昨日第3回遍路を区切り、本日午前の高速バスで長崎に戻りました。今年のドックは昨年より約一カ月早まりました。11月3日には下関の造船所に向け出港予定です。
2016年10月29日(土) |
遍路九日目:観音寺で打ち止め |
午前6時朝食。私は5時に起きて濡れた靴を乾かす作業と爪先のテーピングを行いました。右の爪先は親指と人差し指の爪内出血しています。これは三坂峠下りからだんだん酷くなってきたものです。今日は第66番雲辺寺登山で今回の遍路の最もキツイ場所なので入念に行いました。
昼食用にと岡田屋さんからのお接待の「おむすび」を頂きました。通常のペースだと第67番大興寺辺りで食べることになるよとお爺ちゃんが教えてくれました。8人の宿泊客は順番に出発していきました。私は6時45分に出発しました。岡田屋のお爺ちゃんは宿の外に出て「ヤマガラ」に餌を与えていました。お爺ちゃんが口笛で「ヤマガラ」を呼ぶと小鳥がお爺ちゃんの「手の平」に降りてきます。お爺ちゃんは鳥にヒマワリの種のような餌を与えながら歩き遍路も見送ってくれました。
民宿岡田で頂いた地図は非常に役立ちました。交差点などでは遍路マークを丹念に探せば間違うことはないとは思うのですが、私も一カ所間違え、お爺ちゃんの地図を見て遍路道に戻りました。さすがに88カ所札所の中で最も標高の高い雲辺寺です。坂道はかなり厳しいものでした。徳島の焼山寺登山が「遍路ころがし」として有名ですが、それに匹敵する坂道が各県にあるようです。
遍路開始早々の「焼山寺登山」は大変有名なのですが、遍路に慣れたからと言って坂道登りが楽になるかというと決してそうではなく、常に「なぜこんな苦しい思いをして坂道を登っているのだろう?」と自問しながら登ることになります。雲辺寺の登りも横峰寺の登りも大変苦しいものでした。しかし苦しみながら登っていると健康な身体に感謝する気持ちが湧いてきます。足の筋肉には想像を超える力が隠されているのだと感心します。足は主人を恨んでいると思いますが。
第66番雲辺寺山門には8時30分に到着しました。岡田屋さんから1時間45分かかりました。岡田屋のお爺ちゃんは2時間から2時間30分掛かるといっていましたので、頑張ったというものです。雲辺寺では岡田屋で一緒だったトレーニングウエアの男性遍路と川之江ICから出発したという女性遍路と一緒になりました。空模様は今にも雨が降り出しそうな様子なのですが、結局この日は本格的な雨は降りませんでした。
第66番雲辺寺から第67番大興寺までは9.4Kmの下り坂です。最初こそ険しい急坂がありましたが、その後はゆったりした舗装道路の下り坂です。道を間違える心配も殆どないので歌いながら歩くことができました。町中の道ではない長閑な山道なので迷惑にはならないとは思いましたが、声に反応してあちこちで犬が吠えます。
順路となっている遍路道は「大興寺」のはお寺の裏に繋がっています。遍路道は民宿おおひらの庭をぐるっと回って坂道降りて大興寺山門に通じています。帰りはこの坂を上らなければならないと思うと少し辟易したのですが、次の札所への遍路道は別でした。
大興寺を打ち終わり観音寺の街に近づいていくと、遍路道沿いに岡田屋のお爺さんが「美味い」と太鼓判を押したうどん屋「大喜多うどん」がありました。大興寺でおにぎりを食べたところですが讃岐のうどんが食べたかったので一番小盛の「かけうどん」を頂くことにしました。店内ではご主人と思しき人が機械でうどんを作っています。道の向かい側には大変広い「大喜多うどん」の駐車場がありました。中規模のスーパーマーケットにも負けないくらいの広さです。休日や昼食時には混雑するのだろうと思われました。
「大喜多うどん」の少し手前にお爺ちゃんが教えてくれた「遍路小屋銭形」がありました。この遍路小屋は「遍路道沿い」に土地を確保できなくて、少し離れた道に建てられた「遍路小屋」なのだそうです。そのため利用が少ないので岡田屋さんには遍路小屋を案内して欲しい旨のお願いがあったようです。正直なお爺ちゃんはその経緯を含めて教えてくれるのです。銭形遍路小屋を通ると少し遠回りになることまで教えてくれました。
JR予讃線の踏切を渡って観音寺市内に入ります。次の第68番神恵院と第69番観音寺は財田川を渡った「琴弾公園」の裏にあります。この二つの札所は敷地が一緒で納経所も一カ所です。共通の山門を潜って左奥にあるのが第68番神恵院で本堂はコンクリート製の仏教寺院らしからぬ建物でした。右奥にあるのが第69番観音寺です。
第69番観音寺で今回の遍路は打ち止めです。今回9日感で松山から観音寺まで歩きました。JRの路線距離(ほぼ直線)でいうと138Kmとなります。第45番岩屋寺から第69番観音寺まで25カ所の札所を回りました。歩数5万歩を超える日が何日かあり、かんり集中して歩いたつもりです。その分遍路道沿線の風景とか寄り道は殆どしませんでした。道後に泊まった日に「ナポリピザ」を食べに行こうと考えていたのですが、それもやめて休息に当てました。仕事の合間の「遍路」は日程が限らているので「寄り道」できません。残りは「香川県」の19カ所ですが、できたら余裕をもって歩き、寄り道もしたいと考えています。
長崎に戻るためのフェリーは夜9時55分松山観光港を出発します。それまでの時間を観音寺駅か松山駅近かくで過ごそうと考えていたのですが、観音寺駅周辺には殆ど何もないので松山駅に戻ることにしました。15時39分の特急列車に間に合ったので、それに乗って松山に向かいました。幸い列車はガラガラ空いていたので向かいのシートを回転させて足を延ばして暫く眠りました。
松山には5時30分頃に到着しました。松山観光港フェリー乗り場行バスには大分時間があるので駅前の床屋で散髪する事しました。松山駅前には大規模温泉施設がありますが、フェリーの中で風呂に入ることができると思い散髪を選んだのです。しかしフェリーに乗ってみると眠気が襲ってきて、また出発前にぐっすり眠りこんでしまいました。翌日5時に小倉港に着きましたが長崎行きの高速バスには時間があるので、フェリー内で暫く休んで時間を潰しました。
○民宿岡田→第66番雲辺寺(5km) ○第66番雲辺寺→第67番大興寺(9.4km) ○第67番大興寺→第68番神恵院(8.7km) ○第68番神恵院→第69番観音寺(0.0km) ○第69番観音寺→JR観音寺駅(1.5km) ○JR観音寺駅→松山駅→松山観光港→小倉港→長崎駅
2016年10月28日(金) |
遍路八日目:民宿岡田へ |
松屋旅館の女将さんにペットボトルに水を汲んでくれと頼んだところ、「石鎚山山腹から汲んできた水」だといって貴重な水を入れてくれました。何でも義理の息子さんが汲んできた水を分けてもらっているのだそうで、親戚の間では「焼酎の水割り」には欠かせない水として有名になっているのだそうです。この水は本当に美味しかったです。伊予西条の水もそうですが、石鎚山の「水」の恵みというのは素晴らしいものだということを知りました。
松屋旅館からJR伊予土井駅に出てそこから伊予三島まで電車で移動しました。6時46分発の列車は7時には伊予三島に着き「歩き遍路」を開始しました。松屋旅館の女将さんが何度も「伊予三島の歩き方」を教えてくれたのですが、それを覚えていて大正解でした。「伊予三島駅から大通りに出て左折。市役所の次のガソリンスタンドのある交差点を右折。直進すると右側にコロンボというパチンコ屋がある。水力発電所の鉄塔を目指して進むこと。発電所の左を回って山に登っていくと正解」。「パチンコ屋の向かいのコーヒー屋さんおコーヒーは大変美味しい」という情報まで頂きました。
