流れる水の中に...雨音

 

 

初夏のペディキュア。 - 2003年04月29日(火)


足の爪のマニキュアを塗り直していた。
ペディキュアはあまり塗り直したりはせず
いつもは上から塗重ねるばかりだけれど
もう初夏の陽気であるから 
薄い色に変えるころかと思ったから。

私の父は ペディキュアを塗る女を嫌った。
すれっからしのイメージがあったのだろう。
父の時代はそうだったかもしれないけれど
今ではペディキュアは ふつうのお洒落のひとつだ。

そして私はこの初夏の陽気のなか
ゴールドのサンダルを履いて出かけようと
思い立ったから
それに相応しい色に塗り替えていた。

いざ ひざを抱え込んでペディキュアを塗り直してみると
やはり何だか自分が すれっからしの女に思えた。
色を多めに配色することは
なにだかとても下品なことのよう感じる。

ある本によると 飾るということは
すでに男性の目を意識したものであるから
それからして 貞淑であるとは言えないのだそうだ。
そして そのうえ ペディキュアなど
本来なら見られるべきでない場所にまで
色を配置するということに
淫猥な雰囲気すら読み取らせてしまう。


そんなことなど 考えに耽りながら
私は膝をかかえこんで
初夏らしい薄い色合いを
配色していた。




...

桐 - 2003年04月27日(日)



家の傍らに 大きな桐の樹が植わっていて
それは私がここに引っ越してきた時にはすでに
大きな樹になっていたわけだけれど
今頃の時期になれば 毎年 きれいな薄紫の花を
咲かせている。

昔は 女の子がうまれると 庭に桐の樹を植えたものらしい。
女の子が成長するころには 桐の樹は
立派な幹を持つ大木へ成長しているらしく
それでお嫁入りのための箪笥なんかを こしらえてもらったものらしい。
桐の大木をみると その話をいつも思い出す。

それは母が話してくれたのだった。
母を車にのせて病院にむかうとき
神戸の芦屋の住宅街は細い山道になっていて
その道のわきに 美しい薄紫の桐の花が咲いているのを見て
話してくれた。
父は 神戸の街が美しく見おろせる芦屋にある病院に
入院していた。


桐の葉はとても大きく青々としていて
そしてたった一枚の葉で大きな影をつくる。
まだ葉の成長の甘い枝の先端部分では
花芽と幼葉との大きさの絶妙なバランスをみせる。
いわゆる家紋などで使われる桐の絵柄は
その花芽と幼葉の先端の部分をデザイン化したものだ。
桐は伸びはじめた葉よりも植栽2年後に一度根元から切った方が
良く成長する性質があるため「一度切る」から「キリ」と
名付けられたということらしい。


私のお嫁入りの箪笥は もちろん 庭に植えてくれた桐の樹で
こしらえたものではないけれど
自分の成長とともに 一緒に育ってきた桐の樹と
生涯をともにするのもなかなか粋だなと思ったり。

今では居住環境の問題で 庭に桐の樹を植えられる人は
なかなかないだろうけれど
ゆっくりと育まれたものたちと 一緒に生きていくことの
贅沢さ 人間らしさを あらためて立ち返り求めたい気持ち。


人の成長も桐と同じようなスピードでなされて
まるで一人前の大人のような顔をしているけれど
自然界にあるものは たかが20年じゃ まったくの幼さで
全然そのものの本領など 発揮できていないよ。
桐の樹の成長が早いために なにだか桐といえば
まだ青い人間をさすみたいにね。


私達なんて まだまだ。
まだまだ 一人前だなんて言えなくて
伸びきった空洞の幹の内部の密度を 
これから何十年もかけて
どっしりとさせて行かねば ならないのだね。



...

能面 - 2003年04月23日(水)



能面打ちをはじめて半年たったのだけれど
ようやく一つ 面が完成しそうになっている。
小面なのだけれど 最後の毛描きと手入れが済んでいないが
もう十分に小面の表情をしている。

面というのは不思議なもので 人の顔をしているものだから 
今 壁に簡易的に掛けているのだけれど
目が合うたびに話しかけてしまう。
ペットを飼っている人ならわかると思うのだけれど
無意識に言葉を投げ掛けてしまうのだ。

そんな私をみて旦那様は
「ペットなら まだしも..」と閉口のご様子。
だけれども やはり愛おしい。

今 美男子の男面を制作し始めている。
私の先生から見本として 完成した先生の面を借りて
それを見ながら 自宅で少しずつ制作しているのだけれど
先生がその面を手渡すときに
「あまりに男前だから この面ばかり眺めすぎて
旦那ちゃんが 焼きもちを焼かないように 気をつけてね」と
言ってたけれど たかが面に感情移入なんて と思っていたが
自分の打った面は格別なようだ。

人形には創った人の魂が入っていると よくいうけれど
今までそんな言葉など信じたことが無かった。
だけど自分で創ってみればわかるものだ。
人形には創った人の魂が入っている。嘘ではない。
だから 人の顔形をしたものは 容易に手に入れるものではない。

今も壁に掛けた面と向きあいながら これを打っている。
彼女はやわらかく微笑みながら こちらを見下ろしている。

彼女の半開きの唇から 今にも言葉が溢れてきそうだけれど
彼女がいま 話はじめたら 何を言いだしそうか見当がついてるから
そのまま黙っていてねと いう感じ。

美しく穏やかな表情をした彼女のモデルとなった女性は
どんな人生を送った人なのだろうと思い馳せている。



...

