流れる水の中に...雨音

 

 

貧血と櫻と彼女の事と。 - 2005年03月18日(金)





デュンの状態は落ち着いている。

今度は私自身を顧みると 前回の検査で酷い貧血ということがわかり
診察後に造血剤の注射と、造血剤の薬とビタミンB12とを処方される。
妊婦貧血は脳貧血と違って あまり自覚を感じないのだけど
呼吸が乱れると なかなか整えるのに時間がかかるし
何より危険なのは 自分では真直ぐに立っているつもりなのに
ふらりと横に倒れていたりする。
とはいえ 大した事はない。倒れないように気をつければ
それでいい。
お腹の中の彼女は 物凄い勢いであばれまわっている。
妊娠前 時折心臓などに神経痛のような痛みが走る時
手を拳にして 数回胸をたたく動作をしていたのだけど
ふと 何も考えていない時に 胎動があまりに激しいから
無意識で腹部を叩いてしまいそうになって 驚愕する。
あと12週ほどで彼女が誕生してくる。
恐いような 楽しみなような ほっとするような そんな気分だ。
子供と言うものの存在が 私にはまだよく見えてこないのだけど
私が妊娠してからというもの 私の周囲はそれなりに大きく
変化したように思う。
それが良いのかどうかもわからないけれど 私もひとつ次のステージに
移り行こうとしているのを感じている。

私は 状況が大きく変わる時 よくパニックに陥る。
自ら変化する場合は なんとか受け止めることができるのだが
周囲から強制的に変化を強いられる時はパニックになる。
だけどそれも ある時期放っておいてもらえたなら
自分で諦めを覚え 納得し 受け入れる事ができる。
私はとても子供だが それなりに大人な部分も幸い持ち合わせているから。

妊娠するというのは とてもたいそうな事だと思っていたけれど
そんなことは全くなく ただ日に日にお腹が膨らんで行くだけの
ことだった。
体型や嗜好の変化こそ あるけれど それほどの問題でもなかった。
まして 一生続くわけでも無く ほんの10ヶ月の辛抱だ。
子供と言うのは どういう存在なのだろう。
やっぱり私にはわからない。


櫻の花が あと半月余りで咲き始める。
生暖かい大気に包まれて咲く艶やかな櫻はむせ返しそうでいて
どことなく物悲しい。
私はまだ32歳だけれど デュンの生命の危険に思いがけず
出会ってしまったからか それともお腹に新しい命が
生まれようとしているからか 何故だかわからないけど
今年の櫻は何故か悲しげだ。まるで あのときのように。


こんな最中にあっても いきている実感がない。
お腹の中の彼女は可愛いと思うが ただそう思うだけのこと。
食べてるし 眠ってるし 泣いてるし 笑ってる。
もしもデュンが死んだなら 一緒に埋めてくれ という気分。


もしかしたら 幸せなのかも知れない。










...

家族 その3。 - 2005年03月13日(日)



彼の病状は一喜一憂といった感じで
昨晩は全く眠れず、はぁはぁと苦しそうに息をしていた。
今朝になると そのツケがまわってきたようで
昼頃になっても眠っていたらしい。
水の摂取量も制限するわけでも無く1/3リットルに
なったというし、それにともなって尿の量も回数もへり
通常時と変わらない様子になってきている。
水の量が大幅に減った事から 利尿剤を朝晩飲ませているのだけれど
そのまま継続して良いのかどうか 悩んだものだから
先生のところに電話をすると
ちょうど診察中だったようで 折り返し午後に私のところに
連絡があった。
肺にたまった水の為だけに利尿剤をかけているわけでも無く
心臓の負担を軽減する為のものなので、もうしばらくは
様子をみて続けてみた方がよいとの言葉を貰い
次の診察日である火曜日までは 回数を減らす事も無く
利尿剤も継続する事になった。


病気や症状に対しての身体の反応というものは
とても理にかなった事が多くて 素人でも少し考えれば
簡単なものならば推測ができるけれど
それでも医師や専門家の判断が必要なのは イレギュラーなことが
一番大切なことであって メカニズム通りにはいかないことも
沢山あるからだ。
いずれにしても先生には とても感謝している。