三角寺の麓には「三島川之江インターチェンジ」があります。四国中央市の名前が示す通りこの「三島川之江」は「高松自動車道・徳島自動道・高知自動車道・松山自動車道」が集まる場所なのです。このインターに近い高速バス停留所は東京・大阪等から高知・松山方面に、そして九州・中国地方からは高松・徳島に向かう高速道路の通り道となっているのです。当然歩き遍路にとっても非常に便利な場所となっています。「愛知の佐藤」さんは三島川之江から帰っていきました。私ももう一日早く遍路切り上げるとしたら「三島川之江」から高速バスを利用して松山に帰ろうと考えていました。
JR伊予三島駅から第65番三角寺までは約9Kmあります。三角寺の標高は500mです。途中に「銅山川」の水を利用した「銅山川水力発電所」があり、発電所の隣には「戸川公園」という公園があります。実はこの発電所に使われている水は、昭和12年から掘り進められたトンネルをとおってダムに流れ込んでいるのだそうです。伊予三島地区は水の確保に苦労したそうで、この「銅山川の水」のお蔭で製紙産業が発展し、電力が供給され、農業用水と美味しい水が確保されたのだそうです。それを祈念して設置されたのが「戸川公園」なのだそうです。遍路道沿いにはる公園の東屋は歩き遍路の休憩場所となっています。
三角寺に上る最後の階段は大変急で気を付けないと転げ落ちる危険のあるものでした。その途中から見える山門は鐘楼も兼ねていて中央に立派な鐘が吊り下げられています。境内には桜の古木が沢山あり、春の桜の花が咲く季節は素晴らしい景色となるのだそうと想像されました。その中に「四季桜」だといって秋にも咲く桜が一本あり、紅葉した楓の横で桜の花が咲いていました。
三角寺から暫く山道を下っていくと遍路道は「土佐北街道」と交わります。この道は川之江から南下して直接高知に向かう街道で江戸時代には土佐藩の参勤交代に使われていた道です。土佐から金毘羅を訪れるにも便利な道であったようです。その旧街道と並行する高知道(高速道路)を潜ると遍路道は国道192号線に吸収されていきます。その近くに別格「椿堂」があります。
「椿堂」から3Km位歩いた先の「遍路休憩所」で静岡からきている「遍路青年」に出合いました。彼は「三角寺」からの遍路道から見える「三島市街」を静岡の富士市の方形のようだと言って懐かしがっていました。彼曰く「海と山と製紙工場の煙突」が富士市のそっくりだというのです。こちらは富士山の代わりに石鎚山があります。
遍路休憩所から3Km程で愛媛県と徳島県の県境の「境目トンネル」を通過していきます。遍路道は香川県に入らずに徳島県を隅を通って香川県に入っていくのです。今日の宿の民宿岡田屋の住所は徳島県です。トンネルを過ぎると岡田屋は直ぐでした。小雨が降り出しましたが本降りにはなりませんでした。
評判通り「民宿岡田屋」は歩き遍路にとても親切な宿で一度は泊まるべき遍路宿だと思いました。その中心は「岡田屋のお爺ちゃん」です。歩き遍路が宿に到着するとこまごまと世話をしてくれます。まず雨合羽を広げて軒に干してくれて、濡れた靴の中に入れる新聞紙を準備してくれます。そして部屋を案内してくれてお風呂を教えてくれます。建物は古いですが洗浄機付きの綺麗なトイレが完備しています。
夕食は定員8名が座れる大きなテーブルで頂きます。お爺ちゃんが給仕をしてくれます。そして食事の後半部分でお爺ちゃんから、雲辺寺登山の遍路道案内の話がありました。自作の「地図」を基にして、雲辺寺まで、そして雲辺寺下山遍路道に関するユーモアたっぷりの話です。雲辺寺は88札所の中でも標高900mという最も高い場所にあります。岡田屋のある地点の標高が250mで、下った観音寺市内は標高はほぼ「0m」ですから明日は、650m登り900m下ることになるのです。岡田屋のお爺ちゃんはそんな厳しい遍路道を熟知していて、ともすると不安になる歩き遍路を励ましてくれます。毎日毎日やって来る遍路を支え続けているのです。
食事室の壁には一面送られてくる写真が飾られています。現在でも額縁に入れられた写真が毎日のように届くのだそうです。お爺ちゃんは「80歳」になったとのことですが、まだまだお元気です。
○伊予土居→伊予三島JR列車、そこから歩き「第65番三角寺」「9.5km」 ○第65番三角寺→民宿岡田(13.1km) 宿:民宿岡田屋、そう行程22.6Km 歩数:34,001歩
2016年10月27日(木) |
遍路七日目:伊予土井へ |
「にぎたつ旅館」で朝食を頂いて6時30分には宿を出発しました。昨日の夜に降っていた小雨は止んで気持ちの良い朝です。JR西条駅で上り電車に乗ってJR中萩駅まで移動して中萩駅から歩き始めました。今日の歩き区間には札所がありませんので納経帖など遍路用品一式はリュックに仕舞いこまれています。
遍路道は国道11号線に着かず離れずして並行して走っている「旧讃岐街道」を通っています。コンビニに寄りたい時には国道を歩き、静かに歩きたい時には遍路道に戻るということを何回か繰り返しました。朝早いので「中萩小学校・中萩中学校」の多くの生徒児童と顔を合わせました。元気に挨拶する子供、恥ずかしそうに黙って通り過ぎる子供様々でした。総じて余り遍路のことを教えられていない感じでした。
遍路道が新居浜市街を通過していく場所で、「旧讃岐街道」がアーケード商店街になってしまいました。そこは「喜光地(きこうぢ)商店街」という昭和のムードをたっぷり残したショッピングゾーンでした。朝早かったので人通りは殆どなかったですが、面白そうな商店街でした。
遍路道は新居浜市から四国中央市に入っていきますが、峠となっている場所では国道11号線を歩きました。この峠は「讃岐街道」が国道11号線とダブっているようです。大型ダンプや貨物自動車の通行量が多く非常に怖い思いをしました。国道11号線では歩道が片方にしか無く、しかもそれが左から右、右から左と変わるので、信号のない場所でも道を横断しなくてはならないのには閉口しました。
遍路道は四国中央市に入っていきます。愛媛県の東端でその向こうは「香川県」です「四国中央市」とは良く考えた名前だと思います。川之江市と伊予三島市と2町が合併してできた市で高松・徳島・高知・松山に繋がる高速道路が通っています。JR伊予土居駅に近い遍路道沿いにある今晩の宿の「松屋旅館」で荷物を預かってもらって財布だけ持って手ぶらで「先歩き」しました。全く荷物を持たない遍路の姿は異様に見えるので「随分身軽だね」と二回ほど声を掛けられました。
「松屋旅館」の少し手前の旧遍路道脇で休憩しているときに、ものすごいスピードで「自転車遍路」が私を追い抜いていったのでした。こちらが手を振るとその遍路も気が付いたようでスピードは落とさずに手を振って走り去りました。瞬間的な観察からその遍路は外国人のようで髪が長かったので女性ではないかと推測しました。随分危険な遍路だなと思いながらも、あのスピードで走り去ったのではこれから出会うこともないだろうと考えていました。
ところが松屋旅館に荷物を置いて身軽になって国道を歩いていくと、土居インターと国道11号の交差点に警官が何人か集まって事故調査をしている光景にぶつかりました。近づいてみると先程の「自転車遍路」が自動車と接触して軽症を負ったというのです。後で分かったところでは彼女はフランス人女性遍路で6千円の「ママチャリ」を買って自転車遍路をしているのだそうです。
