マリちゃん。 - 2004年10月28日(木) 今日 タクシーの中からマリちゃんの姿を見つけた。 彼女は私は暫く勤めていた職場のビルの一室に住んでいた。 マリちゃんといっても 私よりも随分年上で 今は恐らく40代半ばだと思う。 職場の皆が マリちゃんマリちゃんと呼んでいたから 私も同じように マリちゃんと そう呼んでた。 彼女は都会のオフィス集合ビルの一室に住んでた。 時折 同じエレベーターに乗り合わせることがあるので 会話もした。 きさくで冗談を言い放つ明るい人だった。 いつもビル内を行き来するときはノーメイクであったから 隠せない年齢の歪みのようなものが浮かんでいたけど それでも目はクルクルっとしていて 鼻は小さく高くて 先がちょびっと上を向いてた。 それがまたお愛嬌で 年よりも若く見えてはいたけれど それでもやっぱり それ相応の人にしか見えなかった。 皆は彼女のことを 誰かのお妾さんだといってた。 その真偽を誰も本人に聞きはしなかったけれど お仕事をしているような気配もなかったし 時折エレベーターに年の離れた男性と一緒に乗り合わせていたりしたし その男性のことを彼女はパパさんと呼んでいたから 誰もがそう理解しているようだった。 あるとき 仕事を終えて帰る時 エレベータに乗ると そこには既にマリちゃんがのっていて いつもとの あまりもの変化に吃驚した。 マリちゃんはフルメイクをしていて 黒いミンクのロングコートを羽織っていた。 お化粧をしたマリちゃんはとても綺麗で貫禄があり その洗練された堂々とした様は まるでコレクションのモデルのようであり 彼女が愛玩される種類の女性であることを一目で感じさせた。 彼女の良くない噂は絶えなかった。 同じスポーツクラブに通っていた人がいうには マリちゃんはトラブルメーカーで 同じジムのお客さんと常にもめてた。 感情的に悪態をつき モノを投げ付け ヒステリックにふるまう。 そんな噂をよく聞いていたけど 私はあのとても綺麗なマリちゃんをみたとき それら全ての行動が彼女に相応しく そして彼女らしい気がして 悪い感情を抱くことができなかった。 マリちゃんのような人は あれでいいのだと思った。 今日見かけたマリちゃんは いつのまにか犬を飼ったようで 小さな室内犬をお散歩させてた。 相変わらず 子供のように あっけらかんとしていて それでいて とても綺麗で可愛かった。 小さな埋もれてしまいそうなビルの一室で 彼女は随分長い年月暮らしている。 それがなんだか少し淋しげで だけど勝ち気なマリちゃんは だけどやっぱり 変わること無くそこで同じように 生活をしていた。 ... 当たり前の幸せ。 - 2004年10月27日(水) 当たり前のことを 当たり前にできることは幸せだと 彼女にいわれた。 彼女とは高校時代からの知り合いだから 随分と長い年月を経て来た。 彼女は父親の転勤で東京に移り 私は関西にとどまり それからも電話をしたりし続けてた。 出会った当時 違う女子高に通ってた彼女は 型破りで自由奔放 私の周りには居ないタイプの 素行の悪さだった。 だけどそんな彼女に惹かれたのは 自分の欲求にも 考えにも正直だったからかもしれない。 彼女は私の部屋に遊びに来ては煙草に火をつけた。 そして最近寝た男の話をした。 まだ高校生だった私には 彼女がとても別世界にいるように思えた。 彼女と街をあるくと とんでもない行動をする。 突然男性に話しかけたり 悪戯したり。 多分 私が抑圧していた悪い部分を彼女がすべて肩代わりしてくれるのが 心地よかったのだろう。 圧倒的に立場としては 彼女にイニシアチブを取られていた。 時が移り それぞれに大学を出て 社会に出た。 彼女は父親の縁故でメーカーに 私は大学で秘書をつとめた。 それぞれ年頃になったときに彼女の破天荒な性格が裏目にでた。 会社の枠に嵌らなくなった。彼女の自由闊達な様は 周囲には無神経と受けたられた。 周囲とは上手くやっていくことができなくなった。 そんな性格だから 男性にも敬遠されて 1人の男すらつなぎ止めておくことができない。 