流れる水の中に...雨音

 

 

・・・ - 2003年12月30日(火)




乗り越えるには何が必要かを考える。
ひとりで考えるかなり多くの時間。
仮説と反証。
理解 そして許し。

望むものは手に入らないと言うこと。
しかしながらその対価として
経験と強さ そして救いを得るのか。
タフさ かぁ。

欠落を補う作業は
ある意味において重要。
多分 その過程なしには 乗り越え難い。
しかし 補われることは無い という事実を
突き付けられること そして受け入れることも 
またある意味においては
ひとつの効果的な方法。

恐れることをやめて向き合った時に
はじめて進むべき道が見える。

カオスからカオスへの置き換え作業。
置き換えをする過程にしか意味は無い。







...

日記。 - 2003年12月29日(月)




ここ4日ほど 読書に嵌っている。
本を読むと何だかの啓示を受け取ってしまった気さえする。
隠喩に隠された物事に想像を巡らせると
上手くはいえないけれど
そうであることが必要なことを 
指し示されているように感じる。
だけどどうだろう。
いや。そうじゃなくて。
きっと何かを私の身体に刷り込んでいるんだな。



大学生のとき。
友達の彼が旅に出て しばらく帰らなかった時。
ある時その彼から彼女に電話が入り コインが1枚しかないので
長く話せないと言った。
彼は現在の場所と状況を手短に伝えると すぐに
時間が終わり 電話は切れた。
彼女は憤慨していた。
私の彼は彼女に
「それだけ短い時間でも電話をかけてあげようとする優しさだよ」と言った。
しかし彼女は
「長い不在を たった1本の短い電話でお茶を濁そうとしている」と言った。
その時の私にはどちらの気持も理解できなかったけれど
今ならどちらの気持も理解できる気がする。


理解と感情と事実は常にバラバラに存在し一致しない。
全てが一致すればどれだけ幸せだろうと感じる。
退屈な声で話し続けるという私の事実には
どんな理解と感情があるのか。


成長しないな 私も。




...

不安。 - 2003年12月18日(木)




何かの光の加減だったのか
今まで目に見えなかった傷があって
それがちょっとした傾きで
其処に傷の存在を見つけた瞬間
どうしようもないほどに
それが存在感をもって
「傷」であるということを
私に訴えかけてくる


ダイヤモンドは
細かい小さな傷があることによって
沢山の光の屈折をうんで
それが輝きに繋がるのらしいけれど
人もそうなのかな
どうだろ
どれだけ それらの傷が
人に受け入れられるかという問題は
大きいかも


目に見えないものに比べたら
目に見えるものの大切さと言うのは
取るに足りないものだと よくいうけれど
本当にそうなのかな
目に見えるものの蓄積が
目に見えない概念を形成するように
思うのだけど


目にみえる傷をみないようにしても
それらの蓄積が私を
その傷口に視線を引き寄せる


本質的なもの程 曖昧なものはないよな




...




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