流れる水の中に...雨音

 

 

命について考えてみる。 - 2003年06月28日(土)


今日はちょっと重い話題。
なんてことはない。ちょっと重いテーマのビデオを見たから。

19世紀後半のフランス領 サンピエール島。
無知と泥酔のために人を殺してしまい 死刑宣告を受けた受刑者に
慈悲をかけ 「人は変わるもの」と信じた軍隊長婦人。
そしてそれをみまもる夫の軍隊長。
受刑者は罪を認め受け入れ そして島民のために尽くし
島人は彼を許し そして受け入れる。
しかしながらやってくる彼の死刑執行。
隊長婦人ばかりでなく島人までも巻き込んで
彼の死刑執行を拒否する運動。
それを善しとしない行政側との確執。
結局 受刑者を庇う軍隊長は行政側によって
反乱罪にとわれる。
軍隊長夫妻は捕らえられ 隊長は銃殺。
受刑者は そののちギロチンにかけられる。

死刑というものの是非がとわれているけれど
私は基本として「目には目を」。
被害者 そして被害者の遺族からすれば
償いようのないほどの 罪。
しかしながら人間は 「人」を許さねばならない。
罪を悔い改めれば 許されると言うわけではないけれど
自らを罰しながら生きるということの辛さも
理解できないでもない。

ちょっと視点を変えて。
さて この慈悲深い軍隊長婦人。この受刑者に慈悲をかける。
そりゃ 改心した人を責め続けることは可哀想なことだけれども
全ての罪人に慈悲をかけていたのではきりが無いし
示しもつかない。
とはいえ 目の前の哀れなものを 切り捨ててもよいのかどうだか。

たとえばペットショップ。
陳列カゴが窮屈になってしまった犬が
投げ売りのような価格で販売されている。
もし この犬が売れなかったとしたらどうなるのだろう。
店の誰かが面倒をみる?そんなわけはない。
結局はなんらかの形で処分されてしまうのだろう。
そう「処分」だ。
そんな 可哀想な犬に哀れみをかける。
可哀想だから飼ってあげたいとおもう。
しかしながら一方で 
そういう状況の犬は これ一匹ではない と思う。
私が今 この一匹を飼ったところで
同じような状況に陥る動物は後を絶たず
そのたびに私が それらに哀れみをかけ続けられるというのか。

行き過ぎた数の動物の飼育は多くの条件が
整わない限り 難しい。
彼等の命をすくったとしても 
周囲の住人に騒音や動物臭などの迷惑をかけてしまう。

だからといって それをいいわけとして
この目の前の 今にも「処分」されかねないこの犬を
見殺しにしてよいのかどうか だ。


また それ以外でも「動物実験」というものがある。
これまた私にとってジレンマなのだけれども
生き物にとっての効果や安全性をはかるために
犠牲になるのは 結局私たちよりも弱い動物だ。
基本的に世の中は弱肉強食であり
人も動物もおなじ直線上にたたされたとき
自らの命を守るために 相手と戦う。
そして勝ったほうだけが生き延びる。
生物が地球上に生まれた時から
人間と動物は戦い続け そして勝ってきたのだろうだろうけど。
だからこそ 今人間の好きなように 
この世界を支配しているのだろうけど。
だからといって それらを粗末にしてよいということにはならない。
それらは歴史上の暴君とおんなじことだ。
もっと自分達のしていることを顧みなければならない。
動物にも思考はあるし感情も感覚もあるんだよ。



命を大切にすると言うことは 結局どういうことだろう。
こんなことを話していると
肉も魚も食べるな 薬も飲むな 化粧品も使うなと
言われそうだけれども

結局どうすればいいのかと ずっと考えているけれど
答えは出ないでいるよ。












...