次第に彼女の性格は変化してきた。 彼女は自分の行動や 周囲の評価を虚飾し誇張して 私に語りはじめた。 彼女は嘘を重ね続けた。 私にとっての魅力であったその正直さがなくなったとき 私は彼女を軽蔑しはじめた。 順調に人生を進む私と 彼女の立場は逆転し 今ではイニシアチブは完全に私の手に移った。 周囲に疎まれたために 彼女は会社をやめ 結婚も不確かな状態にある。 度々かかって来る長い電話に私は 辟易しながら受話器を取るけれど そこから流れて来る話は 愚痴か嘘か白々しい賛美だけだった。 そんな彼女から 最近はじめて本音のようなものを聞いた。 当たり前のことを 当たり前にできることは 幸せだよ と。 彼女は自分で自分のことを「変わっている」という。 そういう人は自分のことを本当に変わっているとは 理解していない。 「変わっている」という言葉の意味合いを善意に受け止めているからだ。 人と話が噛み合わない 価値観が違い過ぎる 突飛な行動をする 規格外 そういうものを そういえないから「変わっているね」と やんわりと否定する。 私にだって彼女にそうストレートにはいってあげれない。 やっと 彼女に何かしてあげたいと思った。 彼女が幸せになれる道筋を 考えてあげたいと思った。 人は その人が持っている優越性に惹かれるのではない。 その人の美点に惹かれるのだから 虚飾なんていらないんだよって いってあげたかったけど やっぱり 言えずにいた。 ... 欠点。 - 2004年10月21日(木) 明け方 ふと遠い昔の事を思い出していた。 私は 中学校時代 そして高校時代 また大学時代にも一度 一応友達だと思ってた女に裏切られたことがあった。 内容はどれも 今から思えば大したことはない。 中学時代も高校時代も 別々の先生であったがそのことについて 同じような意見を私にいった。 「君には華があるから妬まれるんだ。」と。 だけど私は そうは思わない。 たいていパターンは同じだ。 誰か特定の相手と深い関わりあいが苦手な私は ひとつのグループに属していながら とてもファジーな位置に自分を置いていた。 集団にならざるを得ないときは そこに属するが だけど 特定の誰かには縛られたく無いから いつも一緒にいるようなことはしない。 そんなスタンスに きっと不安定さと希薄さを 彼女たちは感じていたのだろう。 ふとしたきっかけで 友達だと思ってた女達は グループとして私に同調しなくなる。 当然の結果だった。 私はいつ何処にいっても そんなだった。 どんな組織に組み込まれても どんなグループに属しても 協調性がないといえば それまでだけど 人が皆 保身の為に戯れる意味のないつながりに 組み込まれるのは苦手だった。 だけど 思うのは 私は姉のいる環境に育ったとはいえ 歳が離れている所為で きっと年代の近い人との関わり方を訓練されずに育ったのかもしれない。 そしてまた 私の嗜好が偏っていて とても考え方の近い人しか 周りに置かないように し過ぎたのかもしれない。 どちらにしても それらは欠点だ。 未だに 女友達と 深いかかわりを望まないのは その時のトラウマかもしれない。 きっと 女はいつか裏切る と 理性とは別の部分で 焼きつけられているのかもしれない。 私にも多々の欠点はあるのだ、もちろん。 そんな関係しか築けなかったこと そんな女しか友達に選べなかったこと。 他人は 私の良い部分はすぐにみつけて誉めてくれる。 だけど 私の負の部分はみつけようとしないのか 私が見せないように壁を作っているのか 気付かせてはくれない。 多分私はこうやって 何かを書き続けるのは 自分の負の部分を 解放してやりたかったのかもしれない。 アンバランスな私の評価というか そういうものに 整合性を与えたかったのかもしれない。 ある人が私に「悪者が好きなんだね」と言った。 考えてみるとそうだった。 目的や欲求に忠実で正直で 手段を選ばず 誰に気兼ねすること無く 邁進する。 きっと私の根本は こうなのだ。 身勝手といえば そうかもしれない。 