パアン、と耳の奥まで届くような音を立てて、紅里の手首を拘束していたそれは砕けて地に落ちた。 それは確かに金属で出来ていた。 天人が異星から持ってきた、強度の極めて高い金属であった。 だが、今ではただの角ばった石ころに過ぎなかった。 手首の拘束など出来るはずもなかった。 その瞬間に立ち会ったまた子は、初めて目の前の女を畏怖した。 他人より少しだけ白い肌、色素の薄い髪、大きなこげ茶色の瞳。 決して大柄ではない、その華奢な女の肉体のどこに、金属を砕く力を秘めているのか。
彼女は既に、その女と似た少女を知っていた。 紅桜事件の際に現れた桃色の髪の娘。 あの娘も、小さな身体に似つかわしくない身体能力を持っていた。 武市が「夜兎」と彼女を呼んだのも覚えていた。 夜兎。 最強最悪の戦闘部族。
「・・・あんた、夜兎ッスか」 「・・・」
紅里は答えなかった。 しかし、また子の中ではその沈黙は肯定に近かった。 それと同時に、彼女の脳裏に夜兎の娘との戦闘の記憶が蘇った。 恐るべき速さで自分の撃った弾を避け、受け、拳を向ける。 あの時、あの娘は傘のような武器を用いていたが、実はそれも必要なかったのかもしれない。 彼女の武器は、何よりもその身体なのだ。 脚も、腕も、彼女を構成する全てが。 また子にとって、「あの時の夜兎の娘」は正しく化け物であった。 人斬りと呼ばれる似蔵より、万斎より。 人を喰らう紅桜より。 人の姿をした戦闘兵器である天人の娘の方が、よほど恐ろしかった。 目の前のこの女もその仲間なのだ、とそう思った時、 また子は一筋の恐怖と共に、心の昂ぶりを感じた。 それもまた、昔覚えたことのある感覚のような気がした。
その時、押し黙った紅里が口を開いた。
「正確には夜兎ではありません」 「どういうことッスか」 「・・・純血ではないという事です」
紅里は、自分のことをまた子に話すつもりはなかった。 自らが夜兎と地球人の混血であることを知る者は、 今生きている人間の中では銀時と神楽の父親しかいない。 まだ少し幼い神楽には、混血であることや、それにまつわる忌まわしい話をしていなかった。 他の人間はそれを知らない。 高杉を初め、感づいている人間はいるものの、正確なことを知る者は他にいなかった。 桂も、土方も同様である。
それは、紅里が誰にも分からぬように振舞ってきたからであった。 10年間ずっと、それは彼女の秘密であった。 愛した人間にこそ、知られたくない秘密であった。 桂にも、青梅太夫にも、勿論土方にも、彼女はそれを伝えなかった。 しかし、愛した人間だからこそ、話してしまいたかった。 銀時はなりゆきで全てを知っているが、それは無意識下に潜む自らの意志ではなかったか、 と今では紅里は思っていた。 きっと自分は、背負う荷を分け合うひとが欲しかったのだと。 それに、銀時を選んだのだと。
そして、同じ気持ちをもって、今ここにいるのだと。 紅里はそう思った。
また子の質問に応えてしまったのは、その思いが零れ落ちたのかもしれなかった。
「・・・?ハーフってことッスか・・・?」 「・・・」
だから何。 そんなことを彼女は考えているのだろうと、紅里は思い、少しホッとした。 実際それは間違ってはいなかった。 また子の頭の中にはまだ疑問符が宙を舞っており、 紅里の口から図らずも漏れてしまった回答は、全く意味を成していなかった。 彼女は既に、先程紅里に感じた畏怖も、昂揚も忘れてしまったようだった。 今はただ、紅里の正体を知るために頭を回転させ、同時に紅里の答えを待っているだけだった。
しかし、それももはや忘れ去られる過去になるに違いなかろう。 廊下の向こう側から、一人の男が現われ、彼女を連れて行くからである。 その男、高杉の気配に気がつき、紅里は後ろに目を向けた。
「紅里」
高杉はそれだけ言って、彼女の手を引いた。 紅里は抵抗をしなかった。 それを見て、また子の心はざわめいた。 嫉妬か。 いや、それよりも、もっと変な感情だった。 恐怖か。怒りか。悲哀か。 どれもしっくりこない。 それは、予感に近かったのかもしれなかった。
「し、晋助様、その女は・・・」 「何だ」 「・・・いえ、何でも」
また子は何も言えなかった。 その女は?何と言おうとしたのか。 夜兎だと?それともあなたの何、とでも訊きたかったのか。 しかし、何か言葉を出さずにはいられなかった。 声の届かぬ向こう側に、彼と彼女が消えてしまう前に。
行くぞ、と来た道を戻ろうとする高杉に手を引かれるままにして、 紅里はまた子に背を向けた。 そして、言った。
「ごめんなさい」
紅里にしてみれば、それは高杉を道連れにすることに対する謝罪であったが、 高杉も、また子も、そんなことを知るわけがなかった。 疑問に思うほどのことでもないと、心に留めずに流してしまった言葉であった。
そのまま、高杉と紅里は廊下の向こう側へ消えて行った。 また子は何となく収まりの悪いような顔をしていたが、 それも時間と共に自然となかったことのようになるに違いなかった。 彼女もまた、後ろを向いて、自室へと消えていくのだった。
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