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みん
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2003年09月20日(土)
Let`s a weak say"I am strong."

宗教を弱い者のものだ、という意見、というのを
わたしはメッセージの中でしか聞かないのだが
やっぱりそういうのはあるとも思う。
主は私の隠れ場、とか言うしね。神頼みだしね。
件さんは物事の責任をすべて自分に返して考える人で、
そのひとがいきなり主に頼むひとになってしまったので
かれの周囲の人はなんだかいやそーです。

私は自分が弱いことはさておき、彼への信仰が弱者の証だとは思っていなかったのだが。
突然知ったのだ。
私たちは安全な場所に置かれて軍隊の勝利の知らせを待つものではない。
わたしたちはシェルターの中守られているものではない。
軍隊の中にいるのだ。彼を信じると言ったときから。
この軍は無敵の軍隊で、戦いの終わりに負けると言うことが無い。
けれど一人一人の兵が指揮に従わずにいればその者は傷つくのだ。
死ぬかもしれない。
死ぬのかも、しれない。
そうだ。殺されかけた子がなんて多いんだろう。
それは従った故に。
ああ、邪魔なのだ、私たちは。
この軍隊は目障りなのだ。
だって、この軍に勝つと言うことが出来ないのを、奴らは抗いながら知っている。
せめて一人でも多くのものを我が物にしようと必死なのだ。
だからあんなことが、起こる。

私たちが安全なのは
私たちが守られているのは
この軍隊に敗北が無いからだ。
自分という個を守るために出来ることはただ従うだけだ。
なんてことだろう。
私たちはこの手で勝利を手に入れるのだ。
ご相伴に預かるんじゃないのだ。
この足がその頭を踏み砕くのだ。
この声が奴らをおびえさせるのだ。
なんて美しい名だろう。なんて甘いんだろう。
なんてことだろう。
私たちは危険のど真ん中にいて恐れる必要が無い。
私たちは弱くその故に強いからだ。
なんてことだろう。
なんてすてきなんだろう。

攻撃が絶え間ない。
私たちは気を抜いてはいけない。
こんな風に人を介さずに物事が起こる。
私たちは危険に晒されている。
つまり、私たちが成長することは脅威なのだ。
終わりが近い。

あのひとはね。勝つよ。

そのふるまいの日がひとめぐり終わるごとに、ヨブは彼らを呼び寄せて聖別し、朝早くおきて、彼ら全ての数にしたがって燔祭をささげた。これはヨブが「わたしのむすこたちはことによったら罪を犯し、その心に神を呪ったかもしれない」と思ったからである。ヨブはいつも、このようにおこなった。
ある日、神の子たちが来て、主の前に立った。サタンも着てその中にいた。主は言われた。「あなたはどこから来たか」。サタンは主に応えていった、「地を行き巡り、あちらこちら歩いてきました」。主はサタンに言われた、「あなたは私の僕ヨブのように全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかるものの世に無いことを気づいたか」。サタンは主に答えて言った、「ヨブはいたずらに神をおそれましょうか。あなたは彼とその家および全ての所有物の周りにくまなく、まがきを設けられたではありませんか。あなたは彼の勤労を祝福されたので、その家畜は地に増えたのです。しかし今あなたの手を伸べて、彼の全ての所有物を撃って御覧なさい。彼は必ずあなたの顔に向かって、あなたを呪うでしょう」。主はサタンに言われた。「見よ、彼の全ての所有物をあなたの手に任せる。ただ彼の身に手をつけてはならない」。サタンは主の前から出て行った。