仕事と夫婦とデプレッションと。 - 2003年04月22日(火)



旦那様の同僚の奥様が デプレッションとアノレキシアで
結婚後1年過ぎたころから ずっと実家に戻っている。
彼は週末ごとに 彼女の実家に赴き
奥様のご家族とともに食事をとる日々が1年続いている。
彼女はおそらく 世間一般の奥様に比べて
かなり恵まれた状況にある。
けれども彼女は 何かに負担を感じ
何かに押し潰されそうで 何かに怯えている。

旦那様の後輩の奥様は
新婚旅行の途中にデプレッションをおこし
旅行半ばにして帰国。
その後ずっと実家に戻っている。
彼女の場合も 生まれながらに
いわゆる一般家庭よりも恵まれた境遇に育っている。
彼に対して愛が無いわけではない。
それはもちろん。
だけれども彼と通常の生活をおくれなくなっている。

私の友人の奥様もしかり。
デプレッションで自分の子供に食事さえ与えられない
酷い状況になってた。

そのような状況が許されるということに
羨ましくすらあるのだけれど
最近そういう奥様が増えているのかな。

旦那様の共通項は みな多忙であること。
仕事優先で家庭に時間をさくことはほとんどなく
そして奥様方はみなそれを仕方のないことと受容している。
たしかに仕事は仕方がない。
彼だけのためではなく奥様の為にも働いているのだから。


旦那様と奥様の目的が別々の場所に有っては
旦那様の忙しさも 仕事熱心なのも
まるで自分の幸せを妨害する障害のように感じてしまう。
まるで自分は都合のためだけに置かれた存在なのかと
そう感じてしまう。

旦那様が創り上げようとしていることを
まるで自分の目的であるかと思わせるように
そして共同の作業のパートナーであるかのように
時にはアドヴァイスを求めたり 詳しい仕事内容の説明をしたり
時には些細な協力を求めることは
奥様にとっても 旦那様の仕事への意識を高める役にたつ。
そうすれば旦那様だって もっと動きやすくなるだろうに。


奥様の意識を旦那様に向かわせないために
趣味を見つけろだとか 何か目的を持てだとか
外に丸投げをするようなことをいう旦那様がいるけれども
確かにそれも大切かもしれないけれど
それ以前にもっと 相手をパートナーであると認めることのほうが
大切ではないのかなと思う。

家では仕事の話はしない なんて
できる男のフリをしたいなら
もっとちゃんと家庭をフォローできるようになってから
言いましょうね。


。。とはいえ現状として彼らは とても同情すべき立場にあって
なにだか気の毒であるのだけれど。




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一生懸命。 - 2003年04月03日(木)



大学時代のこと。
小さな夢や期待など抱きながら過した学生時代。
社会の動向や教養を少しでも取り入れようと意識してた。
向上心がきっと 人一倍あったのかもしれない。
しかしながら同じグループの友人は
そんな様子をいっさいみせず 彼氏の話 ファッションの話
そして下らない噂話を繰り返してた。
そんな彼女達にたいして 失望をしていたし
きっと言葉が通じないのだろうと 心の底で思っていた。
一度彼女達に話をしたことがある。
そのときに返ってきたのは
「そのようなことを知らなくても 恥ずかしいとも思わない」
ああそうなんだ とそれっきりあきらめた。


最近私は批判された。
一生懸命いきるように と。
はっと気付いた。
きっと 今の私は あの時の彼女達なのだろう。
なんにもなくて空っぽなんだと。


何もしなくたって
何か生き甲斐がなくたって
毎日をやり過ごすことは 意外に簡単だ。
最初の数ヶ月を我慢すれば 何にもないことも意外に平気になる。


次第に堕落してゆく自分を感じていた。
私の心を捉えるものとは一体。

一生懸命生きていこう。
全てを犠牲にできるほど 私を魅了するものなど
きっとあらわれっこないんだ。
そんなものを待っていたって やってこない。
だから何処かで 気持ちに折合いをつけて
何処かであきらめて 何かに腰を据えて
少しずつ掘り下げてゆこう。


以前 懇意にしていただいてた立派な方が言ってた。
仕事に意味を持たせすぎる と。
意味のある仕事をしようと思い 選びすぎるあまりに
結局何にも腰が引けて 必死にならない。

それとおんなじだ。
打ち込めること というものに
意味を持たせすぎていたのかもしれない。 

何かを好きになってみよう。
何かを自分自身の物といえるように向きあってみよう。
何かに私が擦り切られるほど尽くしてみよう。


私が死ぬころまでには 
何か一つの形になっていることでしょっ。












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