彼女も私を抜いてきたことを覚えていたので事情を聴いてみました。彼女は日本語が堪能で「足の傷は大したことないけれど手の親指の傷が痛む」「今日は無理をしないで三島に泊まろうかな」と言っていました。「軽症で済んだのは弘法大師が助けてくれたからでしょう」とも言っていました。しかしあのスピードは速すぎます。狭い遍路道は歩行者・自動車との出会いがしらの事故の危険があるし、通行量の多い国道11号線では更に大型車の接触など危険です。これから先気を付けて欲しいものです。
荷物を置いて身軽になったので結局「JR伊予三島」まで歩いてしまいました。伊予三島駅には2時30分に到着しました。遍路道は平坦であったので荷物を背負っていても三島まで歩けた感じがしました。中萩駅から伊予三島近くの遍路道までの「遍路道」の距離は29Kmだと案内本には書かれています。しかしこの間遍路道ではなく国道11号線を歩いたところが多かったので実際の歩行距離はそれよりも少なかったのだと思います。
JR線で「伊予土井駅」に戻り松屋旅館に入りました。話好きな女将さんによるとこの日の客は二人。名前は両方とも「佐藤さん」だというのです。もしや「愛知の佐藤」さんが予定を変更して泊まっているのかしらと考えましたが、実際は「神奈川の佐藤」さんでした。「神奈川の佐藤」さんは私より2歳年上で早期退職した機会に88カ所全部回るつもりだと話していました。佐藤さんは遍路の準備として毎日歩いて80Kgあった体重を10Kg以上落としたと言っていました。
松屋旅館では夕食まで時間があったので、ゆっくりお風呂に入り洗濯をさせていただきました。ここでもお風呂のお湯が温泉のようで、「水」に恵まれた場所なのだということが分かりました。
○にぎたつ旅館→伊予土居の松屋旅館 宿:伊予土居 松屋旅館 歩数 45,902歩
2016年10月26日(水) |
遍路六日目:伊予西条へ |
ビジネス旅館小松で昼食用のお結びを作ってもらって「横峯寺」登山に出発しました。昨日の夕食時の貰った地図はかなり正確でした。殆ど迷うことなく遍路道を進むことができました。この小松から登る遍路道は横峯寺から「香園寺奥の院」を通って第61番香園寺に繋がっている遍路道の途中に合流するものです。其の合流点から横峯寺までは3.6Kmあります。
この遍路道は「光園寺奥の院遍路道」に合流する直前が大変な急坂道でした。合流ポイントからの3.6Kmの遍路道はそれ程急坂ではなく、眺めの良い場所もあって快適な遍路道でした。この遍路道は横峯寺の裏側に到着しました。横峯寺はバス団体遍路で大変混雑していました。
横峯寺ではまず「静岡の青年遍路」が第61番香園寺に向かう遍路道で出合いました。彼は正攻法で順番に回っているようでした。そしてバスで登ったという「愛知の佐藤」さんと出会いました。今回「愛知の佐藤」さんと何回も出合いましたがこれが最後となりました。そして「健脚遍路女子」が私の直ぐ後を登ってきたようでした。そして豪夫婦遍路が元気にやってきました。「英語版遍路道地図」でOKだったと話していました。
急な坂道も下るときは早いものです。荷物を預けておいた「小松旅館」には昼前に帰り着くことができました。小松さんで昼食のお結びを食べてからリュックを背負って出発しました。まずはJR小松駅から13時1分のJR列車でJR石鎚山駅まで移動しました。JR石鎚山は第64番前神寺の最寄駅です。
石鎚山駅から30分ほど歩くと「加茂川」という大きな川を渡りました。この加茂川こそ西条市の「美味しい水」の源泉で西日本最高峰の「石槌山」の麓に源流があり、西条市内には幾つもの「自噴井戸」があるようです。西条市内ではずっと「国道11号線」を通りました。そしてJRの駅が国道11号線に近づいている「JR中萩」まで歩きました。
JR中萩駅ではホームに既に列車が入っていました。1分早く駅に着いていれば乗れたと思いますが、列車は私の目の前で出発してしまいました。昼間の時間帯のJR列車は一時間に一本しかないので国道に戻ってバスに乗って西条に帰ることにしました。幸運にも間もなく「西条駅行き」のバスがやってきました。このバスが国道を直進して西条駅に行くものと思っていたところ、国道を左折してどんどん山の中に入っていきました。このバスは「愛媛総合科学博物館経由」というもので山麓に作った大きな博物館を通るものでした。其のバス停では誰も乗りませんでしたが。
この日の宿は西条駅前の「にぎたつ旅館」です。その日の客は私一人だったようです。西条駅前にはホテルがいくつかあって満員で断られたものをあるのですが、ビジネスマンには旅館形式の宿は敬遠されるようです。膝の痛みを抱える女将さんが対応してくれたが二階の部屋に上る階段が辛そうでした。「にぎたつ旅館」では「お風呂」が素晴らしかったです。お湯が温泉のように豊かなのです。西条市は水が美味しいので有名だと話の通り素晴らしい水でした。夕食は駅前のコンビニ弁当を買ってきて済ませました。
にぎたつ旅館には「伊予西条祭り」の派手なポスターが張られていた。西条祭りは毎年10月15日に開催されるもので、各町内から多くの「山車」が繰り出され市内を引き回されることで有名なのだそうです。テノール歌手の「秋川雅史」が西条出身で、この祭りに参加するために毎年西条に帰ってくるのだと女将さんがが教えてくれました。
○小松旅館(7:00)→第60番横峰寺(9.5Km) ○第60番横峯寺()→小松(昼飯)(9.5Km) ○JR小松→JR石鎚山 ○JR石鎚山→歩きJR中萩(7.0Km) 宿:西条にぎたつ旅館 (26.0Km)(歩数:48402歩)
2016年10月25日(火) |
遍路五日目:第64番前神寺へ |
久し振りに宿坊に泊まりました。宿坊に泊まると朝のお勤めに参加することになります。仙遊寺でも朝6時からお勤めがありました。朝のお勤めには宿坊に泊まった者だけではなく、通夜堂に宿泊した遍路も参加します。昨日夕方仙遊寺でであった静岡県富士市からやってきている「野宿遍路青年」、岩屋寺で見かけた「健脚遍路女子」も一緒でした。また昨日夕食で一緒だった2組の夫婦遍路も参加しました。
読経の後で住職の講話がありました。これが40分を超える長いものでした。住職は3年前に奥様を失くされたということで本堂には奥様の遺影が飾られています。講和の中で「奥様の思い出」話を何回も繰り返されたことには少し閉口しました。大変奥様を愛されていたことが想像されました。後で知りましたが、通夜堂に泊まった歩き遍路に対してお寺さんから「風呂」のお接待があったのだそうです。住職の細やかな配慮を知って「朝の長話」もOKだと後で考えました。
朝のお勤めは7時に終わり、朝食を素早く頂いて7時30分に今日の歩き遍路に入りました。昨日苦労して登った急坂道を注意して下りました。下るとなると直ぐに登り口に達してしまいました。今日の最初の札所は第59番の伊予国分寺。伊予の国分寺は今治にあるのです。嘗てはこの今治平野に国府があり、国分寺・国分尼寺があったのです。しかし国府がどこになったのか現在もわかっていないようです。