作り笑いや 意味のない謙遜 時間潰しの戯れや みせかけの心遣い。 こんなものは もう沢山だと思う。 「傲慢」は七つの大罪のひとつだ。 それは 心にもない謙遜では打ち消すことはできない。 ... 5週6日目 - 2004年10月14日(木) 「おめでとうございます」と言われた瞬間から 何故か お腹をかばうようになった。 別に 待ちに待ったベイビーでもなかったし 今まで欲しくてできなかったわけでもない。 ただ 単にできていなかった状態だっただけだ。 子供に対する意気込みも 欲求もなかったし そんな自分を想像もしていなかった。 母に「子供が居れば 目標も生まれるし」という言葉に違和感を覚え 自分の目標すらクリアするのに必死なのに なにをいうのだろうと 不思議に思ったぐらいだ。 とはいえ無気味なものだ。 お腹に赤ちゃんがいるとわかると 今まで人とのすれ違いぎわに かばいもしなかったお腹を グレースケリ−さながらに ケリ−バッグで何故かしっかりとかばっている。 不思議なものだな。 とはいえ こんな状態でもハイヒールに細みのワンピースで しゃなりしゃなりと歩いているのだから 無自覚であることも変わり無い。 子供を産まぬこと、妻としての無自覚を あたかも罪のように遠回しに批難していた子持ちの友人達も これで私に もう何もいうまい。 好きなようにふるまって 自分の人生を生きて それで子供も育てるのだから 文句ないだろう。 大きなお世話だ。 子供を産むことは素晴らしいとか かんとか。 そんな気分には まだなれないな。 そんな綺麗事だけじゃないだろうし。 なんだか少し恐い気すらする。 私と このお腹の子供は お互いに人生を預けあっていて どちらかが足を引っ張ると もう片方も溺れてしまう。 そんな間柄になるわけだ。 しっかり 支えあって生きて行こうと思う。 ... 勝ち組。 - 2004年10月10日(日) さっきヤフージャパンのニュース欄をながめていると ○宮○子が元女子アナの勝ち組とかいう項目があった。 なんだろうな とクリックしてニュースを読むと パリでパティシエとして成功している×木×治を主人にもち 子供も育て 彼女自身素養を磨きつつ 仕事にも恵まれている、 ということが 彼女を勝ち組と評価した理由だと あった。 なるほど。 女性にとっての勝ち組といわれるには 最近では 結婚に恵まれるだけでは駄目で 自分自身の能力や キャリアをも 評価されなきゃいけないのだな。 去年 パリのホテルで彼女にあったけれど 彼に指摘されるまで わからないほどだった。 とても小柄で 全くオーラもなにも感じない人だった。 へえ こんな人がもてはやされるのか と 半ば 疑問を感じていたけど。 勝ち組 負け組と 以前から人生を評価するような言葉が 普通に使われているけれど それは主観的な評価ではなく あくまで客観的なもの。 自分で自分を「勝ち組」だと思ってる人ほど 大したことなかったりするけど 他人の基準で 自分が人生の勝利者かどうかなんて まだ終わってもいないのに 決められたくないよな。 私の友人でも まだ未知数の人は多くいる。 世間一般でいうと 彼等彼女等は あるいみ偏った生き方をしていて ある意味で優れているけれど ある意味で同情される部分も 持ち合わせている。 彼等は 自分の目的には忠実で一途で優秀で だけれども 環境が付いて行かないだけの話だ。 彼等は 多分 一般的には 勝ち組とは まだ評価されないのだろうな。 だけど私は「勝ち組」「負け組」というのは 結局 その状況を指すよりも その本人の 精神的な強さや モチベーションの強さ そういうもので 区別されるものだと感じる。 幸いにして 環境に恵まれたとしても 意気込みの足りない人は 結局は駄目になるのだし。 人のこと とやかく言う前に もっと自分の持てるものを研鑽しろって話(笑) よぉし。 ... サーカスが街にやってきた。 - 2004年10月04日(月) 道は サーカスへ向かう家族連れで一杯だった。 最後の日曜日だったから 会場周囲は車と人で溢れていて 道路は1キロ前から渋滞で全く動かない。 