ということで なんとか彼に光がみえてきた。
もともと、肝臓の数値が極端に高かったのも 食欲が異常にあったのも
この副腎皮質ホルモンの過剰分泌の所為だったので
この調子で順調にいけば健康体に戻るかもしれない。
心臓の肥大も圧力が低下した状態がずっと続けば
多少縮むらしいし、ホルモンの分泌がバランスよく中和されつづければ
肝臓もきちんと機能を回復するかもしれない。
そうしたら 根本的な原因であった副腎腫瘍も手術して
取り除けることができるかもしれない。
そうしたら 私の心配も晴れるかもしれない。
私が一番心配していたのは 私の彼女が産まれて来るのと引き換えに
デュンが居なくなってしまう事だった。
何かを得る事と引き換えに 何かを失い続けるのならば
結局私は いつも大切なものを失い続けなければいけないから。


肝機能障害も一ヶ月ほど安静にしていれば 随分落ち着くのではないかと
彼が言う。
それまで安心はできないけれど 今よりは余裕をもって
翌日を迎える事ができる。
今日よりも明日は 明日よりも更に明後日は
彼の状態が良くなる事を願っている。











...

家族 その2。 - 2005年03月11日(金)

闘病日記のようになってしまうが。


彼の様子は思わしく無い。
毎日、朝一番に実家に電話をかけて 彼の様子を聞くのだけれど
昨日の朝 電話をかけると ぐったりしていて
食事の時も身体を支える力もないので、食べてるうちに
手がべたっと前に投げ出して 床に腹ばいになってしまうと
母がいってたから 彼の状態が更に悪くなったのでは無いかと
とても心配になって仕方なかった。
実家に帰って様子をみてみると、まだ玄関の扉も開いていないのに
力強い鳴き声が聞こえたので その声を聞いて
幾分か 胸の不安を取り除く事ができた。
彼は いつも私をみると 目の前で喜んでくるくるとその場で
周りながら尻尾を振ってくれる。
片足を悪くしてからも それでも足を引きずりながら
彼はそうしてくれていたから
その様子が彼なりに とても可愛くて健気に見えて
私は好きだったのだけど 今は腰から下を立たせる事は
とても容易ではないようで 座ったまま尻尾を振って
目を輝かせてくれる。それが とても可愛くて また哀れだった。


彼の様子をみていると 少なくとも二日前よりは
少しは状態はマシなようで、チアノーゼの度合も
ほんの少しは軽減したようだった。
水の摂取量をコントロールしているから 当然なのだろうけど
ほんの少しだけ 気力も状態も改善しえいるようには見えた。
体重の比率からして 水の摂取量が600〜800ミリになれば
薬の効果がでてきていると判断できるのだけれど
今のところ、制限しているからではあるが、1日1リットルなので
薬も少しは効いているのでは無いかなと思えた。
ようやく安堵していた。
彼を傍で見ていると 自分の目でひとつひとつを確認できるから
一応安心できる。

実家に帰った日は 旦那様の食事は抜きで、彼には外食を
お願いしている。その上、家とは反対方向の実家にまで
片道1時間弱かけて仕事を終えた深夜に迎えに来てもらうので
デュンのことでは彼にとても負担をかけてしまっている。
その彼にデュンの血液データの話をすると 
じゃあ ちょっとみてあげる という。
犬の身体と人間の身体は数値は違うものだとばかり
思い込んで彼には最初からデータの相談はせずにいたのだけれど 
それほどの違いは無いらしいと知り 
なんだか一気に霧が晴れたような気がした。

彼に数年前からのデータをみてもらうと
もっとずっと前からホルモンバランス異常を示す数値がでているという。
どうしてそんなことを気付かなかったのかと不思議がっていた。
犬のクッシング症候群は一般的な病気だとネットにのっていたのに
なぜ今までかかった獣医たちは そんな病気すら
診断する事ができなかったんだろう。
とても腹立たしいし 歯痒くて仕方が無い。
もう内科的治療しかできない状態になってようやく
彼をクッシング症候群だと診断した。
責任感の違いで これほどまでに無力なのかな。
獣医学を勉強しているのではないのか。