国分寺で先を行く「健脚遍路女子」に会いました。彼女に横峯寺登山の前日どこに泊まるのか聞いてみました。やまり「小松」に連泊する予定で、一日目に61番・62番・63番を打ってしまい、翌日荷物を預かってもらって横峯寺に上るというプランを教えてくれました。横峰寺登山のプレッシャーがどんどん膨らんできたので、私も国分寺から電話してプランの変更を試みることにしました。
まず伊予小松にある「ビジネス旅館小松」に電話して部屋を確保しておき、ついで「しこくや」屋さんをキャンセルしました。歩き遍路はスケジュールが変わることが多いので、殆どの宿は宿泊当日「午前中」までキャンセルを受け付けます。これで「小松連泊」の計画に変更することができました。連休等の遍路客が多いシーズンにはこうは上手くいかないと思いました。遍路計画を事前に練り上げておくことが重要だと思いました。
遍路計画を修正して、まず第61番香園寺、第62番宝寿寺、63番吉祥寺を打ち、翌日に別の遍路道を経由して第60番横峯寺を打つことしたのでしが、実際に歩いている遍路道は計画通りの横峯寺を目指すものを歩いていることに気付きました。西に行き過ぎてすぎて遠回りしていました。急いで地図を取り出して国分寺から直接「伊予小松」に向かう道を探しました。ところが遍路案内書にはその部分の地図は収録されていないのです。スマホの必要性を強く実感しました。
仕方がないので地図のない場所は「感」と「磁石による方角」と「高速道路の高架」を頼りに歩きました。通常は遍路が通ることのないような道を歩いたので沿道に住んでいる方からお接待として「みかん3つ」頂きました。疲れている時のフルーツは大変有難かったです。
遠回りはしたものの間違いに気付いた後は概ね最短距離を歩いたようでした。第60番国分寺を9時15分に出発して18Km離れた第61番香園寺には2時30分に着くことができました。第61番香園寺は非常に珍しい近代的なビルの寺院でした。大きなビルの二回に本堂あり本尊が祀られています。本尊の周囲には映画館のような椅子がびっしり設置されています。
第62番宝寿寺はJR伊予小松駅の直ぐ横にあります。駅に近いので駐車場の確保が難しいためバス利用の団体遍路は少し離れた駐車場から歩くようです。この宝寿寺については「愛知の佐藤」さんと桃李庵ご主人から噂を聞かされていました。「朝夕の納経時間を短縮したり昼休み勝手に設けている」というものです。私が参拝したのは午後3時頃だったので全く影響がなかったです。寧ろ団体遍路の納経帖書きを消化するため、大変てきぱきと采配を振るっている方がいて頼もしいと思いました。
第63番吉祥寺は伊予小松の隣駅の伊予氷見駅近くにあります。この3つの札所は距離がそれぞれ1.5Km程なので短時間で回れます。団体バス遍路さんは一カ所の停留所にバスを泊めて歩く場合があるようです。バス遍路の方は、駐車場が本堂から遠かったり、駐車が無く離れた場所から歩くような場合には「歩き遍路」ように歩くことになります。宝寿寺・吉祥寺では多くの団体遍路さんに出合いました。
63番吉祥寺のあと頑張って「3.2Km」先の「第64番前髪寺」まで参拝してきました。参拝の後石鎚山停留所から国道11号線を走るバスに乗って伊予小松に戻ることにしました。幸いバスは間もなく着たので5時前には小松旅館に着くことができました。
ビジネス旅館小松では「愛知の佐藤」さんと一緒になりました。小松特性の「鍋料理」で美味しい夕食を頂きました。夕食の時に小松の女将さんから「横峯寺への遍路道地図」を頂きました。その遍路道は「小松旅館」の直ぐ傍から山に入っていく遍路道でした。この遍路道は「遍路案内地図」には記載されていないものでした。
夕食後オーストラリアからきたという中年夫婦遍路の旦那さんから「小松旅館作成の遍路地図が日本語表記だけなのだが何とかならないか」という相談を受けました。英訳するのも面倒臭いので「一緒に歩きましょうか」と答えたのですが、「奥様」が遠慮されたので、豪夫婦遍路は英語版遍路地図を頼りに横峯寺を目指すことになりました。
「奥様は自分が山登りに時間が係ることを想像して私に迷惑が掛からないように断ったのだろう」と私は勝手に想像しました。(翌日、この中年夫婦は私からそれ程遅れることなく「英語の案内書」を頼りにして横峯寺に上り山頂で再開することが来ました。「私の推測とは逆に彼等の方が体力もあり、早く登れるので断ったのだ」と分かりました。
○第58番仙遊寺(7:00)→第59番国分寺(6.1km) ○第59番国分寺(8:30)→第61香園寺(18.0km) ○第61番香園寺→第62番宝寿寺(1.3km) ○第62番宝寿寺→第63番吉祥寺(1.4km) ○第63番吉祥寺→第64番前神寺(3.2Km) 宿:ビジネス旅館小松(32km) 歩数:53,999歩
2016年10月24日(月) |
遍路四日目:第58番仙遊寺まで |
シーパマコトの朝食は7時からだというので、前日に「お握り」作ってもらったお握りで朝食を早く済ませて6時30分に宿を出発しました。まず昨日「先歩き」したJR伊予浅海まで列車で移動してそこから歩き始めました。松山市の第53番円明寺と次の今治市第54番延命寺までの距離は34.4Kmあります。JR伊予浅海駅は円明寺から15Kmあるので、今日は19Km程まず歩いて、今治市内の札所を第54円明寺から第58番仙遊寺まで打つ予定です。
JR伊予浅海からの遍路道は長閑な海岸に沿っていきます。JR予讃線と遍路道となっている国道196号線が海岸沿いを並行して走っています。浅海から4Km程進むと沿線に「製瓦工場」が目立ってきました。この辺りは「菊間」という地区で「菊間瓦」として750年の歴史を有する製瓦が盛んな場所だということです。そういう事情でならば、第52番太山寺本堂の瓦が立派だったことや、沿線の住宅の瓦に多くの装飾がなされていることに納得しました。
次に目に飛び込んできた風景は「太陽石油」の製油所です。遍路道は時々国道から離れますが、そうした古い遍路道を歩いていくと突然「太陽石油」工場が見えてきます。結局遍路は「太陽石油」正面入口にぶつかり、そこを右折して国道に吸収されていきました。
更に国道を進むと今治市の「新来島ドック」の造船所が見えてきます。ドックの船が見渡せる「星の浦海浜公園」で休憩しました。休憩場所で休んでいたおじさん二人と世間話をしました。私が「長崎」から来たというと「造船」の話になり「今治造船」が日本一だと教えてくれました。「今治造船」「来島ドック」を抱える今治は日本最大の造船業集積地なのです。瀬戸内海は自然が豊かな一方で産業立地においても優れているのです。
遍路道が町を通り抜けて再び内陸部に入っていくと「新来島ドック」は見えなくなります。JR予讃線はそのまま北上して少し迂回して今治市に向かいますが、遍路道となっている国道196号線は内陸をショートカットして今治に入っていきます。そして国道196号線からも分かれ緩やかな山道に入っていくと第54番延命寺がありました。
延命寺は山にひっそりと佇む静かなお寺さんという感じでした。延命寺休憩所で水をボトルに詰めさせていただきましたがここの水道水は大変美味しいものでした。四国の産地には美味しい湧き水が多くありますし、そうした湧き水を引き込んでいる上水道の水も大変美味しいです。
延命寺を過ぎると遍路道は「しまなみ海道」の高速道路のガードを潜って広大な「大谷霊園」に入っていきます。大谷霊園はいくつかの峰・谷が全て墓地となっており今治中の墓地を全て集めたのではないかと思わせる墓地です。大谷霊園は市営で「宗教不問」の墓地です。永代使用料も明瞭かつ安価なのでこういう墓地があるのは羨ましいと思いました。
