本日午前6時30分御蔵島に到着しました。しかし御蔵島付近の波が大きく一両日の工事着工は難しい状況です。
昨日長崎を午後3時30分に出発し、本日午前7時30分若松港に到着しました。次の工事は「神津島→御蔵島→三宅島」の工事です。9月26日若松での作業を終えて、工事海域に向かう予定です。関門海峡を通過して豊後水道を抜けて太平洋に出ることとなるようです。
台風は鹿児島に上陸しました。台風に流れ込む東からの風は相当強かったようで九州東部の宮崎・大分では大きな被害が出たようです。九州の北西部の長崎県は台風の経路から離れているし東風の影響も少ないので影響は小さかったようです。
台風から避難していた本船は朝退避場所を離れて長崎に入港しました。あす工事のために若松港に向けて出港なのです。今日はその準備で色々忙しかったです。仕事終了後に血糖値を下げる薬をもらいに医者に行ってきました。30日分確保したので明日からの航海が多少伸びても大丈夫です。
若松港では敷設するケーブルを積みます。そして26日月曜日に伊豆諸島に向けて出発します。伊豆諸島の御蔵島を起点に3島を光ケーブルで結ぶ工事に入ります。この工事終了は10月の上旬の見込みです。工事海域が東京都なので工事終了後に横浜港に立ち寄る予定があります。久し振りの横浜港入港となります。一日ぐらい休んで家に戻りたいと思っています。
台風16号が九州に上陸しそうだと天気予報を受けて午前8時に長崎港内に停泊している船舶に退避勧告がでました。ということで午後3時に長崎港を出港し、本船は長崎港外に福田という地区の「入り江」に退避しました。
21日の出港に先立っての急遽の出港なので、遠くの実家に帰って休んでいる船員の方は乗ることができません。敬老の日なので要員確保は難しかっただろうと思われますが、何とか最低人を確保しての出発となりました。台風は結局鹿児島県に上陸したので九州北部にはそれほど影響はありませんでした。「退避」するくらいだから大分揺れるのだろうと覚悟していましたが、長崎の海は至って静かでした。
急遽の出港なので「船員の雇上げ・雇止め」届け出準備は何もできていません。21日の本格出港とはメンバーが大分違いますので、大幅に書き直して届け出る必要があります。この仕事は大変苦労するのです。今日から20日、21日と大きな宿題を抱えました。
今回の長崎帰港では実家に帰らずに長崎近辺を散策することにしました。昨日は血液検査・大腸内視鏡検査予約の後に長崎市「稲佐山」に登山しました。今日はこれまでずっと温めていたプランの熊本県荒尾市の「宮崎兄弟生家」を見学してきました。「宮崎兄弟」とは宮崎家の長男格「八郎」、次男格「民蔵」、三男格「彌像」、そして末っ子の「虎蔵(滔天)」を言います。
滔天が「孫文」をサポートし辛亥革命成功に功績があったことにより、2011年の辛亥革命100周年の年には台湾・中華人民共和国などからも注目を集めた場所です。更には最近では「白蓮」と駆け落ちした滔天の長男の「宮崎龍介」の実家として全国的に注目を集めました。しかし今日土曜日の午後の見学者私一人でした。暫くは静かな日々が続くことになるのでしょう。
長崎から荒尾に行くには幾つかの方法があります。荒尾市は島原半島から有明海を挟んだ反対側なので、島原半島の多比良からフェリーで行くのが最短距離となります。しかしこのルートは歩き区間が多かったり待ち合わせ時間が長かったりして苦労を伴うものです。楽な方法はJR長崎本線とJR鹿児島本線を乗り継いで有明海を迂回する方法です。これは殆ど列車の旅となります。私は有明フェリールートを選びました。今日のルートは以下となりました。
長崎駅(JR)→諫早駅、 諫早駅(島原鉄道)→多比良駅 多比良駅(歩き10分)→多比良フェリー港 多比良フェリー乗り場(フェリー40分)→長洲フェリー港 長洲フェリー港(歩き20分)→長洲駅 長洲駅(JR2駅)→荒尾駅 荒尾駅(歩き10分)→宮崎兄弟生家