まあ、いまはとにかく そんな感じだ。
動物は言葉を話さないから 何か徴候がでたときには
重症化していることが多いのだろうけれど
動物でも毎年 定期検診をせねばならないのだなと思った。
それが役立つのは データをきちんと読める獣医がいて
はじめて成り立つのだろうけど。

昔は 犬は病気をしないと思っていた。
私が無知だったからだけど 少し考えれば
そんなことはあるはずが無いと わかる事なのに。
本当に馬鹿だな。


私はデュンに 何一つしてあげていない。
それはデュンだけでなくて 私の大切な人たちに
私がしてもらったのと同じだけのことを 何も返せてはいない。
そう考えると 私なんて本当に無力で役立たずで
どうしようもない存在なんだなと 嫌になって来る。
後悔しないように いっぱいいっぱい いろんな事をしてあげたいのに。
あとから振り返った時に 自分が至らなかったことばっかりを思い出す。
デュンをあの日にお散歩に連れていってあげなかったこととか
パンを勝手に食べてしまって 怒ってしまった事とか
何時間も家にひとりぼっちに置き去りにしてしまったこととか
あのとき 身体の事も考えずに 沢山走らせてしまったこととか。

本当にいろいろ。





...

家族。 - 2005年03月09日(水)



彼はいつも 茜色の髪を風に靡かせていた。
傾いた西陽は 彼の髪を照らし 金色に変えてた。
目を細め 風の方向を見つめ 鼻をすくっと持ち上げて
遠くから聞こえる風音を聞いているのか それとも
風に同化しようとしているのか
いつも夕方になると 庭のテラスで そんな格好で風にあたってた。

もう彼とは10年になろうとしている。
兄弟達と一緒に一つのケージに入れられて戯れてた。
最初から 少し人見知りをする子ではあったけれど
一番最初に私の手の中に飛び込んできた子であったから
もうペットはいらないよと 言ってた両親を無理矢理説得して
私は彼を連れて帰った。

小さかった彼は みるみるうちに成長した。
ポメの平均体重である3キロをすぐに上回り 
2年もかからずに7キロになった。
片手で抱きかかえられるほどの 小さいポメが欲しかったのだけど
それでも彼はふさふさとした 艶のある鬣のような毛をもっていたから
それはそれで 格好も良かったし とてもハンサムだった。


私は あるとき 心身症にかかっていた。
独りで 家の近くでさえ 外出する事ができなくなった。
独りででかけると 何処かで倒れて息絶える気がするのだ。
とても天気の良い初夏の日々 私は段々痩せ細って
体力がなくなって行く身体を ベッドに横たえたまま
風が樹々の葉を揺らす音や 眩しい陽の光が傾いてゆくのを
一日中感じながら過ごしていた。

そんなときに私を外に連れ出してくれたのは 彼だった。
彼と一緒に近くの雑木林にお散歩にでかけた。
携帯電話と水筒をバックにいれて。
毎日毎日 彼と 外に出かける練習をした。
彼は勝手な方向に どんどんと歩き続けたけれど
私はそれで 少しずつ 私の移動できる範囲を広げる事ができた。
そうするうちに私は 外出に対する自信をとりもどし
ようやく電車にも乗れるようになった。


彼の異変を感じはじめたのは 5年ほど前からだった。
どうやら人間で言う脂肪肝であるらしい事を先生に言われた。
食事の制限や 今以上の量の運動を言われたけれど
皆 彼が余りにも可愛いものだから 皆が皆
食事の時に少しずつ 人の食べ物を与え続けた。


一番のダメージは 彼の左足だった。
小型犬にはよくありがちではあるのだが 左足のじん帯の炸裂。
通常なら手術すれば治る それほど難しい病気ではないのだけど
手術するには彼は 肝機能を悪くし過ぎていたし
心臓も肥大し過ぎていた。
一度手術をするために 先生のところに赴いたのだけど
その直前に手術は中止された。
「麻酔をかけてしまったら もう目を覚まさないだろう」といわれたから。

それから彼は左足をひきずってる。
ただでさえ 重い身体を3本足で支えるのは かなりの負担らしく
前足や後ろの右足にも影響をあたえている。
お散歩は 人間用の乳母車にのせて 連れていってはいるのだけれど
それは全く運動になるわけもなく 運動量も著しく減少している。