大谷霊園を抜けると今治市の市街地に入っていきますが、このあたりから高台に「城」が見えてきます。天守閣もある結構立派なお城です。しかしよく見ると「お城」のように見えるのはマンションです。お城好きの家主さんが「お城を模した」マンションを作ったのでそうです。本当の「今治城」そこから北東いきJR予讃線の向こう側にあります。
今治市街地は非常に整然とした街並みです。第55番南光坊はJR予讃線を過ぎた今治駅の東側にありました。88カ所の札所ではこういう都会に立地する寺は非常に珍しいです。南光坊を打ち終えると遍路道は再び予讃線を渡って今治市の西の広陵地帯に入っていきます。遍路道は「今治西高等学校」の正門を通過していきます。野球の伝統校だけあって非常に立派な野球場があります。長野県の高校とは大分違います。
第56番泰山寺は高台にある近代的なお寺でした。泰山寺を打ち終えると遍路道は直線的に「蒼社川」に向かいます。この「蒼社川」には渇水期に川の中を歩いた遍路道があるというのですが、草が茂っていて分からないし川は細くても水嵩があるので渡ることはできそうにもありませんでした。結局堤防の上の遍路道を通りました。この堤防道の直前には歩き遍路休憩所と四国遍路無縁仏墓がありました。昔は橋など無いので水嵩が増した川は渡ることができず何日か待たされた遍路にとっては難所であったのだろうと想像されます。
蒼社川を渡って山道に入っていくと山裾に第57番栄福寺がありました。非常にこじんまりした寺です。この寺のご住職はサラリーマン経験者だそうで「僕は坊さん」という本を書いています。それを原作として2015年に映画が製作されました。イラストや写真の得意な住職さんのようです。
栄福寺を過ぎると遍路道はどんどん山を登っていきます。遍路道マークを見落とさないように慎重に歩いたのですが、ここで遍路道マークを見失ってしまいました。道沿いの畑で作業している地元の人に第58番仙遊寺への道を聞くと車道を教えてくれたので歩き遍路道を諦めて車道を歩くこととにしました。同じ人に仙遊寺の場所を聞くと遥か山の頂上にある建物を指さしたのでした。
今日の最後に大変な苦難が待っていました。仙遊寺のある山の頂上までは車道が続いていますが、車道のくねくねをショートカットするように直線的に登っていく歩き遍路道が待ち構えていました。この急坂の遍路道を休み休み登って漸く仙遊寺に到着しました。この日の宿は「仙遊寺宿坊」。この急坂を降りるのは明日になります。
仙遊寺では「愛知の佐藤」さんと再会しました。そのほかオランダから来ている「バス」さんが夕食の時に私の向かいに座りました。「バス」さんはサンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼でオランダからサンチアゴまで3000Km歩いた経験があり、今回四国遍路に挑戦中なのです。バスさんは「腰の痛み」を抱えての遍路です。「愛知の佐藤」さんを中心にバスさんのペースにあった遍路宿を探してあげました。
仙遊寺の夕食では「愛知の佐藤」さんを中心に翌々日の「第60番横峰寺登山」の道順、宿の取り方の話に花が咲きました。私は「湯の里温泉しこくや」に宿をとって遍路地図に示されている東側の川沿いの遍路道を歩こうと考えていたのですが、夕食でご一緒した何人かの遍路はそれより西側の遍路道に進んで、61番園寺、62番宝寿寺、63番吉祥寺を先に回って「伊予小松」に宿を取り、翌日荷物を宿に預けて「第60横峯寺」を軽装で往復するという方法を考えていました。
三坂峠を降りてからずっと平地の遍路道を歩いてきたのですが、この「第60番横峯寺」で久しぶりの「遍路ころがし」が待ち受けています。遍路初挑戦の遍路にとっては十分に研究して、できるだけ無難に歩きたいというのが本音です。
仙遊寺は山の上にあるために今治市の夜景は見事なものでした。また遠くに「島なみ海道」の橋が見えます。そして遠くに見えるのが広島市なのだと寺の方が教えてくれました。高い山に登った甲斐がありました。 ○シーバマコト(6:30)→ 伊予北条発7:13分JR ○伊予浅海→第54番延命寺(19km)(12:00) ○第55番南光坊(3.4km) ○第56番泰山寺(3.0km) ○第57番栄福寺(3.1km) ○第58番仙遊寺(4.0km)→仙遊寺宿坊 総行程32.5Km 宿:仙遊寺宿坊 歩数:52,473歩
2016年10月23日(日) |
遍路三日目:伊予北条まで |
朝7時からの朝食を済ませて松山ユースホステルを出発すると、遍路道は有名な道後温泉本館をぐるっと迂回して西に向かって松山市内に入っていきます。道後温泉は随分昔倉敷勤務時代に一回来たことがありお風呂にも入りました。今回は全くの素通りです。道後温泉本館は朝6時から入浴可能で、この朝風呂に入るために便利な本館近くの宿が人気があるようです。朝一番のお風呂はさぞ気持ちの良いものでしょう。朝風呂帰りの浴衣を着た数人の観光客とすれ違いました。
道後温泉本館は平成27年松山国体終了後に改修工事に入るとのことです。温泉施設営業は工事中も継続することになったようですが、観光客に人気のある有名な本館の外観は全てフェンスで覆われてしまうようです。それに備えて現在近代的な「椿の湯」の別棟として昔の建物様式を再現した「湯屋」という施設を建設中です。松山にとって道後温泉は観光の目玉なのです。
遍路道は松山市中心部には入らずに右折して国道196号線に入って今治方面に北上していきます。幹線道路を通過していくので、沿線にホームセンタがあったら破れたカッパの代わりを購入しようとホームセンタを探しながら歩きました。そしてホームセンタを見つけ、代わりのポンチョを買うことができたのですが、曲がるべき交差点を随分通り越して直進して進んでいたことが分かりました。通り掛かりの住民の方に大まかな方向を聞いて田園を突っ切って本来の遍路道に出ることができました。その近辺には大きな建物が無く遠くからでも目立つ「松山北中学」をめざして歩けというアドバイスは的確なものでした。
背の低い小山をぐるっと迂回すると第52番札所の太山寺の一ノ門が見えてきました。時刻は11時30分で道後温泉からは約10Km歩いたことになります。一ノ門から太山寺本堂まではまだ随分距離があります。一ノ門から山門まで随分距離がある参道が続いています。太山寺本堂は国宝に指定されていて屋根瓦が見事な建物でした。この太山寺に比べて次の53番札所の円明寺は随分庶民的な印象の寺院でした。円明寺では「愛知の佐藤さん」と再会しました。愛知の佐藤さんは円明寺の直ぐ近くに「JR伊予わけ駅」があるので、次の札所付近までJRで移動すると言っていました。
円明寺を過ぎると遍路道は海岸線近くを通って行きます。久万高原以来山道が多かったので海岸を通る遍路道は最初はとても新鮮な感じがしました。しかしずっと続く海の風景は非常に単調なものです。「愛知の佐藤」さんが言っていましたが、距離のある単調な道は一回歩けば十分で二回目は公共交通機関で移動すると日数もお金も節約して回ることができるようです。