ヨブ記1:5〜12



2003年09月15日(月)
いいから黙ってついてきな(今日からヨブ記に入ってみますヨー。

今週は仕事が超楽。なのでビデオを見る。
エレミヤ全二巻とエステル全二巻。すげかった。
それにしてもむかしっから思ってはいたことだがこうして映像で見るとアハシュエロス王ちゅーのはほんとにてめえではなんもしないな。そしてわたしのイメージしていたよりモルデカイが狡猾そうで参った。あんなにいいおじちゃんっぽい人だとおもっていたのに。
しかしこれで娼婦ベロニカを思い出すのは間違いすぎだ私、と思うのだが、でも彼女も知恵の人であったよね。モーセもみたいな。あとアブラハムがイサクをささげようとするところ。記述ではわからないけれどあれ、なんという悲しみだろう。あれ見たい。



このタイプのビデオと言うのはいつも凄いちゃちいの。演技が駄目で演出が駄目で脚本が駄目でどんだけ手ぇ抜いてんねん、というかんじなのね。それで私はそういうのが許せない人間なので、見ることができないんだね。こう、腹が立ってくるのだ。でもこれは、そういう技術面がいままでにない高さだと思った。ただ楽しむことができると言うのは、つまり粗が見えなかったということだ。少なくとも私程度のめがねにはかなうレベルであったので、このジャンルにはめずらしかと思った。私のめがねちゅうのもまたずいぶんレベルのひっくい話だが(笑
ひとつがっちょーーー短いんだけど、なんか結構満足できるんだよな。ふしぎ。しかしエレミヤのはちょっと泣きそうになった。わたしはまだこどもです。畏れのなんとすさまじいことか。そして胸から出る炎の熱さのなんと力強いことか。
私のことばを語れと あなたが言った。

お、ここで売ってますな。でもね…酷い言い草とわかってはいるけどいわせてこのれびぅつまんなさそうだYO!申し訳ないがこのレビューを参考にしないでくれといいたい。エレミヤの…レビューが……あんまりだ………!

だからさ…思うんだよね、キリスト教企業は信仰ということばに甘えてるんじゃないのかとかさ。
商売する気がないんだ。なんつうのか、儲けるとか、そういうことではなくてさ。
それこそ信仰というのは金がなくても何とかなるちゅーか。
なるんですよこれが(体験談さ。
それは売れなくてもいいということではない、あ、薄利多売ちゅーんですねこれ。
人事なので毒を吐きますが信仰というのはろくでもないもん作っても主が働けば売れるじゃなくて(そんなもな詐欺じゃ)主の働きによって売れるものが作れて売れてそれがあまりに安くてちっとも儲からなくてもどういうわけだか生活と製作にたるだけのお金がどっからかきてしまうことを疑わずにおれることだと思うのだね。キリスト教の信仰というのは自分がどんだけ無力であるかということを知ることで、自分で動くことのなんちゅう無駄さよ、ちゅうもんで。習字の先生が自分の手を動かしてくれてるときには自分はなすがままになっておらんと結局奇麗にかけないんだな、という。じぶんがどんだけ字がへっっっっったくそかということを知ることから始まるんじゃないでしょうか。そしたら、自分は力を抜くだけでいいんだね!とわかるのだがそれがなかなかむつかしいのね。で、奇麗な字をかくために必要なのは他のどんな技術も邪魔で、ただ力を抜くことだけで。で、ここまでかいて言いたいことというのがこれだけなんだが、まえふと思ったのだ。

あ、私になにか力があるとしたら、それはただひとつで、「信じる」ことだけなんだわ。

と。

私が彼を信じてそれによって様々の素晴らしいことが起こったとき、それがあまりにも自分の力じゃなくて、けれど確かに私の行動が引き金で、それでそう思ったのだ。
ああ、彼を信じるということは力だなあ、と。信じることが私の力だなあ、と。
けして信じるという行為によって自信をつけるとか安心することじゃなくて、信じることでがけっぷちですら彼にだらーっとよっかかってしまうという、その信仰の強さ。彼が私を投げ出したり、支えきれないわけないじゃーん、という無条件の信用。そういうのが、それだけが私の力。

