりの友達(広美)との三人で歌舞伎町を歩いていたら、偶然にも別れた父にバッタリと出遭った事が有る。父とは両親の離婚後も、時々会ってはいたのだが、友人との遊びに夢中になり始めると父とのデートはめっきり減っていた。 「ダメじゃないか、中学生の癖にこんな時間に盛り場をフラついちゃ!」と、多少叱られはした物の、父は不良の大先輩なのであまり偉そうな事は言えないのだ。 父は私達に食事を奢ってくれ、その後、私達を父の所属する劇団に連れて行った。そこは怪しげな小劇場だ。 父はその劇団に長く所属しているらしく、私達は先刻友人になったばかりの広美の事で父に助け舟を求めたのだ。 私と留美子がアップルに行くと、広美はホールの中央に一人で居た。彼女は一心不乱に激しく身体をのたくらせ、踊り狂っていた。彼女の何処か妄信的でエキゾチックな激しいダンスはとてもサマになっていて、皆が息を呑むように彼女のダンスに見惚れていた。 ハーフのような愛くるしい顔立ちで背は高く、一瞬何処かのモデルかタレントだと思った。あっけに取られて拍手をした私達に気を良くしたのか、彼女の方から話し掛けて来たのだ。 話を聞いてみれば彼女は何と、つい先程家出をして来たばかりだと言うではないか・・・。 彼女の父親は一年ほど前に自殺しており、母親は会社の社長をしていると言う複雑な家庭環境だ。彼女も一人っ子で、心通わぬお手伝いが彼女の身の回りの世話を焼いていたと言う。しかし彼女はそんな暮らしにうんざりで、厳格で口うるさいだけの母親が嫌で嫌で仕方なく、母に初めて反発したら「誰のお陰でこんなお嬢様生活が出来てると思ってるのよ!」と罵られ、自殺するつもりで家を飛び出たのだと言う。 ただ事ではないと思い、私達は【モナ】に連れて行き、マサ達に相談しようとしていた途中、偶然にも父にバッタリ出遭ったのだ。 話の途中で知ったのだが、彼女は歌手や女優に憧れていたと言う。顔もスタイルも踊りも抜群なので、その夢は決して無謀ではない。 そしたら何と、父はその後、彼女にアパートを借りてやり、自分の劇団に彼女を入れ、面倒を見続けてくれていたらしい。やがて彼女はその劇場で憧れの女優になったのだそうだ。 一寸アングラ的な劇場ではあるのだが(笑)まぁともかく、彼女の夢は叶った訳だ。 そんなきっかけで再び父と接触した私は、時々父と会っては、食事代や喫茶店代などをカンパして貰っていた。 やがて留美子は中学を卒業して行き、高校に進学した。尚も私達は不良時期を満喫していたのだが、いよいよ一連の嘘が双方の母にバレ、あえなく外出禁止令が出されてしまう。 私達は暫くの間会う事さえも禁止され、私には家庭教師という監視役が付き、やむを得ず個々の学校に真面目に通い、半年ほどは大人しくしていた。しかし再び親の目を盗んでは遊び歩くと言う、イタチごっこの日々を続けていた。 やがて私も中学を卒業し、それを機に、私達は又引っ越す事となった。 その時の事情はあまり詳しくは知らないのだが、母は九段で焼き鳥の店の二階で夫婦者を雇い雀荘も経営し始めた。その雀荘の事で、警察とトラブルが発生したと言う事で、まだ借金の元も取らぬまま、階下の店ごと撤退せざるを得なくなったようだ。 父に事情を話し、父と愛人には中野の店を空けて渡してもらい、私達は再び中野のあの店に舞戻る事になり、私は親友である留美子とも遠く離れ離れになってしまった。
続く
2006年11月30日(木)
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