この海岸沿いには山側を国道196号線がそしてJR予讃線が走り、一番海側を旧街道の県道347号線が走っています。伊予北条の少し手前の「西の下」という地区に「高浜虚子」の胸像と小さな太子堂がありました。虚子は幼少の頃の数年間をこの「西の下」で過ごしていて、松山に戻ったときには必ずと言っていいほど「西の下」を訪れたのだそうです。其の太子堂には「遍路の墓」があり、幼少の虚子には「歩き遍路」のことや「歩き遍路」が途中で命を落とす話が印象に残ったようです。
この太子堂の近くに「虚子生家の碑」が建っています。その隣の家の人が偶々道に出ていらっしゃたので「虚子がお隣で生まれたのですね」と尋ねてみると、「そうではなくて虚子が帰省中にこの辺りに来た時に偶々用足しに寄っただけの場所だよ」という回答が返ってきました。
伊予北条の宿(シーパまこと)に着いたのが3時過ぎだったので、荷物を預かってもらって「先取り」して歩くことにしました。この北条から遍路道は海から離れて山越えし、JRは海岸を走って行きます。そして「JR伊予浅海駅」で再び遍路道はJR駅にぶつかります。約4Km程の山道の遍路道を歩き帰りはJRで戻って来ることにしました。
山間部の旧遍路道はやはり趣があります。夕方陽が傾いた時分に殆ど人通りのない田舎の遍路道を歩くときの気持ちはとても複雑です。午前7時頃から歩いているのですから身体は相当疲れています。一方で「良く歩いた」という充実感はあります。一方で何故自分がこの夕方にこんな寂しい山道を独りで歩いているのだろうかという自問が絶えず去来します。更に宿に着いてからの入浴・晩御飯への期待がどんどん膨らんでいくのです。
今日の宿は伊予北条にある「シーパまこと」。大規模温泉施設に宿泊施設を同居させたような宿です。更に各部屋のは温泉を引いた内風呂が付いています。ウィークデアイでは「歩き遍路特別価格(5940円)」が設定されています。この日は日曜日だったのですが、部屋が空いていたので「歩き遍路特別価格」を利用させていただきました。温泉施設に入り放題で2食付きですから遍路には非常に有難い宿です。フロント脇に洗濯機・乾燥機が設置されたので更に利便になりました。
「温泉施設」は大賑わいでした。ジェットバスに長時間浸かって疲れた足のマッサージをたっぷり行いました。温泉施設の露天風呂からの瀬戸内海の眺めは素晴らしいものでした。さすがに夕食は「豪華」という訳にはいきませんでしたが、疲れを癒すには十分すぎる程の設備でした。
○道後温泉出発(0630)→第52番太山寺12km(1030) ○第53番円明寺2.5km(1130) ○第53番円明寺(1230) ○伊予北条駅「シーバマコト」(1500) ○伊予浅海駅(1615)→伊予北条へ戻り 宿:シーパマコト 歩数:53,129歩
2016年10月22日(土) |
遍路二日目:松山市内・道後温泉へ |
今日は朝から雨模様です。歩き遍路」しか泊めないというだけあって桃李庵の朝食は6時からです。ご主人は朝何時でも朝食を準備しますと言っていました。朝食の時に天気予報をしっかり見ようとテレビのボリュームを上げても良いかと聞くと、ご主人からの回答は「NO」でした。これは桃李庵さんの方針なのです。「歩き遍路」に対して一家言を持っているご主人でした。「愛知の佐藤」さんと朝食を一緒に済ませたのですが「愛知の佐藤」さんは6時30分に出発していきました。朝食前に出発の準備をすべて整えていたようです。
佐藤さんは今回が4回目の遍路だということで、札所間が長距離の場合には公共交通機関を使って効率的に回る遍路しています。私は6時45分頃小雨の降る中を出発しました。途中で雨具を付けることにして、出発の時にはポンチョは着けませんでした。桃李庵ご主人夫婦が玄関で見送ってくれました。雨の日の坂道下りは大変危険ですし、札所で納経帖に御朱印を頂く際にも納経帖が濡れないように気を遣わなければなりません。少し憂鬱ですが「雨」も試練だということで前向きに捉えなければなりません。
国道33号線の遍路道は桃李庵の近くから約2Km登りが続きます。そして三坂峠直前で細い遍路道が国道から右側に離れていきます。そこから「三坂峠」の下りが始まります。この遍路道は嘗ては松山から高知に向かう主要街道だったもので「久万街道」と呼ばれていました。峠の松山側は「鍋割坂」といわれ行商の金物屋が商売用の鍋落として割ったというほどの急坂です。遍路開始二日目から転んで怪我をしては大変なのでこの坂道は慎重に降りました。この遍路道は回りの大木が日光を遮っていることに加え雨模様で日光も差さないので「昼なお暗い」山道となっていました。
急な坂道を注意しながら降りていくと坂道登り口のところに旧遍路宿の「坂本屋」があります。まだプロパンガスが付いていて何時でも泊まれそうな雰囲気です。この場所に遍路宿があれば歩き遍路の選択肢が大分増えるのです。ここから歩き始めれば松山市内6札所を回ってゆったりと道後温泉で休むことができるのです。土曜・日曜は付近の方々がここで歩き遍路を「お接待」するのだそうですが、私はここを8時に通過したので残念ながら「接待」には与れませんでした。坂本屋で先発した「愛知の佐藤」さんに追い抜きました。
三坂峠を降りてからは松山市内の46番浄瑠璃寺、第47番八坂寺、第48番西林寺、第49番浄土寺、第50番繁多寺、第51番石手寺と6つの札所を回ります。第一回の遍路の時に高知市内の札所(国分寺・竹林寺・禅師峰寺)を台風の最中に回りました。今日の天気はその時ほど悪くないのですが、雨のために雨具(ポンチョ」を着て歩き、納経帖は濡れないようにビニール袋に詰めてリュックにしまい、各札所でリュックから出すという面倒な作業が増えます。各お寺のお参りが忙しくなってしまいますし、歩いている間の注意力が散漫になるので道を間違えます。早くからポンチョを身に付けてできるだけ平常心で歩くよう努めました。
リュックから荷物を取り出すために急いで脱ごうとしたときにポンチョを破ってしまいました。最初の札所の浄瑠璃寺の納経所でホッチキスを借りて簡易に修理して歩き続けました。浄瑠璃寺は小奇麗な寺で本堂には「弘法大師の誕生仏」が置かれていて抱けるようになっています。また山門脇には正岡子規の句碑「永き日や衛門三郎浄るり寺」があります。「衛門三郎」は遍路の創始者とされています。衛門三郎の生家は八坂寺から1Km北上した「文殊院」の場所であり文殊院は別格霊場9番となっています。
松山の平野部の広い県道40号線脇に建てられている第48番西林寺は非常に立派な寺でした。西林寺の後遍路道は松山郊外を通り伊予鉄の踏切を渡って再び山里に入っていきます。伊予鉄踏切から直ぐの山間に第49番浄土寺があります。浄土寺には口元から吐き出すように小さな6体の阿弥陀仏が取り付けられている「空也上人立像」があるとのことです。諸国遍歴していた空也上人は3年ほどのこの浄土寺に滞在された時に作られたのだそうです。
繁多寺は松山市南東の高台にあり境内から松山市が望めます。晴れていれば素晴らしい眺めを楽しめるはずです。繁多寺には2時30分頃に到着しましたが雨足が大分弱くなってきました。それでも空は厚い雲に覆われていてすっきりしません。遍路道は松山の道後温泉を目指していますが、その手前に第51番石手寺があります。
石手寺は独特の雰囲気を持つ「現役のお寺」という感じがしました。石手寺では山門を入ってっからアーケードのような作りの参道の両側に参拝用品店がずらっと並んでいます。「石手寺」の名前の由来は以下の通りです。