薔薇色吐息 - 2003年06月27日(金)



香り好きの私の興味をひく商品を
また最近みつけた。

ブルガリアンローズから作られると言うローズオイルの
いわゆるサプリメント。
2500本の薔薇から わずか1ccしか抽出できないという
ローズオイルを1カプセルに290mg包んであるらしい。
これが1瓶で60粒。
考えただけで高価なものであると推測してもらえる。

この効果は何かと言うと
まさに楊貴妃を思い浮かべるのだけれども
1日に1〜2粒摂取することによって
体臭も吐息もローズ臭になるというもの。
本当かなあ と疑わしいけれど
試してみたくなるのも 女心だと思う。(笑)

まあ 効果はこれだけではなく
代謝がよくなることによって他にもいろんな現象が
起こってくるらしい。


大体において
化粧品や それに準ずるものに
値段に見合う効果を求めてはいけない。
たいてい 「気のせい?」の範疇であるし
目覚ましいほどの効果があれば もうそれは医薬品だ。

キャッチコピーは拡大解釈であって
「ま、駄目でもともとでしょ」程度の大らかな気持ちが無いと
化粧品なんぞに 大枚をはたけないものだと思う。
そそ。そんな感じで相手の懐にドブンと飛び込めば
たまーに 目覚ましいほどの効果のあるものに
ばったり出会えたりするからこそ 面白い。

とはいえ
食べ物と体臭との関係は
身体の仕組み上 たしかにあるらしいから
まんざら 信用ならないとも言い切れなかったりする。


そんなわけで そのブルガリアンローズとやらの
「飲む香水」に注目している。









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いきているから - 2003年06月20日(金)



冷たくひえた コットンのシーツの上に滑り込む。
脚や腕に ひんやりとした感触が伝わってくる。
窓の外には 今日もまた暑くなりそうな
初夏の青空が広がっている。
それをしり目に クーラーのきいたこの部屋で
さらりと冷えたコットンの中にくるまっている。

息を大きく吸い込む。
冷えた空気が気道に流れ込む。
ああ とても心地よいな と幸せを感じる。

不思議だなと思う。
こんなふうに 冷たさや匂いや そういう感触を
感じていられるのは今だけで
死んでしまったら こういう感覚は
なくなってしまう。

口梔子の白い花の側をとおると
よい香りが漂ってきて
思いきり大きく 息を吸い込む。

今だけだから 沢山感じたいと思う。


感覚 感触の幸せは
「いきている」ことを教えてくれる。
ほんの些細なことだけれども
どんな大きなアクションよりも
ダイレクトに そして本能的に
「私」という魂が ここに生物として
存在していることを 伝えてくれる。

この感覚をとても大切にしている。


だから 

花が好きだ。
緑が好きだ。
風が好きだ。
光が好きだ。






...

猫。 - 2003年06月18日(水)


昔 まだ私が幼稚園にもあがっていないころ
幼馴染みの男の子と一緒に
猫に酷いことをしたことがある。

小さい子供と言うのは残酷なもので
いや 私が残酷だっただけなのかもしれないけれど
他者の痛みなど 理解できなかった。

猫に何をしたかというのは
今でもとても平常心では語れずに
動悸と恐怖と痛みと錯乱とともに
その事柄は 思い起こされる。
そしていまでも口から言葉として吐き出せないでいる。

そしてそのときに自分がしたことが
如何に残酷であったかということに気がついた時から
私の生き物に対する償いの人生が始まった。




昨日の朝
近くの寺の前の溝に子猫が5匹
まだ目も開いておらず みゅうみゅうと鳴いてた。
生まれたての子猫たちは まだ裸ん坊でねずみのようだった。
幸い雨も降ってなかったし 親猫もいるだろうからと
私は私の用事へと急いだ。

夜。
用事の帰り道。
子猫たちのことが気になり その溝の気配を伺うと
もう鳴き声も聞こえていなかった。
暗闇で 子猫の姿は確認できなかった。
近くを灰色の縞猫が行きつ戻りつしていた。
あれがきっと お母さん猫だったのだろう。
母猫の姿をみつけて胸をなで下ろし家に帰った。

今朝。
朝から冷たい雨が降ってた。

溝に産み落とされた子猫たちが心配だった。
道路に溢れた水は 道の脇の溝に流れ込む。
子猫たちはその中で体を冷やしてしまうのだろう。
母猫が子猫たちをくわえて どこかに移したかな。
母猫があたためているかな。
とても心配だった。