宮崎兄弟生家の「宮崎家」はかつて荒尾随一の財力を誇ったのですが、敷地こそ広いものの現在残されている家屋は非常に質素なものです。実はこの質素な佇まいこそ「宮崎家」の凄さの表れなのです。宮崎家は江戸初期まで遡ることのできる名家ですが、明治維新前後の動乱期に当主であった4兄弟の父親の「宮崎政賢」の教育が大変優れていたようです。それは一言でいうならば「世の中(人々)のためになることを為せ」というものです。そしてその教えに忠実に従った宮崎家の兄弟は、諸国に遊学して金を使い、目的を定まったら生活を顧みずにわき目も振らずに邁進する行動力を備えていたのでした。
長男八郎と次男民蔵は社会改革に取り組みました。八郎は西南戦争で命を落としますが、民蔵は昭和まで生き延びました。その次男の民蔵は明治時代にアメリカに留学するし、彌蔵と虎蔵は生業に殆ど付かずに中国革命運動に身を投じたのでから、宮崎家の財産はどんどん少なくなっていったのでした。4人の子供を励まし続けた母「さき」さんもすごい母親だったのだと思います。
彌蔵と虎蔵の目は中国に向けられました。日本が明治維新を経験して社会改革の端緒に辿りついたのに、中国では相変わらず旧態依然の清朝の支配が続き、欧米列強の浸食が激しさを増して中国社会は疲弊し混乱していました。彌蔵と虎蔵は中国の社会改革に目的を定めました。ここで比較すべきは「福沢諭吉」の「脱亜入欧」という思想です。「福沢諭吉」は古い体制から抜け出せない「アジア(中国・韓国)」とは一線を画し日本は欧米列強の仲間入りをしようという主張したのでした。福沢は中国・朝鮮を見捨てたのでした。その福沢の考え方に従った大日本帝国は、歴史が証明したように欧米列強と同じように中国韓国に武力進出することとなり最終的に太平戦争の敗戦まで付き進んだのでした
彌蔵・虎蔵の考え方は全く別なものでした。二人は中国・韓国が社会変革できないのであれば、それを助けようと考えました。そして社会変革を担う人材がいないのであれば自分達が中国人になってその役割を果たそうと考えたのでした。この思想が「孫文」に通じて宮崎兄弟は孫文から真の革命同志と認められたのでした。当然ですが宮崎兄弟は政府から監視されました。日本政府の方針は「脱亜入欧」であり、孫文の革命運動を助けるどころか逆に「21か条の要求」を突き付けて火事場泥棒的な行動に出たのでした。
このような宮崎家兄弟達の思想がどこから生まれたのか。それを探すのが今回の荒尾の宮崎兄弟生家訪問の目的でした。明確ではないのですが実際に行ってみて感じたことはあります。それは宮崎家が荒尾の土地に長く根を張った非常に立派な家庭を持っていたということです。家族と地域との結びつき、家族の間の尊敬・愛情が伝わってくる佇まいでした。それは何年か前に訪問した「孫文」の実家の雰囲気にも似ています。今回改めて「家庭・郷土」といった社会仕組みの大切さを実感しました。
2016年09月09日(金) |
糖尿病専門医・稲佐山登山 |
今日は振り替えの休日を取って糖尿病専門の医院に検査に行ってきました。6月に行った船員県健康診断では「心電図」「血糖値」「大腸血液反応」が指摘され、「血糖値」と「大腸血液反応」の再検査の指示が来ていました。これはこれまでも何回か経験したことなのですが、町の医者で両方一気に解決しようと考えて両方の診療科目のある医者を見つけて行ったという訳です。今日は血液検査(空腹時血糖検査)のために朝は食事を抜いて出かけました。
血液を採取して、次の大腸内視鏡検査を13日火曜日に予約して今日のことろは終了しました。血液検査の結果は多分良くないでしょうが、現在のこれまでの船内生活の中は現状維持が精一杯で改善は無理だとわかっています。13日に先生からどのような診断が下されるのか。騒いで仕方ありません。
糖尿病専門医は長崎市の「稲佐山」の麓にあります。医院のある場所の直ぐ近くに「稲佐山登山道」の標識がありました。折角休みをとったのだからこれまで登ったことのなかった「稲佐山」に上ってみることにしました。稲佐山は標高333メートル。車で頂上まで登れます。バスも通っているのですがここは歩きです。医院の方の話では歩きだと1時間程度かかるとの話でした。