この地方の富裕な百姓「衛門三郎」の家の前に一人の旅の薄汚れたお坊さんがやってきて托鉢の鈴を鳴らしました。昼寝をしていた衛門三郎はお坊さんを追い返そうとしたのですがお坊さんは立ち去りません。腹を立てた衛門三郎は竹ほうきでお坊さんの椀をたたき落とし、椀は8つに割れて飛び散ってしまいました。その翌日から衛門三郎の8人の子供が次々と死んでしまいます。衛門三郎が悲しみにくれていると、ある夜旅のお坊さんが現れて衛門三郎の夢枕に現れて「自分の非を悔いて情け深い人になりなさい」と告げます。 夢から覚めた衛門三郎は自分が強欲であったことを悔いてその旅僧は弘法大師だと気が付いたのでした。
衛門三郎は弘法大師に許してもらおうと、弘法大師を追って四国の道を東から回ったり、西か回ったり歩きますが大師に出会うことができません。そして四国を二十数回まわったところで阿波の第12番札所焼山寺で倒れてしまいました。その時に衛門三郎の前に弘法大師が現れ「ここでおまえの罪も消える。最後に何か望みはないか」と声をかけました。 衛門三郎は「伊道後の河野一族の世継ぎとして生まれ変わらせてください。人々のために尽くしたいのです」と答えました。すると弘法大師は「衛門三郎再来」と書いた小さな石を息を引き取る衛門三郎の手に握らせました。
それから数年後、伊予の国道後湯の領主「河野家」に男の子が生まれました。ところがその子は幾日経っても左手を握ったままで開きません。道後の安養寺の住職に祈願してもらいうと「きれいな川の水で洗えば開く」とのお告げがあり、そのお告げのとおりにすると男の手が開いて中から“衛門三郎再来” と書かれた小石がころがり落ちました。男の子は衛門三郎の生まれ変わりだったのです。この小石は安養寺に納められ安養寺は「石手寺」に名前を改めたのだいうことです。
石手寺は「衛門三郎」の生まれ変わり伝説の「石」を本尊としています。徳島の焼山寺下り遍路道に「衛門三郎」が倒れたという場所があり、そこに衛門三郎と弘法大師の像がありました。その時以来「衛門三郎」の名前は忘れていましたが、松山市手前の「衛門三郎」生地とか生まれ変わりの石手寺では再び「衛門三郎」の話が多くなります。今うるう年ですが、閏年に「逆打ち」すると「順内3回分のご利益がある」という話も衛門三郎の謂れから来ているようです。
今日の宿は道後温泉ユースホステルに取りました。土曜日の道後は宿泊施設が混雑するという話は本当で、遍路地図に乗っている宿泊施設数カ所に電話してようやく確保できた宿です。こういう状況だと条件の良くない宿が残っているものですが、歩き遍路にとって「道後温泉ユースホステル」は大変好ましい宿だと思いました。まず支配人さんが遍路に理解があることは有難いことでした。
雨で濡れた衣類・靴・靴下を乾かすには部屋のクーラーと扇風機が大活躍しました。ポンチョの乾かしてホッチキスを借りて修理し直しました。多くの滞在客は道後温泉に行くので宿にある小さな浴室は全くと言っていいほど客のりようはありません。ゆっくり歩きの疲れを癒すことができました。三坂峠下りの坂道下りで足の指先に血豆ができてしまいました。明日以降の歩行の障害にならないようにテーピングで保護しました。結局道後温泉に来たものの宿からは一歩も出ずに部屋でゆっくり過ごしました。
○民宿「桃李庵」出発(06:30) ○第46番浄瑠璃寺 14.5Km ○第47番八坂寺 0.9Km ○第48番西林寺 4.5Km ○第49番浄土寺 3.2Km ○第50番繁多寺 1.7Km ○第51番石手寺 2.8Km 総行程27.4Km 歩数:42295歩
2016年10月21日(金) |
遍路一日目:第45番岩屋寺往復 |
フェリーは朝5時に松山観光港に到着しました。小倉→松山はそれほど遠くはないのですし、航路としても遠回りではありません。朝5時到着は他の交通機関の始発までまだ時間があるので岸壁到着後でも船内で暫く過ごせるようになっています。一方このフェリー到着に合わせて松山市内に向かうリムジンバスも走っています。歩き遍路としては到着後直ぐにJR松山駅に移動しました。
一年前の前回遍路では「第44番大宝寺」まで参拝を済ませましたので、今回の遍路は「第45番岩屋寺」からの遍路再開となります。とにかく四国88カ所の半分の44番まで歩いておこうと考えた前回遍路の締めくくりは単純過ぎた考えでした。今回再出発点の久万高原に辿りつくことに苦労しました。遍路を区切る時には次にそこまで辿りつく旅程を十分考えなくてはならないことを十分過ぎるほど実感しました。
前回遍路で久万高原から松山駅までバスで移動したのですが、今回も再出発点の久万高原の久万中学前までは同じ路線バスで移動しました。JR松山駅から久万高原へ向かうバスの乗客は遍路客が殆どでした。バスが松山市の山間部に入っていくに従って中学生通学らし乗客が増えてきました。「久万中学校」の通学エリアは随分広いようです。
久万中学前でバスを降りて伊予鉄久万営業所前から今日の歩き遍路が始まりました。まずは県道12号線の舗装道路で山の中に入っていきます。県道12号線の途中から本格的な山の遍路道に分け入りました。前回の遍路から1年経過しているので長距離歩きの体力が持つかどうか心配でしたが大丈夫なようなので安心しました。
山道の遍路道に入ってから私の前方50mくらいの所に急に女性遍路が現れました。私は県道を歩いてきたのですが、彼女は地図には載っていない古い遍路道を歩いてきたようです。この女性遍路のペースが速いこと。荷物を宿に置いてきているようで軽装ではありますが私はとても追いつけないような速さでした。(この「健脚遍路女子」とはこの後何回か出合うことになりました。)
この山道の遍路道は途中の分岐点から分かれて「八丁坂」を経由する「農祖峠遍路道」に合流する事ができるように地図に示されています。前を行く女性遍路は何の躊躇いもなく淡々と能祖峠方面に進んでいったので、私も行ってみることにしました。ところがこの「八丁坂」までの急勾配の遍路道は大変に厳しいものでした。あっという間に彼女の姿は視界から消えました。老体に鞭打って数歩登っては休憩するテンポではとても彼女について行けないのです。この「八丁坂登り」が今回の最初の試練となりました。
しかしこの「農祖峠遍路道」は45番の岩屋寺の裏側に直接通ずる最短距離となっていて結果的には大分時間を稼ぐことができました。岩屋寺には山門が二つあり、一つは下から登ってくる道の山門、もう一つは農祖峠遍路道から下ってくる道の山門です。裏側の農祖峠遍路道を通ってくると修験者の行場である「逼割禅定」を見ることができます。危険なので行場には鍵が掛けられていましたが、逼割禅定に入る「鍵」は岩屋寺で簡単に貸してくれるのだということを後で知りました。
岩屋寺からの帰り道は県道12号線を歩くことにしました。「八丁坂」経由の遍路道をもう一度歩くことは選択肢にはありませんでした。この県道の遍路道は非常に単調なものでした。しかし下り坂は緩やかな車道を歩くのが「足」には良いと思いました。急な下り坂を歩くと足の爪先への負担が大きいのです。久万の街に戻り「お久万大師」でお参りをして今日の宿「桃李庵」に向かいました。
途中の久万高原物産館で中年男性遍路と出会いました。そこでは一礼して別れたのですが、更に進んだホームセンタコーナンの入り口からこの中年遍路が電話をしているところに遭遇しました。実は今晩の宿の桃李庵のご主人から「コーナンから電話せよ」と言われていたのです。中年遍路に「ひょっとして桃李庵にお泊りですか」と尋ねるとその通りという答えが返ってきました。私も言われた通りに桃李庵に連絡したところ、今日の客は佐藤が2名だとの回答が返ってきました。「九州の佐藤(私)」と「愛知の佐藤(中年遍路)」の二人の佐藤がこの日の桃李庵の宿泊客でした。