朝早く家をでた彼に
子猫の様子を見てきてくれるように頼んだ。
しばらくしてから電話があった。

「全部 死んでた。」

私も傘をさしながら そこに向かった。
まだ目も開かない猫たちはそこでよりそって
ぐったりしてた。
一匹は みゃあ と鳴きながら死んだのだろうか。
口が小さく開いていた。

ぶるん と私の頭の中を
虚脱感が襲った。
くらり とした。

私はくるりと向きを変えて 傘をさしながら
歩き始めた。


偽善者にはなりたく無いけど
私には 何かをしてあげることも
何もしてあげないでいることも
どちらもできないで居た。




...

タンザナイト - 2003年06月13日(金)




彼を訪ねて 研究室にある男性がきた。
とても流暢な日本語を話すタンザニア人研究者だった。
実験についての質問だったらしいけれど
やはりいきなり人種も背格好も違う人が現れて
彼も戸惑ったようだった。


「で、なにか話した?」ときくと
「いや、実験のことだけ。時間もなかったから」と彼。
どうやらしばらく通ってくることになりそうだ というので
じゃあ また機会があればタンザナイトの話でもして御覧よ といった。


タンザナイトというのはアフリカのタンザニアで採取される石。
紫ががかった透明感のある青い石で 1960年代に
タンザニアで発見されて ティファニーによって
世に広げられた石だ。
キリマンジャロの陽が暮れてしまったあとの空の色に
とても似ていることから「タンザニアの夜(タンザナイト)」と
名付けられたそうだ。


母が好きで 手に入れていた。
角度によって 紫にも 青にも そして何かの具合で
赤い色にも 見えるような 不思議な石だ。


いえいえ。
私はその石の話をすればいいとおもったのでなく
その美しいタンザニアの夜に差し掛かったときの
空の色の話をすればよいなと思ったのだ。
その彼も 祖国の夜の空の美しさを問われたら
きっと郷愁もあいまって 嬉しいだろうなと思ったから。


朝まで雨が降り続いていたけれど
昼にはやんで晴れ間もでたけど
湿気を随分孕んだ 不安定な空。


今日の夜の空の色はまさに
タンザナイトのように

紫がかった透明感のある青さが一面に広がっていた。


タンザニアの夜の写真



...

石。 - 2003年06月12日(木)


流れている川に何気なく手を入れて
自然と手に当たるものをつかみ取ったら
それは意外にも綺麗な石だったりする。

しばらくそれをじっとみつめて
ちょっと得意げになって
鞄の中に入れてもって帰る。

部屋に飾ってみる。
なかなか格好もいいし 綺麗だし
いいねえ なんて思っているけど
川で拾ったものだから
大した感動も無い。

西陽が窓から差し込んで
その石はきらきら光っている。
だけど私には
本当の価値なんてわかっちゃいない。

あるときなにかのきっかけで
その石の美しさが
普通で無いことに気がつく。
綺麗なことは 分かっていたつもりだけど
本当は何一つ分かってはいなかった。

石はまるで 自ら光を放つように思える。
いや そんなわけはないと
頭は否定する。
いや 本当はそんなことはない。
そんなことは ないんだよ。

石を手にとる。
その重さが 余りにも重いことに気がつく。
こんなに重かったとは と
はじめて理解する。
そこで 
はじめて理解する。


その石を大切にしようとおもう。
あるいは
その石の重荷に耐えかねて 投げ捨てる。


本当のことなんて
最初は見えない。
本当のことなんて
最初は理解していない。
本当の答えは
終わってからはじめて
導き出されるものだ。













...