結局45分で頂上に着くことができました。稲佐山の頂上はとても景色が良く東には長崎市街地、西側には外海が見渡せます。なんといっても気持ちが良いのは山々が雑木林であること。信州の山だと基本的に「杉林」になってしまいます。広葉樹の山々は本当に豊かに見えます。稲佐山の頂上には「鹿園」と「猿園」があって登山の疲れを癒してくれました。帰りは「バス」で帰ってきました。
本日午後2時長崎港に帰港しました。台湾の高雄港からの外航船資格での帰港のため、着岸後に長崎税関の検査を受けました。船員持ち混むことができる「免税品」の範囲は非常に少ないので、船員の方々にはその旨徹底し間違いのないようお願いしました。検査は無事終了しました。
帰国の途についています。台湾の高雄から長崎まで3日半程かかります。台風12号の影響で帰路の航路が荒れているかと心配していたのですが海は大変静かです。この三日間で日本入国の準備を完了させなければなりません。日本出国・台湾入国・台湾出国と3つの手続きを無事に済ませました。あと日本入国だけです。
本日午後8時に船内時間を日本時間に切り替えました。1時間進めて午後9時としたので急に夜が進んでしまった感じです。船内で交代勤務している船員さんにとっては、仕事をしている人の勤務時間は少なくなり、休憩している人の休憩時間が短くなります。その時の交代勤務の割り当てによって影響が違うのです。
昨日深夜0時に工事を終了し、本日9時に高雄港に入港した「本船すばる」は漸く台湾を出国しました。船では珍しいことではないのですが、台湾出国までの数日間神経をすり減らす作業が続きました。
今日は高雄に入港して工事の方々が船を下りて飛行機で日本に帰国する予定にしていました。飛行機は明日4日発の高雄→成田を予約していました。ところが台風12号が九州地方に向かっていて4日中には家に帰りつけない可能性が出てきました。従ってできるだけ多くの方々を3日の飛行機に振り替えることとなったのです。何回も旅行会社と電話のやり取りをした結果、結局3日の「高雄→福岡」を結ぶEVA航空に空席があったのでこの便に全員変更していただきました。日本の旅行会社が日本語で対応してくれたので大分助かりました。
更に今日になって「高雄出港」の時間が変更になりました。昨日通知された予定は午前9時30分高雄入港で、午後4時高雄出港だったのですが、貨物船の接岸の関係で午前12時には出港せよとの当局の指示がでたということなのです。昨日まで雨天が続いていて高雄港外には荷物の積み込み・降しを待つ貨物船がかなりの数に上っていたらしく、我々のように貨物に関係ない船は早々に出ていかざるを得ない状況だったようです。生活ごみを回収してもらい、空路帰国組を下すと時間は既に12時。3時間の高雄滞在はあっという間に過ぎてしまいました。但し予定が変わった分出港手続きは淡々と進んだようでした。一か月半に及んだ台湾領海での工事はこうして終了しました。
漸く台湾での工事の終了日程が決定しました。7月中旬に台湾の高雄に着いてから一か月半の台湾滞在でしたが、9月3日に台湾を離れて長崎に向かうことになりそうです。外国滞在といっても周りは海ですから、日本領海と何ら変わるものではありません。高雄に2回入港しましたが高雄がどんな街なのかあまり良く分かりません。9月3日に高雄に入港してお客様・工事要員を下船させます。
中華人民共和国国連承認以前に生まれた人間にとっては「台湾」ではなくて「中華民国」が正式名称だと思っていましたが、その後の国際政治の微妙な変化で「中華民国」という呼称が使われなくなっていることを改めて認識いたしました。現在ではむしろ外国においてもまた台湾国内においても「台湾」という呼称が重要なのだとわかりました。
高雄の代理店の方とは電話やメールでやり取りをしてかなり親しくなりました。言語は「英語」ですがお互いにとって「英語は」は外国語です。これまでシンガポール・香港、スリランカ・インドの英語を知りましたが、台湾での英語の位置づけは日本に近いと思いました。それは国内での日常生活ではほとんど使われていないという点です。しかし台湾の英語は政治・社会のがどのように変化していくのかということと密接に絡んでくると思います。
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