「愛知の佐藤」さんは以前にも桃李庵を利用したことがあるということでした。その時膝を痛めて歩けなくなり桃李庵のご主人に松山空港まで車で送ってもらったのだそうです。今回はその時のお礼も兼ねている投宿のようでした。桃李庵のご主人も「愛知の佐藤」さんを朧気ながら覚えているようでした。
「桃李庵」は久万高原から遍路道を5Km程歩いた山間部にあります。ご主人は自分が遍路した経験を基にして、朝出発してその日の夕方に道後温泉に着くことができる場所に宿泊施設を確保したということでした。第45番岩屋寺から第46番浄瑠璃寺までは「29.5Km」あります。そしてその遍路道は岩屋寺下山と三坂峠越えの難所を通過するものなので、一気に46番まで行きつくには相当の脚力が必要です。その間にある桃李庵は歩き遍路にとっては大変貴重な存在なのです。
桃李庵は部屋にテレビは無いし、食事中はテレビを消すか音量を小さく絞り、遍路同士・ご主人と遍路客のコミを深めるという方針だということでした。「愛知の佐藤」さんは退屈だといってボヤいていました。私は初日の疲れが酷く夕食を食べた後は直ぐに寝てしまいました。天気予報では明日は「雨」だと予報しています。
「桃李庵」では道後温泉の次の宿として伊予北条の「シーパマコト」を紹介してもらいました。遍路特別料金で天然温泉付きの宿に泊まれるという宿です。土日には「歩き遍路特別料金」設定はないのですが、部屋が空いていれば安く泊めてくれるかもしれないというので電話てみました。ご主人の言葉通り日曜日夜は空いているので「歩き遍路特別料金」で予約することができました。
松山観光港0515→JR松山駅0535:460円 JR松山駅0630→久万中学校前0738:1,380円 久万中バス停0800→大宝寺0830、1km 大宝寺0830→第45番岩屋寺1030(8.4km山道) 岩屋寺1100→於久万大師1400(10.4km) 於久万大師1430→桃李庵1600(4.6km) 総行程24.4Km、宿:桃李庵 この日の歩数:46375歩
今日から3回目の「区切り遍路」を再開しました。一年振りの遍路でこの間長崎に赴任したので今回の遍路は長崎からの四国入りとなります。午後3時45分発の長崎駅発小倉駅行きの高速バスで小倉駅に移動しました。この高速バスは3時間で長崎から小倉に低料金で旅行できる大変お得な交通手段です。しかし乗客は少なく正直ガラガラです。西鉄バスと長崎県営バスが運行しているようなのですが、採算が合っているのか心配になります。
小倉からはフェリーで松山に移動します。フェリーは小倉駅北側の小倉港から出発します。このフェリーは毎晩、小倉→松山・松山→小倉間を一便運航しているもので、九州から四国に渡る重要な交通手段のひとつです。特に車を利用しなくても小倉港は新幹線小倉駅に近いし、松山側の松山観光港からは松山市中心部にへ「リムジンバス」が頻繁に走っているので大変便利なのです。
9時55分の松山行きフェリーの出発までには時間があるので小倉駅新幹線口のサイゼリアで夕食をゆっくり食べました。遍路に入ると遍路宿の食事は和食ばかりとなるので洋食を食べておきたかったのです。サイゼリアの食事と100円グラスワインで結構満足しました。
松山行きフェリーは思ったより大型船でした。木曜夜のフェリー「二等客室」は大変空いていて大部屋の客はチラホラ程度です。フェリーの旅は随分前に仙台から苫小牧に家族旅行した時以来です。船旅は珍しいものと思っていましたが、まさか船で生活することになろうとは思っていませんでした。毎日鍛えていますから船の「揺れ」には慣れっこになっているのですが、幸か不幸かこの日の航海は非常に静かなものとなりました。
フェリー内の売店では「遍路用品一式」が揃うコーナーを設置していました。この日は別として九州の遍路客の利用がある証拠です。九州方面から四国の遍路に来るにはまず松山へ渡ることのできるこのフェリーが便利だと思います。松山からは高松・高知・徳島に高速バスが走っています。東日本から遍路に来る場合には高松・徳島が玄関口になります。フェリーの便利な設備として「お風呂」がありますが、仕事の疲れが溜まっていたようで、大部屋の幅の細い布団に横になったら直ぐに眠くなってしまい、フェリーの出発時間には風呂に入ることも忘れてぐっすり眠っていました。
高速バス 長崎1545→小倉1853(3600円) フェリー 小倉港2155→松山観光港翌日0500(5450円) 宿泊:フェリー内 歩数:17,719歩
13日午後1時に横浜を出港した「本船すばる」は今日午前9時に無事長崎港に帰港しました。
今日横浜港に入港しました。海気象悪化の影響で工期が一日延びたので予定より1日遅れての横浜入港となりました。それもあって横浜滞在は2日間に短縮され明日13日午後横浜を出港して長崎に向かいます。横浜滞在時間が短縮されたので埼玉の実家に戻るのは取り止めにしました。その代り妻に横浜まで来てもらって横浜で一泊することにしました。実は昨日10月11日は結婚記念日であり妻の誕生日でもあったのです。
横浜で晩御飯を食べる機会ができたので、予て機会を探っていた関内になるピッツェリアの「シシリア」に行くことにしました。シシリアはランチ営業をせずに夜だけの営業なので「さいたま」から食べに行く機会は殆どなかったのです。今日はシシリアを最初に予約し、次にシシリアに近い船員関連宿泊施設のナビウス横浜に宿を取りました。
シシリアは広くない店内でキッチンを囲んでカウンター席が並んでいました。テーブル席は二つほど。カウンター席の一番奥の席を確保してくれていました。実はその席の開店5時から7時30分までだけが今日の空席だったのです。水曜日だというのに6時頃店に着いた時には店は満員大盛況でした。シシリアのピザの人気は大変なものだと感心しました。メニューはピザと前菜程度と至ってシンプル。客はビールやワインでピザを食べることが目的なのです。私達も前菜3品、ピザ2枚(マルゲリータ、マリナーラ)、ワイン赤一本(アリアニコ)を頂きました。
「シチリア」さんのピザは流石に人気の示すとおり大変美味しく完成度が高いものでした。味は上品でバランスが取れています。特に感心したのはピザの淵の部分の美味しさです。トマトソースのかかっていない淵の部分が生地の美味しさの証明していました。生地と焼き加減が絶妙なのだと思いました。ご主人がピザ生地を調理し、窯に向かって黙々とピザを焼いている姿はとても印象的でした。ナポリのピザ職人気質までしっかり学んでこられたようです。満足度の高い夕食でした。
本日午前8時からの三宅島ケーブル接続工事を終了し今回の工事の全工程を終了。工事海域から近い横浜港に入港して工事要員を下船させて長崎に向かう予定。
「御蔵島→三宅島」ケーブル工事着工。御蔵島接続工事終了後三宅島へケーブル敷設開始。
台風接近のため八丈島の島陰で待機。
本日午前6時30分から神津島の接続工事に着手し無事終了しました。
本日御蔵島海域の波が小さくなったので接続工事に取り掛かり無事終了しました。現在神津島に向けてケーブル敷設工事を実施中です。
|