最近になって どうやらとても酷いらしいから
大学病院に連れていきたいとの相談があり
一度きちんと彼の状態を把握しておこうと 昨日実家に帰ってみると
彼はやっぱりいつものように 庭のテラスで西陽に髪を靡かせながら
風の音を聞いていた。
私が後ろから呼び掛けると 首だけをこちらに向け振り返ると
そこには 艶の失ったぼさぼさの毛皮を纏った彼が
力無く 佇んでた。
もうひとりでは 家の敷き居に上がれないからと
抱きかかえて部屋にあげると 彼は私の前でお座りをしながら
微かに身体を震わせ 目の前にぱたりと倒れてしまった。
舌を暗青色にしていた。チアノーゼだった。
デュンくん、デュンくんと呼び掛けると 必死に体勢を立て直そうと
起き上がろうとするけれど 起き上がる度にまた
本が倒れるように ぱたりと横に倒れてしまった。

すぐに病院に運んだけれど 
先生からはあまり思わしく無い言葉ばかりが並び
治るとは言い切れないといわれている。
数種類の薬を服用し なんとか今の状況を乗り切るべく
皆で彼を見守っている。


どうしてこんなことになったんだろうねって 姉はいうけれど
それは彼の所為では全然なくて 家族みんなの責任で
デュンくんには 謝っても謝りきれないことで。

家族の無責任な愛情と 無知が彼をあんな身体にしてしまったことを
やっぱりきっちりと わかっていないといけないんだと思った。

早く少しでも 安定してくれればいいのにと
願っている。





...

母の白いガーゼのハンカチ。 - 2005年03月02日(水)



赤ちゃん用品を集めはじめている。
週末毎にデパートやら専門店やらに義理の母と出向いては
あれが可愛い、これが可愛いと、あれこれ買ってもらっている。
そうやって集められたお洋服やら下着やらは
今では随分集まって、大きめの段ボール一杯になっている。
とっても小さい靴下やミトン、肌着や、まだ気の早いお洋服などを
眺めていると とっても可愛くて可愛くて
何度も何度も包装紙を開いては お腹の中の彼女に
語りかけながら 楽しんでいる。

その中にガーゼのハンカチの束まであって
こんなに沢山使うものなのかなあ なんて思っていると
ふと 遠い昔の記憶が蘇ってきた。

そういえば まだ私が小さい頃
母はよく ガーゼの白いハンカチを使っていた。
バッグの中にはいつも一つは入れていたし
私の顔や耳を拭ってくれる時は いつもそのやわらかな
白いガーゼのハンカチだった。
私は母がてっきり ガーゼのハンカチが好きなのだとばかり
今まで思い込んでいたのだけれど
自分がいざ 子供を持つ身になったとき やっとその理由が
わかった気がした。

私の母は いくつになっても少女のような人で
いつも天真爛漫な人である。
父が白血病で入院したときも、半年以上、父の病室のソファに
付っきりで泊まり込んでいたのだけれど
父の病状の重篤さとは裏腹に あっけらかんとしたその様子に 
看護婦さんたちも救われていたようだった。
そんな母だったから 確かに私達を育ててはくれたけど
子供べったりというわけでもなく 口煩いわけも無く
どちらに興味があるのかすら よくわからない人だった。

そんな母だったから 彼女と子育てというつながりを
あまり見つけられなかったのだけど
たった一枚の白いガーゼのハンカチに
母の母であった証拠を見つけたような気がして
なんだか胸にぐっと こみ上げてきた。
きっと 私が男の子だったならば こんなことには気付かずに
通り過ぎてしまったのだろう。

自分が子供をもった時に、親の有り難みがよくわかるというけれど
こんな些細な事ひとつにでも なんだか感謝をしてしまう。

あなたを育てるのは大変だったわよ なんてことは
一言も母の口から聞いた事はなかったけれど
そんなことは口にしなくても いつかは伝わるものなんだな。

いつか私の中の この彼女も 
こういう気持がわかってくれたらいいのになと思ったりする。




...




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