他には何もなくて、そしていまそれすらもなくて、だから私は力が欲しいなあ、と思った。
あなたに依り頼んで脱力するような、何よりも強いちからがさ。

みさきさんのHOLYMAGICも、これとは違うけれど信じる=力という構図はおなじだなあ。………いかんもう次を考えなくてはいけないよ……。いや、ネーム描こうとしたんですよ。そんで五頁くらいかいたんですけどね………………………ねむくて<マタカ

まじで(涙

最近ヨブってどういうひとなんかなーと凄く思うので、読んでもわからんので次はヨブ記にしてみる。書いてもわからんだろうがいいのだ。そんなことはわりとどうでもいいのだ(どうでもか
*
ウヅの地にヨブという名の人があった。そのひととなりは全く、かつ正しく、神をおそれ、悪に遠ざかった。彼に男の子7人と女の子3人があり、その家畜は羊7000頭、らくだ3000頭、牛500くびき、雌ろば500頭で、しもべも非常に多く、この人は東の人々のうちで最も大いなるものであった。その息子たちは、めいめい自分の日に、自分の家でふるまいを設け、その三人の姉妹をも招いて一緒に食い飲みするのを常とした。
*
1:1〜4


無駄なことは何もないのではない。全てが計画のうちに起こっているのではない。
無駄なことをも益に、計画になかったことも計画に組み込むことができるひとなだけだ。
わたしたちはすぐに間違う。
自分の行いが全てはじめから益であったなんて、ただの逃げだ。
そうでなきゃ驕りだよ。



2003年09月10日(水)
いてぇ。

すごいきつい。
だらけっきりです。
いかんまたかよ。
ね。

マウスが調子めたくそ悪くてもう刺したいです。
イノトモとか櫛引彩香みたいなこえで聖歌とかふるいワーシップCDでないかな。
癖とかパンチとか、ないほうがいいよ。


これ以降長文でいろいろ書いたけどイタイので消す。あほだわたし。
マウスもだけど例によってダウナー期間にはいってるのね。いけない、いけない、いけない。
なまえでたひとだけ。小阪忠、細野春臣、kj、れよな、ばーばる。

本当ならがんばってください。その声の空に玲瓏と響くことを祈る。


クリスチャンって正直イタイ。
クリスチャンでHPもってて、痛くないひとってなかなかいない。
しかも企業もそうだ。
てことはうちもだろうか。
いたた。

私たちは真実を知っているのだ。それは多くの人の知らないことで、それ故に知っていることを胸のうちに誇ってはいないか。何故あなたに(それからわたしに)真実は与えられたのだと思う?
選ばれたものだから。優れたものだからかい?
ばかばかしくって反吐が出るね。全くもってその真逆だよ。


ほらイタイ。


こゆこといちいち弁明するのも痛いけど今の私はみん@イタタなのでする。
クリスチャンがイタイってクリスチャンとは痛いものだじゃなくてなんでクリスチャンにはこうイタイのが多いんだよってそういうこと言ってるんで実のところヲタも詩人も絵描きもそのた芸術家もスポーツマンもサラリーなひともみんなイタイっちゃあいてえよ。

どんだけ荒んでんだ俺。

エリヤは、私たちと同じ人間であったが、雨が降らないようにと祈りを捧げたところ、三年六ヶ月の間地上に雨が降らなかった。それから、再び祈ったところ、天は雨を降らせ、地はその実を実らせた。私の兄弟たちよ、あなた方のうち真理の道から踏み迷うものがあり、誰かが彼を引き戻すなら、火曜に罪びとを迷いの道から引き戻す人は、そのたましいを死から救い出し、かつ、多くの罪をおおうものであることを知るべきである。


ヤコブ終わり。何がきっかけであったというのか。



2003年09月03日(水)
あんたなんか殺してやるよ。

ふぃれ倶楽でけた。
Φιλεωって書くのね。ふぃれおー。
わかりきっていたことですが白いです。
そんで本になってみるとすごいわかる。生原稿では見えなかった粗さが。
いや見えていたけど見ないふりをしていた粗さが<死
主にプロットの粗さが!!!!<ダメダメ。