私達は 道を抜け 市民病院の有料駐車場に車をとめると ヒールを履いた足が少し痛かったけど 特設会場のある大きな空き地へと急いだ。 開演まであと10分しかなかったから。 会場にはいる人の長い列を後目に 私達のチケット種別では 並ぶこと無く会場内へ。 かたい椅子に腰をかけながら いつ始まるのかと どきどきしていた。 以前 サーカスに行ったのは まだ幼い頃だった。 母に連れられて 電車に揺られ訪れた覚えがある。 その時の事はあまり覚えていないけれど 覚えているのは バイクのエンジンの爆発音と 目の前を行き来するきらびやかな衣装の空中ブランコの乗り手だった。 暗いテントの中の世界は とても怪しげで緊張感に満ちていた。 白いドレスを纏った綺麗にお化粧をした人たちが ひとしきり ステージで躍ったあと すぐに スポットライトは天井へと移り、そこには鉄の細い棒のリフトの上に立つ 小柄な男性の姿があった。 すると男性は突然両手をリフトから離したかと思うと 靴裏を支点としてくるりくるりと一回転、二回転。 今度は背中から一回転。 床から10メートルはあるだろう場所で 心許ない足裏の仕掛けのみ。 最初から 手に汗握る緊張感だった。 大きな拍手喝采を浴びると そそくさとステージのそでに消えて行き 次々と趣向の違う出し物が繰り広げられる。 大きな鉄の柵に入った美女が 一瞬のうちに 大きな虎に変わったり。 その目くるめくようなテンポがショーの命で 緊張感と興奮を如何に沈めてしまわないかを 考えられた数々だった。 大きなショーの合間に二人のピエロがあらわれ 次の出し物の準備の合間の時間を繋ぐ為 道化を演じる。 客の興味を損なってしまわぬよう 彼等の役割はとても重要だ。 一転し サファリからシマウマやキリン ライオン、虎、豹などが 順に登場する。彼等はとてもお利口に調教されていて 皆に愛想をふりまいている。 顔を並べてお尻を振りながらお愛想する4頭のシマウマ。 鞭の音に怯えながらも 火の輪をくぐるライオンや虎。 彼等の姿は可哀想ながらも とてもお利口だった。 大きな象も2頭でてきて 彼等も可愛くお鼻を振り上げ御挨拶。 大きな象が小さなコマの上にバランスを取りながらのっかるのは とても凄いけれど 少々滑稽でもあった。 象はタイ政府との契約の上 貸し出しされていて その対価として サーカス団は象の保護目的の為の 象の為の病院建設の費用を送り続けている。 だけど さすがに 象が二本足でヨチヨチと歩行している姿をみて 可哀想になって 泣いてしまった。 本来あるべき姿では無いものを見せられてしまうと そこに至るまでの調教が 如何に過酷かを物語る。 象が 哀れだった。 最後は緊張感がさめやらぬ 空中ブランコだった。 中継地点に人が二人居て 彼等がブランコに乗りながら ステージの端からブランコで飛び移って来る人を腕二本だけでキャッチして そして再び 次のブランコへと 投げ出すのだった。 彼等がとても凄いのは それをこなせるだけでも凄いのだけど お互いへの信頼感だ。 皆が目隠しをした状態でも 彼等はブランコから 中継地点となる人の腕に飛び移り またそこから 自分の背後にきちんとしたタイミングでブランコが来ていることを 信じて 彼等の腕を離すのだから。 「信じるという事は 信じられないものを信じることだよ」という あるドラマの台詞を思い出す。関係ないけど。 最後はフィナーレ。オールキャストが見送ってくれる。 混雑をさける為に 気の早い人たちは まだ終わっても居ないのに 立ち上がって帰りはじめる。 危険な演技をした彼等は そんな客の姿をみて どう感じるのだろう。 会場の外には二匹の象との記念撮影。 鎖で動かないように足をくくられた象との写真は気が引けたけど しっかり撮ってもらった。 「いってきました」と、その写真を姉に写メールすると 「何?入団したの?はははっ!」だってさ。(笑) ...
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