家におさまる - 2003年06月11日(水)


いい加減 嫌になってくる。


毎日を無駄にやり過ごしている気がする。
適当にお稽古事に通い 
ひとりでふらっと出かけることもあるけれど
だけどやっぱり 私は毎日 
なんとかして 時間が流れるのを待っているように思う。

「家におさまってしまうとは 思わなかった」と
いう友だちの言葉に
そんなことないわ と思っていたけど
家に居続けること 何も生み出さないことに
疑問を感じ続けている。
私に何かができるわけじゃあ ないけれど
四苦八苦と 足掻くチャンスも場所も
あればよかったなと 思ったりする。

私の以前の上司の 80歳の奥様が
「専業主婦は私で最後ね」と言っていたけど
やっぱり時代は 専業主婦でいられるほど
退屈でもなくなっているし
専業主婦でいられることの優越性なんてのも無くなってる。

アメリカでは奥様が 仕事を持つか もしくは
某かのボランティア活動をしていなければ
馬鹿にされると その上司は言ってた。
日本だって もうそんな時代なのかもしれない。


何だって手に入るし 家に居ながらでも
何だってできる時代だから
時間を潰すのには苦労しない。
テレビのように一方通行にしか情報を受けられないのじゃ無くて
今はなんだって双方向にやり取りできる。

その所為で まるで自分が
何かをしているかのように錯覚したり
充実しているように思い込んだり

そういう仮想で膨らんだ生活で
現実生活を誤魔化してしまいたくないんだ。


強く握りすぎた手に刻まれる皺のように
血の流れた傷口のように
本当の物だけで
私の人生を築いてゆきたい。








...

ある夜。 - 2003年06月09日(月)


ある夜。
私は息を潜めて待っていた。
時の流れと 秒針と 胸の鼓動が完全に一致していた。
「そのこと」を君が終えるのを
今か いやもう少しあとなのかと
全てがその瞬間であるかのように
絶対的瞬間が まさに 連続する点で連なっていた。

君はどこまで
私の知る君であるのか 私には分からないけれど
いや もうそこには
私の知る君は居なかったのかもしれないけれど
ええ たぶん
そこには もう 私の知らない君しか
居なかったのだろうけど

私は君が 「そのこと」を終える時を
ただ 息を潜めて待つ以外に
なかった。


小さく息を吐いた。
時は容赦なく流れ去り 私を夜の闇に引きずり込む。
「そのこと」を終えた君は
いや 「そのこと」を終えなかったかもしれない君は
吐いた白い息の塊になり
もやもやと 目の前でくぐもる。

くぐもったもやもやは
冷たくなった私の瞳の温度に凍って
粉々にくだけて
小さな小さな棘になった。

私の周りに そして君の周りに
今も浮遊しているのは
そのときの
小さな小さな 時の棘。




...

結婚式 - 2003年06月02日(月)


昨日 彼の同期が結婚式を挙げた。
彼と新郎が同期で、新婦も同業種で一時は彼の下で
働いていた女性だったので 新郎新婦ともよく知っていた。
彼等は知り合って1年で挙式をした。
新郎はこの6月下旬からアメリカ留学が決まっており
それを知る口さがない人たちは
「留学に際して急いで結婚したのだろう」と言い合った。
外国での一人の生活は ことのほか辛いものであると
留学から戻った先輩たちが 口を揃えて言っていたからだ。

彼も私に同じように言ったものだから 私は
「結婚なんて御縁のものでしょう。今までつきあった中で
一番好きだったから結婚するというわけで無くて
結婚するに相応しい時期に たまたまつきあっていた人と
結婚するものなのでしょう?」というと
いつもなら不安気に「君もそうなの?」と尋ね返してくるだろう彼も
だまって納得していた。
納得しているところをみると 彼にも思い当たる節が
あるのかもしれない(笑)

「好き」という気持ちの大きさなんてものは曖昧なものだ。
思い出深い恋愛は幾つかあるけれど
いざ別れてみて思い返すと それらはどれも同じ比重でしかない。
ことさら取り立てて忘れられないものもない。

西洋のことわざで
「この世によい女は二人しかいない」というものがある。
これには追記があり
「一人は死んで、他方は見つからない」とある。
一人は追憶の中の過去の女性であり、
もう一人は夢見る理想の女性というところだろう。

そんなロマンティックな男性はさておき
私のような俗っぽい女にとっては
「今が全て」である。


「彼女には俺しかいない」とタカを括っている そこの男性!
女は過去の男など 死に際に思い出したりしないものです。

自惚れることのないよう。(笑)


*There's only two good women in the world;
 one is dead, the other not found






...




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