うふ・・・・・。
写植で違ってるのがあってちょっと切なかったですが。
…いや、字が汚いのが悪いの…。
半神のときも虚毒と孤独ってつかってたらばっちり全部孤独にされていたし。
あとひきちぎれたがひきちぎられたになってたのかな。
細かいながら。読んでるほうにはたいした話じゃないんすよねこういうのは概ね。

EVA-NAVIは当分かけないような気が。
次は天使ものかな。天使の飛沫じゃないほう…。
ファンタジーとかいうんでしょうか…イワネエ。


クリスチャンになってきたなあ、と思いつつ、自宅にあるいろんな本がどんどんどうでもよくなってきているのにJRの車内でみた「朝のリレー」にがっつりやられた。もう書かないのかもしれないけれど、わたしは。それでも私はこの外側には行きたくないのかも。そして菅野さんの新刊はちょっと待って買うつもりらしい。菅野さんは私から出て行かないなあ。なんでかなあ。ちょっと今日読んだけどやっぱりすきだったなあ。

私の体は顕著でいやになる。

はっきり言えば今回のを読んでみて未熟だと思った。私もだし、全体に。
でも正直、商業的に売られているものよりいいとも思った。
それは書き手が読み手に近いところにいるせいだと思う。
一般の商業出版は書き手も読み手だ。
でも宗教系は読み手も書き手も同じ囲いの中にいて、ターゲットは囲いの外なのに何もしなくても囲いの外の者は来てくれると思っている。
因みに件さんは何もせんでも勝手に来てしまいましたがこういうのはほんとに稀で。
さそっても来ないんだ普通は。

私たちは外へ出て行こう。
攻撃に晒されて駄目になってしまうような信仰は糞喰らえだ。
負けはしない。否、負けるわけがない。
本当に信じているならね。
攻撃から隠れて生き延びたから君は強いと言えるだろうか。
私はそのなかを歩いてゆくよ。そして生き延びて
私は強いと言うよ。
そしてそれは真実だ。

バラバの人たちが映画を作ろうという話に対して、私たちの過去は栄光ではなく恥ですから、それを晒すことなんて、といったら製作側に「あなたたちはクリスチャンで、キリストのことを広く伝えたいのでしょう。そのために自分の恥がなんですか」的なことを言われて、納得して作ったと言うのを聞いた。これに関してはアーメンと声高く言うことができる。えんぴつでもきっと日記書いてるクリスチャンがいるんでしょうね。てか今さくっと追加しまくったけど少ないのー。

大胆になれって 彼は言ってる。

さて、わたしの兄弟達よ。なにはともあれ、誓いをしてはならない。天をさしても、地をさしても、あるいはそのほかのどんな誓いによっても、一切誓ってはならない。寧ろ、「然り」を「然り」とし、「否」を「否」としなさい。そうしないと、あなた方は裁きを受けることになる。
あなた方の中に苦しんでいるものがあるか。その人は、祈るが良い。喜んでいるものがあるか。その人は賛美するが良い。あなた方の中に、病んでいる者があるか。そのひとは教会の長老たちを招き、主の御名によってオリブ油を注いで祈ってもらうが良い。信仰による祈りは病んでいる人を救い、そして、主はその人を立ち上がらせてくださる。かつ、その人が罪を犯していたなら、それもゆるされる。だから、互いに罪を告白し合い、また、癒されるようにお互いのため祈りなさい。義人の祈りは大いに力があり、効果のあるものである。

ヤコブ5:12〜5:16

件さんとのことを話したとき母がずっと言っていたことだ。
否は否、然りは然りといいなさい。それをあなたが間違えなかったから、今起こっているこの素晴らしいことはそのために起こっているのだと。



タイトルは次の漫画の構想中に出てきたことば。
そうだ。私だって死んだんだもの。